風が吹く。
青い草原を走り抜けてゆく。

濃く生い茂る梢。
深緑の木の葉。

風のざわめきにその枝を揺らして、木々は木陰を作る。

どこまでも果てしなく続く草原のはずれに立つ木の根元に子供が一人眠っていた。
大地色の髪がその華奢な身体に流れ落ち、額に鈍く光る金が子供を戒めていた。



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「逝かないで!」

子供が泣き叫ぶ。
白い姿は赤く染まって、流れる黄金が赤く光る。

「置いてかないでぇ!」

煙る紫暗が柔らかく細められ、血に濡れた手が子供のまろい頬を辿る。

「やだっ…やだよっ!」

「         」

「聞こえないっ!聞こえないよぉ──っ」

ひゅっと、喉が鳴って、優しかった手が落ちた。

「いや───っ!!」















自分の悲鳴で目が覚めた。

「……あ…」

身体を起こして、悟空は思わず自分の頬に触れた。
触れる指先に濡れた感触。
その手を目の前に翳して、

「…赤い…ッ血…?!」

顔を上げ、きょときょとと、周囲を見渡せば、草原を走る風が見える。
梢を揺らす木々のざわめきが聞こえた。

「……夢…?!」

まばたいて見やった指先は白く、透明な雫に濡れていた。
痛みを感じるほど早く鼓動を打つ胸を悟空は握り締めた。
風が汗の滲んだ額を撫でる。
悟空はその手に誘われるようにぼんやりと空を見上げた。

「…あれは誰…?金色の綺麗な人だった…」

血に染まって尚、美しく、傍に居る自分を愛おしそうに見つめていた人は誰なのだろう。
三蔵に似た容貌の綺麗な人。
自分はあの人のことを知っているのだろうか。
考えれば胸に灯る温かな気持ち。
その暖かさに悟空の表情が綻んで。
やがて悟空はまた、背中を木の幹に預け、ゆっくりと誘われるように眠ってしまった。















ガラスが割れる。
壁が、扉が弾け飛ぶ。

「───!!」

乱れ閃く銀の光。

「ダメ─っ!離してぇ──!」

庇われる腕の中、覆い被さる肩越しに赤い華が散る。

「行って下さい!」
「走れ、坊ず!」

宥めるように笑うその顔に伸ばした手は優しく振り払われ、遠ざけられる。
白い腕の隙間から見えた姿は、やがて鈍色の鋼の林に消えた。

「…ちゃん!…兄ちゃん!」

叫ぶ声は鬨の声にかき消されて、握りしめられた手首が痛かった。
息つく間もなく降り注ぐ鋼をかいくぐり、やがて目の前は白一色。

「ねえ…はや、く…」

振り仰いだ紫暗が翳りを見せ、子供はその胸に縋りついた。

「……?」
「大丈夫だ…」
「うん…」

肩越しに薄紅の海が見えた。















ばちっと音がする程の勢いで悟空は瞳を開けた。
その瞬間、ぽろりと溜まっていた涙がこぼれ落ちた。
今見た夢に身体が震える。
悟空は自分の両腕で自身を抱きしめるように腕を回し、俯いた。
と、はらりと、伸ばした足に薄紅の花びらが落ちる。

「……?!」

その花びらに訝しげに顔を顰めた悟空は何かに呼ばれたように顔を上げ、上を見た。

「!!」

そこは一面の薄紅色の海。
視界を埋め尽くす桜の花。

驚いて、ぎゅっと瞳を閉じて、もう一度目を開ければ、辺りは桜に埋まって。
見渡す限りの桜の海。
桜の霧。

「う、そっ……ぁ…」

その桜の海に見知った姿を見つけた。
夢か現か、感覚が麻痺してゆく。

「さんぞ…?」

それは大切な太陽のごとき人。
悟空の宝。
その三蔵が儚げな姿で薄紅の海の中に立っていた。
いつもの白い法衣を来て、肩に経文を頂いて、何かを待つような風情で三蔵がいた。
そこに、影が差す。

「えっ…?」

悟空の気が三蔵から逸れたその一瞬、世界が深紅に染まった。
その紅に瞳を見開き、三蔵へ慌てて視線を戻す。
そして、

「…さん…」

呼ぶ声は途中で途切れた。
突風が舞い散る薄紅の花びらを巻き上げ、呼吸を奪う。
その花嵐の隙間に垣間見える三蔵の白い姿。
それがぐらりと揺れ、瞬く間に白い法衣が朱に染まった。
千切れ飛ぶ金糸。
崩れ折れる身体。
花嵐に身動きも出来ず、声すら上げられず、悟空はその場に立ちつくした。





















「おい、悟空!」

三蔵が見つけた時、金眼を見開いたまま滂沱と涙を流して、夕暮れの木陰に悟空は放心したような状態で座り込んでいた。

いつもよりずいぶんと帰りの遅い悟空を心配する笙玄に追い立てられるようにして三蔵は悟空を迎えに出てきた。
普段であれば、よっぽどのことがなければ、或いは気が向かなければ迎えになど出ては来ないのだが、どうにも今日は胸騒ぎがして落ち着かなかったのだ。
加えて、常に穏やかに三蔵の内に微睡む悟空の聲が、途切れがちになったり、ざわざわと波立ったり、三蔵を呼ぶ聲が翳ったりと、三蔵の気持ちを苛んでいたのだ。
だから笙玄の言葉に促されるまま、三蔵は悟空の元へ向かった。
案の定、目的地へ近づく程に悟空の聲が三蔵の内で暴れ回り、切羽詰まった状態を伝えてくる。
三蔵はその聲に急かされるように足早に悟空の元へ向かった。

そして、見つけた子供は泣いていた。

大きな金眼を更に大きく見開いて、流れ落ちる涙を拭うこともせず、ただ、焦点の合わない瞳で草海原を見つめて。
その姿に三蔵は掛ける言葉が見つけられず、しばらくその場から動けなかった。




風が夜の気配を纏いだした事で我に返った三蔵は、悟空の細い肩を掴んで揺さぶった。

「悟空」

何度か名前を呼びながら悟空の身体を揺さぶって。
三蔵の内に響く聲は、今はか細く泣き濡れて怯えていた。
されるまま身体を揺らす悟空の黄金が、漸く焦点を結ぶ。

「……あ…」

何度かまばたきを繰り返し、悟空は三蔵の方を向いた。

「…さ、んぞ?」

小首を傾げ、怯えた瞳が三蔵を見返す。

「ホント…に?さんぞ?」
「何言って…悟空?」

確かめるように悟空は三蔵の頬に手を伸ばし、触れる。
その手は、小刻みに震えて、酷く冷たかった。

「さんぞ…生きて、る?」

ぎゅっと、目の前に膝を着いて自分を見つめている三蔵の法衣を掴んで自分の方へ引き寄せ、顔を覗き込んでくる。

「生きてる…よね、さんぞ…」

覗き込んでくる金瞳は霞んだような闇に染まって、そこに困惑した顔の三蔵が映っていた。

「ねぇ…ちゃんと、ここに、いる?」

返事を返さない三蔵に焦れてきたのか、悟空は吐息がかかるほど三蔵に顔を寄せてくる。
見つめる金眼は、焦点など結んでいず、ただ闇雲に三蔵の存在を確かめようと、目の前にある三蔵の姿を捜していた。
寄せてきた悟空の口唇に、自分のそれで触れてから、三蔵は悟空の身体を徐に抱き込んだ。
今まで何の反応も示さなかった三蔵の突然の行動に、悟空は一瞬、抗うように身を捩った。
それに構わず、三蔵は悟空の身体を力ずくで腕の中に納めると、その耳元に口唇を寄せた。

「これは何だ?今、お前を抱いているのは何だ?」

三蔵の言葉に悟空の身体が、ひくりと揺れる。

「お前は何を見た?何に怯えている?」
「……ぇ…?」

耳に届く言葉に、悟空の強張った身体から少しずつ、力が抜けてゆく。

「俺はここにいる。俺はちゃんとここにいるだろうが」

そう言って、三蔵は悟空を抱き込む腕に力を込めた。
腕の中の悟空はその言葉にそろそろと顔を上げ、三蔵の顔を見上げた。
見下ろす三蔵の紫暗に、怯えた悟空の顔が映っている。
悟空は抱き込まれた自分の身体と三蔵の身体の間から腕を抜き出すと、そっと、三蔵の頬に触れた。

「…さんぞ、生きて…る?」
「ああ」

それは幼児が、母親に強請るようで。

「ちゃんと、ここ、にいる…?」
「ああ」

それは約束を願う幼子のようで。

「ホン…ト、に?」
「本当だ」
「ホント?」
「本当だ」
「嘘…じゃない?」
「嘘じゃない」
「本当?」
「ああ、お前の傍に居る」

何度も、何度も確かめて、何度も何度も応えを求めて。
それでも不安が消えない拾われた動物のようで。
三蔵はただ、悟空の問いかけに真摯に応えを返し続けた。

そして、

「………んっ…」

どれほどその受け答えが続いたのか、漸く納得したのか、腕の中で悟空は微かに頷いたのだった。












夜風が梢を揺らし、下弦の月が中天に上るの頃、悟空は目を覚ました。

三蔵に抱き込まれ、三蔵が生きていることを、傍にいることを納得した途端、悟空は眠ってしまったのだ。
そのまま抱き上げて寺院へ連れ帰れば良かったのだが、何故か三蔵はそのまま帰る気にならず、悟空を抱き込んだまま幹にもたれ、山の稜線に沈む夕陽を見つめ、月が昇るのを黙って見つめ続けた。

時折、思い出したように悟空を苛む失われた過去。
それは突然、悟空の無防備な心を傷つける。
夢であったり、ふとした情景が引き金だったり、投げかけられた言葉だったり。
そのたびに、悟空を苛み、泣かせ、悟空は頼りない瞳で三蔵を探し、怯えた瞳で三蔵を求め、震える身体で三蔵に縋りつく。
そのたびに、悟空を抱き締め、涙を拭い、傍に居ると約束して、離さないと誓って。
それでも悟空の抱く不安と恐れを拭い去れない。
ならば、何度でも約束しよう。
何度でもお前に誓おう。
それで少しでも悟空が救われるのならと、柄にもなく、ただひたすらに三蔵は願うのだった。

「さんぞ?」
「…あぁ」

目覚めた悟空は、腕の中で不思議そうに三蔵を見上げてきた。

「何で…俺…ぁれ?」

自分の置かれた状態が理解できていない。
三蔵は悟空を抱き込んだまま、微かに眉を顰めてその顔を見下ろした。

「何だ?」
「えっ?」
「悟空?」
「…えっと…」

悟空は眉根を寄せて、訳が分からないと盛んに首を傾げ、漸く、自分が三蔵の腕の中に居ることに気が付いた。
その途端、弾かれたように三蔵の腕の中から起き上がると、耳まで真っ赤に染めて、陸に上がった金魚のように口をぱくぱくさせる。
その姿に、先程までの悟空の儚い様子が嘘のようで、軽い頭痛を感じてしまう。
が、ここでうやむやにしては、後々へと引きずるかも知れない。
三蔵は、一つ嘆息すると、悟空に問うた。

「で、何があったんだ?」
「へっ?」
「だから、泣くほどの何があったんだと、訊いている」
「ほぇ?」

三蔵の問いに、何が?と、きょとんとした顔を見せる。
その様子に三蔵は再度、問い詰めようと開いた口を閉じた。
不思議そうに自分を見上げてくる悟空の様子に、三蔵は悟空に自覚がないことを知る。
それでは、何を問いただそうとも、答える訳がない。
ならば、諦めるしかない。

「…もう、いい」
「えっ…いいの?」
「ああ…」
「う、うん」

三蔵の何処か考え込む眉根を寄せた顔に、悟空は訳が分からないが、三蔵が良いのなら良いのだろうと、取りあえず頷いた。
それに三蔵は呆れたようなため息を吐いた。
そして、立ち上がり、悟空に片手を差し出した。
目の前に差し出された三蔵の手に、悟空は金眼を大きく見開く。

「帰るぞ」

差し出された手に続く三蔵の言葉に悟空の顔が、ほんの一瞬、泣きそうに歪んだ。
そして、恐る恐る三蔵の手にちょっと触れ、すぐに嬉しそうに笑って悟空はその手を掴んだ。

「うん!」




end

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