Catch
a Cold
笙玄の差し出す熱い緑茶を飲みながら、三蔵は鼻をすする。
先日から急に冷え込んできたのを失念して、薄着のまま暖房を入れずに遅くまで起きていたり、仕事が忙しくて休む暇がなく、疲れが溜まっていたのも災いしたのか、今朝から頭が重く、身体が怠い。
「大丈夫でございますか?」
心配する笙玄を煩そうに見やって、向こうへ行けと、手で払う。
「午後のご公務はお休みになれるよう手配致しますから」
「構うな。大丈夫だ」
「三蔵様」
尚も食い下がる笙玄に、新たな書類を渡すと、出て行けと三蔵は睨んだ。
そんな頑なな態度の三蔵に笙玄はため息を吐くと、執務室を出て行った。
そのまま夕方まで仕事を無理に続けた三蔵は、寝所に戻って来るなり、踞るように座り込んで動けなくなった。
その三蔵の姿を遊びから戻ってきた悟空が見つけて、叫び声を上げた。
その声に笙玄が、厨から走り出て来る。
「三蔵様!」
踞ったまま動かない三蔵に駆け寄る笙玄を悟空は、怯えきった瞳で見つめていた。
「笙玄…さんぞが、さんぞが…」
「大丈夫ですよ。三蔵様を寝台にお運びしますので、手伝ってください」
そう言って笙玄は立ちすくむ悟空に笑いかけると、三蔵の肩に手をかけた。
普段、他人に触れられるのを極端に嫌う三蔵も、今は苦しいのか身体に触れる笙玄の手を振り払うこともなく、笙玄に支えられて立ち上がった。
「…さんぞ、さんぞ…」
悟空が消え入りそうな声で三蔵の名前を呼び続けている。
その声に三蔵は朦朧とする意識を向けたが、大丈夫だと答えてやる事も出来ない。
二人に連れられて寝室に入り、寝台に座って何とか夜着に着替えると、三蔵は倒れ込むようにして寝台に入った。
「悟空、三蔵様のお側に居て差し上げて下さいね」
「笙玄は?」
「私はこれから康永先生をお呼びしに診療所へ行って来ますから。お願いしますね」
「…うん。すぐ帰って来てね」
「はい。悟空も三蔵様をお願いしますね」
「うん」
笙玄は悟空を安心させるように笑うと、医師の康永を呼びに出て行った。
その背中を見送って、悟空は三蔵の側に椅子を持ってきて座った。
見下ろす三蔵の顔色は、青ざめて呼吸も荒い。
そっと触れた頬は、顔色と反対に酷く熱かった。
「…熱い…よ、さんぞ」
悟空はきゅっと、唇を噛むと溢れそうになった涙をごしごしと服の袖で拭った。
そして、何かを思い出すようにじっと考え、徐に寝室を飛び出して行った。
程なくして、洗面器に水と氷を入れ戻ってきた悟空は、枕元の小机にそれを置くと、タオルを浸して絞り、たどたどしい手つきでたたんで、三蔵の額に載せた。
三蔵はタオルの冷たい感触に、その瞳を開けた。
熱で潤んだ紫暗は、おぼろげに揺れて、儚い光を宿していた。
「悟空…?」
掠れた声で悟空を呼ぶ。
「…うん。ここに居るよ」
呼ばれて顔を覗き込めば、ほっと三蔵は息を吐き、微かに笑った。
そして、
「ああ、そこに居ろ…」
「うん」
「どこ、にも…行く…」
言いながら、三蔵は眠ってしまった。
滅多に聞けない三蔵の言葉とその寝顔に、悟空ははんなりとした笑顔を浮かべると、椅子に座って三蔵の寝顔をいつまでも見つめ続けた。
「どこにも行かない。さんぞの側に居るよ…」
五日ほど寝込んで、三蔵は元気になった。
その間、悟空は片時も三蔵の側を離れることなく、甲斐甲斐しく看病を続けた。
その姿は健気で、愛おしくて、その姿を見つめる笙玄と康永の胸に、温かな花が咲くのだった。
「本当に、三蔵様は悟空の言うことだけはお聞きになるんですから…」
ため息混じりに居間でお茶を飲んでいる康永に、笙玄が愚痴れば、
「確か、悟空の目の前でお倒れになったんだろ?」
と、聞いてきた。
「はい」
「なら、仕方ない。あの子は三蔵様がどうかなってしまったのかと怯えていただろう?」
「ああ、そうでした。そうでしたね」
何かを思い出したように、笙玄は康永に頷いた。
以前、忙しさのあまり過労で三蔵が執務室で倒れたことがあった。
あの時の三蔵の体の衰弱は酷く、転地療養を余儀なくされた。
三蔵が倒れて寝室に運ばれ、気が付くまで、悟空は寝室の隅で真っ青な顔をして、泣きたいのを必死でこらえてそこから動かなかった。
その後しばらくは、三蔵の姿が見えないというだけで酷く不安定になっていた。
それがやっと治った矢先の今回のことに、また悟空が不安を抱えてしまうのではないかという思いに至る。
だが、今回は前回とは違って、三蔵の看病を悟空がしていることだった。
そのことで、悟空の中の不安や怯えが少しでも消えるのならそれはそれで嬉しいことなのだが、看病される三蔵の身体も少々心配であった。
そう、悟空は一生懸命なくせに不器用なのだ。
昨日も三蔵に飲ませると言って、手ずから絞ったリンゴの果汁を三蔵に渡す寸前で掛け布団と三蔵の夜着に引っかけて、せっかく下がった三蔵の熱をまた上げた。
その前は、薬を飲ませる吸い口を傾けすぎて三蔵の顔と枕をびしょびしょにして、三蔵の高熱を更に煽ってしまった。
見ている方は気が気ではない。
身体を起こせるようになった三蔵の着替えを手伝い、熱い蒸しタオルで汗をかいた三蔵の身体を拭く。
身体を起こして食べられるようになるまでは、悟空が三蔵に粥を食べさせ、薬を飲ませる。
その全てが危なっかしい。
普段なら、絶対、太陽が西から昇っても三蔵がそんなことを悟空にさせることも、許すはずもないのに、今回に限り三蔵は悟空にその身を任せていた。
まるで悟空に根付いている不安を拭い去ろうとでもするような、そんな気遣いが見て取れた。
だから、笙玄も看病は悟空に任せ、康永からの支持も三蔵の世話も悟空に伝え、指示するだけで、手伝おうとはしなかった。
が、看病される三蔵も命がけに近いモノがあったのは言うまでもない。
そろそろ床上げをしようかと考えだした日、たまたま悟空が康永の所へ薬をもらいに出掛けている間に、笙玄にお茶を運ばせた三蔵は、彼から寝込んでいる間の三蔵の姿についての感想を聞かされた。
それはそれは穏やかな笑顔のオプション付きで。
「お元気になられて本当に良かったです。お倒れになられた時は、どうしようかと本当に狼狽えました。何より悟空が一生懸命で、その悟空に身を任せていつもより優秀な患者でいらっしゃた三蔵様のお姿に、私は感動致しました」
暗に、いつもそうで在ればどれ程楽かと、笙玄の笑顔が告げている。
何より、笙玄の言うことを聞かずに無理をした事が原因だと、しばらくは大人しくしていろと、笙玄は笑顔の下で怒っていた。、
その怒気を敏感に感じ取った三蔵は、
「ああ、これからは気を付ける」
不承不承頷く。
そんな三蔵に笙玄はにっこりと笑顔を向けると、三蔵が寝込んでいた間の仕事の報告を始めた。
そして、最後に、
「明日からは、通常でよろしいですね」
と、念押しを忘れない。
それに黙って頷くと、笙玄は気が晴れたのか、さあ、夕餉の支度だと軽い足取りで寝室を出て行った。
その姿に、笙玄の言うことは少しは聞くべきだと、ほんの少し反省する三蔵だった。
その日、夕食を一緒に居間で食べる三蔵の姿に、悟空はずっとにこにこ笑いっぱなしだった。
「いい加減、その顔を止めろ」
と何度も三蔵が注意しても笑み崩れた悟空の顔は、眠るまで笑顔のままだった。
悟空の寝顔を見つめながら、心細い思いをさせたと、笙玄の時とは違い、三蔵は深く反省するのだった。
それからしばらくは、いつものように日々は過ぎていった。
三蔵が風邪で寝込んでから丁度、一週間後、今度は悟空が風邪を引いた。
明らかに三蔵の風邪をもらったのだろう、同じ症状で寝台から起きあがれなくなった。
普段風邪など引いたことの無い悟空は、実は酷く熱に弱いことが判明した。
寺院の僧侶達に理不尽な暴力を受けたケガが原因で発熱しても、傷の痛みや心の痛みでそれどころではなかったので今まで、本人も三蔵も誰も気が付かなかったのだ。
そして、熱があるということに対して、悟空は無自覚すぎたのだ。
朝、いつものように起きようとして、悟空は酷い目眩に襲われ、寝台の上に倒れた。
いつまでも起きてこない悟空を心配した笙玄が様子を覗きに来て、事が発覚したのだった。
高熱で体中の関節は痛い、息をするのも苦しい。
その上、怠いし、眠いのに寝られない状態は、悟空を酷く聞き分けのない子供にしてしまった。
三蔵の姿が見えないと、泣くのだ。
それは幼子のように、大きな金眼に涙を一杯溜めて、ぽろぽろ透明な雫を零して。
そんな姿の悟空に誰も勝てるわけもなく、寝込んでいた所為で仕事が溜まっている三蔵を側に置くことに、何より看病させることになった。
「何で、俺が…!」
悟空が眠ったのをコレ幸いと三蔵は居間へ場所を移し、笙玄と康永にくってかかった。
だが、そんな三蔵の怒りも何のその、悟空が可愛くて仕方ない二人に三蔵が勝てる訳もなく、敢えなく撃沈と相成った。
「借りはちゃんとお返しになるのが、三蔵様の流儀でございましょう?」
「あの子に借りを作ったままでは、三蔵様もお心苦しいでしょうし、ここは是非」
にっこりと笑う二人に逆らうには相当な覚悟が必要だと、改めて自覚した三蔵だった。
まだ、諦めきれない三蔵の抵抗をあっさり封じたのは、悟空の叫び声だった。
目が覚めて、誰も側に居ないことに気が付いた悟空が上げた悲鳴は、三蔵を動かすには充分なほどの怯えと不安に彩られていた。
今の今まで、看病なんかするかと、言っていたのがウソだと思うほどに、三蔵は悟空の看病を始めたのだった。
「やだ!苦いから飲みたくない」
「だったら飲むな。その代わり一人でここに居るんだな」
「やだ!」
「だったら飲むか?」
「それもやだ!」
ぷうっとまだ熱で赤い頬を膨らませて、悟空は三蔵の顔を上目遣いで睨んだ。
そのあまりに幼い顔に、三蔵は苦笑が漏れる。
「何で、笑うんだよ」
「笑ってねぇ」
「今、笑ったもん」
これではいつまで経っても押し問答が終わらない。
三蔵は一つため息を吐くと、薬を飲ませるべく一計を案じた。
交換条件で悟空の気持ちをその気にさせるのは何となく嫌な三蔵だったが、いつまでも我が侭な悟空に付き合っていられるはずもなければ、風邪がいつまでも治らないでは困るのだ。
だから、自分にとっては甚だ不本意で、悟空にとっては十分苦い薬を飲む行為の代償となりうる条件を提示したのだった。
「ちゃんと薬を飲んで、風邪を治したら、一日お前の言う通りにしてやる。だから早く良くなれ」
眉間に皺を寄せないように精一杯の努力で平静を保って、三蔵は悟空に告げた。
その言葉に、一瞬悟空は呆けたようになり、やがてゆっくりと大輪の笑顔の花を咲かせた。
「ホントに?さんぞ?」
「あ、ああ…」
「嘘じゃない?」
「二言は…ない」
「さんぞ!」
悟空は飛び起きるなり、三蔵に抱きついた。
その身体を受けとめて、三蔵は眉を顰めた。
抱き留めた悟空の身体は思った以上に熱く、熱がまだかなり高いことを物語っている。
三蔵は悟空の身体を引きはがすと、寝台に座らせた。
そして、康永が用意した風邪の薬の入った湯飲みを渡して、ゆらゆらと揺れる身体を支えてやった。
「ちゃんと風邪治したらね、一日中一緒にいてね」
「わかったから、薬を飲め」
「一日中だよ?一緒にだよ?」
「ああ、約束してやる」
「うん!約束な!」
ようやく納得したのか、悟空は三蔵が差し出す湯飲みの薬を顔を顰めながら一気に飲み干した。
「うぇーっ。やっぱ苦い〜」
目尻に涙を溜めて三蔵を見返す悟空の頭を「よく飲んだ」と、ぽんぽんと軽く叩いてやる。
悟空は三蔵の手を嬉しそうに受けて笑うと、寝台に横になった。
「寝ろ」
布団を掛けながらぶっきらぼうに告げる三蔵に、
「ここにいてね」
と、念を押す。
「居てやるから、寝ろ」
「うん…」
絞った冷たいタオルを額に載せてもらって、悟空は気持ちいいと呟いて、眠ってしまった。
熱でほんのりと赤く染まった丸い頬を撫でれば、三蔵の手にすり寄るように身体を傾ける。
そんな幼い仕草を見せて眠る悟空を見つめる三蔵の瞳は、いつになく穏やかな色をはいていた。
早く良くなれ。また、元気に駆け回る姿を見せろ。お前にはそれが一番よく似合う。
結局、悟空も三蔵と同じように五日ほど寝込んで、元気になった。
病床でかわされた約束は、忘れられることなく果たされたとか、果たされなかったとか。
知るのは金の瞳の子供と紫暗の瞳の少年だけ。
end
|