Arbor




誰も踏み込むことのない庭が、その屋敷の奥にはあった。
名も知らぬ花が咲き乱れ、木々が茂り、下草は柔らかく土を覆っている。
庭に鳥達は集い、虫たちは戯れる。
その庭の中程に、小さな東屋があった。
細い円柱の柱四本に支えられた小さな丸い屋根だけの小さな東屋。



そこに、子供が眠っていた。



柔らかな大地色の髪を風に揺らして、細い柱にもたれて眠っている。
長い毛先が、子供の丸い肩先から華奢な腕に纏い付くように流れ落ち、健やかに伸びた足を投げ出して、気持ちよさそうに眠っていた。

と、東屋のすぐ側の茂みが揺れ、黒髪の男が姿を見せた。
そして、東屋に眠る子供の姿に、ぎょっとする。

それも一瞬。
男は、眠っている子供の側に静かに近づいた。



この子は…



気持ちよさそうに眠っている子供は、あの蓮池で見た子供。
大きな金の瞳の太陽のような子供。
手足の枷が不似合いで、頭の金鈷が王冠のように見える。



どうして、ここにいる?



疑問が湧いてくる。

この屋敷は、天帝の住まう宮殿の中でも最も端に位置する。
訪れる者さえ居ないうち捨てられたような場所。
そして、牢から解放された自分に与えられた住まい。

この屋敷の裏には黄色い花の咲く広野がある。
愛しい人との逢瀬を楽しんだ場所。

そこで、この子供に会った。
出会ったと言うにはあまりにも情けない出会い。
それでも、抜け殻のようだったこの心に光が灯った。

それが、この子供。



体どこからここまで入ってきたのか。



男は、呆れたようなため息を吐くと子供の側に膝をついた。

「こんな所で寝ていると風邪を引くぞ」

呟きながら、そっと、額に懸かる髪に触れる。

「…んっ…」

その手に小さく身じろぐ。
その拍子に柱にもたれていた子供の身体が、柱からずり落ちた。

「おっ…!」

慌てて抱き留める。
そのまま、男は身動きできなくなった。



これから、俺はどうすれば…いいんだ?!



抱き留めた幼い身体は、柔らかく細い。
日溜まりの匂いのする髪が、抱き留めた手や腕に触れる。
無防備に晒される首筋や丸い肩の意外な白さに、ドキリと、心臓が撥ねた。



こんな子供に何を…



うろたえる自分に焦りを覚える。

何をと思う後から沸き上がる思いに男は左右色の違う切れ長の瞳を眇めた。
認めるわけにはまだいかない思い。
その今にも溢れ出しそうな思いを無理に押さえつけると、男は子供を起こさぬようにそっと、己の身体を柱と子供の間に入れ、子供を膝に抱き込むようにして座った。




黄色い花の広野で出会った子供。
蓮池で見かけた子供。

大地の愛し子。

長い、永い孤独を抱える心に光をくれた子供。

同じ金の瞳。
同じ異端の証。

だが、この子供に暗さは欠片もない。
太陽のごとき明るさと、大輪の花ような無邪気な笑顔。

物静かだが、物騒な翡翠の瞳の男が、酒好きのひょうひょうとしたやんちゃ坊主のような男が、そして誰よりも子供が欲して止まない金色の不機嫌なあいつが溺愛する子供。

自分が願えば、この子供は側に居てくれるだろうか。
あいつらから奪って、ここに閉じこめてしまおうか。

子供の安心しきった寝顔を見つめながら、独占欲に染まってゆく己の思考に苦笑を漏らす。
そして、思いのままにその丸い子供らしい頬に指を滑らせ、微かに開いた桜色の唇に触れた。

「…こ…んぜ…ん」

触れた唇から紡がれた言葉は、あいつの名前。
呟いた子供は、頬に触れる男の手に温かさを求めるようにすり寄って、膝に踞る。

それは、幸せそうに頬笑んで。

その姿を見つめる男の瞳が、一瞬、凶暴な色に染まる。

子供の細い首に手をかけて、縊り殺してしまいそうな衝動が湧き起こる。
その衝動のままに男の手が、子供の首にかかる。

「…んっ、こんぜ…ごめんなさい…」

その手が止まった。
子供の目尻に小さな光を見つけて。



お前は、あいつに怒られたのか?



子供の寝言に感情がたやすく揺さぶられる。
それほど、この子供が欲しいのだろうか。



俺の側に居れば、そんな思いはさせないものを・・・



男は身を屈めて、子供の上に覆い被さった。




触れた唇は甘く、柔らかかった。
そっと舌を差し入れる。
ゆっくりと歯列をなぞり、無意識に開いた歯列を割り、口腔をなぞり上げる。

「……んっ…ふぁ…」

子供の口から甘い吐息が零れ始めた。
息苦しさで子供の目が覚めるぎりぎりまで男は口づけ、名残惜しげに唇をそっと離した。

息苦しさから解放された子供は、何度か嫌々をするように頭を振ると、ゆっくりとその瞳を開いた。

熱に浮かされたような潤んだ瞳が現れる。
ぼうっと、焦点の定まらない瞳を何度か瞬き、自分の顔を見下ろしている男に気が付いた。

「あ…れ…?!」

まだ目が覚めていないのか、男の膝に身体を預けたまま、見下ろす男の顔を見るともなしに見返している。

「ようやくお目覚めか?」

笑いを含んだ男の声に頷いて初めて、自分の状態に気が付いた。
慌てて、身体を起こす。

「あ、あれ…あ…ごめん」

ぺたんと男の横に向き合うように座って、訳が分からないまま、取りあえず子供は目の前の膝枕をしていてくれた男に謝る。

「かまわん」

男の言葉に、子供は少し笑った。

「坊ず、お前どこからここに入ってきた?」
「ど、何処って、そこの茂みの奥の垣根から。おっきな穴が開いてたから・・・」
「そうか」

怒られるかと子供が恐る恐る告げた内容に軽く頷くだけで、男は怒らない。
それに気をよくしたのか、子供が言った。

「ここきれーだな」
「そうか?」
「うん。気持ちがいい」

きらきらと好奇心に彩られた瞳を庭に向けて言う。

「気に入ったか?」
「うん!」
「そうか、なら、いつでも来たらいい。俺は、かまわん」
「本当か?」
「ああ」
「やりーっ!」

庭に向けていた視線を男の方に向けると、嬉しそうに笑った。
そのあまりに嬉しそうな笑顔に、つられて男の顔もほころぶ。

「サンキュウな」

花が開くように笑うその姿に思わず男は手を伸ばし、子供をその腕に抱き込んだ。

「えっ?!」

突然の男の行動に子供は驚いたが、抱き込まれた男の腕を酷く優しく感じて、身体の力を抜いた。
腕の中の子供の身体からこわばった力が抜けたのを知った男は、そっと子供を腕から離した。

「すまない」

謝る男の顔を見上げて、子供は男の頬に手を伸ばした。
微かに男肩が震える。
触れた子供の手に伝わるのは、男の寂しさ。

「俺、また来るよ。来ても良い?」
「ああ、お前の好きにするがいい」

子供の触れたところからゆっくりと身体に忘れていたぬくもりが広がってゆく。
男は、自分に触れる子供の手をそっとはずすと、その手に口づけを落とした。

「…あ…お、俺…」

男の口づけに子供は頬に朱を上らせて、困ったような顔で男を見返す。
男は子供の手を離し、その視線を空に向けた。
見上げた空は、うっすらと茜色に染まりだしている。

「帰らなくて良いのか?日が暮れるぞ」

男の言葉に子供も空を見上げる。

「うん、また…来るよ」

そう呟くように言うと立ち上がった。
男を振り返る子供の胸に、この目の前の人間を一人にしたくないという気持ちが湧く。
しかし、時間は子供の帰宅を促す。
名残惜しげに子供は、東屋に座ったままの男を振り返り振り返り、また来ると、何度も繰り返して、帰って行った。




男は、柱にもたれて暮れなずむ空を見上げた。

手に残る子供のぬくもり。
耳に残る子供の声。
目に残る子供の笑顔。

「また、来るよ」

そう言い残して、子供は名残惜しげに帰っていった。
その後ろ姿を、眠っていた寝顔を、黙って触れた唇の感触を・・・・

今夜は、ゆっくりと眠れそうだと、男は笑った。




end

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