甘い薫り

夕方、小猿が山から駆け下りてくる。

今日も一日、楽しんだ。
今日も一日、たくさん遊んだ。

身体のあちこちに山の名残を纏って、小猿は家に帰る。
家と言うには少々広く、居心地は良くない。
それでも、小猿の帰る場所はそこだから。
そこには太陽が待っている。

金色の不機嫌な太陽。

誰よりも大好きで、何よりも大切な人。

早く顔が見たくて、自然と帰る足取りは速くなった。




今日はたくさんの友達が出来た。

山の動物達。
花や草や木々達。
風に、光に、川の水。
そして、青い空と輝く太陽。
みんな友達。
みんな大好き。






幼く丸い頬を桜色に染めて、もうすぐ小猿が帰って来る。

何がそんなに楽しいのか。
何がそんなに嬉しいのか。

毎日、飽きもせず。
毎日、懲りもせず。

大地の思いを体中に纏って、夕暮れに帰ってくる。

ここに帰って来ても、辛いことの方が多いだろうに。

少年は、山積みの書類の間から抜け出した。

あかね色に染まる空。
小猿のように閃く黄金の色。

窓辺に寄りかかり、庭先を見れば、甘い香りが仄かに匂う。
元を探せば、濃い緑に純白の花。
見つけた紫暗をほころばせ、少年は部屋を後にした。











茂みから飛び出した悟空を迎えたのは、甘い香り。
立ち止まって見渡せば、辺り一面クチナシの白い花で埋め尽くされていた。

「イイ匂い…うまそぉ」

誘われるように花に鼻を近づけて、胸一杯に吸い込む。
全身に広がる甘やかな香りに、悟空はうっとりする。
と、純白の白い花の色に、いつも三蔵が着ている僧衣の色を重ねて、思い出す。

「三蔵とおんなじだ」

幸せそうな微笑みを浮かべる。
そして、この花を三蔵にも見せたいと、思った。

「折っていい?」

誰に訊いているのか、小首を傾げて問えば、クチナシの花達がざわざわと揺れ、濃厚な甘い香りに辺りは染まる。

「ありがとう」

嬉しそうに顔をほころばせ、悟空はクチナシの枝に手を掛けた。

「うん、じゃあ、遠慮なくたくさんもらうね」

誰と会話しているのか、悟空はちょっと戸惑った表情を浮かべたが、すぐに笑顔を浮かべ、クチナシの枝を手折り始めた。
甘いむせかえるような香りを両手一杯に抱え、悟空はまた帰る道を辿った。








庭先で花を摘む三蔵の姿を見かけた僧侶達は、その美しさに見惚れた。
白い僧衣に金糸の髪が煌めき、いつも冷たい光を宿している紫暗の宝石は穏やかで、夕暮れの翳りに佇むその姿は、この世のどんな風景よりも幻想的で美しかった。
皆の視線に気付くことなく、片手で握れるほどに花を摘むと、三蔵は寝所へと戻って行った。

あの花は、誰のために摘んだのだろう。
御仏の為だろうか。
それともあの養い子の為だろうか。

知りたいと、その姿を見た者は思った。








悟空は山道を抜け出た所で、一人の少年に出逢った。
その少年は、道の端の並木の側に踞るようにして座り込んでいた。
その姿が酷く悲しそうで、悟空は声を掛けた。
訳を聞けば、今日は大事な人のとても大切な日なのに、自分は何もしてあげることも、何も贈ることも出来ないと言う。
悟空に少年の話す内容はよく理解できなかったが、大事な人に何かしてあげたいと言う気持ちは、痛いほどよくわかった。
そして悟空は、両手一杯に摘んだクチナシの花を差し出した。

「これ、あげる」
「えっ…?!」

目の前に差し出された白い花束に少年は戸惑った。

「持って帰りなよ。これ、イイ匂いがして、気持ちが幸せになれるからさ」
「でも…」
「イイって」

悟空は戸惑う少年の手にクチナシの花束を押しつけるように渡すと、

「大事な人、喜んでくれるといいな」

そう言って、笑った。
少年はその笑顔につられるようにぎこちない笑顔を浮かべた。
今にも泣きそうな、そんな笑顔。
そして、

「ありがとう」

小さな声で礼を言い、悟空に向かって深く頭を下げた。
その仕草に悟空は、金色の瞳を見開いたが、驚きの表情は何とも言えない幸せそうな笑顔にすぐに取って代わった。

「じゃぁな」

軽く手を振ると、悟空は駆けだした。
夕暮れの太陽は、山の向こうに半分、その身を沈めていたから。
少年は、駆け去る悟空の姿が、寺院の山門の向こうに消えるまで、見送っていた。








「ただいま、さんぞ」

寝所の扉を勢いよく開けて、悟空が飛び込んできた。
すかさず、三蔵のハリセンが、小気味の良い音を部屋一杯に響かせる。

「喧しい!静かに入って来いと、何遍言ったらわかるんだてめぇは」
「痛ってぇ〜」

頭を抑えて踞る悟空を見下ろして、三蔵は鼻で笑う。
そんな二人に笑いをこらえながら、笙玄が声を掛けた。

「もうすぐ夕食の支度が整いますから、顔と手を綺麗にしてきて下さいね」
「おお」

悟空は頷くと、洗面所に駆けて行った。
三蔵の前を悟空が横切ったその後には、庭で見つけたクチナシの花の香りが残った。
その薫りに、三蔵はふっと、瞳を和らげるのだった。




夜、寝室に入った悟空は、部屋があの甘い匂いに包まれていることに驚いて、三蔵を大声で呼んだ。
その声に三蔵は煩そうに顔をしかめて、寝室に姿を見せた。

「何だ、一体?」

不機嫌に問いかける三蔵に、悟空は飛びつかんばかりの勢いで問いかけてきた。

「なあ、この甘い、うまそうな匂い、俺、三蔵どうしたんだよ?」

興奮しすぎて、訳のわからない悟空の問いかけに、三蔵は大げさにため息を吐く。

「落ち着いて話せ、サル」
「サルじゃねぇもん」
「なら、人語を話せ」
「う〜っ」

口を尖らせて、拗ねたように三蔵を見上げるそのあまりに幼い姿に、三蔵は一瞬、目眩を覚える。
それは、ちょっとした気持ちの揺らぎ。
ため息を零すことで、やり過ごす。

「で?」

話を促してやれば、悟空は三蔵の夜着を掴む。

「この…甘いイイ匂いが、何でここでするんだ?」
「匂い?!」

言われて改めて嗅げば、甘い香りが寝室に溢れていた。
薫りの元を見れば、夕方三蔵が気まぐれに摘んだクチナシの花が、寝台のサイドテーブルに置かれていた。

「机にクチナシが生けてあるからだろうが」

顎をしゃくって花瓶を示してやれば、悟空は三蔵の示す先に目をやる。
そこには、薄緑の小降りの花瓶に山で見たあの白い花が生けられていた。

「何で、ここにあるんだ?あの花、あいつに全部あげたのに…」

腑に落ちないと首を傾げる悟空の呟きに、三蔵は怪訝な顔をした。

「何だ?」

問いかければ、悟空は寺院の山門の近くで出逢った少年のことを三蔵に話して聴かせた。
それで、悟空の身体からクチナシの甘い香りがしたのかと、三蔵は納得する。

「なあ、さんぞぉ」

夜着を掴んで、答えを聞き出そうとする悟空の様子が、だだっ子のようで三蔵は口元をほころばす。
その微かな笑いに悟空は、答えを三蔵がごまかすと思ったのか、ぷっと頬を膨らませて三蔵に迫る。

「なあってば、さんぞ、さんぞってばぁ」

まさか、自分が気まぐれに───いや、悟空が喜びそうだと───摘んだ花だとは、口が裂けても言えない三蔵は、

「笙玄が、置いといたんだろ」

と、ウソを吐いた。
その答えに悟空はまだ、納得していない顔を三蔵に向けている。

「庭に咲いてるんだよ」

出所を言えば、悟空はきょとんとした顔をしたかと思うと、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、三蔵は墓穴を掘ったことに気が付く。

「な、何笑ってやがる」

睨みつけても時既に遅く、悟空は三蔵の腰に抱きつく。

「てめぇ、離せ」

焦って悟空の身体を引き離そうとすればするほど、墓穴を深く掘って行くことに気が付かない。
そんな三蔵の優しさに悟空は、幸せな笑顔を向けた。
その笑顔に三蔵は動きを止める。
悟空のこれ以上はないという幸せな笑顔から目が離せなくなる。
先程感じた気持ちの揺らぎが、大きくなって戻ってくる。
だが、その揺らぎをまだ認めたくない気持ちそのままに、三蔵は天井を仰ぐ。
腰に抱きついた悟空に気付かれないように深呼吸すると、その大地色の頭をくしゃっと掻き混ぜた。
そして、

「…寝るぞ」
「うん」

ようやく絞り出した言葉に、悟空は頷くと、もう一度三蔵に抱きつく腕に思いを込めて力を入れ、離れた。
そして、三蔵の顔を見上げて

「さんぞ、大好き」

と、照れた笑顔を向けると、自分の寝台に入った。
それを見届けて、三蔵は常夜灯を付け、部屋の明かりを消すと、自分も寝台に横になった。

「おやすみ、さんぞ」
「ああ」

眠る前の挨拶をする悟空に答えてやると、程なくして寝息が聞こえてきた。
三蔵は、半身を起こして、枕元のクチナシの花を見つめた。

純白の白い花は、悟空の真っ白な心のようで、甘い香りはその存在そのもので。
小うるさい、手の掛かる小猿が、今はこんなにも愛しい。
気持ちの揺らぎは、まだ、小猿には早いだろう。
認めたくない気持ちのその先を三蔵は思う。
小猿は、いつ気付くのだろうと。

甘い薫りに包まれて眠る幼い寝顔に、三蔵は声にならない思いを告げる。

それは、甘い香りに包まれて、朧な闇に消えた。




もうすぐ雨の季節がやってくる。




end

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