ひたひたと廊下を歩く足音。 まるで何かから逃げるように、後ろを振り返り、振り返り、一生懸命走る。
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目的の扉の前まで来ると、悟空はぴたりと立ち止まってそれ以上動かなくなった。 目の前には大切で大好きな人の部屋の扉。 月光に照らされた扉の彫刻が、見たこともない生き物に見える。 悟空は小さく深呼吸して扉に触れると、吐息のような声で愛しい人の名前を呼んだ。 しばらくそうして気が済んだのか、諦めたのか、悟空はまた、暗い廊下を戻っていった。
悟空の気配が消えてすぐ、音もなく扉が開き、夜目に鮮やかな金糸がその姿を見せた。 「……悟空…」 廊下に出て悟空が戻っていった方向を見て、小さく呟いた。 瞬く間に冷えた夜風が三蔵の身体を包む。
最近、始まった悟空の不可解な夜中の行動。 気が付いてから何度か、三蔵は理由を問いただそうと試みた。
悟空の不可解な行動は季節が進むほどに、酷くなった。 秋も深まり、夜半の寒さは真冬のそれと大して変わらないほどになったその頃には、三蔵の部屋の前で眠っている姿を発見されることが多くなった。
「三蔵、いい加減悟空に訊いたらどうなんですか」 珍しく苛ついた声音で八戒が、三蔵に詰め寄る。 「そうそう、お前らしくねえぞ」 窓際に立って煙草をくゆらせながら悟浄も顔を顰めている。 「このままではあの子の身体がどうにかなります。それに、悟空がああ言った行動に出るには、きっと貴方に原因があるのですから」 決めつける八戒の言葉に、三蔵はため息を返す。 「どうしてそう、臆病になるんですか?まだ、悟空が貴方に怯えているとでもいうんですか?」
人買い市の外れで偶然に拾った子供。 その気持ちが悲しくて、生きてきた環境が悔しくて。 何も出来ないからと自分の体をモノのように差し出す子供の心が悲しかった。 この子供が、悟空が笑うのなら何でもしてやりたい、何でも望みを叶えてやりたいと願う自分がいつの間にか居た。 だが、悟空は気持ちをいつまでも許してくれない。 そんなことはない。
「気持ちは、はっきり言葉にしないと伝わらないんですよ、三蔵」 三蔵の考えを掬い取るような八戒の言葉が、思考に沈んでしまった三蔵を現実に引き戻した。 「…知ってる」 「あの小猿ちゃんは、バカじゃない。ちゃんとお前の気持ちは分かってるんだよ。だがな、今までの生活での経験が邪魔をして居るんだろうよ」 悟浄の言葉に三蔵と八戒が、顔を見合わせる。 「貴方にしては珍しくまともな意見…」 ソファに投げていた鞄を掴むと悟浄は、扉へ向かう。 「どこ行くんですか?」 じゃあなと片手を上げて悟浄は、帰って行った。 「僕も帰ります。悟浄の言うことには僕も賛成です。貴方にこそ勇気が必要じゃないかと僕も思います」 にっこり有無を言わさない笑顔を残して、八戒も帰って行った。 「悪徳弁護士に、藪医者…」 そう呟きながら、三蔵は何かを決心したようだった。
ひたひたと廊下を歩く足音が、冷たく暗い廊下に響く。
寒くなれば思い出すあの日のこと。 冷たくなってゆく母の身体に縋って泣いた日。
いつも寒かったのだ。
三蔵に拾われて幸せで忘れていたのに、あの日、何気なく目覚めたあの日、暗くて寒くて、誰も居なかった。 季節が進んで寒さが感じられれば、より鮮明に思い出す。 泣いても許してもらえず、蹂躙された日のことを。
いつも凍えていた。
三蔵の部屋から離れれば、全てを失いそうで、自分の部屋に戻ることが出来なくなった。 だから、怖いのだ。 悟空はそっと、三蔵の私室の扉に手を触れ───扉が、内側から開かれた。
「……!」 息を呑む悟空。 「……ぁあ……」 見上げる三蔵の表情は逆光になって見えない。 「……!!」 そして、そのまま部屋へ戻ると、扉を閉めた。 三蔵は強張った悟空の気持ちをほぐすようにゆっくりと背中を撫でながら、ベットへと座った。
「…悟空…」 呼べば、おどおどした返事が返ってくる。 「…そう怯えるな。俺は何もしない」 三蔵の言葉に悟空は、不思議そうに首を傾げる。 「俺が怖いのか?」 三蔵の言葉に悟空は、その金眼を見開いた。 「違うのか?」 悟空の反応に三蔵は一縷の望みを抱く。 三蔵が怖い訳ではないのだ。 「悟空…では、お前は何故、毎夜俺の部屋へ来る?声を掛けることもせず、ただドアの外で、一人で居る?」 悟空はぎゅっと唇を噛んだ。 「…言いたくないか?」 そっと悟空のまろい頬に伸ばされた三蔵の手に、悟空の身体が緊張する。 「何がそうまでお前を頑なにさせる…」 ゆっくりと頬を撫で、その手を華奢な顎の繊を辿り、細い項へと滑らせて行く。 「…悟空?」 ふわりと悟空の身体が、三蔵の胸に預けられた。 「………いで…」 くぐもって聞こえた声は、紛れもなく悟空の願い。 「悟空?」 微かな嗚咽に混じって聞こえるその言葉に、三蔵は思わずその痩躯を抱きしめた。 「…馬鹿野郎……」 それきり言葉はなく、三蔵の腕の中で悟空は声も立てずに泣いた。
月が中天を越え、西の空に傾き出す頃、悟空はベットに身体を起こした。 眠い目を擦って見渡せば、自分の部屋でないことに気が付く。 「……あ…何で…」 悲鳴を上げそうになって、思い出す。 途端、桜色に染まる悟空の頬。 窓から差し込む月光に空を見上げれば、半月が蒼い光を投げかけていた。 「…ありがと…」 冷たかった月の光が、どことなく温かく感じて悟空は、小さく呟いた。 「悟空…?」 呼ばれた。 「…はい」 返事をして、悟空は三蔵の元へ戻った。 「寝ろ。ほら…」 ベットの端に入った悟空の身体を三蔵は抱き寄せ、その額に唇を寄せると、また寝入ってしまった。
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