雪 濁
まろい頬を真っ赤にさせて、悟空は神域の自分の住まう庵の傍の川縁まで野ウサギを追いかけて来ていた。 「あ、れぇ…いなくなっちゃった…」 姿を見失って、むうっと唇を尖らせていると、くすくすと笑う声が聞こえた。 「?!」 驚いて振り返ったそこに、梅鼠色の衣を纏った男が楽しそうに笑っていた。 「おじさん…誰…?」 きょとんと小首を傾げて問えば、男は少し悲しそうに顔を曇らせ、 「おじさん…って…私はまだまだ若いんですよ」 そう言って、困りましたねえと、ため息をついた。 「誰が若いって?」 不機嫌な声が降りてきた。 「私は若いですよ、お前に比べれば」 ひどいですよと、軽く睨むようにして声の降りてきた方を振り返れば、丁度、悟空がその腰に抱きつくところだった。 「おや、不満ですか?」 問いかける男へ疲れたような視線を投げた後、三蔵は不思議そうに自分と男を見比べている悟空に男を紹介した。 「こ、う…みょ、う…?」 悟空の不思議そうな問いかけに男は笑って頷き、改めて自己紹介をした。 「光明ともうします。初めまして」 柔らかな光明の笑みにつられるように、どこか緊張していた悟空の顔がほころぶ。 「俺、悟空。…えっと、えっと…よろしく」 ぺこりと、三蔵の腕の中から頭を下げた。 「はい、よろしくお願いします、悟空」 頷く悟空にもう一度笑顔を向けた後、光明は三蔵へ視線を戻した。、 「その姿も美しいですね、金蝉」 そう言って、三蔵の姿を眩しそう見つめて頷き、 「さ、お前の家へ案内して下さい。春とはいえ、ここはまだまだ真冬ですねぇ、身体がすっかり冷えてしまいました」 と、歩き出した。
庵の戸口に立った三蔵に、緊張が走った。 「悟空、しっかり掴まってろ」 何時にない固い三蔵の声に悟空はぎゅっと三蔵の首に廻した腕に力を込めた。 「手荒い歓迎だな、金蝉」 鬱陶しそうに舞い上がった髪を振り払い、脱力する三蔵を楽しそうに女は見やった。 「何、項垂れてる?俺はお前に逢わせろと、言っただろうが。なのにお前は梨の礫だ。だから来てやったんだ。感謝しろよ」 女の言葉と実に楽しそうな笑顔に三蔵はその場にへたり込みそうになる。 「さんぞ?」 悟空の不安げな声に、三蔵は萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、女と向き合った。 「それは…申し訳なかったですが、長…来る前には連絡ぐらいください。驚くじゃないですか」 呆れたような、不服そうな顔付きと言葉に、長と呼ばれた女は喉を鳴らして笑う。 「長?!」 三蔵と女のやり取りに、三蔵の傍らに居た光明が簀の子に立つ女を見やった。 「都の陰陽師、光明だね。私は妖の長、菩薩だ。いつも金蝉が世話になっているそうだな。礼を言う」 その言葉に光明は一瞬、瞳を見開いたかと思うと、破顔した 「いえいえ、この子にはいつも楽しませてもらっていますので、お気になさいますな。申し遅れましたが、私は都で陰陽師を生業とする光明と申します。長殿、以後、よしなに願いまする」 そう言って、頭を下げた。 一体何なんだと、思う。
「小僧、いくつになった?」 美味そうに三蔵が用意した酒を舐めながら、三蔵の傍らで一緒に食事をする悟空に妖の長、仏と同じ名を持つ菩薩が問うた。 「えっと…十歳」 悟空の返事に光明は瞳を見開く。 「光明…」 ため息混じりに名前を呼べば、 「驚かせてしまいましたか?ごめんなさいね」 そう言って、悟空に光明は柔らかな笑顔を向けた。 食事を終えた悟空は三蔵の傍から離れようとしない。 「さんぞ…」 ぎゅっと、三蔵の衣を握って、小鬼を抱きしめるようにして、悟空は三蔵を呼んだ。 「何だ?」 問えば、 「あの人たち…三蔵の友達?それとも怖い人?」 怯えた声音で問われた。 「どうした?」 悟空の問いかけに三蔵が軽く紫暗を見開けば、 「だって…三蔵が怖かったから…」 泣きそうな返事が返った。 「二人とも俺の友達だ。あの時は滅多に人の来ないこの場所に見慣れない人の気配と姿を見て緊張していたんだ。今はもう大丈夫だから、安心しろ」 三蔵の言葉にまだ不安を拭いきれない金瞳が三蔵を見上げてくる。 「大丈夫だ。二人ともお前とも友達になりたいと思っているんだから」 その言葉に悟空は驚いたように瞳を見開き、二人を振り返った。
廂に座り、蔀を上げて三人は早春の月を見上げていた。 「予想に違わない子だねえ」 二人の言葉に三蔵が軽く瞳を眇める。 「怒るな。よくあれ程綺麗なまま大きくしたと言っているんだよ、金蝉」 くつくつと喉を鳴らして菩薩は笑い、つくづくと三蔵の姿を見やった。 「何か?」 気色ばむ三蔵を手で制止、菩薩は光明を見つめた。 「光明、あれは魔を惹きつける」 菩薩の言葉に光明は小首を傾げた。 「あれは、そこに存在する、それだけで魔を我ら闇のモノ共を惹きつける。そして、あれはもうすぐ子供ではなくなる歳になる」 そういう意味かと、光明は納得した。 「そう…ですね」 確かに、ここは山の清浄な気が満ちた天然の結界に守られたところだ。 「金蝉一人で守るにも限界がある。だから光明、お前に頼む。時折でいい、気に掛けてやっておいてくれ、この通りだ」 そう言って、菩薩は光明に頭を下げた。 「長!」 その行動に三蔵は目を剥く。 「力の及ぶ限り、必ず」 そう言って、光明は深々と菩薩に向かって頭を下げた。
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雪 濁(ゆきにごり):雪解けの際、水が濁ること。 |