Arbor |
誰も踏み込むことのない庭が、その屋敷の奥にはあった。
そこに、子供が眠っていた。
柔らかな大地色の髪を風に揺らして、細い柱にもたれて眠っている。 と、東屋のすぐ側の茂みが揺れ、黒髪の男が姿を見せた。 それも一瞬。
この子は…
気持ちよさそうに眠っている子供は、あの蓮池で見た子供。
どうして、ここにいる?
疑問が湧いてくる。 この屋敷は、天帝の住まう宮殿の中でも最も端に位置する。 この屋敷の裏には黄色い花の咲く広野がある。 そこで、この子供に会った。 それが、この子供。
体どこからここまで入ってきたのか。
男は、呆れたようなため息を吐くと子供の側に膝をついた。 「こんな所で寝ていると風邪を引くぞ」 呟きながら、そっと、額に懸かる髪に触れる。 「…んっ…」 その手に小さく身じろぐ。 「おっ…!」 慌てて抱き留める。
これから、俺はどうすれば…いいんだ?!
抱き留めた幼い身体は、柔らかく細い。
こんな子供に何を…
うろたえる自分に焦りを覚える。 何をと思う後から沸き上がる思いに男は左右色の違う切れ長の瞳を眇めた。
黄色い花の広野で出会った子供。 大地の愛し子。 長い、永い孤独を抱える心に光をくれた子供。 同じ金の瞳。 だが、この子供に暗さは欠片もない。 物静かだが、物騒な翡翠の瞳の男が、酒好きのひょうひょうとしたやんちゃ坊主のような男が、そして誰よりも子供が欲して止まない金色の不機嫌なあいつが溺愛する子供。 自分が願えば、この子供は側に居てくれるだろうか。 子供の安心しきった寝顔を見つめながら、独占欲に染まってゆく己の思考に苦笑を漏らす。 「…こ…んぜ…ん」 触れた唇から紡がれた言葉は、あいつの名前。 それは、幸せそうに頬笑んで。 その姿を見つめる男の瞳が、一瞬、凶暴な色に染まる。 子供の細い首に手をかけて、縊り殺してしまいそうな衝動が湧き起こる。 「…んっ、こんぜ…ごめんなさい…」 その手が止まった。
お前は、あいつに怒られたのか?
子供の寝言に感情がたやすく揺さぶられる。
俺の側に居れば、そんな思いはさせないものを・・・
男は身を屈めて、子供の上に覆い被さった。
触れた唇は甘く、柔らかかった。 「……んっ…ふぁ…」 子供の口から甘い吐息が零れ始めた。 息苦しさから解放された子供は、何度か嫌々をするように頭を振ると、ゆっくりとその瞳を開いた。 熱に浮かされたような潤んだ瞳が現れる。 「あ…れ…?!」 まだ目が覚めていないのか、男の膝に身体を預けたまま、見下ろす男の顔を見るともなしに見返している。 「ようやくお目覚めか?」 笑いを含んだ男の声に頷いて初めて、自分の状態に気が付いた。 「あ、あれ…あ…ごめん」 ぺたんと男の横に向き合うように座って、訳が分からないまま、取りあえず子供は目の前の膝枕をしていてくれた男に謝る。 「かまわん」 男の言葉に、子供は少し笑った。 「坊ず、お前どこからここに入ってきた?」 怒られるかと子供が恐る恐る告げた内容に軽く頷くだけで、男は怒らない。 「ここきれーだな」 きらきらと好奇心に彩られた瞳を庭に向けて言う。 「気に入ったか?」 庭に向けていた視線を男の方に向けると、嬉しそうに笑った。 「サンキュウな」 花が開くように笑うその姿に思わず男は手を伸ばし、子供をその腕に抱き込んだ。 「えっ?!」 突然の男の行動に子供は驚いたが、抱き込まれた男の腕を酷く優しく感じて、身体の力を抜いた。 「すまない」 謝る男の顔を見上げて、子供は男の頬に手を伸ばした。 「俺、また来るよ。来ても良い?」 子供の触れたところからゆっくりと身体に忘れていたぬくもりが広がってゆく。 「…あ…お、俺…」 男の口づけに子供は頬に朱を上らせて、困ったような顔で男を見返す。 「帰らなくて良いのか?日が暮れるぞ」 男の言葉に子供も空を見上げる。 「うん、また…来るよ」 そう呟くように言うと立ち上がった。
男は、柱にもたれて暮れなずむ空を見上げた。 手に残る子供のぬくもり。 「また、来るよ」 そう言い残して、子供は名残惜しげに帰っていった。 今夜は、ゆっくりと眠れそうだと、男は笑った。
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