夜 香 |
冴え冴えと辺りを照らす月の光に浮かび上がるように白い大輪の菊が溢れるように咲いていた。 辺りに漂う濃厚な花の香りが秋の夜を彩っている。 白い夜着のまま、悟空は眠れぬ夜の淋しさを紛らすように、寝所の庭先にいた。 そして、まるで今、ここにいない彼の人を思い出させるような姿で咲く真っ白な菊に悟空はそっと触れた。 「綺麗に咲いたね」 そう呟いて、悟空は夜露に濡れる白い花達に笑いかけた。
三蔵は月の初めから遠くへ出掛けている。 出発の日の朝、白い三蔵法師の法衣と金色の七条袈裟を纏い、金冠を頂いた三蔵が、紫暗を僅かに翳らせて見送りに起きてきた悟空を見つめた。 往復と滞在期間を含めてひと月。 悟空を拾ってからしばらくは、三蔵と離れることを怖がった悟空のために、遠出の仕事は極力断った。 だが、これ程長い間、互いの傍を離れるのは三蔵も悟空も初めてだった。 一度は、行列に悟空を紛れ込ませて連れて行くことも考えた。 気持ちに踏ん切りが付かないまま、出発の朝を迎えてしまった。 「いいか、大人しくしてろよ」 俯いた顔は未だに上がらない。 「何でも笙玄に言え」 頷く大地色の頭が揺れる。 「悟空」 名前を呼ばれてようやく上がった顔に浮かんだ仄かな笑顔に、三蔵の胸は痛んだ。 「そうか…」 三蔵は悟空の言葉に微かに頬笑んで、大地色の頭に触れた。 「行ってくる」 寝所の戸口で小さく手を振って、悟空は三蔵を見送った。
それがもう半月も前になる。 「あと半月…だって」 白い菊の花達にまた、笑いかけ、悟空は晴れ渡った夜空を見上げた。 「三蔵…俺、元気だからな」 そう言って、今度は花が綻ぶように笑った。
今日一日の全ての行事が終わって、三蔵は日付が変わる時間になって解放された。 濡れた髪を拭きながら、今日初めての煙草に火を点ける。 タオルを寝台に放り投げ、三蔵は窓を開け広げた。 そして、目を庭に向ければ、冴え冴えとした月光が辺りを青く染めていた。 「……?!」 ふと、呼ばれた気がして三蔵は辺りを見回し、やがて何を思ったのか、裸足のまま部屋に面した庭に下りた。 「……菊か」 その白い花に誘われるように三蔵は花に近づく。 大輪の花。 重たそうにたくさんの花弁を厚く、丸く形作り、夜露に濡れて咲いていた。 「泣いてねぇだろうな、サルは…」 誰にともなく呟けば、”大丈夫”と応えが聴こえた。 「……そうか…笑ってればいい…」 と、柔らかな笑みを浮かべた。 三蔵の養い子は大地が産み落とした子供だ。 そして、時折、本当に、ごくごく稀に、こうして大地からの聲が聴こえることも、三蔵を納得させることの一つだった。 大地と自然は、悟空をその手に取り戻したいと願っている。 基本的に大地と自然は悟空に甘い。 「もうすぐ帰ると、気が向けば伝えてくれ…」 つんと、菊の花に触れて、そう三蔵は花に話しかけると、踵を返した。
冴えた月光に菊の甘い薫りが匂い立つ。 と、悟空の躯が、ひくりと、震えた。 そして、驚いたように辺りを見回し、月を見上げ、やがて白い菊の花に視線を落とした。 「お前…なの?」 掠れるような声で問えば、花弁が誇らしげに揺れた。 「………うん…待ってる…待てるよ、三蔵…」 何度も頷いて、悟空ははらりと透明な雫をこぼしたのだった。
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