甘い薫り |
夕方、小猿が山から駆け下りてくる。 今日も一日、楽しんだ。 身体のあちこちに山の名残を纏って、小猿は家に帰る。 金色の不機嫌な太陽。 誰よりも大好きで、何よりも大切な人。 早く顔が見たくて、自然と帰る足取りは速くなった。
今日はたくさんの友達が出来た。 山の動物達。
幼く丸い頬を桜色に染めて、もうすぐ小猿が帰って来る。 何がそんなに楽しいのか。 毎日、飽きもせず。 大地の思いを体中に纏って、夕暮れに帰ってくる。 ここに帰って来ても、辛いことの方が多いだろうに。 少年は、山積みの書類の間から抜け出した。 あかね色に染まる空。 窓辺に寄りかかり、庭先を見れば、甘い香りが仄かに匂う。
茂みから飛び出した悟空を迎えたのは、甘い香り。 「イイ匂い…うまそぉ」 誘われるように花に鼻を近づけて、胸一杯に吸い込む。 「三蔵とおんなじだ」 幸せそうな微笑みを浮かべる。 「折っていい?」 誰に訊いているのか、小首を傾げて問えば、クチナシの花達がざわざわと揺れ、濃厚な甘い香りに辺りは染まる。 「ありがとう」 嬉しそうに顔をほころばせ、悟空はクチナシの枝に手を掛けた。 「うん、じゃあ、遠慮なくたくさんもらうね」 誰と会話しているのか、悟空はちょっと戸惑った表情を浮かべたが、すぐに笑顔を浮かべ、クチナシの枝を手折り始めた。
庭先で花を摘む三蔵の姿を見かけた僧侶達は、その美しさに見惚れた。 あの花は、誰のために摘んだのだろう。 知りたいと、その姿を見た者は思った。
悟空は山道を抜け出た所で、一人の少年に出逢った。 「これ、あげる」 目の前に差し出された白い花束に少年は戸惑った。 「持って帰りなよ。これ、イイ匂いがして、気持ちが幸せになれるからさ」 悟空は戸惑う少年の手にクチナシの花束を押しつけるように渡すと、 「大事な人、喜んでくれるといいな」 そう言って、笑った。 「ありがとう」 小さな声で礼を言い、悟空に向かって深く頭を下げた。 「じゃぁな」 軽く手を振ると、悟空は駆けだした。
「ただいま、さんぞ」 寝所の扉を勢いよく開けて、悟空が飛び込んできた。 「喧しい!静かに入って来いと、何遍言ったらわかるんだてめぇは」 頭を抑えて踞る悟空を見下ろして、三蔵は鼻で笑う。 「もうすぐ夕食の支度が整いますから、顔と手を綺麗にしてきて下さいね」 悟空は頷くと、洗面所に駆けて行った。
夜、寝室に入った悟空は、部屋があの甘い匂いに包まれていることに驚いて、三蔵を大声で呼んだ。 「何だ、一体?」 不機嫌に問いかける三蔵に、悟空は飛びつかんばかりの勢いで問いかけてきた。 「なあ、この甘い、うまそうな匂い、俺、三蔵どうしたんだよ?」 興奮しすぎて、訳のわからない悟空の問いかけに、三蔵は大げさにため息を吐く。 「落ち着いて話せ、サル」 口を尖らせて、拗ねたように三蔵を見上げるそのあまりに幼い姿に、三蔵は一瞬、目眩を覚える。 「で?」 話を促してやれば、悟空は三蔵の夜着を掴む。 「この…甘いイイ匂いが、何でここでするんだ?」 言われて改めて嗅げば、甘い香りが寝室に溢れていた。 「机にクチナシが生けてあるからだろうが」 顎をしゃくって花瓶を示してやれば、悟空は三蔵の示す先に目をやる。 「何で、ここにあるんだ?あの花、あいつに全部あげたのに…」 腑に落ちないと首を傾げる悟空の呟きに、三蔵は怪訝な顔をした。 「何だ?」 問いかければ、悟空は寺院の山門の近くで出逢った少年のことを三蔵に話して聴かせた。 「なあ、さんぞぉ」 夜着を掴んで、答えを聞き出そうとする悟空の様子が、だだっ子のようで三蔵は口元をほころばす。 「なあってば、さんぞ、さんぞってばぁ」 まさか、自分が気まぐれに───いや、悟空が喜びそうだと───摘んだ花だとは、口が裂けても言えない三蔵は、 「笙玄が、置いといたんだろ」 と、ウソを吐いた。 「庭に咲いてるんだよ」 出所を言えば、悟空はきょとんとした顔をしたかと思うと、嬉しそうに笑った。 「な、何笑ってやがる」 睨みつけても時既に遅く、悟空は三蔵の腰に抱きつく。 「てめぇ、離せ」 焦って悟空の身体を引き離そうとすればするほど、墓穴を深く掘って行くことに気が付かない。 「…寝るぞ」 ようやく絞り出した言葉に、悟空は頷くと、もう一度三蔵に抱きつく腕に思いを込めて力を入れ、離れた。 「さんぞ、大好き」 と、照れた笑顔を向けると、自分の寝台に入った。 「おやすみ、さんぞ」 眠る前の挨拶をする悟空に答えてやると、程なくして寝息が聞こえてきた。 純白の白い花は、悟空の真っ白な心のようで、甘い香りはその存在そのもので。 甘い薫りに包まれて眠る幼い寝顔に、三蔵は声にならない思いを告げる。 それは、甘い香りに包まれて、朧な闇に消えた。
もうすぐ雨の季節がやってくる。
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