流 觴




年に一度、妖が集う宴がある。
人の世に言う三月三日、雛の節句。
その日の月が中天にかかる頃、その宴は始まる。
人の世の曲水の宴にちなんで、妖力でせせらぎを作り、盃を流して、酒を飲み、詩を詠む。
貴族のまねごとをこの夜のならざるモノ達が催す。
ひと夜の楽しみ。

今年、金蝉は久しぶりにその宴に出席した。

養い子を小鬼と式に任せて。
妖を束ねる仏と同じ名を持つ長の呼び出しに応じたのだった。




ふわりと、風に乗って会場である場所へ降り立った金蝉は、宴に集っている妖の誰にも見つからぬように長の住まう庵へ赴いた。
巨大な森の最奥部に位置する館のその一番奥にある庵。
人の住まう寝殿と呼ばれる建物を模した作り。
周囲を囲む蔀も御簾も上げられ、灯台の灯りがゆらゆらと几帳に影を落としていた。
その庵の階の下に立って、金蝉は中へ声を掛けた。

「お呼びですか?」

几帳の向こうへ庭先から声を掛ければ、「入れ」と、応えがあった。
金蝉は言われるまま階を昇り、廂の向こう、几帳の中へ入った。
そこには、闇の様な豊かな黒髪を無造作に流し、単衣の上に袿を羽織っただけのしどけない姿で脇息にもたれた女が朱塗りの盃を傾けていた。
几帳の影から姿を見せた金蝉に漆黒の瞳を軽く眇め、血の色をした唇を面白そうに綻ばせた。

「そこに座れ」
「はい」

盃で女が指し示した場所に座る金蝉を盃の中の酒を舐めながら女は楽しそうな顔付きで見つめていた。

「何用ですか?」

金蝉の問いかけに女は、質問で答えた。

「お前、あの子供を拾ってどれぐらい経つ?」
「子供?」

女の言葉に金蝉がきょとんと表情を無くす。
それに女は薄く笑って、

「とぼけるなよ、隠しても無駄だ」

そう言って、金蝉を軽く睨みつけた。
その様子に、自分の養い子のことだと思い至った金蝉は、ため息を吐きながら答えた。

「……十年になります」

その答えに女はにやりと笑って、

「美味そうに育ってるよな」

舌なめずりすると、盃の酒を一気に呷った。
女の言葉に金蝉は憮然とした表情で睨み返し、その言葉をキッパリと否定した。

「あれは糧ではありません」
「だろうさ」
「長…?!」

金蝉の否定をわかっていたと、口元を綻ばせ、怪訝な顔をする金蝉に問い返した。

「糧ならもう喰ってるだろう?」
「それは…」

一瞬の逡巡に金蝉に長と呼ばれた女は、

「いいさ、誰もあの子供を喰えとは言ってない。気にするな」

そう言って、楽しそうに喉を鳴らした。
金蝉とて妖。
人を同族を喰って生きてきた身だ。
その性が簡単に無くなるはずもない。
手元の養い子を見て、喰いたいと思ったとしてもそれは仕方のないことだと、妖の長は言うのだ。
よく我慢していると。
本能を押し殺してでも養い子を育て、守っている金蝉を長は好もしく思っていたのだった。

そして、今夜金蝉を呼んだ本題に入る。
長の顔を彩っていた楽しげな笑顔が消えた。
変わりに光彩が変化した瞳が金蝉を見据える。

「気を付けろよ?あの子供は惹きつける」
「……?!」

言われた言葉の意味が理解出来なくて思わず長の顔を見れば、長は仕方のない奴とため息を吐いた。

「お前が呼ばれたように、あの子供はオレ達を呼ぶ。無意識にな。今はまだ、お前しか見えていないが、その内に色々やっかいになる」
「やっかい?」
「そうだ。あの子供、悟空とか言ったか?あの子供は生まれつきこちら側に近い人間だ。その証に金の瞳を持っている。お前も聞いた事があるだろうが」
「……それは…」

言われてようやく金蝉は思い出した。
人の子の金色は妖の眷属であり妖を呼ぶ。
呼ばれた妖は金色に狂い、滅びる。
金色を喰えば莫大な妖力を得られると。

確かに悟空を拾った時、呼ばれたのだ。
声もなく、言葉もなく、ただ呼ばれた。
いや、惹かれたのだ。
その想いも確信も金蝉の中に今でも残る。

乳飲み子の悟空を森の中で見つけた時、糧だとは欠片も思わなかった。
ようやく逢えた、その想いしか自分の気持ちの中にはなくて。
何故、呼ばれたのか。
その理由は悟空の瞳を見ればすぐに理解できたのだけれど。
だからといって狂う訳もなく、喰いたいという気持ちも湧かなかった。
ただ傍に置いて、ただ慈しみ、共に過ごしたいと願った。
それだけだ。
それはあの時から変わらない。
そのことを例え長であっても口出しはしないで欲しかった。

その思いが金蝉の纏う気配を剣呑なものに変える。
金蝉のその様子の変化に長は薄く笑顔を浮かべて、言葉を紡いだ。

「気にしていないか?それとも目を瞑っているのか?だがな、あの子供が我々を惹きつける。それはあの子供が危険に曝されることだ」
「危険?惹きつけることがどうして危険に繋がるのですか?」

金蝉の問いかけに長は小さなため息を吐いた。
そして、思う。
無自覚にこの妖は人の金色に魅せられ、取り憑かれてしまっている。
聡いはずの金蝉が人の金色の危うさに気付かない程に。

「…惹かれて、呼ばれた連中のみんながみんな上品な奴らだとは限らないだろうが。下品な奴は金色が与えるという莫大な妖力を欲して喰らおうとするってことだよ、金蝉」

言われて一瞬瞳を見開いた金蝉は、そのことに気付かない己に唇を噛んだ。
けれど、答えは一つだ。

「守ります…この身に代えても」

金蝉の言葉に長はくつくつと喉を鳴らして笑い、盃に酒を満たした。

「命に代えても守るってか?惚れたねぇ、お前も。ま、それも朴念仁のお前にはいい傾向だろうさ」
「長!」

ちゃかすようないい方に色をなせば、

「それに、陰陽師ともよしみを通じているようだしな。ちゃんと守ってやれよ」

そう言って、盃を一気に長は煽った。
長の言葉に固まったように動かない金蝉に向かって笑いかけ、片目を瞑って魅せた。

「オレは、千里眼だぜ?」

けらけらと長は声を上げて笑うと、盃にまた酒を注ぎ、口を付けた。
そして、用はもう済んだとばかりに金蝉を追い払う仕草をして見せた。

「もう帰れ。他の奴らに気付かれない内に悟空の元へ帰ってやれ」
「長…」
「近いうちにお前の宝の子供、悟空を見せろよ」
「……はい…」

金蝉が戸惑うように、申し訳なさそうに頷くのへ長は、それは楽しそうな笑顔を見せたのだった。




流 觴(りゅうしょう):三月三日の節句に行われる遊び。庭園内の水流に盃を流し、それをとって酒を飲み、詩を賦す。

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