今日は、体調が良かった。
そう、何となくだが、気分が良い。
壊れかけた心臓も今日は機嫌が良いらしく、規則正しいリズムを刻んでいる。

悟空はベットから降りて、窓から外を覗いた。

今日は、暖かい。
病院の庭の梅の花も、綻びそうだと思った。

三蔵が医大生になって、もうすぐ三度目の春が巡ってくる。

あの幼い日、広い空の下を思いっきり走ってみたいと言った悟空に、いつもの不機嫌な顔を更に不機嫌に顔を顰めて、三蔵がしてくれた約束。
その場しのぎだと思っていたら、本当に医者になろうとしてくれている。
悟空のためだけに、悟空の壊れかけた心臓を治すためだけに。
だから、病気に負けたくなかった。
三蔵の想いに報いるために。
三蔵の努力を無にしないために。
絶対負けないのだと、自分に誓っていた。

窓から見える中庭を通って、もうすぐ三蔵が会いに来てくれる。
午後からの面会時間、大学の講義が終わると一番に来てくれる大好きな人を待ちながら、悟空は幸せそうに窓から中庭を見つめていた。

と、聞き慣れた足音がした。

ぱっと、悟空の顔が輝く。

悟空は窓から離れると、病室の入り口に向かって軽く走った。

「さんぞ…っ!!」

調子が良いことが嬉しくて、悟空は軽く走った。
健康な人間にとってはちょっと足早に歩いた程度だったのだが、悟空の心臓にとっては凄まじい負担となった。

胸が刺すように痛んだ。

開け放った病室の入り口に、コンビニの袋を下げた三蔵の姿が見えた。

「…さ…んぞ……」

崩れ折れる身体を駆け寄った三蔵の腕が受けとめる。

「悟空!」

驚き見開かれる紫暗の瞳を綺麗だと思った瞬間、悟空の意識は闇に呑まれた。



Call my name

小春日和。

昨日までの寒さが嘘のように今日は、暖かい。
もうすぐ三月。
悟空の十一回目の春が、巡って来る。

三蔵は温かな陽ざしを浴びて通い慣れた病院への道を歩きながら、これほどに暖かければ、悟空と散歩ができるなと、そんなことを思った。
途中のコンビニで悟空の好きな菓子と飲み物を買って、三蔵は病院の門を潜った。






生まれた時から治療する手段の極端に少ない心臓病を持つ幼なじみ。
外で遊ぶことも、友達と遊ぶことも知らず、白い壁と白いベットばかりを見て大きくなった。
いつ死んでもおかしくない病気を抱えているとは思えないほどに、悟空は明るく、屈託がなかった。
そんな悟空が初めて語った夢。
それは綺麗な笑顔で語った夢。



───広い空の下を思いっきり走りたい



だが、それは永遠に叶わぬ夢だと、言ったそばから諦めきった笑顔を浮かべた。
そんな笑顔でさえ透明で。
その笑顔を見た時、少年だった三蔵の中に言い知れぬ憤りが湧き上がった。
そして、想いもしなかった言葉が口から零れていた。



───俺が治してやるよ、お前の病気。



その時の悟空の顔は、忘れない。



───ホント?

───ああ、だから、待ってろ。



今にも泣きそうなほどに瞳を潤ませて、それでも笑って。



───うん!さんぞ、約束な

───ああ、約束だ。

と。



気が付いた時には、固い約束となって目の前にあった。
それでも良いと、思えた。
この綺麗な笑顔が、ずっと傍らにあるのならと。

それから脇目もふらずにここまで来た。
悟空も何とか一進一退を繰り返しながら、ここまでしか生きられないと言うリミットを越えて生きようとしている。

だから、頑張ることができた。
だから、ここまで来られた。

それが、今ここで全てが、無駄になるかも知れなかった。
全てを失うのか。
慌ただしく出入りする医師と看護婦の姿を見つめながら、三蔵は動くことができなかった。





















広い空の下を思いっきり走る。
どんなに走っても、胸が苦しくならない。
振り返れば、いつも不機嫌な三蔵が穏やかな笑顔を向けてくれている。

「さんぞ、あっちの木まで競争!」
「おい!」

三蔵が悟空に追いつく前に、悟空はそう言って走り出した。

頭上に広がる空は、何処までも高く、果てなく広がる。
透き通るような蒼穹と温かな太陽の光。
足下には、柔らかな草を抱いた大地。

それは夢に見続けた風景。
叶わぬはずだった夢。

悟空は嬉しげな笑い声を上げて、果てない緑の大地を走り続けた。











弱々しい鼓動が刻む波形。
時折、途切れそうになる細い呼吸。
青ざめた幼い容。
今にも消えそうな痩躯を繋ぐ、様々なコードとチューブ。




二十四時間。




悟空に残された時間だった。
病気がわかった時点で宣告されていた寿命は十年。
あと二ヶ月足らずで悟空の十一回目の誕生日が来るというのに。
その前に、全てが終わってしまうのだろうか。

医大生の自分だからこそわかる。
悟空の命が今、消えようとしていることが。
病室の窓際に、無表情な仮面を張り付かせて、三蔵は医師や看護婦の様子を黙って見つめていた。




人工呼吸器の鞴の規則的な音と心電図が奏でる金属音の中、医師は悟空の両親、兄弟達に向かって、ゆるく首を振った。
その仕草に三蔵は、握った拳に力を入れて、叫びだしたい衝動をこらえる。
そんな三蔵よりも悟空の両親達は冷静だった。
生まれた時から、死と隣り合わせに生きてきた幼い息子を見守ってきたのだ。
既に覚悟はできているらしかった。

母親が優しい仕草で愛し子の髪を撫で、何かを呟いていた。
それは小さな声で紡がれた子守歌だった。

器械の音に混じって聞こえてくるその歌声に、三蔵は母親の底深い愛情と哀しみを垣間見た。
傍に寄りそう父親も黙って、意識のない悟空の寝顔を見つめている。

と、三蔵の握り締めた手に触れる感触に、そちらを見やれば、悟空の一番上の兄が居た。

「血が出てる…」

そっと握り締めた三蔵の拳を開かせると、掌に爪が食い込んだのだろう血が広がっていた。
その血を見ながら、三蔵はそれが滲んでいる様な気がして、傍らに立つ悟空の長兄の方へ視線を移した。
だが、その顔も輪郭が滲んで見えた。

「……天蓬、俺は…」

その言葉を途中で、悟空の母親が攫った。

「三蔵君、呼んでやって。貴方の声で、悟空の名前を呼んでやって。きっと、喜ぶから」

三蔵は一瞬、戸惑った視線を天蓬に向けた後、悟空の傍らに近づいた。
そして、母親と場所を代わって、椅子に座る。

「悟空…」

血の付いていない方の手で悟空の華奢な小さな手を握る。
母親が、血だらけの右手を拭って、ハンカチで巻いてくれた。

「すみません」
「いいえ。傍に居てあげてね」

母親はそう言って、儚げな悟空とよく似た笑顔を向けた。
それに三蔵は黙って頷くと、ベットに横たわる愛し子を見つめた。

「…悟空…」

この声が届くのなら戻ってこい。
俺を一人にしないでくれ。



───悟空…























「呼んでる…」

寝ころんでいた身体を起こして、悟空は空を見上げた。

「…ほら、呼んでる」

耳をすませば、微かに自分を呼んでいる声が聞こえる。

「なあ、さんぞ、誰かが呼んで…」

隣に居るはずの三蔵の姿がなかった。

「さんぞ?」

慌てて探せば、草原の向こうに歩いてゆく三蔵の後ろ姿が見えた。

「あ、待って!置いてかないでよ!」

たっと、駆け出す。
途端、胸に痛みが走った。

「…えっ?」

立ち止まって胸を掴む。
と、すぐ傍に三蔵の気配がした。
顔を上げて三蔵を見れば、三蔵は優しい瞳で悟空に頷くと、草原の向こうを指さした。

「あっち?」

と、問えば、三蔵は頷き、

「向こうで待ってる」

そう告げて、三蔵の姿がかき消すように消えた。

「えっ?!やだっ!三蔵!!」

消えた三蔵を探してぐるりと辺りを見渡せば、そこは最早あの美しい大地ではなく、岩ばかり転がる荒れ地になっていた。

「…うそっ!」

悟空はへたり込みそうになる。
と、また、声が聞こえた。

「呼んでる…三蔵の、声…?」

悟空は声のする方を探し、すぐに見つけた。
それは、三蔵が指さした方向。

「三蔵……」

悟空はきゅっと、唇を引き結ぶと、声のする方へ向かって歩き始めた。
やがて、その歩みは小走りになり、風を切って走り出していた。
近づくほどに大きくなる三蔵の声。
自分を呼ぶ悲しげな声。

「三蔵!」

居ても立っても居られない。
ここにいるから。
側に居るからと、三蔵を抱きしめたかった。

悟空は息の続く限り、三蔵の声に向かって走り続けた。





















信じてもいない神にすがる思いで、三蔵は悟空の名前を呼び続けた。

還って来い。
目を覚ませ。

還って来い。
生きろと。

明けの明星が夜空に登る頃、悟空を取りまく全ての、三蔵以外全ての人間が悟空の死を信じた。
その時、微かに悟空の瞼が震えた。

「…ご、くう?」

覗き込む三蔵の気配に、皆がどうしたのかと視線を三蔵に向けた時、それは起こった。
ゆっくりと瞼を振るわせて、悟空の黄金が花開いたのだ。
目に鮮やかな黄金の花が開いた。

隣室で待機している医者を天蓬が呼びに走った。
母親が声もなく、泣き崩れる。
三蔵はただ、ただ、ゆっくりと焦点を結び、己の顔を映し出す円らを見つめ続けた。




そして─────




三蔵…と、人工呼吸のマスクの中の唇が告げた。
それに、三蔵は黙って頷き返すと、柔らかく目元をほころばせたのだった。











目を開けて、最初に見たのは三蔵の憔悴しきった顔だった。

そして知る。

もう少しで、約束を違えてしまうところだったと。

もう二度と、三蔵にあんな顔はさせない。
自分のために全てをなげうって、努力をしてくれている三蔵。
その三蔵を残しては逝けないと。

このマスクが取れたら最初に言おう。

もう二度と、こんな事にはならないからと。
そして、告げる。




───さんぞ、だあい好き…。

と。




end




リクエスト:「Keep your vow」の悟空が発作を起こし、意識が戻った時、憔悴した三蔵を見て、この人を置いて逝けないと思うまでのお話。
5555 Hit ありがとうございました。
謹んで、京月 翔さまに捧げます。
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