inspire dread in him
「三蔵様、何かございましたか?」 先日から苦虫を盛大に噛みつぶした顔で書類に向かっている三蔵に、お茶を差し出しながら笙玄は思い切って聞いてみた。
別段、油断したわけではない。 そう、断じて油断ではなく、相手の人数が多すぎたのだと何度言い聞かせてみても、悟空に怪我をさせた事実が消えるわけではなかった。 気まぐれとしか言えない気分で妖怪退治に連れ出した自分が悪いのだ。
対峙した妖怪は皆、大した力もないくせに徒党を組んで近隣の村々を荒らし回っていた。 その妖怪達の持ち物の中に宝具があった。 その宝具を取り返してこいと言うありがたくもない、むしろ迷惑千万な三仏神の命令に、三蔵は悟空を連れて行くことにしたのだ。 妖怪達の根城は、長安からさほど離れてはいない山中にあった。
「坊主がガキ連れて何のようだぁ?」 殺気だった妖怪達に囲まれても怯えた様子すら見せず、むしろふてぶてしいほどの態度で三蔵は妖怪を睨んだ。 「これは俺んだよ。欲しかったらなあ、殺してみな。え、べっぴんさんよぉ」 その言葉に三蔵のこめかみが微かに引きつる。 「…て、めぇ…」 吐き捨てるように言ってのけた。 「てめえよくも兄貴を……」 三蔵は、怒りに顔を赤く染めた傍らの妖怪に一瞥をくれただけで、事切れた骸に近づいた。 「野郎!」 跪いて妖怪が手にしていたが、撃たれた衝撃で投げ出された蒼い水晶玉の付いた剣に手を伸ばした。 「三蔵!」 三蔵が振り返るより早く、悟空が二人の間に割って入った。 「悟空!」 妖怪の切っ先は悟空の二の腕を斜めに掠めて、地面に突き刺さった。
断末魔の悲鳴を上げて最後の妖怪が倒れた。 「悟空!」 必死の形相で駆け寄ってきた三蔵を見上げて、悟空はきょとんとした。 「怪我は?」 血にまみれた悟空の右腕を掴めば、 「いてっ・・・!」 走った痛みに悟空は身体を揺らした。 「バカが・・」 舌打ちして三蔵は法衣の襦袢の袖を引きちぎると、それを長く裂いて包帯を作り、まだ血の乾いていない傷を服の袖ごと覆ってきつく縛った。 「・・あ、ありがと・・」 戸惑ったような悟空の言葉に三蔵は何も言わず、妖怪の死体の影になっていた宝具を拾うと、麓の村に向かって歩き出した。
それが三日ほど前だった。 まだ、傷が癒えない悟空は寝所に閉じこめられて外出もままならない。
あの日、生きるための太陽だった人が自分を庇って血の海に沈んだ。
「三蔵!」 割って入った小さな背中にあの大きな背中が重なった。 「…っつ!」 力一杯執務机に拳を叩き付ける。 そう、あれは恐怖。 今、失ったらきっと・・・。 三蔵は吸わずに短くなった煙草を灰皿に押しつけると席を立った。
白い三角巾で動かないように吊られた右腕を見つめながら、ため息を吐いた。 避けるのが僅かに遅れたのだ。 強い意志の光を宿した綺麗な紫暗の瞳が、何かに怯えたような光を放っていた。 「…さんぞ……」 長椅子に座った足をぶらぶらと揺らせながら、じっと悟空は考えていた。 治療が終わった後、三蔵にこっぴどく怒られた。 「お前は一体何をしたかわかってんのか。何をしたのか…」 それ以上何も言わず、三蔵は踵を返した。 「さんぞ…何で……」 あの背中が忘れられなくて、思い出すたびに胸が痛かった。 身体が勝手に動いたのだ。 あれから三蔵とろくに口をきいていない。 「……さんぞ」 悟空はおもむろに三角巾を外すと、包帯に手をかけた。
「おかえりーっ」 嬉しそうに告げる悟空の腕から三角巾と包帯が消えていた。 「お前、ケガは…」 そう言って、右腕を廻してみせる。 「嘘、つけ…」 だから、もう大丈夫だと笑う。 「…ならいい」 そう言って、寝室に入って行った。
その夜、悟空は酷い痛みで夜中に目が覚めた。 「……!」 ずきずきと疼く痛みに悟空は右腕を抱き込むようにして寝台に踞る。 「……っつ!」 息を殺してどれ程耐えていただろう。 「…お、こしたの?ごめん」 震える声で告げれば、 「いらねえ気を使いやがって…」 ため息混じりの返事が返ってきた。 「あ…」 抱え込んだ腕を取られた拍子に脳天まで突き抜けるような痛みが走った。 「あ、痛っ!」 思わず上げた声に三蔵は掴んだ腕を見て、舌打つ。 「あほうが…」 言うなり三蔵は悟空を抱え上げた。 この子供は、持て余していた自分の気持ちの中の怯えを敏感に感じ取り、そのために治ってもいない傷を治ったと、笑って見せたのだ。 三蔵は足早に診療所に向かうと、医師の康永をたたき起こして悟空の腕の治療をさせた。 もう一度、開いた傷を縫い直し、新しい包帯で巻かれ、白い三角巾で固定される。 「もうバカな真似はするんじゃないよ」 そう言って、康永は痛み止めの注射をしてくれた。
寝台に悟空を下ろすと、申し訳なさそうに黄金の瞳が見上げて来た。 「……あの…さ…」 静かな三蔵の瞳に悟空は何となく居たたまれなくなって言葉を紡ごうとしたが、それを柔らかな抱擁が遮った。 「……バカ猿」 嗚咽をこらえるような三蔵の声音に悟空は、わざとすねたような声音を返す。 月が西の空に沈む頃、ぽつりと悟空が三蔵に告げた。 「…何処にもいかない」 悟空を抱く腕に、力がこもる。 「絶対、置いてかないから」 さらに力がこもる三蔵の抱擁に、悟空は柔らかな笑顔を浮かべた。
───守りたいものがあった。 手に入れたものは黄金の宝石。
だからこそ・・・
その紡がれる言葉に安心する。 もう少しすれば元に戻るから。
─────離さない……
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