「ご、ごめんなさい…ごめん、なさい…」 激しく殴打される痛みに身体を丸めながら、悟空は嗚咽をこらえて耐えた。
今日の稼ぎが悪いと、親方が責め立てる。
細い乗馬鞭で叩かれた背中は、赤く腫れ上がり、所々血が滲んでいた。
「あんた、こんなのでも商品なんだから傷つけちゃダメじゃないか」
「ふん、稼ぎの悪い奴は商品じゃねえ」
そう言って親方である男は、悟空の小さな身体を蹴飛ばした。
痛みに半ば気を失った悟空が、その拍子にごろんと床に転がる。
「なら、明日ちょうど市が立つから新しいのと交換にだそうか」
男の妻が赤く塗り込めた唇を愉しそうに歪めて笑った。
「ああ、そうするさ」
男はテーブルの上の酒瓶を掴むと、中の酒を一気に呷った。
先の世界大戦が終わった後、世界は荒廃した。
経済は疲弊し、貧富の差は拡大した。
支配される者と支配する者。
時が移ろうほどに、その仕組みは顕著になった。
悟空は世界に稀な黄金の瞳を持って生まれてきた。
だが、生まれたその土地に置いて悟空の存在は凶兆とされ、まだ目もろくに開かないうちにその土地から母親と共に放逐された。
元来身体の丈夫な方ではない母親は、悟空が二回目の誕生日を迎えるやいなや悟空を置いて、逝ってしまった。
スラム街の片隅で泣いているところを女衒の男に拾われた悟空は、置屋で育てられた。
幼子を性愛の対象とする性癖の人間に悟空はその稀なる金晴眼と花のような容を愛された。
幼い口で大人の性器を含み、いとけない身体で彼らを受け入れた。
それが当たり前だった。
誰も、何も教えてはくれなかった。
だから、悟空は何も知らずに大きくなった。
そんなある日、悟空の置屋が火事になった。
そのどさくさに紛れて悟空は今の親方に攫われるようにしてそこから連れ出された。
広い世界をその金晴眼に映しても、悟空の気持ちは動くことはなかった。
悟空を攫った男が求めたのは、置屋にいる時と同じ仕事だった。
だが、ろくに食べ物を与えられずに働かされるその間に、丸く愛らしかった頬はこけ、柔らかな肢体は痩せて肋が浮いた。
白く艶やかだった肌は荒れて、汚れた。
そんな風な子供を誰が金を出してまで抱くというのか。
最初たくさんあった稼ぎは、悟空の身体が細ることに比例するように減って、鞭打たれる回数が反対に増えた。
それでも、悟空はそれしか知らないから、街角に立って客を引いた。
手に入る僅かな稼ぎのために。
生きるために。
そしてその日、悟空は売りに出されるはずだった。
三蔵はたまたま、物好きな友人に引っ張られるようにして市を訪れた。
「三蔵、これが市です」
「知っている」
不機嫌な顔で傍らの友人を見やれば、にこにこと人好きのする笑顔を浮かべて三蔵を見つめていた。
「何だ?」
「いえ、少しは愉しそうにしてくれないかなあとか、思ったんですけど」
などと言って、小首を傾げてみせる。
大の大人がそんな仕草をして見せても可愛くない。
「八戒…」
がっくりと疲れを見せる三蔵に八戒は、底の知れない笑顔を浮かべて見せるばかりで、三蔵のことなどお構いなしだった。
その八戒が、少し先の人だかりを見つけて三蔵の手を引っ張った。
「あそこ、面白そうですよ」
三蔵の返事も聞かず八戒はその人だかりの間を割って入って、一番前に陣取った。
無論、三蔵も不承不承ながらその隣に立っている。
帰りたい衝動と戦いながら三蔵は、注意を目の前の壇上に向けた。
そこには年端もいかぬ子供から少年まで次々に引き出されては、その身体に値段を付けられ、大枚の金袋と交換に何処かへ連れて行かれる様が、安物の芝居のように繰り返されていた。
三蔵はその光景に、気分が滅入った。
自分が常識的なモラルを持った人間だとは想いもしないが、子供を性愛の対象や奴隷として売り買いする人間の気持ちは、理解できなかった。
「…胸くそ悪い」
隣に立って人買い市を物珍しげに見ている八戒にそう言うと、三蔵は人だかりを抜けた。
そして、傍の木陰に立つと、煙草に火を付けた。
このまま帰ってやろうかとも思ったが、自分を誘った八戒を置いて帰ると後が面倒なことを思い出し、三蔵は八戒が見物に飽きて出てくるのを待つことにした。
と、数十人の警官とおぼしき集団が、人買い市に乱入した。
いくら世界が荒廃しても人の尊厳を危うくするようなことは、厳しく取り締まりが行われた。
人身売買が許容されても、子供の売り買いは厳罰が科せられていた。
大戦の後、出生率は低下の一途を辿り、子供は世界の宝だと言われるようになった。
大切に育てようというのは裕福な都市での話で、一歩田舎に入れば、出生率の低下など世間の戯れ言だというように、子供の姿は溢れていた。
子供を養い、育てるには田舎は貧しくて、子供は家族を助ける口減らしのために売られて行く。
そんな子供の行く先など、想像に難しくない。
社会の汚泥に染まって、世界の荒廃に拍車をかける存在となる。
だから、そんな子供達の存在に便乗する商売が生まれ、またそうした子供達を産み落としてゆく。
悪循環の連鎖は、複雑になっても解かれることはなかった。
警官に踏み込まれて騒ぎになった目の前の人買い市のように。
八戒が騒ぎに巻き込まれないように、三蔵のもとへ走ってきた。
「凄いことになりましたよ。警官が乱入してきて、大捕物です」
「関係ねぇ。俺は帰る」
「…わかりました」
仕方ないと、肩を竦める八戒に一瞥を投げると、吸っていた煙草を踏み消し、三蔵は踵を返した。
と、ジャランと鎖の鳴る音が、すぐ傍で聞こえた。
「…?」
「三蔵?」
二人は音のする方へ歩みを向けた。
そこに、首を鎖に繋がれた痩せこけて傷だらけの子供が倒れていた。
鎖の音は、子供が倒れた拍子に鳴ったようだった。
三蔵が子供に近づくと、その気配に子供は虚ろな視線を三蔵に向けた。
その視線に三蔵の足が止まった。
八戒もすぐ後ろで息を呑む。
子供の瞳の色に。
子供の瞳に浮かぶ絶望に。
「…この子…」
八戒が何か言いかけ、飲み込んだ言葉を三蔵が続けた。
「ああ、金色だ」
言いながら三蔵は子供の傍らに膝を着いた。
子供の瞳に怯えが走る。
そして、掠れた声が漏れた。
「……ごめんなさい…ごめんなさい……ごめん、なさい…」
壊れたレコードのように囁かれる言葉に、三蔵は言い知れぬ怒りを覚えた。
「八戒、この子供、連れて帰る」
「えっ…あ、ちょ、ちょっと三蔵!」
八戒が止める間もなく、三蔵は子供の繋がれた首輪を懐の銃で叩き壊した。
そして自分の上着を子供に掛けて周囲の目から隠すように抱きかかえると、八戒をその場に残して、三蔵は足早に歩き去った。
その一連の動作を半ばあっけにとられて見ていた八戒は、はっと、我に返ると、三蔵の後を追って走り出した。
子供の名前は、悟空と言った。
今年十八になるはずだと、たどたどしい口調で話した。
あとは、わからないと、首を振ると、可哀想なほど身体を縮めて謝った。
まるで折檻されることに怯えるように。
その姿に、三蔵はまた、胸の内に名前の付けがたい怒りが湧き上がってくる。
決して自分は子供が好きな質ではない。
どちらかと言えば嫌いだ。
煩いし、こちらの都合や気持ちなど無視してこちらの領域に平気で踏み込んでは、荒らし回って行く。
我が侭で、甘えたで、理不尽な存在だという認識しかない。
だが、この目の前で怯えて震えている子供には、そんな感情が欠片も湧いてこなかった。
ただ、守りたいと、手元に置いて暖めてやりたいとそう思うのだ。
らしくない己の感情に、三蔵は戸惑いつつも従うことにした。
そのほうが、目の前のこの悟空と名乗った子供の為になると。
「三蔵、ちょっと…」
診察を終えた八戒が、三蔵を別室へ呼んだ。
三蔵の数少ない友人の一人である八戒は、医者を営んでいた。
「…あなたの行動にはいつも驚かされますが、今回は本当にびっくりしました。あんな所へ誘った自分に腹が立ちます」
八戒はいつもの笑顔を消して、真顔で三蔵と向き合っていた。
「わかっていますか?あの子は…」
「わかっている」
八戒に皆まで言わせずに遮る三蔵の様子に何を見たのか、八戒は緩く首を振ると、小さく嘆息した。
「あなたが決めているのなら何ももう言いませんが、あの怯え方や体中の傷から推し量るに、まともな生活の経験は無いと見るべきです」
「そうか…」
「そのことに短気なあなたがどこまで我慢できるか、僕にはわかりませんが、気を長く持って、あの子と接する時は声を荒げたり、不用意な発言は控えて下さいね」
「…八戒」
「あと、栄養のあるモノを食べさせてあげて下さい」
「…?」
「あの子が言うように年齢が本当に十八才なら、あの子は成長不良です。どう見ても十三か十五にしか見えません。これは成長期にちゃんとした食事を与えられていなかったからでしょうね」
八戒の言葉に三蔵は瞳を眇める。
「外見だけで本当に、あの子が暮らしていた環境が手に取るようにわかります。三蔵、後悔はしませんか?」
「しねえよ。悟空は傍に置く」
「そうですか。では、悟浄に連絡をとっておきます」
ぽんと、三蔵の肩を叩くと、八戒は、明日、また来ますと言って、帰って行った。
八戒を見送った三蔵は、悟空の居る部屋へ戻った。
だが、寝台の上に悟空の姿はなかった。
慌てて探せば、扉の影の床に踞るようにして眠っていた。
「…ったく…」
そっと近づけば、怯えたように悟空は目を開けた。
「あ、…あの…」
震える腕で身体を支えるように起こすと、身体を縮込ませて三蔵を見上げてきた。
その姿に三蔵は小さく舌打つと、悟空の前にあぐらをかいて座り込んだ。
「おい、悟空」
「…は、はい」
「お前は今日、今から俺と一緒にここで暮らす。わかるな?」
「は、い…」
「俺の名は、玄奘三蔵、呼びやすいように俺のことは呼べ」
「…はい、旦那様」
悟空の返事に、三蔵はその紫暗を見開いた。
誰が、旦那様だというのか。
その一言に、三蔵は悟空が置かれていた立場を知る。
それと同時に、また、あの怒りが胸の内を焦がす。
「三蔵でいい。二度と旦那様と呼ぶな」
「…ごめんなさい。三蔵様」
ぎゅっと、目を瞑って叩かれると身体を竦める悟空に、
「三蔵様じゃない。三蔵だ」
と、繰り返す。
「さ…んぞ…?」
「そうだ。そう呼べ、いいな、悟空」
恐る恐る見上げてきて、舌足らずな言葉で自分の名を言う悟空に、三蔵は少し安堵の息を吐いた。
「ここが、お前の部屋だ。好きに使え。但し、床で寝るな。ベットにちゃんと寝ろ」
「…はい」
「よし、来い」
「…あっ」
三蔵は悟空を抱き上げると、立ち上がった。
悟空は、びっくりした顔をして三蔵にしがみついている。
三蔵は、呼び鈴を押した。
「何でございましょう?」
しばらくして、執事が姿を見せた。
「風呂を頼む。それと何か食べ物を」
「承知致しました」
三蔵の言葉に執事は頷くと、悟空の部屋を辞した。
三蔵は荒廃した世界でも、大戦以前と同じに繁栄する企業の跡継ぎだった。
父親は既に無く、企業を動かしているのは伯母の観世音菩薩で、三蔵は偶に仕事を手伝う程度だった。
本来なら、父親が死んだ時点で跡を継がねばならなかったのだが、その時三蔵はまだ、未成年であったため、急遽父の姉である観世音菩薩が跡を継いだのだった。
三蔵が成人するまでという約束で。
だが、三蔵が成人した今も、会社は観世音菩薩が取り仕切っている。
「おれが飽きるまでさせろ」
という、何とも身勝手な言い分で、会長の座を降りなかったのだ。
三蔵も三蔵で、鬱陶しい仕事などしなくていいのならと、伯母に任せて自分はやりたいようにしていた。
三蔵は悟空を抱いたまま、ベットに座った。
「…あの、お、俺はここで何をすればいいんですか?」
三蔵に抱かれた身体を少し離して、悟空は困惑した瞳を三蔵に向けた。
「お前は何ができる?」
反対に問い返されて、悟空は少し考えるそぶりを見せてから答えた。
「えっと…閨のお世…」
言葉は最後まで紡がれることなく、悟空の身体はベットに投げ出された。
その瞬間、悟空の顔に怯えが走る。
かたかたと体を震わせ、三蔵を見上げた。
「ご、ごめんなさい…許して下さい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
卑屈に身体を丸めて謝る悟空の姿に、三蔵は己が何をしたのか気付く。
三蔵は体を震わせて謝り続ける悟空の身体に手を伸ばした。
三蔵の手が触れた瞬間、悟空の身体が大きく跳ねた。
「…悪かった」
頭を軽く宥めるように叩けば、悟空がおずおずと顔を上げた。
「何もお前はしなくていい。傍に、俺の傍に居ろ。いいな」
「は、はい…さんぞ」
怯えて掠れた声で返事を返す悟空に、三蔵は黙って頷き返すのだった。
三蔵に引き取られた悟空は三蔵に言われた通り、常に三蔵の傍に居た。
仕事をする時も、食事の時も、寝る時も、果てはトイレ、風呂にまで。
じっと、何をするわけでもなく、三蔵の足下に座って日がな一日、窓の外を眺めている。
そうでない時は、三蔵の一挙手一投足に注意を払って見つめているか、三蔵の機嫌を伺うような態度を見せる。
いい加減鬱陶しいと思うのだが、滅多なことを言って悟空を怯えさせて、また、あの卑屈な態度を見なければならないのかと思うと、何も言えない。
だが、生来、短気な三蔵がそういつまでも我慢できるはずもなく、悟空を傍に置くようになってひと月も経ったその日、遂に三蔵の堪忍袋の紐は切れた。
原因は、三蔵にとっては嫌悪すべき行為で、悟空にとっては当たり前な行為だった。
「いい加減にしやがれ!」
突然の三蔵の怒鳴り声に、三蔵のすぐ傍に座って彼の股間に手を伸ばしかけていた悟空は飛び上がった。
「…ひっ!」
息を呑むような悲鳴を上げて、悟空の顔から血の気が音を立てて引いて行く。
構わず、三蔵は悟空の胸ぐらを掴み上げると、今まで堪っていたイライラをぶつけた。
「傍にいろとは言ったが、四六時中俺のことを監視してんじゃんねぇ」
「…あ…」
「てめえはてめえで、したいことをすりゃあいいんだよ。そんなこともわからねえのか、このサル!」
どんと、突き放す。
その勢いのまま、悟空は床をごろごろと転がり、飾り棚にしたたかに身体を打ち付けた。
「どうなんだ、悟空!」
投げつけられる三蔵の言葉の意味がよく理解できない悟空は、震える腕で身体を起こすと、床に額をこすりつけた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もう…もうしません。もうしません。ごめんなさい…三蔵」
その卑屈な態度が、三蔵の怒りに油を注いだ。
「悟空、俺はてめえのご主人様じゃないと何度言ったらわかる!それにお前に慰めてもらわなければならないほどに、不自由はしてねえっ」
だんっと、床を踏みつける三蔵の勢いに、悟空は竦み上がる。
「もう、傍に来るな!勝手にしてろ!!」
突きつけられた言葉は、悟空の心を打ち砕いた。
呆然と見開かれた金眼の中の絶望に三蔵は気付くことなく、荒々しい足音と共に部屋を出て行った。
一人部屋に残された悟空は、瞳を見開いたまま、ただ涙を流し続けていた。
あの日、親方が木の下に自分を繋いで、市の事務所に手続きに行った。
親方を待っていると、綺麗な人が酷く不機嫌な顔で近づいて来るのが見えた。
それが三蔵。
今まで、どんなに綺麗だと言われる人を見ても、綺麗なモノを見ても胸がどきどきすることは無かった。
あの置屋から連れ出されて、広い世界を見ても求められるのはこの身体と稼ぎだけ。
同じだと思った。
だから、心なんていらなかった。
ただ、謝ることとこの身体を開くことだけ知っていればよかった。
でも、今、自分と背中合わせでここにいる三蔵を見た瞬間から、気持ちがざわめいて仕方なかった。
市が騒がしくなって、親方が警官に捕まる姿を見たら、気が遠くなった。
人の近づく気配に目を開ければ、三蔵が自分を覗き込んでいた。
怖かった。
綺麗な三蔵は、何もかもが綺麗で、自分は汚れていたから怖かった。
でも、信じられないことが起こった。
三蔵が暗い世界から連れ出してくれたのだ。
今まで何も感じなかった風景に、意味があることを知った。
こんな汚い自分が側に居ても構わないとさえ、言ってくれた。
だから、側にいたのに。
三蔵の仕草に見惚れた。
姿勢の良い姿に、陽ざしを浴びて輝く金糸に、深く澄んだ紫暗の瞳に見惚れた。
いつまでも見ていたいと思った。
側にて良いと言われたことが嬉しくて、片時も側を離れていたくなくて。
それが、三蔵をあんなに怒らせた。
暖かい寝床と美味しい食べ物と、怯えなくていい生活。
接してくれる人は皆優しくて、いつも笑顔が返ってきた。
穏やかで温かな毎日。
そんな日々をくれた三蔵に何かお礼がしたくて。
でも、自分ができることは身体を開くことだけだから、だから・・・・。
それが、三蔵をあれほど怒らせた。
告げられた言葉に、心は貫かれ、砕けた。
「……さんぞ…」
泣き濡れた悟空の声音は、深閑とした部屋に溶けた。
「…ふぁ…あん…あぁ……」
濡れた音が、狭い空間に響く。
甘く淫らな嬌声がそれに、色を添える。
「よく、締まるぜ、坊ず」
「やっ…あっ……もう…ダメぇ…」
揺すられる華奢な身体を振るわせて悟空が絶頂を迎える。
悟空の身体を揺すっていた男も悟空の内壁の締め付けに、すぐに自分を解放した。
弛緩した悟空の秘口から己を引きずり出すと、男は手早く身支度して、幾ばくかの紙幣を悟空の上に投げると、
「また、頼むぜ」
と言って、小屋を出て行った。
ぱたんと、扉が閉まってすぐ、悟空は込み上げてくる吐き気に口元を押さえる。
が、我慢できずに身体を折り曲げて、吐いた。
何も食べていない胃の中は空っぽで、苦い胃液だけが逆流する。
吐くモノが無くても吐き気はなかなか収まらず、悟空は絞られる様な痛みに耐えて、吐き続けた。
三蔵にいらないと言われてから、しばらくの記憶がない。
気が付けば、街角で引いた客に抱かれていた。
その間、何も考えずにいられた。
だからそれが、逃げ場になった。
抱かれている間は、三蔵のことを忘れられた。
手酷いことをされようと、優しく抱かれようと構わなかった。
ただ、その間は忘れられたのだ。
だが、身体とは裏腹に心は、抱かれることを拒否していた。
その矛盾が、セックスの後の嘔吐となって現れた。
それだけなのだ。
身体を売って稼いだ金は、使われることなく、道に捨てられた。
帰る場所がないから、三蔵の屋敷に帰ってはいた。
食べ物も寝床もあったから。
あの日から三蔵の側に近づいていない。
朝、一緒に食事を摂った後、悟空はふらりと街に出て、客を引く。
それは夕方まで続く。
日暮れ、疲れ切った身体を引きずって屋敷に帰った。
誰にも見咎められないように細心の注意を払って、与えられた部屋へ戻ると、身体が痛くなるほど擦って洗い、何事もなかった顔をして、三蔵との食卓についた。
会話のない食事。
それでも、その間だけは三蔵の姿が見られたから。
その間は、側に居られたから、嬉しかった。
例え、食べたものの味がわからなくても。
三蔵と居る───それが全てだった。
怒りが収まれば、己の吐いた言葉に寒気がした。
そして気付く。
悟空に向けてはならない言葉を自分が吐いたことに。
知っていたはずだ。
自分を見る悟空の眼差しの意味を。
気付いて居たはずだ。
悟空の態度の本当の意味に。
だが、気付いた時には既に遅く、悟空はこの手をすり抜けていた。
朝、一緒に朝食を取る。
その時見る悟空の顔は、無表情で。
夕方、夕食を共にする悟空の姿は、疲れ切っていた。
執事の話では、朝食の後、何処かへふらりと出掛けて、夕方まで戻ってこないらしい。
人目を避けるように戻ってくると、必ず風呂に入って長い時間出てこない。
出掛けた場所で何をしているのか。
三蔵は、気になったが、何も聞き出すことができなかった。
何より、会話の切っ掛けすら掴めないのだから。
そんなある日、三蔵は出先で悟浄と偶然であった。
彼も八戒同様、三蔵の数少ない友人の一人で、弁護士を生業としていた。
悟空と暮らすに当たっての面倒臭い手続き一切を引き受けてくれたのだ。
その分、盛大にからかわれるという付録も付いてはいたが。
「よう、三蔵」
片手を上げて声をかけてきた紅い髪の青年に、三蔵は嫌そうな顔を向けた。
「何、嫌そーな顔してんだよ」
「決まっている、お前に会ったからだろうが」
「そりゃ、悪ーござんした。で、あの小猿ちゃんは元気か?」
にやにやと笑っていた顔を不意に真顔にして、悟浄は三蔵に問うた。
「ああ、元気だ。毎日、何処かへ遊びに行って、夕方まで帰って来ねぇよ」
三蔵の返事に、悟浄がびっくりした顔をする。
その顔に三蔵は怪訝な顔をした。
「何だ?」
「知らねぇの?」
「何をだ?おい」
悟浄の謎かけのような返事に、三蔵が苛立ちもそのままに悟浄を睨む。
「なら…四番街へ行って、自分の目で確かめてくればいい。あ、八戒には内緒にな。アイツに知られたらお前、殺されるよ」
じゃあな、と片手を上げて悟浄は、立ち去っていった。
三蔵は眉間に皺を寄せたままその背中を見送り、悟浄が残した言葉を小さく繰り返した。
そして、気付く。
「…まさか!」
この街の四番街は、別名”娼婦街”という。
その街角には客を引く目的のために、朝から娼婦が立つことで有名だった。
娼婦を生業とする者の裏事情など知るよしもないが、手っ取り早く金を手に入れる手段ではあった。
そんなところに悟空が立っていたと、悟浄は言ったのだ。
それも昼日中から。
そこまで追いつめてしまったのだと、改めて思い知る三蔵だった。
四番街の入り口で走ってきた息を整えながら三蔵は、周囲を見渡した。
だが、近くに悟空の姿は見つけられない。
三蔵は深く深呼吸を一度すると、四番街に足を踏み入れた。
娼婦街と言われるだけあって、その手の店も、連れ込むためのホテルもそのけばけばしさを競うように立ち並んでいた。
見るからに金持ちとわかる三蔵に、立ちん坊の女達がしなだれかかるようにして声をかけてくる。
だが、そんな女達を一瞥することなく、三蔵は悟空の姿を捜した。
悟空は身支度を整えると、疲れた身体を引きずるようにして安ホテルから外に出た。
曇った外の明るさでさえ眩しく感じられて、悟空はその黄金を眇めた。
しばらく風に当たったら、また、誰かに声をかけて三蔵を忘れさせてもらおうと、悟空は自嘲の笑みを浮かべた。
前は、こんな暮らしが当たり前だったのに。
一日に両手で余るほどの男の相手もしてきたはずなのに。
心が生まれるとこんなにも嫌悪すべき行為だったなんて。
「…っくぅ……っつ…」
悟空はホテルの塀に身体を預けたまま座り込み、声を殺して泣いた。
ひとしきり泣いて、悟空は服の裾で涙を拭うと、客を引くためにいつもの場所へ戻った。
儚げな印象と、華奢な身体に惹かれて、すぐに一人の男が声をかけてきた。
悟空はその男の顔も見ず、承諾をする。
肩を抱かれてその場を離れようとしたその時、声が聞こえた。
一番聞きたくて、一番聞きたくない声が。
「おい、そこで何してやがる」
と。
足早に、それでも瞳は悟空の姿を捜して。
街の中程で、下卑た男に頷く悟空を見つけた。
その瞬間、体中の血液が沸騰する。
触るな。
それは俺のモノだ。
沸騰する感情の中で、三蔵はようやく自覚した。
たった、二ヶ月足らず一緒に暮らしたこの子供に、これほど囚われていたなんて。
いや、初めて見た日からかもしれない。
自分に対する悟空の卑屈な態度が、怯えた仕草が、あの澄んだ黄金に浮かぶ絶望が許せなくて。
何より悟空の身体を弄んできた顔も知らない人間達に嫉妬していたのだと。
卑屈に謝れるたびに受け入れてもらえていない事実を突きつけられているような気がしていた。
側に置いても何処か怯えた影は拭いきれなくて。
何が足りなくて、何が不満なのかわからなくて苛ついた。
手を伸ばせる距離にいても、気持ちは遠くて手が届かない。
あの初めて感じたカタチのない怒りの源は、ここにあったのだ。
声は無意識のうちに零れ出ていた。
「おい、そこで何してやがる」
と。
三蔵は悟空の肩を抱いた男の肩を掴むと、力一杯引きはがした。
「何しやがる!」
引きはがされた男が、色めき立つ。
だが、視線だけで人殺しができそうなほどの三蔵の瞳に、男は逃げるようにその場を去って行った。
悟空はそんな三蔵の様子を零れんばかりに瞳を見開いて、見つめていた。
だが、男を追っ払って振り返った三蔵の視線を受けとめることができないと、悟空は三蔵の前から逃げ出した。
「悟空!」
三蔵は走り去る悟空の後ろ姿に一瞬呆然としたが、大きな舌打ちを一つすると、後を追って走り出した。
ごめんなさい、ごめんなさい……
知られてしまった。
もう、あの家にも帰れなくなってしまった。
悟空は街並みを抜け、小さな林を抜けた所で足がもつれて転んでしまった。
したたかに膝や顔を打ち付けたが、そんな痛みより三蔵から逃げなければという思いで悟空の心は占められていた。
好きになってもらわなくても構わない。
嫌われていても構わない。
ただ側に、あの金色の眩しい人の側に居られればそれだけで良かったのに。
自分が何をしていたのか、知られてしまった。
現場を見られてしまった。
あんな事でしか自分の気持ちを殺せない己が、卑しかった。
悟空は痛む身体にむち打って立ち上がった。
だが、その腕は追いついた三蔵に掴まれてしまった。
思わず、反射的に振り返った悟空は、そこに見たこともない色を浮かべた紫暗の瞳と表情の三蔵を見つけた。
「…あ…さ……だめ!」
掴まれた腕を渾身の力で振り払うと、悟空はまた走り出した。
その後を三蔵も追う。
「悟空!」
「来ないで!」
立ち止まって振り返った悟空の足下に、その先は無かった。
「…ごめんなさい…ごめんなさい。もう、迷惑はかけませんから…こんな俺なんていらないから…もっと早くこうしてればよかった…さんぞ、ごめんなさい…」
それだけを三蔵に告げると、悟空は飛んだ。
それは一瞬。
でも、それは永劫。
「…さ、んぞ…」
掴まれた腕のその先の三蔵の姿に、悟空は初めて笑った。
それは透明で儚げな笑顔だった。
軽い体を引き揚げた三蔵は、何も言わずに悟空の頬をひっぱたいた。
「…ごめんなさ……」
謝る悟空をそのまま、有無を言わせず抱きしめる。
そして、
「生きろ、俺の傍らで。生きていてくれ」
その言葉は、三蔵の慟哭に聞こえた。
「…さ…んぞ…?」
信じられない。
誰からも必要とされたのはこの身体。
求められたのは、この身体が生むお金。
「傍に居ろ。どこにも行くんじゃねぇ」
いらないって、言った。
勝手にしろと。
それは、思うなと言われたから。
それは、拒絶だと思ったのに。
「でも…いらないって…でも、行くところがなかった、から…でも…傍に居たかった…から…だから……でも…お、俺…汚いから、綺麗なさんぞの傍に…」
たどたどしい口調で語る悟空の言葉は、三蔵の唇に絡め取られた。
どんな言葉を並べてもこの傷付いた心には届かないのだろうか。
言葉の足りない自分がもどかしい。
この溢れ出る想いは、どうすれば伝わる?
「…さん、ぞ…」
泣き濡れた悟空の小さな顔を両手で包むと、もう一度三蔵は、慈しむような口付けを落とした。
夢なのだろうか。
三蔵が口付けをくれる。
三蔵が触れてくれている。
三蔵が・・・・・。
「…すまなかった、悟空」
謝罪の言葉と共にまた、今度は宝物に触れるような口付けが降る。
生きていてもいいの?
傍に居ても良いの?
好きになってもいいの?
「お前は、俺だけのために傍に居ろ。いいな、悟空…」
愛の告白にも等しい言葉と共に、今度は全てを包み込む口付けがかわされた。
生きていて。
生きろ。
傍にいて。
傍にいろ。
そして、誰よりも深い愛をください。
そして、誰よりも深い愛をお前に。
今、世界が拓ける──────
end
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