風が吹く。 濃く生い茂る梢。 風のざわめきにその枝を揺らして、木々は木陰を作る。 どこまでも果てしなく続く草原のはずれに立つ木の根元に子供が一人眠っていた。
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「逝かないで!」 子供が泣き叫ぶ。 「置いてかないでぇ!」 煙る紫暗が柔らかく細められ、血に濡れた手が子供のまろい頬を辿る。 「やだっ…やだよっ!」 「 」 「聞こえないっ!聞こえないよぉ──っ」 ひゅっと、喉が鳴って、優しかった手が落ちた。 「いや───っ!!」
自分の悲鳴で目が覚めた。 「……あ…」 身体を起こして、悟空は思わず自分の頬に触れた。 「…赤い…ッ血…?!」 顔を上げ、きょときょとと、周囲を見渡せば、草原を走る風が見える。 「……夢…?!」 まばたいて見やった指先は白く、透明な雫に濡れていた。 「…あれは誰…?金色の綺麗な人だった…」 血に染まって尚、美しく、傍に居る自分を愛おしそうに見つめていた人は誰なのだろう。
ガラスが割れる。 「───!!」 乱れ閃く銀の光。 「ダメ─っ!離してぇ──!」 庇われる腕の中、覆い被さる肩越しに赤い華が散る。 「行って下さい!」 宥めるように笑うその顔に伸ばした手は優しく振り払われ、遠ざけられる。 「…ちゃん!…兄ちゃん!」 叫ぶ声は鬨の声にかき消されて、握りしめられた手首が痛かった。 「ねえ…はや、く…」 振り仰いだ紫暗が翳りを見せ、子供はその胸に縋りついた。 「……?」 肩越しに薄紅の海が見えた。
ばちっと音がする程の勢いで悟空は瞳を開けた。 「……?!」 その花びらに訝しげに顔を顰めた悟空は何かに呼ばれたように顔を上げ、上を見た。 「!!」 そこは一面の薄紅色の海。 驚いて、ぎゅっと瞳を閉じて、もう一度目を開ければ、辺りは桜に埋まって。 「う、そっ……ぁ…」 その桜の海に見知った姿を見つけた。 「さんぞ…?」 それは大切な太陽のごとき人。 「えっ…?」 悟空の気が三蔵から逸れたその一瞬、世界が深紅に染まった。 「…さん…」 呼ぶ声は途中で途切れた。
「おい、悟空!」 三蔵が見つけた時、金眼を見開いたまま滂沱と涙を流して、夕暮れの木陰に悟空は放心したような状態で座り込んでいた。 いつもよりずいぶんと帰りの遅い悟空を心配する笙玄に追い立てられるようにして三蔵は悟空を迎えに出てきた。 そして、見つけた子供は泣いていた。 大きな金眼を更に大きく見開いて、流れ落ちる涙を拭うこともせず、ただ、焦点の合わない瞳で草海原を見つめて。
風が夜の気配を纏いだした事で我に返った三蔵は、悟空の細い肩を掴んで揺さぶった。 「悟空」 何度か名前を呼びながら悟空の身体を揺さぶって。 「……あ…」 何度かまばたきを繰り返し、悟空は三蔵の方を向いた。 「…さ、んぞ?」 小首を傾げ、怯えた瞳が三蔵を見返す。 「ホント…に?さんぞ?」 確かめるように悟空は三蔵の頬に手を伸ばし、触れる。 「さんぞ…生きて、る?」 ぎゅっと、目の前に膝を着いて自分を見つめている三蔵の法衣を掴んで自分の方へ引き寄せ、顔を覗き込んでくる。 「生きてる…よね、さんぞ…」 覗き込んでくる金瞳は霞んだような闇に染まって、そこに困惑した顔の三蔵が映っていた。 「ねぇ…ちゃんと、ここに、いる?」 返事を返さない三蔵に焦れてきたのか、悟空は吐息がかかるほど三蔵に顔を寄せてくる。 「これは何だ?今、お前を抱いているのは何だ?」 三蔵の言葉に悟空の身体が、ひくりと揺れる。 「お前は何を見た?何に怯えている?」 耳に届く言葉に、悟空の強張った身体から少しずつ、力が抜けてゆく。 「俺はここにいる。俺はちゃんとここにいるだろうが」 そう言って、三蔵は悟空を抱き込む腕に力を込めた。 「…さんぞ、生きて…る?」 それは幼児が、母親に強請るようで。 「ちゃんと、ここ、にいる…?」 それは約束を願う幼子のようで。 「ホン…ト、に?」 何度も、何度も確かめて、何度も何度も応えを求めて。 そして、 「………んっ…」 どれほどその受け答えが続いたのか、漸く納得したのか、腕の中で悟空は微かに頷いたのだった。
夜風が梢を揺らし、下弦の月が中天に上るの頃、悟空は目を覚ました。 三蔵に抱き込まれ、三蔵が生きていることを、傍にいることを納得した途端、悟空は眠ってしまったのだ。 時折、思い出したように悟空を苛む失われた過去。 「さんぞ?」 目覚めた悟空は、腕の中で不思議そうに三蔵を見上げてきた。 「何で…俺…ぁれ?」 自分の置かれた状態が理解できていない。 「何だ?」 悟空は眉根を寄せて、訳が分からないと盛んに首を傾げ、漸く、自分が三蔵の腕の中に居ることに気が付いた。 「で、何があったんだ?」 三蔵の問いに、何が?と、きょとんとした顔を見せる。 「…もう、いい」 三蔵の何処か考え込む眉根を寄せた顔に、悟空は訳が分からないが、三蔵が良いのなら良いのだろうと、取りあえず頷いた。 「帰るぞ」 差し出された手に続く三蔵の言葉に悟空の顔が、ほんの一瞬、泣きそうに歪んだ。 「うん!」
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