緩やかな風が吹く山道を三蔵はゆっくりと辿っていた。
道の両側の木々は、或いは色付き、或いは葉を散らす。
その木々の足許を秋の小さな花や下草が、落ち葉の絨毯に彩りを添えている。晩秋の空は澄み渡り、青く高い。
振り返れば辿ってきた道の向こうに昨日の喧騒が嘘のように静まりかえった寺院が見えた。
本当に昨日のあのバカ騒ぎは一体なんだというのだろう。
何がそんなにめでたいのか。
有り難いのか。
たかだか十代の子供の誕生日。
それも出自のわからない孤児の誕生日だというのに。
生まれ落ちたその時、親からいらないと烙印を押され、川に流されたこの身。
冷たい川面に沈むその寸前、掬い上げてくれた手がなければ、今、ここに立っている自分は居ない。
その手で与えられた新たな誕生日は、生きていていいのだと許しを受けた日だ。
だから、この日は祝うのではなく、新に祈り、新に誓う日だと三蔵はそう思っていた。
このまま生きていていいのだ。
救ってくれた手に恥じないように生きるのだと。
そんな三蔵の気持ちなど置き去りに、煌びやかな祭典が催され、その影に見え隠れする大人達のもくろみ。
本当に見せ物の動物の気持ちが痛い程理解できると、三蔵は無表情の仮面を被ったその下で思っていた。
寺院に住まう限り、自分が受け継いだ”三蔵”という称号を持つ限りついて回る義務と責任。
馬鹿馬鹿しいとは思いはしても辛いなどと思いはしないが、偶に、どうしても何もかもを拒絶し、逃げ出してしまいたくなる自分の気持ちを持て余す三蔵だった。
丸一日の拷問のような時間。
ようやく解放されたのは日付の変わる頃だった。
朝、目が覚めたのは、陽が昇って間無しの時間だった。
泥のように疲れていたくせに眠りは浅く、目覚めは意外にすっきりしていた。
起き上がって窓を開ければ、晩秋の冷たい空気が三蔵の肌を刺した。
三蔵は軽く身体を伸ばすと、夜着を脱ぎ捨て、私服に着替えると、そのまま寝室の窓から外へ出た。
陽が昇ってすぐ、夜が明けてすぐの空気は冷たく張りつめて、身体の中に溜まった汚泥を洗い流してくれるような気がする。
三蔵はもう一度、今度は深く早朝の空気を肺一杯吸い込んで深く深呼吸すると、ふらりと寺院を後にした。
寺院の裏門の潜り戸を抜け、三蔵は裏山へ続く道を辿る。
早朝の山は静まりかえり、ぴんと張った空気が三蔵の白い頬を撫でた。
見上げる空は朝焼けの名残を残し、薄赤く染まっていた。
雲一つない空。
その明るさに三蔵は一度、眩しそうに瞳を眇めた後、何かを思い出したように小さく口元を綻ばせて、また、山の奥へ進むのだった。
どれほど歩いていたのか、陽差しの向きで昼間近だと気付く。
来た道を振り返ってももう、寺院の姿は生い茂った木々に阻まれて見えることはなかった。
と、ふと、三蔵は呼ばれた気がして足を止めた。
「……ぁ」
小さく息を呑んで三蔵は空を振り仰いだ。
それは、あの聲だった。
三蔵を呼ぶ聲。
形をなさないけれど確かに自分を呼んでいると知れる聲。
あの日、野盗と戦ったあの森で初めて届いた聲。
「…あ、ああ…今日は穏やかだな…」
胸に頭に響くその聲は、今日は珍しく穏やかで、静かだった。
いつもは切々と請い求め、どこか哀しげで、淋しげなのにだ。
何か良いことでもあったのだろうか。
それともそこにいる環境が穏やかで、優しくなったのだろうか。
聲は、柔らかく、優しく穏やかに、三蔵の胸を鳴らした。
三蔵は両手で自分の胸を抱くように暫く佇んでいたが、また、山の奥へ歩き出した。
いつの間にか道を外れていることにも気付かず、その足取りは何かに導かれているように。
灌木の茂みを跨ぎ、蔓草を掻き分けて三蔵は歩みを進めた。
やがて茂みが切れたその向こうに広がった景色に三蔵はその場に立ち尽くした。
そこは、色付いた木々に囲まれた小さな湖と呼んだ方が相応しいような大きな池の岸辺だった。
湖岸をぐるりと広葉樹と常緑樹が囲み、秋の色に染まった木々がその湖面に錦を織りなしていた。
鏡面のように静まりかえった湖面の中心には青い空が映り込んでいる。
時折木々を揺らす風が、色付いた木の葉を散らし、吐息のような葉音を立てた。
今も、枝から離れた桜であろう木の葉がふわりと三蔵の目の前を舞い、揺らがない湖面にその身体を落とす。
その微かな衝撃に、鏡面の様な湖面に儚い波紋が生まれ、消えた。
音のない世界。
風も、木の葉も、鳥も何もかもが息を潜めるように佇む。
痛い程静寂。
けれど、どこか温かい静寂。
三蔵はゆっくりと木の葉の積もった柔らかな地面を辿って、水際まで降りた。
見渡す程に湖は静まり、足許にある水も身動きを控えているように見えた。
見下ろす三蔵の顔が映り込む渚から視線を上げ、三蔵は右手に生えた大きなモミジの樹に目を奪われた。
そのモミジは、湖の湖面に大きく幹を張り出し、天に向かって、或いは対岸へ向かって枝を広げていた。
今にもその身体を湖に沈めそうなそんな姿で、けれど何かを求める姿のようにも見え、三蔵はただ、息を潜めてその姿に魅入っていた。
と、ふわりと三蔵を包み込む気配に、三蔵は慌てて周囲を見渡した。
しかし、周囲には人の気配も動物の、鳥の気配すらなく、ただ、木々の息づかいと微かに渡る風の音しか聞こえなかった。
「…気のせい……?」
小首を傾げてもう一度周囲を見渡した三蔵は、小さくため息を吐くと、湖に張り出したモミジに向かって歩き出した。
近づけばモミジは予想以上に太く大きな樹だった。
伸びた幹の先を視線で辿り、
「お前は何をそんなに求めている?」
ぽそりと、無意識に呟きながら三蔵はモミジの幹に触れた。
途端、三蔵の頭の中を過ぎるイメージ。
金色の目の幼子の儚い笑顔。
そして、自分に気付いたのか一瞬の驚きのあとの零れるような笑顔。
何か口にしたようだったが、その声は三蔵にまでは届かなかった。
「……!なっ…」
慌てて幹から手を離した三蔵は、怯えたように周囲を見回し、何の変化もないことに大きく息を吐いた。
そして、もう一度、モミジの幹に触れる。
しかし、先程三蔵の中を駆け抜けたイメージはもう甦ることはなかった。
「ま、ぼろし…?」
見上げた梢は静まりかえり、求める答えは与えられなかった。
ただ、あの幼子の姿を見た時に、三蔵の胸に灯った小さな温もりは、金瞳の幼子の桜唇が形作った言葉、それは三蔵自身への向けられた言葉と共に、常に聴こえる声なき聲といつまでも消えることはなかった。
───おめでとう…
出逢うその時まであと少し…─────
end