小猿が朝の光の中、駆けてゆく。 その姿を寝所の窓から見つめる三蔵の紫暗は、柔らかな色に染まっていた。
my beloved child
静かだった寺院の生活。 小猿一匹の所為で─────
春になれば、桜が咲いた、花畑が綺麗だと笑う。 くるくるとよく変わる表情。
それでも・・・・・。
心に巣くう闇は深く、孤独の影は濃い。
明るく笑うその影で、闇が恐いと泣く。 陽ざしが何より似合う、金色の小猿。
そんな暗闇に射した一条の光。
それが、悟空。
まるで今まで欠けていたピースが嵌るように、すとんと心に落ちてきた暖かな存在。 素直に自分が認めるまで、思うようにならなかった己の気持ち。 その間にずいぶんと悟空を泣かせた。
何よりも愛しい、大切な存在だと認めた時、世界は拓けた。
悟空の連れてくる小動物たちに。 世界は生命に溢れ、光に満ちている。 悟空の存在を通して感じる自然の心と人々の思い。
朝の光の中、遊びに出掛けて行く悟空の姿を見つめながら、三蔵は不思議に満ち足りていた。
昼過ぎ、昼ご飯を食べに戻ってきた悟空は、食べるのもそこそこに三蔵の居る執務室へ駆け込んだ。 「さんぞっ!」 仕事をしているはずの三蔵の姿は、そこに無かった。 「あっれぇ…?」 たっと、踵を返すと、悟空は昼ご飯の後片付けをしている笙玄の元へ走った。 「笙玄、三蔵は?」 片づける手を止めて、笙玄が聞き返してくる。 「うん、居なかった」 悟空の返事に笙玄は小首を傾げる。 「では、お散歩にでも行かれたのでしょか?」 笙玄の呟きに、悟空が寂しそうにうつむく。 「悟空、今日の夕方に三蔵様は人に会われるご予定が入っていらっしゃるので、その時間まで何処かでご休憩なさっていらっしゃるんですよ」 笙玄の言葉に悟空は顔を上げた。 「ええ。ですから、ご公務をさぼっていらっしゃる三蔵様を捜して下さい」 満面の笑顔で頷くと、悟空は三蔵を捜しに寝所を飛び出して行った。
三蔵は煙草を吸いながら、ゆっくりと寺院の庭園の奥にある広葉樹の林の中を歩いていた。 この庭園は”神苑”と言われ、寺院に所属する修行僧はもとより、一般の信者、どんな金持ちや貴族、皇帝すら足を踏み入れることを許されない庭園だった。 四季を通じて折々の花が途絶えることなく咲き、手入れがされていないように見えながら、隅々まで手入れの行き届いた野性味溢れる庭。 三蔵は広葉樹の林を抜け、庭園の最も奥まった所に作られた庵の垣根を潜る。
三蔵だけの場所。
何も遮るモノのない陽の光。
偶然、見つけた場所だった。 着院してすぐ、執務室に籠もってばかりではよくないと、年老いた僧正が教えてくれた。 それからたまに、三蔵はここへ来るようになった。 どうでも良い公務に飽きたり、会いたくもない賓客とやらの接待に疲れた時。 つかの間の静寂と、一人の時間を楽しむために。 どこまでも青い草原に抱かれに。 だが、あの小猿を拾ってからはここへは来なくなった。 以前より忙しくなったのも原因の一つだが、何より小猿が巻き起こす騒動に振り回されていたからだった。
煩いくせに…
三蔵の変化には敏感で、おちおち落ち込んでも居られなくなったのが、第一の原因かも知れなかった。
三蔵は短くなった煙草を地面に押しつけて消すと、新しい煙草に火を付けた。 煙草をくゆらしながら、緩やかに流れる雲を見つめていると、風の音に混じって、悟空の自分を呼ぶ声が聞こえた。
ここも煩くなる…か…
ごろんと寝ころんで目を瞑る。 本当にいつも、一人になると悟空のことを考えている。 今、何してる? 泣いていないか? 笑っているのか? 自分で呆れるほどに。
この世の全てを引き替えにしても大切な、愛しい存在。 何よりも、誰よりも。
「側に居ろよ……サル」
三蔵はそう呟いて、新しい煙草に火を付けた。
小猿が駆けてくる。 小猿が駆けてくる。 誰よりも愛しい人のもとへ。
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