a declaration of wor




初秋の早朝、子供は珍しく目覚めた。
まだ、日が昇りきったばかり。
朝焼けの空は仄かな暁色を残して、雲のベールの裾を引いて行く。

今日も残暑の厳しい日になりそうだった。

子供は、寝台から音もなく抜け出すと、居間の窓を開け放った。
夜の内に淀んでいた空気が、朝の清浄な空気と入れ替わる。
子供は両手を広げて深呼吸すると、夜着のまま窓から外へ抜け出した。

音もなく地面に降り立つ。
素足に朝露に濡れた草が、そっと触れてくる。

「おはよ…」

小さく呟くと、子供は風のように走り出した。











微かな物音で、三蔵は目が覚めた。
寝返りを打って、傍らの寝台に目をやれば、そこに養い子の姿はなかった。



何時だ?



枕元の時計を見やれば、まだ五時前で。
こんなに早く養い子が起きるはずもなく、トイレにでも起きたのだろうと思い、もう一度目を閉じようとして、三蔵は身体を起こした。

気配がしない。

声は聴こえているというのに。
気配が、掴めない。

三蔵は、小さく舌打ちすると寝台から降りた。
寺院は、僧侶達の起きたばかりのざわめきに包まれている。
がしがしと、頭を掻くと居間へ向かった。
行ってみれば、居間の窓が開け放たれ、涼しい風がカーテンを揺らしている。

「…バカ、が」

窓から悟空が出て行った事を知った。











悟空は息の一つも乱さず、その場所へ辿りついていた。

そこには真っ白な芙蓉の花が、群生して辺りに甘い香りを放っていた。
朝露に濡れる白い八重の花。

「呼んだ?」

その白い花に向かって話しかける。
悟空の言葉に花が、ゆらりと揺れた。

「…そう、初めて咲いたんだ」

花の訴えに悟空は、はんなりとした笑顔を浮かべた。



大地の御子。



植物たちはよく、こうして悟空を呼んだ。
その季節、初めて花を付けた日は特に。
大地の御子に愛でてもらい、その祝福を受けんがために、香りを風に乗せて悟空を呼んだ。
そんな時、よほどのことがない限り悟空もその呼びかけに答えた。
それが、勤めとでもいうように。

悟空は愛しそうに芙蓉の花を撫でた。

「えっ、折っていいの?」

花の申し出に悟空が、驚きの声を上げた。
その声に頬笑むように、一斉に花が揺れる。

以前、初夏の日、クチナシの花たちもそう言って、たくさん悟空にその身を捧げてくれた。
また、今回は芙蓉がそう言って、その身を投げ出してくる。

「い、いいよ。せっかく初めて咲いたのに…」

断る悟空に花達は、悲しげに揺れる。
風が、悟空と花の仲を取り持つように、周囲を吹き渡って行く。
悟空は困った顔をしていたが、周囲を吹き抜けて行く風に促される形で、芙蓉の花達の申し出を受けた。

「じゃあ、ひとつだけ…な」

そう言って悟空は、すぐ目の前に咲いていた花を手折った。






花を持って戻る途中で、悟空は三蔵と出逢った。
くわえ煙草で、普段着で、いつもより不機嫌な三蔵と。
その姿を見た途端、悟空は今の自分の格好を思い出した。



やべっ…!



そう思うには十分な格好だった。
起きてすぐ、飛び出してきたから当然、夜着のままで、裸足で、背中の髪はもつれて。
何より、着ている夜着が朝露に濡れて、悟空の身体に張り付いていた。

立ち止まった悟空を見つけた三蔵は何も言わず側によるなり、目にも留まらぬ早業で悟空の頭にハリセンを振り下ろした。
乾いた音が、早朝の森に木霊する。

「っつてぇ…」

頭を抑えてしゃがみ込んだ悟空に三蔵はふんと鼻を鳴らすと、

「帰るぞ、サル」

そう言って、踵を返した。

「あ、待って!」

悟空は、慌てて立ち上がると、先を行く三蔵の後を追った。
手には芙蓉の花が一輪、握られていた。











朝食の準備をしていた笙玄は、机の上の花に気が付いた。
背の高い硝子のコップに生けられた白い八重の花。
その凛と咲く姿に、笙玄は背を伸ばして佇む三蔵の姿を思い浮かべた。



三蔵様のようですねぇ…



ほうっと、ため息をつくとまた、手を動かし始めた。




やがて、準備が整ったのを見計らったように、三蔵がきちっと僧衣に着替えて姿を見せた。
その後ろを珍しく、悟空がついて寝室から出てきた。
こちらも着替えている。

「おはようございます」

笙玄の挨拶に、

「ああ」
「おはよう」

と、それぞれが答えて、食卓に着いた。

「今日は、悟空も早起きですね」

にっこり笑えば、曖昧な返事が返ってくる。

「何かあったんですか?」

と、問えば、三蔵の顔を伺い見る。
その視線に気付いた三蔵は箸を置くと、机の上の花を示した。

「この花が、どうかしたのですか?」

笙玄の問いに三蔵は、うんざりした口調で告げた。

「このバカが、摘んできたんだよ」
「悟空が?」
「ああ」
「そうですか。これは…芙蓉ですね」

三蔵の言葉に笙玄は笑いながらその花を見つめ、名前を思い出した。
すると、今まで拗ねたように口を噤んでいた悟空が、違うと首を振った。

「その子、酔芙蓉って言うんだって」
「酔芙蓉…?」
「うん。ほら、少し色が出てきただろ?」

悟空の指す方を見れば、白い八重の花はほんのりピンクに染まっていた。

「本当ですね」
「えっとぉ…ん…」

考え、何かと会話しているような仕草を悟空はすると、

「お酒を飲んだみたいに赤くなるからって、人間が付けたんだって」

そう言って、「勝手だよな」と笑った。




そう、最近三蔵はこういった悟空の仕草が気になって仕方なかった。
別段、自分に迷惑が掛かるわけではなかったが、何かしら納得できなかったからだ。

悟空は三仏神の話では、五百年以上も前に東勝神州は傲来国、花果山の山頂に宿りし仙岩に大地のオーラが集まって生まれた大地母神が愛し子。
この世でただ一つ、大地に愛された絶対無二の存在だという。

あの五行山で見つけて寺院に連れてきて一年あまり、大地の愛し子だと言われてもピンと来なかった。
それが、そうも言えなくなってきたのだ。
窓辺に小鳥が寄ってくると嬉しそうに何かを話かける、草や花木々や果ては風、雲、空に水、太陽に月、自然と名の付くモノ全てと会話してるような悟空の姿をよく見かけるのだ。
最初、三蔵は子供特有の擬人化遊びだと思っていた。
だが、それは明らかに明確な意志を持って行われているのだと、最近気が付いた。
そう、三蔵と悟空が会話するように、ごく当たり前に。

考えてみれば、悟空は大地が生んだ存在だと言っても良い。
ならば、自然、つまりはこの大地に根ざし、大地と共に生き、大地に属するモノ全てが、悟空の存在と等しいと極端に言えば、言えなくもないのだ。
だから、悟空と自然、大地に属するモノ達との間に会話が成立しても、何もおかしいことはない。

だが、三蔵は納得できない。

頭で理屈をこねて、納得できる理由ができあがっても、納得出来ない。
反対に悟空のそう言う姿を見るたびに、苛つくのだ。

そう、ただ苛つきを覚えるのだ。

今も、今朝悟空が自分で摘んできた酔芙蓉の花と会話する姿に、三蔵は苛つく。

「くっちゃべってないで、ちゃんと食え」

さして意味のない注意を悟空に与えると、三蔵は気持ちのイライラを隠すように朝刊を広げた。
三蔵の注意に悟空は、「はーい」と素直に返事を返すと、残った朝食を食べ始めた。





















薄紅に染まる酔芙蓉の森。

その花の中に、悟空の姿があった。

「ずいぶん色がついたね」

側の花に顔を近づけて話す。
その言葉に花達が一斉に、まるで少女達が頬笑むように身体を振るわせた。

「おかしい?でも綺麗だよ」

ふわりと笑う悟空の笑顔に花達が一斉に輝く。
風が、柔らかな悟空の髪を撫で、纏い付く。

「みんなと居ると楽しいよ。でもね、三蔵と居る時が一番楽しいんだ」

そう言って、輝く笑顔を浮かべるのだった。






今朝の悟空の様子が、何故か三蔵の気持ちを不安にさせていた。
酔芙蓉の花と会話していた悟空。
三蔵との暮らしが落ち着いてきたこの頃、よく見かける光景ではあったのだが、今日は何故かしら気になって仕方なかった。
お陰で、仕事が一向に進まない。
三蔵は、もう、仕事を自主的に放棄することに決めた。

書きかけの書類もそのままに三蔵は寝所へ向かうと、僧衣を脱ぎ捨て、普段着に着替えると、悟空を探すべく、寺院を後にした。

悟空を探す足取りは、まるで走るようで。
悟空と自然界の関係が、何より今朝の悟空の姿が、三蔵を苛つかせ、不安にしていた。
そう、感じるのだ。
自然が悟空を欲しているのだと。



悟空…



三蔵は小さく舌打ち、悟空の気配を辿って裏山に入って行った。






「三蔵は、優しいんだって。そんで、暖かくて、楽しくって、幸せなんだ」

酔芙蓉の森で、赤く色を染めてゆく八重の花に、悟空は三蔵と居る嬉しさを、その幸せを話して聞かせる。
だが、悟空の口から「三蔵」と名前が出るたびに、花達はざわめき、周囲の木々達も梢を揺らしす。
それはまるで、悟空の側に三蔵が居ることが許せないとでも言うようで。

「還ってこいっていうの?」

ざわめきの中の要求に気が付いた悟空が、戸惑った声を上げた。
悟空の触れる自然のもの達は、喜びにうちふるえながらも、常にここへ、母なる大地に戻ってこいと悟空を誘う。
その囁きは甘く、ともすれば気持ちが揺らぐが、三蔵の姿を思い起こせばそんな気持ちは消えてゆく。
けれど、自然は諦めはしない。
一緒にいる柔らかな幸せを、どこまでも広く、深く、遠く、何ものにも遮られることなく行ける自由を悟空の心に訴えてくる。

「…そうだね、気持ちいいよね。うん、俺もそう思う」

酔芙蓉の木の根元に座り込んだ悟空は、儚げな笑顔を浮かべた。
空に差し出す腕が、指先が微かに透けて見える。
大地の誘惑は、甘美で優しくて、寺院の冷たい生活に無意識に傷付いていた心が、染まってゆく。
優しい光と暖かさに、傷が癒され、疲れた身体が清められてゆく。

「…気持ち…いいね……ぇ…」

微睡みが悟空を捉えたその刹那、切り裂くような声が悟空の心を貫いた。



悟空!



まっすぐな金色の矢。

強くて、眩しくて、輝く太陽の光。

「…さん…ぞ…?」

ぼやっとした視界に、金色が見えた。
その金色に向かって、悟空はとろけるような笑顔を浮かべた。






悟空の居るはずの場所へ走るように向かう三蔵の胸を、喪失感が襲った。
何をとは言わない、強烈な喪失感。
そのあまりの大きさに、三蔵は足を止めた。



何だ…?何を、失う…?



シャツの上から心臓の辺りを掴んで深呼吸すると、湧き上がってきた己の考えを否定するように首を振った。

大切なもの。
愛しいもの。
それは、あの金の瞳の子供。

自分を呼んでいたのだ。
魂を揺さぶる声で。
自分が見つけたのだ。
険しい岩山を越えて。



声が……聴こえるんだよ



胸の痛みを振り払うように、三蔵は再び歩き出した。









───そして・・・・・。









辿り着いた芙蓉の森で見たものは、身体が半分以上透けた悟空だった。
微睡むような表情を浮かべて、空に両手を差し出す姿のまま、悟空は大地に還ろうとしていた。
その姿に、三蔵は心臓を鷲掴みにされたほどの痛みに襲われた。



行ってしまう!



声は無意識に漏れ、叫んでいた。

「悟空!」

その声に、世界は一瞬で敵意を持った。
呼ばれた悟空は、ぼやっとした表情で振り返り、三蔵を認めたであろうはずの笑顔を浮かべた。

「…さん…ぞ…?」
「悟空!」

名前を呼ぶ、その声に森のざわめきが覆い被さった。
肌を刺す風が、三蔵に叩き付けられる。
芙蓉の花が一斉に悟空の姿を覆い隠そうとする。

「悟空!こっちに来い!」

風に叩き付けられ、煽られてなお三蔵は悟空の名を呼び、その手を差し出した。
悟空は覆い被さる花と、吹き付ける風、木々のざわめきに三蔵への敵意を感じて、もがくように花の間を三蔵の方へ向かう。

側へ、大切な人の側へ。
大地が傷つける前に。
側へ。

「三蔵──っ!」

悟空の呼ぶ声を遮るように、花々が行く手を塞ぐ。
と、風に血の匂いが唐突に混じった。

「さんぞ?」

さっと、悟空の顔が青ざめる。

「三蔵…さんぞ…?」

悟空の呼ぶ声に三蔵の声が返る。

「悟空、どこだ?」

その声に痛みを我慢する気配を感じて、悟空は叫んだ。

「もう止めてよ──ぉ!」

悲痛な声は木霊を呼び、森中に響いた。
そして、見る間に風は収まり、悟空は芙蓉の森から抜け出てきた。
視線の先に、傷だらけの三蔵だけを捉えて。

「三蔵!」

走ってくる幼い影に三蔵は、安堵のため息を吐くとその場にへたり込んでしまった。
その崩れ折れる身体に悟空は、縋りつくようにして抱きついた。

「三蔵、三蔵…さんぞぉ…」

透明な雫をその黄金に溜めて、悟空は荒い息を吐く三蔵の顔を見上げた。

「泣くな、俺は大丈夫だ」
「ホント?」
「ああ」
「でも、血が出てるよ」
「かすり傷だ」
「でも…」

尚も涙声で心配する悟空の頭をくしゃっと掻き混ぜると、三蔵は微かに笑った。
その笑顔に悟空も泣きそうな笑顔を返す。
悟空の笑顔に、ほっと息を吐くと、

「帰るぞ」

そう言って三蔵は立ち上がった。

「うん…」

悟空も立ち上がる。
三蔵は悟空の後ろの芙蓉の花の咲き乱れる森を見つめた。
森は先程までの狂乱が嘘の様に静まりかえり、紅色を濃くする花が静かに咲いている。
その視線を周囲の梢に向ければ、ざわめいた木々達も何事もなかったの様に静寂を湛えていた。
風も穏やかに吹きすぎてゆく。

ただ、残念だという気配と三蔵に対する押し殺した敵意は、傷付いた三蔵の肌を刺した。

そして、自分の腰にしがみつく悟空に視線を落とした。
それと同時に聴こえる声。

我らが愛し子を還せ。
不浄な人間の世界から還せ。
その為の障害なら、例え御子がどんなに愛そうとも排除する。
あの時の二の舞にはしない。
金の光を持つ人間よ、覚えておくがいい。
我らは諦めぬ。
決して、御子を諦めぬ。

それは大地の誓いと宣言。

こいつは絶対に還さない。
こつは俺のもんなんだよ。

手に入れたのは悟空という名の子供。
大地の子でも異端の生命でもない。
一人が恐い、暗闇に怯える小さな子供。
何よりも大事な存在。
今更、どこにもやりはしない。
受けて立ってやる。

不適な宣戦布告を三蔵は、大地相手にやってのけた。

「さんぞ…?」

帰ると言っておきながら、自分の顔を見つめて動かない三蔵を訝しげに悟空が呼んだ。

「…ああ、なんでもねぇよ」

そう言って、もう一度悟空の髪を掻き混ぜると、三蔵は踵を返した。
悟空はくすぐったそうに喉を鳴らして笑うと、歩き始めた三蔵の後を追った。




それが始まり。

何よりも愛しいものを手放さないために。




end




リクエスト:三蔵が初めて悟空が「大地の子」であること、「自然が常に悟空を呼んでいる」ことを自覚した瞬間
2222Hitありがとうございました。
謹んで、神樹さまに捧げます。
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