inspire dread in him




「三蔵様、何かございましたか?」

先日から苦虫を盛大に噛みつぶした顔で書類に向かっている三蔵に、お茶を差し出しながら笙玄は思い切って聞いてみた。
が、答えの代わりに不機嫌な紫暗の瞳で睨み付けられただけだった。
笙玄は小さくため息を吐くと、決裁済みの書類を持って執務室を後にした。
笙玄が出て行った気配に三蔵は向かっていた書類を投げ出すと、煙草に火をつけ忌々しげに紫煙を吐き出した。
机の正面から見える窓の四角い青空に視線を据えて三蔵は思い出したくもない先日のことを思い出していた。











別段、油断したわけではない。

そう、断じて油断ではなく、相手の人数が多すぎたのだと何度言い聞かせてみても、悟空に怪我をさせた事実が消えるわけではなかった。

気まぐれとしか言えない気分で妖怪退治に連れ出した自分が悪いのだ。




対峙した妖怪は皆、大した力もないくせに徒党を組んで近隣の村々を荒らし回っていた。

その妖怪達の持ち物の中に宝具があった。

その宝具を取り返してこいと言うありがたくもない、むしろ迷惑千万な三仏神の命令に、三蔵は悟空を連れて行くことにしたのだ。
半ばやけくそ、半ば戦力として。

妖怪達の根城は、長安からさほど離れてはいない山中にあった。
いつものごとく三蔵は襲われた村々で妖怪達について聞き込み、悟空を伴って根城へ向かった。




「坊主がガキ連れて何のようだぁ?」
「お前の持ってるそいつをもらい受けに来た」

殺気だった妖怪達に囲まれても怯えた様子すら見せず、むしろふてぶてしいほどの態度で三蔵は妖怪を睨んだ。

「これは俺んだよ。欲しかったらなあ、殺してみな。え、べっぴんさんよぉ」

その言葉に三蔵のこめかみが微かに引きつる。
と、同時に銃声が響きわたった。

「…て、めぇ…」
「ふん、あの世で笑ってろ、下衆」

吐き捨てるように言ってのけた。
その様子に、側にいた悟空はびっくりした顔をしたが、沸き上がった殺気に身構える。

「てめえよくも兄貴を……」

三蔵は、怒りに顔を赤く染めた傍らの妖怪に一瞥をくれただけで、事切れた骸に近づいた。

「野郎!」

跪いて妖怪が手にしていたが、撃たれた衝撃で投げ出された蒼い水晶玉の付いた剣に手を伸ばした。
その背中に妖怪が斬りつける。

「三蔵!」

三蔵が振り返るより早く、悟空が二人の間に割って入った。

「悟空!」

妖怪の切っ先は悟空の二の腕を斜めに掠めて、地面に突き刺さった。
それが戦闘の合図になった。






断末魔の悲鳴を上げて最後の妖怪が倒れた。
三蔵は銃をしまうのももどかしい様子で、息を荒げて座り込んでいる悟空の元に駆け寄った。

「悟空!」
「ふぇ?さんぞ?」

必死の形相で駆け寄ってきた三蔵を見上げて、悟空はきょとんとした。

「怪我は?」

血にまみれた悟空の右腕を掴めば、

「いてっ・・・!」

走った痛みに悟空は身体を揺らした。
見れば着ていた上着の袖は裂け、流れた血が上着の右半分を染めていた。

「バカが・・」

舌打ちして三蔵は法衣の襦袢の袖を引きちぎると、それを長く裂いて包帯を作り、まだ血の乾いていない傷を服の袖ごと覆ってきつく縛った。

「・・あ、ありがと・・」
「行くぞ」

戸惑ったような悟空の言葉に三蔵は何も言わず、妖怪の死体の影になっていた宝具を拾うと、麓の村に向かって歩き出した。
悟空は惚けたような顔でその様子を見ていたが、三蔵の背中が小さくなることに気が付いて、慌てて後を追った。











それが三日ほど前だった。

まだ、傷が癒えない悟空は寝所に閉じこめられて外出もままならない。
否、三蔵が外に出さないと言った方が正しい。
理由は先述の通りだと言えば良いのだが、少し三蔵の気持ちは違っていた。
後悔、そう言う言葉が正しく当てはまるのだろうが、それともまた違う気がしていた。
庇われた、その事実に気持ちがついて行かないと言えばいいのかもしれなかった。




あの日、生きるための太陽だった人が自分を庇って血の海に沈んだ。
守りたかったのは自分。
盾になるはずだったのは自分。




それなのに・・・・・・。




「三蔵!」

割って入った小さな背中にあの大きな背中が重なった。

「…っつ!」

力一杯執務机に拳を叩き付ける。

そう、あれは恐怖。
たぶん、きっと失う恐怖。
声が聴こえて、呼ばれて、探し出したあの金色の宝石。
ささくれて、ひび割れた心に潤いと光をくれた子供。

今、失ったらきっと・・・。

三蔵は吸わずに短くなった煙草を灰皿に押しつけると席を立った。





















白い三角巾で動かないように吊られた右腕を見つめながら、ため息を吐いた。

避けるのが僅かに遅れたのだ。
だからあんなに心配しなくてもいいのに。

強い意志の光を宿した綺麗な紫暗の瞳が、何かに怯えたような光を放っていた。

「…さんぞ……」

長椅子に座った足をぶらぶらと揺らせながら、じっと悟空は考えていた。

治療が終わった後、三蔵にこっぴどく怒られた。
いつもの怒り方とずいぶん違った。
青ざめた顔で今にも泣きそうな瞳で怒っていた。

「お前は一体何をしたかわかってんのか。何をしたのか…」
「さんぞ……?」
「二度と…」
「えっ?」

それ以上何も言わず、三蔵は踵を返した。
全てを拒絶した背中に悟空はかける言葉を持たなかった。

「さんぞ…何で……」

あの背中が忘れられなくて、思い出すたびに胸が痛かった。

身体が勝手に動いたのだ。
だからあんな風に怒らなくてもいいのに。

あれから三蔵とろくに口をきいていない。
きいていないのではなく、きけないと言った方が正しい。
名前を呼んでも返事はなく、触れようと伸ばした手は拒絶される。
だが、本当に悟空を拒絶しているわけでなく、何か怯えた感じがするのだ。
何かを失ってしまう、そんな怯えを。
三蔵の自分を見る視線を思い起こせば、いつも腕の傷に注がれていることに気が付いた。
この白い腕を見つめる三蔵の瞳は、痛々しささえ湛えていて。

「……さんぞ」

悟空はおもむろに三角巾を外すと、包帯に手をかけた。





















夕方、いつもより早い時間に寝所に戻ってきた三蔵は、悟空の姿にその紫暗を見開いた。

「おかえりーっ」

嬉しそうに告げる悟空の腕から三角巾と包帯が消えていた。
傍によって笑いかける悟空に、三蔵は体を硬くする。
その気配を敏感に感じ取って悟空は三蔵から数歩離れたところで立ち止まった。

「お前、ケガは…」
「もう治った」

そう言って、右腕を廻してみせる。

「嘘、つけ…」
「ホント。俺、妖怪だから人間より早く治るんだ」

だから、もう大丈夫だと笑う。
その翳りのない笑顔に三蔵は小さく息を吐くと、

「…ならいい」

そう言って、寝室に入って行った。
その背中を悟空は、泣きそうな瞳で見送る。
寝室に消えた三蔵の背中は、まだ、拒絶の色をしていた。











その夜、悟空は酷い痛みで夜中に目が覚めた。
見れば、夜着の白い袖に血が滲んで熱を持っていた。

「……!」

ずきずきと疼く痛みに悟空は右腕を抱き込むようにして寝台に踞る。
隣の寝台で眠る三蔵に気付かれないように声を殺して。
痛み滲む涙を枕に顔を押しつけることで拭い、唇を噛みしめる。
痛みは引くどころか、益々増してくる。

「……っつ!」

息を殺してどれ程耐えていただろう。
不意に冷たい手が悟空の額に触れた。
その感触に悟空の肩が震える。
瞳を開けば、溜まっていた涙が目尻からこぼれ落ちた。
潤んだ視線を向ければ、怒った顔の三蔵がそこにいた。

「…お、こしたの?ごめん」

震える声で告げれば、

「いらねえ気を使いやがって…」

ため息混じりの返事が返ってきた。

「あ…」
「見せろ」

抱え込んだ腕を取られた拍子に脳天まで突き抜けるような痛みが走った。

「あ、痛っ!」

思わず上げた声に三蔵は掴んだ腕を見て、舌打つ。
掴んだ腕の夜着は滲んだ血でしっとりと濡れ、赤く染まっていた。

「あほうが…」

言うなり三蔵は悟空を抱え上げた。
その体の熱さに、また舌打つ。

この子供は、持て余していた自分の気持ちの中の怯えを敏感に感じ取り、そのために治ってもいない傷を治ったと、笑って見せたのだ。
もう大丈夫だから怯えるなと。
拒絶するなと。

三蔵は足早に診療所に向かうと、医師の康永をたたき起こして悟空の腕の治療をさせた。

もう一度、開いた傷を縫い直し、新しい包帯で巻かれ、白い三角巾で固定される。

「もうバカな真似はするんじゃないよ」

そう言って、康永は痛み止めの注射をしてくれた。
三蔵はまた、悟空を抱えると、酷く不機嫌な顔で寝所に戻った。






寝台に悟空を下ろすと、申し訳なさそうに黄金の瞳が見上げて来た。
その黄金を不機嫌な顔で見下ろした。
だが、表情とは裏腹に紫暗の瞳は、静かだった。

「……あの…さ…」

静かな三蔵の瞳に悟空は何となく居たたまれなくなって言葉を紡ごうとしたが、それを柔らかな抱擁が遮った。

「……バカ猿」
「ひっでぇ…」

嗚咽をこらえるような三蔵の声音に悟空は、わざとすねたような声音を返す。
それきり言葉は途切れ、静かな夜の空気が二人を包む。

月が西の空に沈む頃、ぽつりと悟空が三蔵に告げた。

「…何処にもいかない」

悟空を抱く腕に、力がこもる。

「絶対、置いてかないから」

さらに力がこもる三蔵の抱擁に、悟空は柔らかな笑顔を浮かべた。
その耳元に三蔵の吐息のような言葉が、返る。
その言葉に悟空の瞳から一筋の透明なしずくが流れ落ち、その後を追うように儚い笑顔が開いた。






───守りたいものがあった。
それを失った時、初めて自分の腑甲斐無さを知った。
俺は手前のことだけで手一杯なんだと。
そんで思った。
守らなくていいものが欲しい。

手に入れたものは黄金の宝石。
何よりも守りたいもの。
失いたくない唯一の存在。




だからこそ・・・




その紡がれる言葉に安心する。
情けなくとも今は、すがってしまう。

もう少しすれば元に戻るから。
今はそのぬくもりを感じさせてくれ。
その存在で支えて欲しい。
朝日が昇るその時まで。






─────離さない……




end

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