櫻 ─邂 逅─ |
父に連れられて来た大きな屋敷。 大事な取引先だと言われ、紹介された主は生理的に受けない人間だと感じた。 けれど、そんなことは欠片も見せず、笑顔を浮かべて父と相手が交わす会話を聞いていたが、その二人の話のあまりの退屈さに、我慢できずに逃げ出した。 手入れの行き届いた、けれど安らぎなど余り感じない庭。 手入れが行き届いているけれど、それを感じさせないように適度に荒らされたそこは、自然の林に似ていた。 そうして、辿り着いた庭の奥。 その姿は、誰かを待っている風にも、桜を眺めている風にも見えたが、悟空の目には何故か、桜の雨に打たれて泣いているように見えた。 風に揺れる金糸、桜を見上げる紫暗の瞳は憂いを帯びて、薄く紅を掃いたような唇が何かを耐えるように固く結ばれていた。
どれほどそうして見惚れていたのだろう、不意にかけられた声に悟空は、飛び上がる程驚いた。 「あっ…えっと…あの…」 間近で見る青年の圧倒的な美貌に悟空はどうして良いかわからなくなり、軽いパニックを起こした。 「そ、その…あ……お、俺…えぁ…あの……」 顔を赤く染めて、慌てふためく悟空の上に、ため息と一緒に宥めるように手のひらが降ってきた。 「落ち着いたか…で、俺に何か用か?」 問われて、悟空はその声の深さに益々頬を染めた。 「何だ?!変な奴だな…」 呆れたような声音にしゅんと項垂れれば、 「怒っちゃいねえよ」 そう言って、青年はまた、悟空の頭を軽く叩いた。 「……ぇ?!」 困ったような表情が、悟空を見返していた。 「えっと…あなたが…凄く綺麗で、その…桜の精かと…だから……ホントに、人か…ど、か…知りたくて…」 悟空の言葉に青年は澄んだ紫暗を見開き、驚いた表情を浮かべていた。 「えっ…ぁ、あの…」 青年の笑う様子に悟空は訳がわからず、ぼう然とする。 何か自分はおかしなコトを言ったのだろうか? 何がそんなにおかしいのだろう? 笑う青年を見つめている内に、昂揚した気分が萎んで悲しくなってくるのを止めることができなかった。 「悪かったな。笑って」 青年の話す言葉に一々項垂れたり、喜んだり、ころころと表情の変わる悟空の姿を青年は眩しそうに見つめていた。 「あ、あの…名前、訊いても、いい?」 おずおずとした申し出に青年は躊躇することなく、 「三蔵だ」 そう言って、笑った。 「俺、悟空」 自分の名を名乗ったのだった。 「…悟空か…で、お前は何でこんな所にいる?」 問われて、悟空は自分の立場を思い出した。 「…あ…えっと…ここどこ?」 質問に質問で返された三蔵の紫暗が見開かれる。 「や…だって…父さんに連れられて来たんだけど…話が退屈で、庭を散歩してくるって出てきたけど…ここの庭、広くて…うろうろしてる間に迷った、みたいで…」 迷子の言い訳に、三蔵の口元が綻んでゆく。 「だ、だから…笑うなって」 肩を揺らして笑う三蔵に、悟空は益々拗ねた顔を見せ、それが更に三蔵の笑いを誘う。 「ここは…お前のような人間が来る所じゃない。途中まで送ってやるから父親の所へ戻れ」 先程までの儚げな雰囲気でも、笑っていた柔らかな雰囲気でもなく、硬質な気配を纏って三蔵は悟空の顔を見つめていた。 「……さ、んぞ…さ、ん…?!」 促されるまま、悟空は三蔵に手を取られ、半ば引っ張られるようにして一緒に歩き出した。 「あ…あの…」 引っ張られるまま歩きながら、悟空は三蔵に声をかけた。 「何だ…?」 問われて、 「…あの…何で…?」 態度が変わったことを問い返せば、少しの沈黙の後、返事が返った。 「ここは…主人以外の立ち入りは禁止されているから…見つかれば、例え、主人の客人であってもお前は罰を受ける…だから……」 そう言って、三蔵は立ち止まり、悟空を振り返った。 「それに……俺と逢ったことは…内緒だ。誰にも言うんじゃない…」 覗き込まれた紫暗の瞳に、悟空の戸惑った顔が映っていた。 「……言えば…三蔵さんが、困る?」 問えば、 「あ、ああ…俺よりもお前が…きっと、困る……」 と、答えが返るから、悟空は繋いだ手を振りほどいて、思わず三蔵に抱きついた。 「…ぉ…おいっ」 悟空の行動に驚いて引きはがそうとする三蔵に構わず、抱きしめれば、仄かな甘い薫りが悟空の鼻腔を掠めた。 「ありがと。嬉しい…」 そう言って、抱きしめた腕に力を込めれば、 「…っ!」 悟空の言葉に三蔵の動きが止まった。 「──っ!!」 その少し潤んだ紫暗に口付け、頬に触れ、紅く色付いた唇に触れた。 「一目惚れって…信じる?」 三蔵の耳元にそう告げて、悟空は三蔵から離れた。 「何を…」 桜色に頬を染め、二の句が継げずに固まった三蔵に笑いかけ、 「答えは今度、聞かせてくれよな」 一方的に約束を告げて悟空は三蔵をその場に残し、駆け去って行った。
その夜、三蔵の元を訪れた主人が驚く程、三蔵の機嫌が良かった。 「何か、いいことがあったのか?」 盃を傾けながら問えば、 「そうだな…久しぶりに笑った…」 濡れ縁から見える桜の花に、何かを思い出したのか、仄かに柔らかな笑顔を浮かべる三蔵の様子に、主人はただ、その珍しくも美しい笑顔に見惚れていた。
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