小猿が朝の光の中、駆けてゆく。
大地色の髪を揺らして、楽しそうに駆けてゆく。

その姿を寝所の窓から見つめる三蔵の紫暗は、柔らかな色に染まっていた。




my beloved child




静かだった寺院の生活。
その生活がずいぶんと騒がしくなった。

小猿一匹の所為で─────




春になれば、桜が咲いた、花畑が綺麗だと笑う。
夏になれば、川の水が冷たい、ヒマワリが咲いたと、日向に駆け出してゆく。
秋になれば、実る木の実が美味しい、山がいろんな色に染まって綺麗だと笑う。
冬になれば、雪が白い、風が冷たいと、外を駆け回る。

くるくるとよく変わる表情。
落ち着きのない行動。




それでも・・・・・。




心に巣くう闇は深く、孤独の影は濃い。




明るく笑うその影で、闇が恐いと泣く。
友達がたくさん出来たと笑うその裏で、ひとりは嫌だと怯える。

陽ざしが何より似合う、金色の小猿。
何よりも愛しい大地の子供。



冷め切り、荒みきった心に灯った光。



全てに不信と敵意しか感じなかった。
差し伸べられる手も、気持ちも、言葉も、何もかもを拒絶し、ひとりで生きてゆくと肩肘を張っていた。
この命よりも大切だと信じていた人を守るどころか、命を賭けて守られた自分。
あの赤い光景から逃れたくて足掻いていた日々。

そんな暗闇に射した一条の光。




それが、悟空。




まるで今まで欠けていたピースが嵌るように、すとんと心に落ちてきた暖かな存在。
岩牢で初めて見た日から、いや、初めて声が聴こえた日に生まれ、確実に育まれたこの気持ち。

素直に自分が認めるまで、思うようにならなかった己の気持ち。
持て余す思いに苛ついた日々。

その間にずいぶんと悟空を泣かせた。




何よりも愛しい、大切な存在だと認めた時、世界は拓けた。




悟空の連れてくる小動物たちに。
悟空の抱えてくる様々な植物たちに。
悟空の話す自然の移ろいに。

世界は生命に溢れ、光に満ちている。

悟空の存在を通して感じる自然の心と人々の思い。
一人ではないと、傍らに在ると。






朝の光の中、遊びに出掛けて行く悟空の姿を見つめながら、三蔵は不思議に満ち足りていた。
















昼過ぎ、昼ご飯を食べに戻ってきた悟空は、食べるのもそこそこに三蔵の居る執務室へ駆け込んだ。

「さんぞっ!」

仕事をしているはずの三蔵の姿は、そこに無かった。

「あっれぇ…?」

たっと、踵を返すと、悟空は昼ご飯の後片付けをしている笙玄の元へ走った。

「笙玄、三蔵は?」
「執務室にいらっしゃいませんか?」

片づける手を止めて、笙玄が聞き返してくる。

「うん、居なかった」

悟空の返事に笙玄は小首を傾げる。

「では、お散歩にでも行かれたのでしょか?」

笙玄の呟きに、悟空が寂しそうにうつむく。
その姿に笙玄は、軽く息を吐いた。
そして、公務を投げ出して逃げた時の三蔵の行動と今日の予定を思い出す。

「悟空、今日の夕方に三蔵様は人に会われるご予定が入っていらっしゃるので、その時間まで何処かでご休憩なさっていらっしゃるんですよ」
「そっか…な?」

笙玄の言葉に悟空は顔を上げた。

「ええ。ですから、ご公務をさぼっていらっしゃる三蔵様を捜して下さい」
「俺が?」
「はい」
「ホントに?」
「もう、ぜひ!」
「うん!」

満面の笑顔で頷くと、悟空は三蔵を捜しに寝所を飛び出して行った。
















三蔵は煙草を吸いながら、ゆっくりと寺院の庭園の奥にある広葉樹の林の中を歩いていた。

この庭園は”神苑”と言われ、寺院に所属する修行僧はもとより、一般の信者、どんな金持ちや貴族、皇帝すら足を踏み入れることを許されない庭園だった。
なぜなら、多忙極まりない三蔵法師が、公務に疲れた身体と精神を休め、癒すためのみに、作られたものだったからだ。
だから、ここの存在は、悟空でさえ知らない。

四季を通じて折々の花が途絶えることなく咲き、手入れがされていないように見えながら、隅々まで手入れの行き届いた野性味溢れる庭。

三蔵は広葉樹の林を抜け、庭園の最も奥まった所に作られた庵の垣根を潜る。
そのまま、庵の前を通り過ぎ、生い茂る萩の藪を抜けると、そこは見渡す限り一面の草原だった。
三蔵は草原の中程まで入ると、大きく体を伸ばし、青い草の海に腰を下ろした。



三蔵だけの場所。



何も遮るモノのない陽の光。
目の前に広がる草の広大な青い海。






偶然、見つけた場所だった。

着院してすぐ、執務室に籠もってばかりではよくないと、年老いた僧正が教えてくれた。
無理矢理連れて来られ、ここは三蔵法師しか入れないからと、置いて行かれた。
仕方なくぶらぶらと庭の奥へ歩いて、歩いて、偶然、見つけた場所。
遠く、微かに聞こえる鳥の鳴き声と、草原を吹き渡る風の音しかしない。
その静けさがひどく気に入って。

それからたまに、三蔵はここへ来るようになった。

どうでも良い公務に飽きたり、会いたくもない賓客とやらの接待に疲れた時。
胸の奥で疼く、どうしようもない傷が開いた時・・・・・。

つかの間の静寂と、一人の時間を楽しむために。
一人で生きてゆく、その決心をするために。

どこまでも青い草原に抱かれに。

だが、あの小猿を拾ってからはここへは来なくなった。

以前より忙しくなったのも原因の一つだが、何より小猿が巻き起こす騒動に振り回されていたからだった。
そして、



煩いくせに…



三蔵の変化には敏感で、おちおち落ち込んでも居られなくなったのが、第一の原因かも知れなかった。




三蔵は短くなった煙草を地面に押しつけて消すと、新しい煙草に火を付けた。

煙草をくゆらしながら、緩やかに流れる雲を見つめていると、風の音に混じって、悟空の自分を呼ぶ声が聞こえた。
結構近い事を考えると、もうすぐ自分の姿を見つけるだろう。



ここも煩くなる…か…



ごろんと寝ころんで目を瞑る。
瞼を通して感じる陽の光の暖かさに、悟空のぬくもりを重ねる。

本当にいつも、一人になると悟空のことを考えている。

今、何してる?
遊んでいるのか?
寝ているのか?

泣いていないか?
不安でないか?
寂しくないか?

笑っているのか?

自分で呆れるほどに。




やがて、丸い頬を紅色に染めて、小猿が来る。
太陽のような笑顔を振りまいて、大切な宝物のように自分の名を呼ぶ。

この世の全てを引き替えにしても大切な、愛しい存在。

何よりも、誰よりも。




「側に居ろよ……サル」




三蔵はそう呟いて、新しい煙草に火を付けた。






小猿が駆けてくる。
大地色の髪を揺らして。

小猿が駆けてくる。
太陽のもとへ。

誰よりも愛しい人のもとへ。




end

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