磨喝楽
「おばちゃん、何してるの?」 神域の外れ、里の北の端にある川の畔で、悟空は川岸にしゃがんで小さな木の船に赤ん坊を象った人形を川に流している女に興味を引かれて声をかけた。 「えっ…?」 悟空の声に女は酷く驚いて振り返り、そこに立つ悟空の姿を認めて、その瞳を見開いた。 「ねえ、おばちゃ…」 もう一度声をかけようと紡いだ言葉は、悟空の小さな躯を掻き抱いた女の腕によって遮られた。 「ああ…神よ、ありがとうございます」 女は悟空を抱きしめたまま空に向かって叫ぶと、悟空を抱き上げた。 けれど、悟空を抱き上げた女の足許で、悟空の養い親が養い子の護りに付けた小鬼が悟空の身の危険を感じてきいきいと声を上げ、女の足にしがみついた。 しかし、小鬼は悟空を連れて行かせまいと振り払われても女の足に縋りつき、しがみつく。 「やだっ!おばちゃん、離してっ!」 女は悟空を抱く腕に力を入れ、 「暴れたら母さん、坊やを落としてしまう」 そう言って、悟空の動きを押さえる。 「…や…──えっ?!」 女の言葉に悟空が動きを止めた。 「やっと授かったんだから何処へもやらないよ」 そう言って、女は悟空の頬に自分の頬を付けて笑う。 「お、おばちゃん…」 女は愛しそうに悟空を見つめ、足許に絡み付く小鬼を鬱陶しそうに力の限り振り払った。 「あっ!」 その様子を悟空は見咎めて声を上げる。 「いやぁぁ───っ!!」 悟空の声が尾を引いた。
三蔵は庵で悟空が今年も一生懸命作った笹飾りを高欄に括り付け、晴れた空を見上げた。 と、風に不穏な気配を感じて三蔵の気配がざわめくと同時に、庵の周囲が硬質な空気に包まれた。
悟空は、自分を抱きしめて走る女の鬼気迫る様子にすっかり怯えきってしまっていた。 「やだっ!離してっ!やだぁ─っ!さんぞっ、さんぞぉっ!!」 養い親の名前を呼び、身を捩って暴れる悟空を女は走る足を止めて見下ろした。 「坊や、そんなに暴れないで。母さん、落としてしまうじゃないか」 そう言って、悟空を宥めるように浮かんだ柔らかな笑顔に悟空は一瞬、動きを止めた。 「良い子、おりこうさんね。じっとしていてね。すぐお家に着きますからね」 愛しそうに女は笑い、女の笑顔に動けない悟空の頬に口付けを落とした。 「きゃあぁっ!」 悲鳴を上げて女はその場に悟空を抱えたまま蹲った。 「坊や…怖かったね」 見下ろした女の手の中に悟空はいなかった。 「坊やっ!」 はっとして悟空を呼んで周囲を見回せば、男が悟空をその腕に抱いて立っていた。 「あ、ああ…坊や、そこにいたのね」 女は男の方へ走り寄る。 「…誰?」 悟空を抱く男を自分の敵と認識したのか、女の表情が険しくなる。 「女、この我子は返して貰う」 男の氷のような声に女の瞳が見開かれた。
突風に吹かれた時、悟空は自分が女の腕から浮き上がるのを感じた。 「さんぞっ!」 その姿を見るなり、ぎゅっと、その首に抱きつけば、悟空の躯は力強く抱き返された。 「無事か?」 と、問われた。 「そうか」 と、三蔵は今にも零れそうな悟空の涙を拭った。 「小鬼は?小鬼は大丈夫?へーき?」 問えば、 「小鬼は無事だ」 と、頷かれ、悟空は「よかったぁ…」と笑顔を浮かべた後、安心したのか気を失ったのだった。
三蔵の言葉に女は凍り付いたようだったが、それも一瞬。 「坊やを返してっ!」 と、三蔵に飛びかかってきた。 「坊やを返せっ!やっと授かった我子だと言うにぃ!返せぇえ──っ!」 そう言って、三蔵に迫る女の形相が変化していた。 「…こういうことか」 女の鬼の姿に三蔵は長に告げられた言葉を思い出した。 ───気を付けろよ?あの子供は惹きつける 惹きつける…それは呼ぶと言うこと。 ───お前が呼ばれたように、あの子供は妖達を呼ぶ。無意識にな 呼ぶ…それは危険に曝されるということ。 悟空を返せと叫びながら飛びかかってくる女をかわしながら、腕の中の子供を見やった。 「約束は守る…必ず…」 小さく呟いて、三蔵は腕の中の悟空を狩衣の袖で包むように抱き直すと、するりと女の攻撃をかわしてその傍らに寄り、額に触れた。
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磨喝楽(まからく):七夕に、子供が欲しい女性が土や蝋でつくった嬰児を水に浮かべて祈るという、昔の中国の風習。 |