ひたひたと廊下を歩く足音。
人気のない廊下を小さな白い影が、走る。

まるで何かから逃げるように、後ろを振り返り、振り返り、一生懸命走る。
その姿を廊下の窓から、蒼い半月が見下ろしていた。



a semicircle
目的の扉の前まで来ると、悟空はぴたりと立ち止まってそれ以上動かなくなった。
目の前には大切で大好きな人の部屋の扉。
月光に照らされた扉の彫刻が、見たこともない生き物に見える。

悟空は小さく深呼吸して扉に触れると、吐息のような声で愛しい人の名前を呼んだ。
部屋の中には決して届かない声。

しばらくそうして気が済んだのか、諦めたのか、悟空はまた、暗い廊下を戻っていった。




悟空の気配が消えてすぐ、音もなく扉が開き、夜目に鮮やかな金糸がその姿を見せた。

「……悟空…」

廊下に出て悟空が戻っていった方向を見て、小さく呟いた。
そして、そのまま廊下の窓へ寄ると、三蔵は窓を開け放った。

瞬く間に冷えた夜風が三蔵の身体を包む。
見上げる空には群雲の間に、蒼く光る半月が物寂しげな姿を見せていた。




最近、始まった悟空の不可解な夜中の行動。
季節が寒さを訴え始めた頃から、見受けられるようになった。

気が付いてから何度か、三蔵は理由を問いただそうと試みた。
だが、いまだに自分を見て一瞬、怯える悟空に行動の理由を問うことは出来なくて。
三蔵は己の不器用さを呪うしかなかった。











悟空の不可解な行動は季節が進むほどに、酷くなった。

秋も深まり、夜半の寒さは真冬のそれと大して変わらないほどになったその頃には、三蔵の部屋の前で眠っている姿を発見されることが多くなった。
だが、三蔵の屋敷に勤める人間も悟空が気を許しているであろう八戒や悟浄でさえ、その原因を訊くに訊けない情けない状態が続いていた。




「三蔵、いい加減悟空に訊いたらどうなんですか」

珍しく苛ついた声音で八戒が、三蔵に詰め寄る。

「そうそう、お前らしくねえぞ」

窓際に立って煙草をくゆらせながら悟浄も顔を顰めている。

「このままではあの子の身体がどうにかなります。それに、悟空がああ言った行動に出るには、きっと貴方に原因があるのですから」
「………おい…」

決めつける八戒の言葉に、三蔵はため息を返す。
その様子に、聡い八戒は大きく首を振った。

「どうしてそう、臆病になるんですか?まだ、悟空が貴方に怯えているとでもいうんですか?」
「ああ、あいつはまだ、俺に怯えている」
「三蔵……」




人買い市の外れで偶然に拾った子供。
年齢の割にはずいぶんと成長が遅くて、過酷な底辺を生きてきた子供。
物心ついてからずっとその身を商品としてきた子供。
虐げられ、卑屈に媚びて、全てに怯えていた。

その気持ちが悲しくて、生きてきた環境が悔しくて。
何よりこの子供の身体を弄んできた見知らぬ人間に、言い知れぬ怒りが湧いた。

何も出来ないからと自分の体をモノのように差し出す子供の心が悲しかった。

この子供が、悟空が笑うのなら何でもしてやりたい、何でも望みを叶えてやりたいと願う自分がいつの間にか居た。
あの澄んだ黄金の瞳を自分だけに向けたいと思うようになった。
側に置いて、離さずに居られたら・・・・・。

だが、悟空は気持ちをいつまでも許してくれない。
気持ちを許せば、一緒に居られないとでも思っているようで。

そんなことはない。
させない。




「気持ちは、はっきり言葉にしないと伝わらないんですよ、三蔵」

三蔵の考えを掬い取るような八戒の言葉が、思考に沈んでしまった三蔵を現実に引き戻した。

「…知ってる」
「知っているのと、行動に移すことは違うって理解していますか?」
「八戒…」

「あの小猿ちゃんは、バカじゃない。ちゃんとお前の気持ちは分かってるんだよ。だがな、今までの生活での経験が邪魔をして居るんだろうよ」
「悟浄?」
「信じれば裏切られるって言う経験がな。幼い心に高くて厚い壁が出来たって不思議じゃねぇ」

悟浄の言葉に三蔵と八戒が、顔を見合わせる。

「貴方にしては珍しくまともな意見…」
「あのなぁ、俺の職業忘れてねぇか?」
「ふん…悪徳弁護士」
「あぁもう…勝手にしな。でもな、ちゃんとしてやらねえと後悔すっからな」

ソファに投げていた鞄を掴むと悟浄は、扉へ向かう。

「どこ行くんですか?」
「仕事。悪徳弁護士は忙しいんだよ」

じゃあなと片手を上げて悟浄は、帰って行った。

「僕も帰ります。悟浄の言うことには僕も賛成です。貴方にこそ勇気が必要じゃないかと僕も思います」

にっこり有無を言わさない笑顔を残して、八戒も帰って行った。

「悪徳弁護士に、藪医者…」

そう呟きながら、三蔵は何かを決心したようだった。
















ひたひたと廊下を歩く足音が、冷たく暗い廊下に響く。
今宵もまた、悟空は三蔵の部屋を訪れた。



寒くなれば思い出すあの日のこと。

冷たくなってゆく母の身体に縋って泣いた日。
怖い手が伸びて、身体が裂けるような痛みに襲われた日。
鞭打たれ、許しを請うて泣いた日。



いつも寒かったのだ。
いつも暗くて、月が半分しかなかった。



三蔵に拾われて幸せで忘れていたのに、あの日、何気なく目覚めたあの日、暗くて寒くて、誰も居なかった。
だから怖くなったのだ。
目覚めれば元の生活に戻っている気がして。
慌てて走って、三蔵の部屋の前まで来て、ようやく安心したのだ。
部屋の扉の冷たさに、その向こうにいる三蔵の気配に。

季節が進んで寒さが感じられれば、より鮮明に思い出す。

泣いても許してもらえず、蹂躙された日のことを。
ボロ布のように疲れた身体で、それでも大人達を迎え入れていた日のことを。
懐いた小鳥を邪魔だと殺された日のことを。



いつも凍えていた。
いつも冷たくて、月は半分しかなかった。



三蔵の部屋から離れれば、全てを失いそうで、自分の部屋に戻ることが出来なくなった。
もの言いたげに見つめてくれる紫暗の眼差しが嬉しくて。
優しくしてくれる人のぬくもりが、幸せで。

だから、怖いのだ。
失うのが。

悟空はそっと、三蔵の私室の扉に手を触れ───扉が、内側から開かれた。




「……!」

息を呑む悟空。
開かれた扉の向こうには、三蔵が立っていた。

「……ぁあ……」

見上げる三蔵の表情は逆光になって見えない。
悟空は竦み上がる身体を引きずるように後じさった。
と、三蔵が両手を伸ばし、悟空を抱き上げた。

「……!!」

そして、そのまま部屋へ戻ると、扉を閉めた。
悟空は自分の置かれた状況が理解できず、ただ、その円らを見開いて固まっている。
そんな悟空の様子に、三蔵はいまだに受け入れて貰っていない事実を突きつけられる。
だが、いつまでも逃げていては先へは進めないのだから。
今回のことで少しでもその心に近づけたならそれだけで。

三蔵は強張った悟空の気持ちをほぐすようにゆっくりと背中を撫でながら、ベットへと座った。




「…悟空…」
「は、はい…」

呼べば、おどおどした返事が返ってくる。
三蔵はその返事に、小さくため息を吐いた。
途端、悟空の身体が震える。

「…そう怯えるな。俺は何もしない」
「…さ…んぞ?」

三蔵の言葉に悟空は、不思議そうに首を傾げる。

「俺が怖いのか?」
「…怖い?」
「ああ…。お前はいつも俺のことを怖がっているからな」

三蔵の言葉に悟空は、その金眼を見開いた。
自分が三蔵を怖がっている?
想像もしない言葉に、悟空は思わず三蔵の紫暗を見返していた。

「違うのか?」

悟空の反応に三蔵は一縷の望みを抱く。

三蔵が怖い訳ではないのだ。
その綺麗さに気後れし、そのぬくもりを失うのが怖いのだ。
そう思っても言葉は、出てこない。
ただ、その瞳を見開いて、首を振るしか無くて。

「悟空…では、お前は何故、毎夜俺の部屋へ来る?声を掛けることもせず、ただドアの外で、一人で居る?」

悟空はぎゅっと唇を噛んだ。
握り締めた拳が、小刻みに震えている。

「…言いたくないか?」

そっと悟空のまろい頬に伸ばされた三蔵の手に、悟空の身体が緊張する。
いつもはその反応に手を引っ込めていた三蔵だったが、今夜はそのまま悟空の頬に触れた。

「何がそうまでお前を頑なにさせる…」

ゆっくりと頬を撫で、その手を華奢な顎の繊を辿り、細い項へと滑らせて行く。
それに連れて、悟空の身体の強張りが解けてゆくのが、回した背中の手のひらから三蔵に伝わる。

「…悟空?」

ふわりと悟空の身体が、三蔵の胸に預けられた。
握り締められていた手が、三蔵の夜着を掴む。

「………いで…」

くぐもって聞こえた声は、紛れもなく悟空の願い。
悟空の想い。

「悟空?」
「…捨てない…で…居なくならないで……傍に…居させて……」

微かな嗚咽に混じって聞こえるその言葉に、三蔵は思わずその痩躯を抱きしめた。

「…馬鹿野郎……」
「……さんぞ…」

それきり言葉はなく、三蔵の腕の中で悟空は声も立てずに泣いた。











月が中天を越え、西の空に傾き出す頃、悟空はベットに身体を起こした。

眠い目を擦って見渡せば、自分の部屋でないことに気が付く。
そして、傍らに眠る人の気配に目をやれば、そこには三蔵が眠っていた。

「……あ…何で…」

悲鳴を上げそうになって、思い出す。
眠る前に何があったか。

途端、桜色に染まる悟空の頬。
居たたまれずにベットから滑り出て、悟空は窓際へ走った。
そして小さく息を吐く。

窓から差し込む月光に空を見上げれば、半月が蒼い光を投げかけていた。

「…ありがと…」

冷たかった月の光が、どことなく温かく感じて悟空は、小さく呟いた。
と、ベットに三蔵が身体を起こす気配がした。
そして、

「悟空…?」

呼ばれた。
柔らかな声で。
傍にいても良いよと囁く声で。

「…はい」

返事をして、悟空は三蔵の元へ戻った。

「寝ろ。ほら…」

ベットの端に入った悟空の身体を三蔵は抱き寄せ、その額に唇を寄せると、また寝入ってしまった。
悟空もその唇に、初めて柔らかな微笑みを浮かべて眠りについたのだった。




end

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