子供が広い庭先を茶色い子犬とともに駆けている。
風に乗って小さく笑い声が、バルコニーに座る三蔵の所まで時折聞こえてくる。
夏の色を少し滲ませた陽ざしが、まだ春の柔らかさに包まれた光をそここに投げかけていた。「笑うようになったんですね、悟空は」
「…ああ、ああいう動物相手にはな」
テーブルに肘を突き、ため息混じりに三蔵が答える。
その答えに八戒は、小さく笑ってティーカップを取り上げた。
「気に入りませんか?」
「何が?」
横目で睨む三蔵の視線に、楽しそうな笑顔を返す。
「僕がちょっと忙しくして飛び回っている間に、ずいぶんなことをあの子にしたらしいですね。聞きましたよ、三蔵」
「…あのアホウ」
八戒の言葉に、紅い髪の男の顔を思い出す。
「彼を攻めちゃいけませんよ。彼だって四番街で見つけるまで知らなかったんですから。でも、すぐに知らせなかった罰は受けてもらいましたけど」
背中に黒い影を見た気がして、三蔵はうんざりしたため息を吐いた。
悟空を拾って半年、季節は夏を迎えようとしている。
苛ついた言葉が、悟空を、その命さえ投げ出させてしまうほどに追いつめた。
あの大きな黄金に魅せられ、この手を伸ばした。
過酷な環境で大きくなった割には素直で純粋で。
あの日以来、三蔵の機嫌を伺うような態度は影を潜めたが、三蔵の言葉、仕草一つに怯えるようになってしまった。
何より、三蔵のことを心から信頼していないのだ。
従順に従うその姿は、卑屈に怯えて許しを請うその姿に重なって、三蔵の心は晴れなかった。
そして、身体を差し出すことが当たり前な悟空。
三蔵にもごく自然に、身体を差し出してきた。
だが、小さく華奢な身体をその欲望で汚すことは出来なくて、今まで悟空の身体を好き勝手してきた顔も知らない人間に、言い知れぬ怒りが胸に渦巻く。
愛しいと想うから尚更、この手で抱けない。
自分をモノのように差し出す悟空の、その無意識に被った殻のその奥にある本心が、欲しい三蔵だった。
「あなたが努力するしか無いんでしょうけど、もう少し柔らかな表情って言うのを浮かべられませんか?」
指先を形の良い顎に当てて、八戒は柔らかな笑顔を浮かべる。
その笑顔に小さく鼻を鳴らして、三蔵は庭を駆ける悟空に視線を移した。
そんな三蔵の不機嫌な顔を見ながら、八戒は軽くため息を吐く。
この見目麗しく、横柄な友人は、自分の感情を表に出すのがとても下手だ。
優しいくせに、そのことが悪いことのように不機嫌な表情で隠してしまう。
その内実は、照れ屋で優しく、寂しがりなのだ。
面倒くさがりなくせに、面倒見はいい。
気に入ったモノにはとことん無意識に信頼を寄せる三蔵。
悟空もそのことに気付いてくれればいいのに。
お互いがお互いを思いながら、不器用に接している姿は微笑ましいが、もどかしいことこの上なかった。
だが、この先、二人が共に暮らしてゆくならば越えなければならないハードルである。
誰にも手助けは出来ない。
はやくお互いの気持ちにちゃんと向き合ってくださいね…
八戒は楽しそうな微笑みを口元に浮かべ、子犬を抱き上げて笑う悟空の姿に、その翡翠を細めるのだった。
八戒が三蔵の屋敷を訪れたその翌日、その男は塀の外への脱出に成功した。
塀の内側で聞いた話が本当なら、他国へ逃れ、左うちわで暮らせるだけの金品が手に入るはずだった。
こんな辛気くさい所へ入ったが為に、今までの生活は露と消えた。
一人、裕福な生活をするアイツから、それなりのモノをむしり取って何が悪い。
男は、脱走を知らせるサイレンを遠くに聞きながら、暗い笑いを零したのだった。
「悟空、脱いだモノはちゃんとたためと言ってるだろうが」
朝、悟空を起こしに来た三蔵は、部屋の有様に思わず怒鳴っていた。
脱ぎ散らかした洋服を拾い集めながら三蔵は、ベットに身体を起こした悟空に近づく。
悟空は三蔵の声にはっと、その黄金を見開くと、転げるようにベットから降りた。
そして、床に脱ぎ散らかした服を拾い、三蔵の手にあったモノも奪うように取ると、部屋の隅に走って行く。
そこに三蔵に背を向けて座ると、ぎこちない手つきで洋服をたたみ出した。
その様子に、小さくため息を吐くと、三蔵は窓を開け放った。
途端、風が吹き込んでカーテンを揺らす。
「それは昨夜のうちにたたんでおくんだよ。今はその服に着替えるんだろうが」
背を向けて作業をする悟空の頭の上から声を掛ければ、飛び上がるように振り返って、三蔵の顔を見上げた。
「着替えたら、食事だ。さっさと降りてこい。いいな」
「…は、はい」
声を震わせて返事をする悟空の頭を軽く掻き混ぜて、三蔵は部屋を出て行った。
ふいに撫でられた頭に手をやって、悟空は唇を噛みしめた。
三蔵が恐いわけではない。
その綺麗さに気後れするのだ。
輝く金糸に、深い紫暗の瞳に、綺麗な形の顔に、その姿に、声に。
何よりも綺麗なその心に。
暗い澱みで生きてきた自分とは、生まれも育ちも違って、近寄りがたい。
受け入れてもらえて、傍に居ても良いと言ってもらえた。
それだけで幸せだ。
だから、見てるだけで良いはずなのに、その綺麗な三蔵に触れたいと思ってしまう。
差し出せるモノがこの身体しかないからと、差し出せば、いらないと拒絶される。
では、どうすればいいのか。
分からないから、益々戸惑ってしまう。
優しくされればされるほど、悲しくなる自分の心が痛かった。
朝食を終え、デザートのヨーグルトを食べている悟空に向かって、三蔵はぽつりと告げた。
「街へ…買い物に連れて行ってやる」
「…えっ?」
一瞬、聞き逃した悟空がきょとんと、三蔵を見返す。
「街へ連れてってやる」
もう一度、背けた頬を淡く染めて、三蔵がそう告げた。
悟空は、瞳を見開いたあと、小さく「はい」と嬉しそうに返事を返したのだった。
玄関で三蔵が来るのを悟空は、嬉しそうに待っていた。
三蔵と暮らし始めて、初めてのお出かけだからだ。
近寄りがたい三蔵だけど、傍にいるととても安心できるから、一緒に居たいから。
いつも不機嫌で、ちょっと恐い時もあるけど、暖かいから。
悟空は先日、八戒がくれた茶色い子犬を抱いて、エントランスの石段に腰掛けていた。
と、不意に影が差し、悟空は顔を上げ、小さく悲鳴を上げた。
そこには、あの親方が獲物を見つけた肉食獣のような笑顔を浮かべて立っていた。
「ほう…ずいぶんとこぎれいになりやがって、置屋にいた頃より色気も出て、さぞ良い暮らしをさせてもらってるらしいな。え?悟空」
「…あっ…え、あ……」
怯える悟空と男の危険な空気を感じ取って、腕の中の子犬が吠え立てた。
「うるせぇ、犬っころだな」
「あ、や、やめてぇ!」
むんずと子犬を悟空の腕から奪い去ると、その小さな身体を階段下に向けて叩き付けた。
子犬は、押し潰されたような悲鳴を上げた後、動かなくなった。
「きゃぁ──っ!!」
悟空が悲鳴を上げて、階段を駆け下りる。
その悲鳴に、玄関先まで来ていた三蔵と執事が駆けだしてきた。
「悟空!」
飛び出した二人の目に、見も知らぬ男に小脇に抱えられる悟空の姿が飛び込んできた。
「きさま!」
悟空を取り戻そうと三蔵が、男に飛びかかった。
だが、一瞬早く男は身体を翻し、悟空に刃物を突きつけた。
「それ以上近づくなよ。でねぇとコイツを切り刻んでやるからな」
「…さんぞぉ…」
縋りつくような瞳で、三蔵を悟空が見返す。
動けない三蔵は、ぎりっと唇を噛みしめた。
「スラムの一番街へ五億の金を持ってきな」
「何?」
「時間は今日の夕方五時。一秒たりとも遅れるなよ。でねぇと、コイツの安全は保証しねぇ。いいな」
「分かった」
絞り出すように頷く三蔵に、卑しい笑いを返すと、男は門前に止めていた車に悟空を押し込み、タイヤをきしませて去って行った。
後には、石畳に叩き付けられ、息を引き取った子犬の小さな亡骸と悟空が落としていった靴の片方が転がっていた。
「いやぁぁ──っ!いやっ!!離してぇ─っ!」
暴れ回る悟空の華奢な身体を組み敷き、男は想う存分その柔肌を味わった。
幼い頃から人に抱かれることを教え込まれた身体は、簡単に快楽の渦に呑まれる。
だが、三蔵に拾われてから悟空の意識は変わっていた。
三蔵以外の人間が触れることに、嫌悪を覚えるのだ。
三蔵に拒絶され、見知らぬ人間抱かれることで苦しみから逃れようとした時、知ったのだ。
自分の痛みや苦しみを救ってくれる手は、触れても良いのは三蔵のあの大きく温かい手だけだと言うことに。
だから、今、男に蹂躙される身体は快感を訴えても心は、精神は苦痛を訴える。
「…ぅんっ…い…や…はな、して……さんぞ、さんぞぉ…」
「身体は正直だぜ。こんなにここは喜んでるぜ、え、悟空」
「ひぁぁ…っ!いや!いやぁぁ…ああっ!」
男の一物が悟空の花びらを貫いた。
その痛みに悟空の華奢な背中が弓なりに反り返る。
それとともに締め付ける悟空の身体が寄こす快感に、男は我を忘れて酔いしれた。
久しぶりに味わう悟空の身体は、やはり絶品だった。
どんな女も叶わない肌理細かな吸い付くような肌、絡み付く蜜口、敏感な性感と媚態。
一度味わったら手放せなくなる。
「…さんぞ…さ、んぞ……助けて…いや…やぁぁ…」
男が悟空の身体から離れても、悟空は拒絶の言葉を吐き続けた。
そのか細い声に男は苛立ち、悟空の汚れた身体を蹴り飛ばした。
「…やぁぁ…」
力無い悲鳴を上げて悟空は気を失った。
気を失った悟空の片手足にロープを結び、その反対の先端をベットの足に結びつけた。
男は、悟空を手放す気などさらさら無かった。
悟空はその蜜のような身体で、幾らでも金が稼げる。
その上、そこら辺の女よりも抱き心地が良いのだ。
手放せるわけがなかった。
男は、身支度を整えると、時計を見た。
時間は約束の時間まであと五分。
約束の場所は目の前だ。
男はテーブルの上の温くなったビールを呷ると、金を受け取るためにドアに手を掛けた。
その時、ドアが凄まじい音で蹴り開けられた。
ドアの残骸と共に男が、部屋の反対側に吹っ飛んだ。
叩き付けられた痛みに、霞む意識を呼び戻すように頭を振って顔を上げた。
そこに、隙なく背広を着こなした黒髪に翡翠の瞳の青年が、言い知れぬ怒りを含んだ完璧なまでの笑顔を湛えて立っていた。
「悟空を返してもらいにきました」
青年の柔らかな声音とは裏腹に、男の背筋を冷たい汗が伝う。
「どけ、八戒!」
戸口に立つ八戒を押しのけるように三蔵が、部屋の中に足を踏み入れた。
そして、何があったか一目瞭然な全裸の悟空を見つけた。
「悟空!」
三蔵は気を失っている悟空に駆け寄ると、自分の上着を脱いでその身体を覆ってやる。
と、その刺激で気が付いたのか、瞼が小さく震え、金色の花が咲いた。
朧な意識に、しばらく悟空は自分がどうなっていたのか分からず、不思議そうな顔で自分を見下ろす三蔵の顔を見つめた。
「さて、可愛い悟空に素敵なことをして下さったようですね」
「営利誘拐に監禁、暴行傷害。それに脱走。無期懲役決定だな」
八戒の後ろから、紅い髪の青年が楽しそうな笑いを浮かべて姿を見せた。
そして、部屋の有様に口笛を吹く。
「器物破損も付け加えとくよ」
そう言って、男にウィンクを投げた。
男は、あまりな展開に思考がついて行かず、呆然としていたが、悟空の上げた悲鳴に我に返った。
「いやぁ──っ!」
「悟空!」
三蔵の腕の中で悟空は、意識がハッキリした途端、パニックを起こして暴れ出したのだ。
何とか宥めようと三蔵が、悟空の身体を抱きしめる。
そんな二人に八戒も悟浄も気を取られた。
それにつけ込まれた。
男は懐に潜ませていたナイフを三蔵に向かって振りかざした。
ナイフの狙いは三蔵。
だが、パニックになった悟空を抱きしめる三蔵にその切っ先を避ける余裕もなく、また、悟空を狙ったと勘違いまでして。
三蔵は己の身体を、刃の前に差し出してしまった。
「三蔵!」
左の肩にナイフは深く突き刺さり、抉られるようにして抜かれた。
溢れ出す血と焼け付くような痛みが三蔵を襲う。
抱きしめた悟空の身体を離さないように腕に力を入れて、反射的に振り返った三蔵は銃の引き金を引いていた。
弾道は見事に男の眉間を貫く。
声もなく男は後ろ頭から脳漿をまき散らして、床に倒れた。
その様子を悟空は三蔵の腕の中から見つめることとなった。
傷付いた肩を押さえて座り込んだ三蔵の腕の中で、悟空は呆然と親方だった男の骸を見つめる。
八戒は、緩く首を振ってため息を吐くと、三蔵のケガを診るために行動を起こした。
それにとともに、悟浄は床に倒れた男の死を確認する。
「ま、正当防衛と言うことだな。過剰防衛って気もするが、悟空のあんな姿を見ちまったらなぁ、しかたないっしょ」
立ち上がって悟浄は電話のボタンを押す。
「あとは悟浄に任せて、僕たちは引き揚げますよ」
応急処置を終えた三蔵を立たせ、悟空の足を縛っていたロープをほどくと、八戒は悟空を抱き上げようとその身体に手を触れた。
途端、その手は信じられない力で振り払われる。
「…悟空?」
驚く八戒をよそに悟空は三蔵にしがみついた。
かたかたと小刻みに身体が震えている。
何か言いたげな八戒を目で制すると、三蔵は悟空の身体をそっと抱き返してやった。
「大丈夫だ。もう誰もお前を傷つける奴はいない。大丈夫だ、悟空…」
優しく背中を撫でながら三蔵は、言葉を紡いだ。
静かに、安心させるように。
「悟空…もう大丈夫だ…悟空」
そんな二人の様子を八戒と悟浄は、固唾を呑んで見守った。
ここでまた、拗れたら三蔵と悟空の気持ちはギクシャクしたままだ。
うまく収まりがつかなければ、この前の二の舞を招く。
だが、目の前で悟空を宥める三蔵の姿に、三蔵以外の手を拒んだ悟空の様子に希望を見つけた二人だった。
屋敷の居間で、三蔵は自分が起こした事件、いや、悟空を助けに行った事件の処理結果について、悟浄からの報告を悟空共々、受けた。
「…つうことで、今回はお咎めはなし。過剰防衛だが、悟空がその身に受けた行為と三蔵に加えられた危害を差し引きすればちゃらと言うことになった」
「そうか…」
「俺の働きに感謝しろよ。あ、それと、悟空の戸籍ちゃんと作っておいたからこれでどこからも文句は出ないからな」
「戸籍?」
悟浄の言葉に三蔵が怪訝な顔をした。
「悟空を拾った時、お前ん家に置くことに関しての手続きは、簡単だったんだが、悟空の身元だけは調べてもハッキリしなかったから、そのままだったんだよ。で、今回みたいな事がまたあっても困るし、そいつが自分の子供だと名乗り出てくる奴がこの先いるとも限らないからな、お前のおばさんに協力してもらった」
「何だと?」
「悟空は観世音菩薩の実子。お前とは従兄弟ってことだな」
「悟浄!」
顔色を変える三蔵に、悟浄は人差し指を立てて黙らせる。
悟空は訳が分からないから、小首を傾げて二人のやり取りを見ていた。
「黙って聞けよ。で、お前の死んだオヤジと養子縁組したことになった。つまり、悟空はお前の従兄弟で弟だ」
「おい…」
「これで誰に何て言われようが、傍においとけるぞ。男同士の結婚は認められてないから、これで我慢しな」
悟浄の言葉に頭を抱えてしまった三蔵の肩を「まぁ、ガンバレよ」と叩いて、悟空には「幸せにな」と綺麗な笑顔を残して、悟浄は帰って行った。
悟浄との話に疲れ切った三蔵は、ソファに深く身体を沈めると、目を瞑った。
と、柔らかな感触が腕の中にあることに気が付いて身体を起こせば、悟空が三蔵の横に潜り込むようにしていつの間にか眠っていた。
あの後、悟空はしばらく三蔵以外が触れることを激しく拒んだ。
三蔵以外の人間が近づくことさえ出来ないほどに。
それも時間と共に収まりつつあったが、あの体験は悟空の心に深い傷を残したようだった。
三蔵はそっと大地色の髪を梳いてやりながら、いつになったら年齢に相応しい表情や仕草をするようになるのだろうかと思う。
自分の不器用な愛情で、この頑なな心を解かせてやるのか。
出来うる限りの優しさと、持てるだけの愛情を惜しみなく与えようと思う。
この綺麗で儚い魂の金色の宝石のために。
「…傍にいろよ。そして、いつでも笑っていろ、悟空…」
end
|