Pneumonia

いつものように悟空は、冬枯れの野に出かけていた。
風は強く吹いて、肌を刺すように冷たいはずなのに、今日は身体に心地良い。

咳が出た。
喉がひゅうひゅうと鳴る。

「まるで胸の中で風が吹いてるみたい」

胸に手を当てて音を聞く。
耳元では、冬の風が鳴いていた。

悟空は、顔を上げると当たりを見渡した。
枯れた草が、風に身をさらしている。
葉の落ちた梢が、青い空に両手を伸ばして、少しでも太陽の暖かさを掴もうとしている。

悟空は、丘の上に野ウサギを見つけた。
野ウサギの方へ走り出す。
それに驚いて、野ウサギは逃げ出した。
追いかける悟空の息が、すぐに上がる。
いつもなら難なく野ウサギに追いつく足が、さほども走らない内に止まってしまった。

また、咳が出た。
今度は、止まらない。

「く…苦し…」

止まらない咳に息苦しさが加わる。
目に涙が滲む。

走り出した悟空に驚いて逃げた野ウサギが、踞るようにして咳き込む悟空の側に近づいて来た。
小首を傾げて、悟空の足にその鼻先を近づける。

「だ…大丈夫……」

荒い息を吐きながら野ウサギに笑いかけると、
悟空はその場に座り込んだ。
野ウサギが、膝の上にのってくる。

「心配してくれたんだ」

野ウサギの頭を撫でて笑う金の瞳が、日に透ける。
野ウサギの身体を抱き込んで、悟空は遙かに続く野の先の空を見た。

空は高く、野は広い。
風が、悟空の大地色の髪を薙いでゆく。

「気持ちいい」

また、咳が出た。
喉に引っかかるような咳。
胸の奥が、痛んだ。

「…って」

ぎゅっと、野ウサギを抱きしめる。

「今日は、帰ってくるかな…」

呟く瞳が、淋しげにふせられる。
そして、悟空は野ウサギの柔らかな身体に鼻先を埋めるようにして、保護者の居ない寂しさを押し殺そうとする。
野ウサギは、じっと悟空にされるまま、その腕の中に抱かれていた。

「お前、暖けぇ…」

スリスリと頬を野ウサギにすりつけて、ふっと顔を上げた。
すぐ近くに、もう一匹の野ウサギがこちらを見ている。

「お前の友達?」

そう悟空は、腕の中の野ウサギに笑いかけながら、野ウサギを放してやった。

「待ってるよ」

側を離れようとしない野ウサギにもう一度笑いかける。
その笑顔は酷く淋しげで、野ウサギはしばらくその丸い目を気遣わしげに悟空に向けていたが、

「友達、行っちゃうよ」

悟空の声に促されるように、野ウサギは子供を振り返り、振り返り、もう一匹の野ウサギと共に、野の向こうに消えた。
その姿を見届けると、悟空は立ち上がった。
風が、悟空の身体にまとわりつくように吹きすぎてゆく。

「大丈夫だよ」

悟空は、誰にともなく呟くと、今は家となっている所へ、足を向けた。











「ただいま…」

部屋の扉に手を当てる。
悟空の声が、薄暗い廊下に響く。

今、悟空の保護者はいない。

冬の冷気に満ちた廊下に人の気配はなく、灯りすら点されていない。

悟空の保護者──最高僧の称号を持つ男、玄奘三蔵法師は、仕事でかれこれ五日ほど留守にしている。
仕事に悟空を連れて行くことは滅多にない。
悟空は、その大きな金色の瞳を一人になる不安と寂しさに染めて、いつも三蔵の帰りを待っていた。

咳が出る。
冷えた廊下に悟空の咳が、大きく響く。

「胸…痛い……」

胸の中に風が吹く。

悟空は、三蔵の私室のドアに額を付け、

「…早く帰って来いよ……俺、淋しいよぉ…」

そう呟く。
伏せられた瞳から、一滴のきらめきが落ちる。
幼い背中が、小さく震える。
そうして、しばらくじっとしていた悟空は、ゆっくり顔を上げ、扉の前から離れた。
そして、振り返り、振り返り、自分に割り当てられている部屋のドアを開け、寝台に潜り込んだ。

三蔵のいない間、悟空は毎日、三蔵の寝台に潜り込んで眠っていた。
少しでも三蔵のいない寂しさと不安を打ち消すために。
ただ、それだけのために。

三蔵の寝台で眠っていた、その事実を世話係の僧に一昨日の朝、見つかった。
声高い罵倒と振り回される暴力によって寝台を追い出され、自分が眠った敷布も掛布も汚らしい物ののように扱われ、目の前で燃やされた。
そして、三蔵の私室に続く扉は、施錠されてしまった。

三蔵のぬくもりも部屋に染み込んだ匂いも今は遠く、悟空の寂しさだけが募ってゆく。

咳が、また出た。
止まらない。

「…っ息吸えな…」

胸を押さえて咳き込む。
ゼエゼエと喉が、酸素を求めて鳴る。

「嵐が吹いてる」

荒い呼吸が治まると、胸の中に吹く風の音に耳をすます。
そのまま、悟空は眠りについた。











翌日の昼過ぎ、悟空が待ちわびた三蔵が、帰って来た。

いつも出迎えの僧達よりも早く、一番に飛び出して来て、まとわりつく悟空が、今日に限って姿を見せない。
訝しく思いながらも、わらわらと寄ってくる出迎えの僧達に捕まってしまった三蔵は、その秀麗な顔に不機嫌の三文字を滲ませながら、逃れられない公務という名の手枷、足枷を見事にはめられてしまった。
そして、全てを終えて自室に戻ったのは、冬の日がほぼ暮れようとする時刻だった。

己の養い子は、雑事を片づけている間にも執務室に姿を見せなかった。
そのことが酷くこの保護者を落ち着かない気分にさせていることなど、周囲の人間達は気付くはずもなかった。
イライラと数が増える煙草の量が、その心情を如実に物語っていたにも関わらず。

ようやく、辿り着いた自室のドアを養い子がそこにいることを暗に願いながら開けた三蔵は、落胆の色をその紫暗の瞳に滲ませた。
そこに悟空の姿は無かった。

自室の室内は暖められ、夕食が運び込まれている。

三蔵は、まだ悟空が遊びに出かけて、帰ってないのかとも思ったが、夕食の時間に万年欠食動物の悟空が戻って居ないはずはないと、思い返し、ふと、よく自分の留守中に三蔵の寝台で眠っている事を思い出た。
そして、奥の寝室に続くドアを開けた。
そこにも期待した悟空の姿はなく、真新しい掛布が掛けられ、ほのかな香の香りと柔らかなぬくもりと光に包まれた寝台が、あるだけだった。

「…ったく、何処にいる?」

三蔵は小さく舌打ちすると、悟空に割り当てられている部屋に向かった。






「おい、サル」

悟空を呼びながらドアを開けると、冷え切った空気が顔を打つ。
それと同時にとぎれとぎれの荒い息づかいが聞こえた。

「…悟空?」

灯りも点されていない、冷え切った暗い部屋に入ると、埃とカビの匂いが鼻を突く。
悟空を拾ってきて、割り当てて以来、入ることのなかった部屋の状態に三蔵は、瞳を眇めた。

とぎれとぎれの荒い息づかいの聞こえる方を暗闇をすかすように見る。
窓際に置かれた寝台の膨らみが、人のいることを伝えていた。
三蔵は寝台に近づくと、上掛けをめくった。
そこには養い子が、身体を丸めて踞っていた。

「おい?」

子供の身体に手を掛けた動きが、止まった。
子供の今にも止まりそうな荒い息づかい。
手のひらに伝わる子供の常とは違う熱。

「悟空?」

子供の、悟空の身体を抱き起こした。
その顔色が変わった。
自分に向いた顔は、青ざめ、唇は紫に、堅く閉じた瞼からは、透明な滴が流れていた。

「おい、悟空!」

血の気の失せた頬を叩く。
名前を呼びながら何度か叩くと、小さなうめき声を上げて、うっすらと瞳を開いた。
開いた途端、溜まっていたのだろう涙が、流れ落ちる。
いつも生気に満ちた金の瞳は、朦朧と霞がかかり、焦点を結んでいない。

「悟空!!」

強く名前を呼ぶと、ようやく僅かな光を瞳に戻し、三蔵の姿を認めたときに見せる笑顔を見せた。

「…ん……ぞ…」

掠れた声で三蔵の名前を呼んだ途端、咳き込んだ。
震える手で胸を握りしめ、身体を二つ折りにして、全身を震わせて咳をする。

「…い…き、でき……」

三蔵の方へすがりつくように手を伸ばしたまま、悟空は気を失った。

「!!」

あまりな悟空の状態に息を呑む。
三蔵は悟空を抱え上げると、自室へ向かった。











いつも仕事で遠出する時、笑って見送っていた悟空。

寺院の僧達の悟空に対する態度は、判っていたつもりだったが、ここまでとは───思い至らなかった自分に腹が立つ。

悟空にと割り当てた部屋に火の気はなく、食事を与えられた気配すらない。
汚れきった寝台、埃の溜まったカビの匂いの充満した部屋。
暖かさの欠片もない部屋。

悟空は、三蔵が仕事で寺院を留守にしている間のことは何も言わない。
ただ、三蔵の留守の間に出会った人間のこと、見かけた動物のこと、見つけた植物のこと等について、きれいだった、咲いていた、友達になった──そんなたわいもない事を嬉しそうに三蔵に話して聞かせるだけだった。

自分の養い子だからと、どこかで安心していた自分の甘さに後悔する。
自分が側にいて、目が届く時に扱われる悟空の待遇が、自分が留守にしている間も当然のごとく悟空へなされていると信じていた、そんな自分の愚かさに唇を噛みしめる。

こんな身体の状態に悟空が陥っていることに誰も気付いていない。
否、誰もここに悟空が居ることすら、見えていない。
何も、誰も存在してないと、自分が留守の間、寺院の者達は振る舞い、生活していたのだろう。

虫ずが走る。

慈悲の心が何だというのか。
信仰をかさに、教えを大上段に振りかざして、何が敬虔なる信徒だと言うのか。
自分達が不浄の者と蔑み、排斥しようとするその態度こそが、何よりも醜く、下劣な行為だとわからないのか。

己の養い子は、そのまっすぐな心と幼い身体で、僧達の仕打ちに三蔵の居ない間を耐えてきたのだろう。

ただ、ただ三蔵に迷惑を掛けないように、
ただ、ただ三蔵の側に置いてもらえるように。

たったそれだけの一途な願いのために、今この子供は、死線を彷徨っている。




昏睡状態の悟空の側で、死ぬなと、誰にともなく祈る自分に驚く。
無くしたくない存在だと、今更ながらに気付く自分の愚かさに、自然と口元が嘲りの笑みを刻む。

医者にここ二、三日が峠だと言われた。
その言葉に、心が声にならない悲鳴を上げる。

熱に浮かされて三蔵の名を呼ぶ悟空に、今の自分は何をしてやれるのか。
焦燥と苛立ちが、降り積もってゆく。
傍らの医者の指示に従いながら、悟空の看病をして、三日目の朝を迎えた。

その間の仕事は、全て無視した。
最初、何度も入れ替わり立ち替わり、仕事をするように説得に来る僧達は、取り付くしまも与えられず、私室から追い出さた。
ピリピリと三蔵の覆う不機嫌のオーラと、人を射殺してしまえそうな紫暗の瞳の所為で、じきに仕事の催促来ていた僧達は、姿をみせなくなった。
今、三蔵の私室を出入りしているのは、悟空に付きっきりで診察をしている医者と部屋の主である三蔵本人だけだった。




汗にまみれた悟空の身体を拭い、新しい寝間着に着替えさせる。
荒い呼吸を繰り返す意識のない小さな身体。
口移しで薬を飲ませる。
その行為をもう何度繰り返しただろうか。
意識のない身体は、三蔵の気持ちを暗く、救いのない淵へと追いやっていく。

このままもう二度と、あの明るい笑顔が戻らないのか。
あの生気に溢れた金色の瞳は、開かないのか。
嬉しそうに自分の名を呼ぶ、あの声は聞けないのか。

自分を呼ぶ声があまりに煩くて、見つけだして殴ってやろうと探し当てれば、あまりの間抜け面で見返した子供。
思わず差し出した手を掴んだ子供。
殺風景だった生活に色と音を与えてくれた。
いつのまにか子供の存在が当たり前になった自分。
失うことなど考えられなかった。




医者が危険だと告げてから三日、ようやく容態が落ち着きを見せた。
付きっきりで診察をしていた険しかった医者の顔が、ほっとした表情にゆるむ。

「呼吸が安定してきました。もう、大丈夫でしょう」

聴診器をはずしながら傍らの三蔵に頷く。

「…そうか」

医者の言葉に三蔵は、安堵のため息を吐く。

「はい。意識が戻ったら安心なさってよろしいかと思います。ただ…」
「何だ?」

言いよどむ医者に、三蔵は先を促す。

「かなり栄養失調のようですので、意識が戻ったら少しずつでも十分に栄養のある食事を与えてやってください。ちゃんとした食事をとっていれば、こんなに拗れることもなかったはずですから」
「わかった」
「では、いったん私は、診療所に戻らせて頂きます。午後にまた、診察に窺います。三蔵様もお疲れでしょうから、今の間に少しお休みになられたらよろしいかと。では」

医者は、三蔵を安心させるように笑いかけると、部屋を出ていった。

三蔵はゆっくりと息を吐くと、悟空の側へ寄った。
あれほど荒々しかった呼吸は、それと判るほど穏やかになり、
安らかな呼吸を繰り返している。
青ざめていた頬にもうっすらと赤みが差し、容態が安定したことを伝えている。

額にかかった髪を払ってやろうと伸ばした手が、止まった。

ゆっくりと悟空の瞼が上がる。
久しぶりに見る金の瞳が現れた。
窓から射す冬の朝日にその金色が透ける。
しばらく焦点の定まらない瞳を彷徨わせていた悟空は、瞳に映る見慣れた金色に気が付いたのか、二、三度瞬きをすると、寝台の傍らに立つ三蔵の姿を認めて、笑った。

「あ、三蔵、おかえりー」

悟空は、自分が眠っている間に三蔵が、帰って来たのだとでも思ったのだろう。
嬉しそうに身体を起こす。
しかし、実際は風邪を拗らせて、三、四日昏睡状態で死線を彷徨っていたのだが、本人にそういう自覚があるとは到底思えない。
その上、三蔵が仕事で留守の間、ろくに食べてもいない。
そんな状態で急に起き上がったのだから、当然くらっと目が回った。

「へっ?!」

倒れ込む自分に訳が分からない。
その身体を支えるように、腕が伸ばされ、抱き留められた。

「…あっ!」

抱き留められた腕に驚き、自分を包む三蔵のぬくもりに小さな声が漏れる。

「寝てろ」

ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、細心の注意を払って悟空の身体を寝台に横たえる。

「さん…ぞ?」

いつもと違う三蔵の態度に、悟空は疑問符を浮かべた顔で見上げてくる。
その金の瞳に三蔵は軽い頭痛を覚える。

「お前、自分が病気だったことに気が付かなかったのか?」
「へっ、お、俺、病気だったの?!」

あまりな反応に三蔵は、目眩すら覚える。

「ったく…」

盛大なため息が漏れる。

「…さんぞ…?」

呆れ果てた不機嫌な顔で、こめかみを押さえる三蔵の様子に悟空は不安を覚え、恐る恐る名前を呼ぶ。

「ああもういい、寝てろ。まだ熱があるんだから、寝てろ」

もうどうでもいいと言わんばかりな口調で言われたことに、悟空は大きな瞳をさらに大きく見開く。

「お…俺、熱が出てたのか。そんで、あんなに胸が痛くて、苦しかったんだ」

先程まで自分が抱えていた、無くしてしまうかもしれない不安や恐れが、馬鹿馬鹿しく思えるほどの、悟空の脳天気な反応に、苦笑が沸き上がってくる。

「この…」

言いかけた言葉は、途中で飲み込まれてしまった。
納得した顔で、嬉しそうに、幸せそうに笑っている金色の瞳を見てしまったから。

「何、笑ってやがる」
「だって、何かさんぞ優しいから」

嬉しそうにそう言う悟空に、三蔵はほんの少し紫暗の瞳を眇めた。

「バーカ、いいから寝ろ。次起きたら、飯食わせてやる」

そう言いながら、三蔵は悟空の頭を撫でてやる。

「うん」

ほころぶような笑顔を三蔵に向けて、悟空は眠りについた。
そのやつれてはいるが、幸せそうな寝顔を見る三蔵の口元に浮かんだ安堵の笑みを知らずに。




もうすぐ、雪の舞う少し前の話───────






その後、
三蔵の私室に悟空の寝台が運び込まれ、
仕事で遠出の折りには、
状況が許す限り三蔵の傍らに悟空の姿が有るようになった。




end

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