雨 燕




昨日から降り続いていた雨がようやく上がり、澄んだ青空が高く広がっていた。
神域の木々も草も花も皆、雨に洗い清められ、本来の色を取り戻し、熱に打たれて萎んでいた姿が、元の命溢れる生き生きとした姿に戻っていた。
雨によって洗い清められたその澄んだ世界と蒼空の中を風を切って黒い鳥が飛んでいた。



柔らかな若葉の頃を過ぎ、新緑に彩られた世界は、恵の雨の季節を迎えていた。



里人から「神域」と呼ばれるこの世界の奥に、金色の髪を持つ妖と人の子が住む庵があった。
人も通わぬ大地と澄んだ空と何者もを寄せ付けない自然に囲まれた世界は、人の世の時間の流からも取り残された様な場所であった。




明るい陽差しに誘われるように朝早くに目覚めた子供は、夜着のまま庭先に下りて、ぽかんと見たこともない黒い鳥が鋭い刃物のように蒼空を切り裂いて飛ぶ姿に見とれていた。
その鳥の飛ぶ姿は三日月のようにも、前に見た鎌という刃物にも似て、風を切って飛ぶ様は子供の心を躍らせた。

簀の子に座って、妖は雨の上がる夜明け頃から盃を傾けていた。
雲が切れ、細い銀糸の雨に登る朝日の柔らかな光を酒の肴に、盃を傾けていたのだ。
夜もすっかりと明け、明るくなった陽差しに雨露が光って、より明るさを増す。
その儚い美しさに微かに紫暗を眇めて眺めていた妖の口元が綻んだ。

「起きたのか…」

微かな音を立てて盃を置くと、妖は子供の起きた気配に立ち上がった。

簀の子を廻って、子供の寝ている部屋に向かえば、子供は素足のまま庭先に下りて、呆けたような顔で空を見上げていた。

一体何を見つけたのか…。

一心に空を見つめるその小さな姿に、妖の表情は愛しげに綻んだ。
けれど、雨上がりの早朝はまだ肌寒さを感じる。
素足でまだ濡れた土の上に立っていれば、躯が冷えてしまうことに気付いた妖は、子供の名を呼んだ。

「悟空」

静かな良く通る妖の声に、悟空と呼ばれた子供は、びっくりしたように振り返り、階に立つ妖を認めて、嬉しそうに空を指差した。

「さんぞー、鳥ぃ、黒い鳥ぃ」

悟空の指差す方向を見上げて、三蔵と呼ばれた妖は、「ああ…」と納得した。
悟空の指差す先を黒い三日月型の翼を広げて、まるで燕のように空を滑空する鳥。
それは、秋になったら南へ渡って行く渡り鳥の姿だった。

「雨燕か…」
「あま…つばめ…ぇ…?」

三蔵の呟いた言葉を耳聡く聞いた悟空が、同じように繰り返し、空を、鳥を指差す。

「ああ、雨燕という鳥だ、悟空」
「ふうん…あまつばめぇ…」

三蔵の言葉に納得したのか、悟空は頷きながらまた、空を指差して鳥の名前を呼ぶ。
その姿に小さく笑った三蔵は、ふいっと何かを引き寄せるような仕草を見せた。
すると、悟空の躯がふわりと浮き上がる。

「うにゃ」

妙な声を上げた悟空が三蔵を振り返った。

「まだ、冷える。中へ入るぞ」
「はあい」

宙に浮いたまま悟空は頷き、三蔵の方へ腕を伸ばした。
すると悟空の躯は滑るように走って、三蔵の腕の中に収まった。
温かい三蔵の腕に抱かれて、悟空はほうっと大きく息を吐いた。
抱いた悟空の躯の冷たさに、三蔵は微かに顔を顰めた。

「さんぞーあまつばめー」

名残惜しいのか、空を切る鳥を掴もうとでもするように悟空は三蔵の腕の中から手を伸ばす。
その躯をもう一度、堕ちないように抱き直し、悟空に告げた。

「あれは自由だ。空を飛ぶのが楽しいんだ」
「空がすき?」
「ああ、だからあのままにしておいてやれ」
「はあい」

三蔵の言葉に悟空はこくんと頷き、名残惜しそうに空を見上げた。
その姿に、ちょっと困ったような表情を浮かべた三蔵は、

「その内、お前の友達になってくれるだろうさ」

そう言って、くしゃりと悟空の大地色の髪を撫でた。

「うん」

くしゃりと頭を撫でられながら悟空はふわりと笑って、今度こそ納得したとでも言うように大きく頷いたのだった。




雨燕(あまつばめ):高山の鳥。燕より遙かに大きく、秋に南方へ去る。

close