Pneumonia |
いつものように悟空は、冬枯れの野に出かけていた。 風は強く吹いて、肌を刺すように冷たいはずなのに、今日は身体に心地良い。 咳が出た。 「まるで胸の中で風が吹いてるみたい」 胸に手を当てて音を聞く。 悟空は、顔を上げると当たりを見渡した。 悟空は、丘の上に野ウサギを見つけた。 また、咳が出た。 「く…苦し…」 止まらない咳に息苦しさが加わる。 走り出した悟空に驚いて逃げた野ウサギが、踞るようにして咳き込む悟空の側に近づいて来た。 「だ…大丈夫……」 荒い息を吐きながら野ウサギに笑いかけると、 「心配してくれたんだ」 野ウサギの頭を撫でて笑う金の瞳が、日に透ける。 空は高く、野は広い。 「気持ちいい」 また、咳が出た。 「…って」 ぎゅっと、野ウサギを抱きしめる。 「今日は、帰ってくるかな…」 呟く瞳が、淋しげにふせられる。 「お前、暖けぇ…」 スリスリと頬を野ウサギにすりつけて、ふっと顔を上げた。 「お前の友達?」 そう悟空は、腕の中の野ウサギに笑いかけながら、野ウサギを放してやった。 「待ってるよ」 側を離れようとしない野ウサギにもう一度笑いかける。 「友達、行っちゃうよ」 悟空の声に促されるように、野ウサギは子供を振り返り、振り返り、もう一匹の野ウサギと共に、野の向こうに消えた。 「大丈夫だよ」 悟空は、誰にともなく呟くと、今は家となっている所へ、足を向けた。
「ただいま…」 部屋の扉に手を当てる。 今、悟空の保護者はいない。 冬の冷気に満ちた廊下に人の気配はなく、灯りすら点されていない。 悟空の保護者──最高僧の称号を持つ男、玄奘三蔵法師は、仕事でかれこれ五日ほど留守にしている。 咳が出る。 「胸…痛い……」 胸の中に風が吹く。 「…早く帰って来いよ……俺、淋しいよぉ…」 そう呟く。 三蔵のいない間、悟空は毎日、三蔵の寝台に潜り込んで眠っていた。 三蔵の寝台で眠っていた、その事実を世話係の僧に一昨日の朝、見つかった。 三蔵のぬくもりも部屋に染み込んだ匂いも今は遠く、悟空の寂しさだけが募ってゆく。 咳が、また出た。 「…っ息吸えな…」 胸を押さえて咳き込む。 「嵐が吹いてる」 荒い呼吸が治まると、胸の中に吹く風の音に耳をすます。
翌日の昼過ぎ、悟空が待ちわびた三蔵が、帰って来た。 いつも出迎えの僧達よりも早く、一番に飛び出して来て、まとわりつく悟空が、今日に限って姿を見せない。 己の養い子は、雑事を片づけている間にも執務室に姿を見せなかった。 ようやく、辿り着いた自室のドアを養い子がそこにいることを暗に願いながら開けた三蔵は、落胆の色をその紫暗の瞳に滲ませた。 自室の室内は暖められ、夕食が運び込まれている。 三蔵は、まだ悟空が遊びに出かけて、帰ってないのかとも思ったが、夕食の時間に万年欠食動物の悟空が戻って居ないはずはないと、思い返し、ふと、よく自分の留守中に三蔵の寝台で眠っている事を思い出た。 「…ったく、何処にいる?」 三蔵は小さく舌打ちすると、悟空に割り当てられている部屋に向かった。
「おい、サル」 悟空を呼びながらドアを開けると、冷え切った空気が顔を打つ。 「…悟空?」 灯りも点されていない、冷え切った暗い部屋に入ると、埃とカビの匂いが鼻を突く。 とぎれとぎれの荒い息づかいの聞こえる方を暗闇をすかすように見る。 「おい?」 子供の身体に手を掛けた動きが、止まった。 「悟空?」 子供の、悟空の身体を抱き起こした。 「おい、悟空!」 血の気の失せた頬を叩く。 「悟空!!」 強く名前を呼ぶと、ようやく僅かな光を瞳に戻し、三蔵の姿を認めたときに見せる笑顔を見せた。 「…ん……ぞ…」 掠れた声で三蔵の名前を呼んだ途端、咳き込んだ。 「…い…き、でき……」 三蔵の方へすがりつくように手を伸ばしたまま、悟空は気を失った。 「!!」 あまりな悟空の状態に息を呑む。
いつも仕事で遠出する時、笑って見送っていた悟空。 寺院の僧達の悟空に対する態度は、判っていたつもりだったが、ここまでとは───思い至らなかった自分に腹が立つ。 悟空にと割り当てた部屋に火の気はなく、食事を与えられた気配すらない。 悟空は、三蔵が仕事で寺院を留守にしている間のことは何も言わない。 自分の養い子だからと、どこかで安心していた自分の甘さに後悔する。 こんな身体の状態に悟空が陥っていることに誰も気付いていない。 虫ずが走る。 慈悲の心が何だというのか。 己の養い子は、そのまっすぐな心と幼い身体で、僧達の仕打ちに三蔵の居ない間を耐えてきたのだろう。 ただ、ただ三蔵に迷惑を掛けないように、 たったそれだけの一途な願いのために、今この子供は、死線を彷徨っている。
昏睡状態の悟空の側で、死ぬなと、誰にともなく祈る自分に驚く。 医者にここ二、三日が峠だと言われた。 熱に浮かされて三蔵の名を呼ぶ悟空に、今の自分は何をしてやれるのか。 その間の仕事は、全て無視した。
汗にまみれた悟空の身体を拭い、新しい寝間着に着替えさせる。 このままもう二度と、あの明るい笑顔が戻らないのか。 自分を呼ぶ声があまりに煩くて、見つけだして殴ってやろうと探し当てれば、あまりの間抜け面で見返した子供。
医者が危険だと告げてから三日、ようやく容態が落ち着きを見せた。 「呼吸が安定してきました。もう、大丈夫でしょう」 聴診器をはずしながら傍らの三蔵に頷く。 「…そうか」 医者の言葉に三蔵は、安堵のため息を吐く。 「はい。意識が戻ったら安心なさってよろしいかと思います。ただ…」 言いよどむ医者に、三蔵は先を促す。 「かなり栄養失調のようですので、意識が戻ったら少しずつでも十分に栄養のある食事を与えてやってください。ちゃんとした食事をとっていれば、こんなに拗れることもなかったはずですから」 医者は、三蔵を安心させるように笑いかけると、部屋を出ていった。 三蔵はゆっくりと息を吐くと、悟空の側へ寄った。 額にかかった髪を払ってやろうと伸ばした手が、止まった。 ゆっくりと悟空の瞼が上がる。 「あ、三蔵、おかえりー」 悟空は、自分が眠っている間に三蔵が、帰って来たのだとでも思ったのだろう。 「へっ?!」 倒れ込む自分に訳が分からない。 「…あっ!」 抱き留められた腕に驚き、自分を包む三蔵のぬくもりに小さな声が漏れる。 「寝てろ」 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、細心の注意を払って悟空の身体を寝台に横たえる。 「さん…ぞ?」 いつもと違う三蔵の態度に、悟空は疑問符を浮かべた顔で見上げてくる。 「お前、自分が病気だったことに気が付かなかったのか?」 あまりな反応に三蔵は、目眩すら覚える。 「ったく…」 盛大なため息が漏れる。 「…さんぞ…?」 呆れ果てた不機嫌な顔で、こめかみを押さえる三蔵の様子に悟空は不安を覚え、恐る恐る名前を呼ぶ。 「ああもういい、寝てろ。まだ熱があるんだから、寝てろ」 もうどうでもいいと言わんばかりな口調で言われたことに、悟空は大きな瞳をさらに大きく見開く。 「お…俺、熱が出てたのか。そんで、あんなに胸が痛くて、苦しかったんだ」 先程まで自分が抱えていた、無くしてしまうかもしれない不安や恐れが、馬鹿馬鹿しく思えるほどの、悟空の脳天気な反応に、苦笑が沸き上がってくる。 「この…」 言いかけた言葉は、途中で飲み込まれてしまった。 「何、笑ってやがる」 嬉しそうにそう言う悟空に、三蔵はほんの少し紫暗の瞳を眇めた。 「バーカ、いいから寝ろ。次起きたら、飯食わせてやる」 そう言いながら、三蔵は悟空の頭を撫でてやる。 「うん」 ほころぶような笑顔を三蔵に向けて、悟空は眠りについた。
もうすぐ、雪の舞う少し前の話───────
その後、
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