磨喝楽




「おばちゃん、何してるの?」

神域の外れ、里の北の端にある川の畔で、悟空は川岸にしゃがんで小さな木の船に赤ん坊を象った人形を川に流している女に興味を引かれて声をかけた。

「えっ…?」

悟空の声に女は酷く驚いて振り返り、そこに立つ悟空の姿を認めて、その瞳を見開いた。

「ねえ、おばちゃ…」

もう一度声をかけようと紡いだ言葉は、悟空の小さな躯を掻き抱いた女の腕によって遮られた。
女の突然の行動に悟空はその金瞳を見開いて、息を呑む。

「ああ…神よ、ありがとうございます」
「?!」

女は悟空を抱きしめたまま空に向かって叫ぶと、悟空を抱き上げた。
悟空には何がどうなったのか訳がわからない。
女の突然の行動に思考が付いていかず、呆然と呆けていた。

けれど、悟空を抱き上げた女の足許で、悟空の養い親が養い子の護りに付けた小鬼が悟空の身の危険を感じてきいきいと声を上げ、女の足にしがみついた。
それを気にする風もなく女は悟空を固く抱きしめたまま歩き出した。
女が歩き出した時、振り落とされた小鬼が慌てて女の足に縋る。
それを女は今度は五月蠅そうに払った。

しかし、小鬼は悟空を連れて行かせまいと振り払われても女の足に縋りつき、しがみつく。
きいきいと声を上げながら小鬼は女のその歩みを止めようとした。
女はそんな小鬼を振りほどき、振り払って歩みを止めようとはしなかった。
その二人の姿にただ呆然と女の腕の中に収まっていた悟空がようやく我に返り、女の腕の中から抜け出そうと暴れ出した。

「やだっ!おばちゃん、離してっ!」

女は悟空を抱く腕に力を入れ、

「暴れたら母さん、坊やを落としてしまう」

そう言って、悟空の動きを押さえる。

「…や…──えっ?!」

女の言葉に悟空が動きを止めた。
暴れる悟空を抱き直そうと歩みを止めた女の足に、小鬼が今をチャンスとばかりにしがみつく。
それを気にする風もなく、女は蕩ろけるような笑顔を浮かべた。

「やっと授かったんだから何処へもやらないよ」

そう言って、女は悟空の頬に自分の頬を付けて笑う。
それに悟空は半ば呆然としていたが、女の頬の感触に我に返った。

「お、おばちゃん…」
「おばちゃんじゃないよ、お母さん。お母さんだよ、坊や」

女は愛しそうに悟空を見つめ、足許に絡み付く小鬼を鬱陶しそうに力の限り振り払った。
その力に小鬼は鞠のように転がり、川の中に落ちた。

「あっ!」

その様子を悟空は見咎めて声を上げる。
それに構わず女は悟空を抱き直すと、今度は走り出した。

「いやぁぁ───っ!!」

悟空の声が尾を引いた。






三蔵は庵で悟空が今年も一生懸命作った笹飾りを高欄に括り付け、晴れた空を見上げた。
今年の七夕はこのまま夜も晴れそうだ。
今の時期には珍しく、からりと乾いた空気と風が庵の中を吹き抜けて行く。
梅雨の季節の気紛れに、三蔵は眩しそうに紫暗を眇めたのだった。

と、風に不穏な気配を感じて三蔵の気配がざわめくと同時に、庵の周囲が硬質な空気に包まれた。


何だ…?


眉を顰めて気配を辿る三蔵の耳に、声なき聲の悲鳴が響いた。
その聲を耳にした瞬間、三蔵の姿は庵から消えていた。






悟空は、自分を抱きしめて走る女の鬼気迫る様子にすっかり怯えきってしまっていた。
時折聞こえる女のぶつぶつと呟く言葉が、悟空を恐怖の糸で縛ってゆく。
けれど、目の前で川に落ちた小鬼が気に掛かるし、この先自分はどうなるのかと不安が押し寄せてくる。
だから、怖くても悟空は女の腕から逃れようと暴れた。

「やだっ!離してっ!やだぁ─っ!さんぞっ、さんぞぉっ!!」

養い親の名前を呼び、身を捩って暴れる悟空を女は走る足を止めて見下ろした。

「坊や、そんなに暴れないで。母さん、落としてしまうじゃないか」

そう言って、悟空を宥めるように浮かんだ柔らかな笑顔に悟空は一瞬、動きを止めた。

「良い子、おりこうさんね。じっとしていてね。すぐお家に着きますからね」

愛しそうに女は笑い、女の笑顔に動けない悟空の頬に口付けを落とした。
その時、突風が女と悟空を襲った。

「きゃあぁっ!」

悲鳴を上げて女はその場に悟空を抱えたまま蹲った。
突風は女と悟空を包み込むように容赦なく吹き荒れ、唐突に止んだ。
その唐突さに女が恐る恐る顔を上げ、周囲を伺うように見回して息を吐いた。

「坊や…怖かったね」

見下ろした女の手の中に悟空はいなかった。

「坊やっ!」

はっとして悟空を呼んで周囲を見回せば、男が悟空をその腕に抱いて立っていた。

「あ、ああ…坊や、そこにいたのね」

女は男の方へ走り寄る。
その足が、男の纏う気配に半歩も行かないうちに止まった。

「…誰?」

悟空を抱く男を自分の敵と認識したのか、女の表情が険しくなる。
その変化など気にする風もなく、男は女を見下ろして口を開いた。

「女、この我子は返して貰う」

男の氷のような声に女の瞳が見開かれた。




突風に吹かれた時、悟空は自分が女の腕から浮き上がるのを感じた。
その頼りない感覚に女の躯に縋ろうと手を伸ばした。
が、すぐに慣れた薫りに包まれ、悟空は養い親が来たのだと知った。
息もつけないような突風が止んで顔を上げれば、目の前に大好きな養い親の美しい顔と金糸があった。

「さんぞっ!」

その姿を見るなり、ぎゅっと、その首に抱きつけば、悟空の躯は力強く抱き返された。
そして、背中を宥めるように叩かれ、

「無事か?」

と、問われた。
それに潤んだ瞳で頷けば、

「そうか」

と、三蔵は今にも零れそうな悟空の涙を拭った。

「小鬼は?小鬼は大丈夫?へーき?」

問えば、

「小鬼は無事だ」

と、頷かれ、悟空は「よかったぁ…」と笑顔を浮かべた後、安心したのか気を失ったのだった。




三蔵の言葉に女は凍り付いたようだったが、それも一瞬。

「坊やを返してっ!」

と、三蔵に飛びかかってきた。
それを軽くかわし、三蔵は女から距離を取る。

「坊やを返せっ!やっと授かった我子だと言うにぃ!返せぇえ──っ!」

そう言って、三蔵に迫る女の形相が変化していた。
それは鬼女。
子を失った母親か、子を奪われた母親か、子が欲しくて欲しくて狂った女か、元は定かではないけれど、今はまさに鬼。

「…こういうことか」

女の鬼の姿に三蔵は長に告げられた言葉を思い出した。

───気を付けろよ?あの子供は惹きつける

惹きつける…それは呼ぶと言うこと。

───お前が呼ばれたように、あの子供は妖達を呼ぶ。無意識にな

呼ぶ…それは危険に曝されるということ。

悟空を返せと叫びながら飛びかかってくる女をかわしながら、腕の中の子供を見やった。
恐怖と緊張の糸が切れ、三蔵の顔を見て安心して意識を失った。
これから、この先、またこういう事態があるというのだろう。
悟空の身が危険に曝されることが、絵空事ではないと、今、このことが三蔵に知らしめていた。

「約束は守る…必ず…」

小さく呟いて、三蔵は腕の中の悟空を狩衣の袖で包むように抱き直すと、するりと女の攻撃をかわしてその傍らに寄り、額に触れた。
途端、女の動きが止まり、見ている間に砂の像が崩れるように女の躯が崩れ落ちた。
足許に小さな白い砂山となった女を一瞬、眉根を寄せて見つめた後、三蔵は風を呼んだ。
風は女だった白い砂を巻き上げ、三蔵の周りを巡ってそれを何処かへ運んで行ったのだった。




磨喝楽(まからく):七夕に、子供が欲しい女性が土や蝋でつくった嬰児を水に浮かべて祈るという、昔の中国の風習。

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