花一輪

沈丁花の花が咲いた。
今年はいつもの年よりもずっと早い。
蝋梅など新年明けてすぐにその蝋細工のような黄色い花弁と甘い香を寒風に揺らせていた。
梅も節分祭よりも早く開いて、春節が終わる頃には満開になっていた。
寺院の中に植えられている河津桜もまだ二月の半ばだというのに花開いて、それを見た僧侶達がびっくりしていた。

だから、今こうして今年一番最初の桜の最初の一輪を見つけたって不思議じゃない。
そのちょっと寒そうで、でも誇らしげな花を見ても、俺の心は晴れなかった。

今朝、三蔵と言い合いをしてしまった。
明日から寺院の仕事で出掛ける。
いつものように連れて行って欲しいと願ったけれど、ダメだと突っぱねられた。

「何でダメなんだよ!」

諦められなくて食い下がったら、ハリセンが振り下ろされた。

いつもそうだ。
都合が悪くなったらハリセンを振り下ろして俺を黙らせる。
痛いし、容赦ない一撃だから黙るしか無いからいつもは仕方ないって思って黙る。
それに、連れて行ってくれない理由もちゃんとあった。

でも、今回は違う。
何度、訊いても「煩い」「黙れ」「殺すぞ」しか返ってこなくて。

「誤魔化すなよ!ちゃんと理由言えってば!」

法衣を掴んで揺さぶっても、手酷く振り払われて、睨みつけられるばかりで。

「何だよ!このおーぼー坊主!ハゲ!わからんちん!だいッ嫌いだぁ!」

手に触れた灰皿を三蔵に投げ付けて、俺は窓から外へ飛び出してきたのだ。

「…三蔵のわからんちん」

揺れる桜の花を見上げて、俺は悪態を吐いた。
思い出しても腹が立つ。
俺だってバカじゃない。
そりゃ知らないこともたくさんあって、経験もたくさんしたわけじゃないけれど、でも、今日の三蔵の態度が理不尽だってことぐらいわかる。

「ちゃんと…言ってくれれば俺だって、我が儘言わねえのに…」

桜の幹に背を預けて、その枝を見上げた。
まだ寒いのに、でも春の陽差しに照らされた晴れた青空。
その青空を背景に、いつ開いてもいい程に膨らんだたくさんの桜の蕾。
それと、開いた一輪の桜の花。

「言いたくない理由…なんだよな、きっと…わかってるけどさ、悔しいっていうか、淋しいって言うかさ…つまんねぇ」

一息吐いて、

「そう、思うだろ?なあ…」

枝先で揺れている花に同意を求めたら、

「わかってんなら、訊くな、バカ猿」

聞き慣れた声の返事が返ってきて、俺は文字通り飛び上がった。
声のした方を見れば、そこに三蔵が苛々した様子で、煙草をくわえて立っていた。

「…さ、んぞ…」

予想もしなかった三蔵の姿に俺は一瞬、呆然となったけれど、すぐに三蔵を睨んだ。
誤魔化されない。

「な、なんだよ、理由言いに来たのかよ」

桜の木に背中を預けて、俺は精一杯三蔵を睨んだ。
何を言われてもちゃんとした理由がなかったら、隠れてでもついて行ってやる。
そう思っていたら、

「どんなことをしても、括り付けてでも、閉じこめてでも置いていくから、無駄なことは考えんじゃねえぞ」

そう言って、煙草を足許に落とし、踏み消した。
俺を見返す瞳が剣呑な光を湛えている。

「なんなんだよ…置いて行かれる俺の気持ちぐらい考えたっていいじゃんか」

三蔵の言葉に情けない言葉がこぼれ出て、つんっと鼻の奥が痛くなった。

「悟空」

堪えて睨みつける俺の名前を三蔵が呼んだ。

ずるい。
ズルイ。
狡い。

普段は滅多にちゃんと名前を呼ばないくせに、こんな時だけ呼ぶなんて狡い。

「な、名前呼んだって、俺、納得しねぇもん。誤魔化されないかんな」

負けそうだけど、負けない。
そう誓って三蔵の顔をもう一度睨めば、三蔵が大きなため息を吐いた。

「……ったく」
「何、だよ…?!」

見つめる俺のすぐ目の前まで来ると、ぽんと頭に手を置いた。
そして、

「あのなぁ……」

本当に聞き分けのない奴と言わんばかりの表情で、俺の顔を見つめた。
三蔵の透明な紫暗の瞳に見つめられて、かっと頬が熱くなる。
さっき堪えた痛みがまた、ぶり返した。

「っちゃんとした理由しか聞かな……」

俺の言葉は三蔵の腕の中に消えた。
驚いて固まってる俺の後頭部を押さえて顔を上げられないように三蔵は腕に力を入れた。

「…明日行く所はな、お前を欲しがってるんだよ。連れて行けば置いて帰ってこなくちゃならなくなるんだよ」

顔を押し付けられた三蔵の胸からそんな言葉が聞こえた。
それって…。

「だから…わかりやがれ」

そう聞こえた瞬間、また三蔵の腕に力が入った。
息が苦しくなったけど、聞こえてきた三蔵の胸の鼓動の速さに、俺はぎゅっと三蔵の躯に腕を回した。

だから、それって────

俺の胸にも桜が咲いた日。




end

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