桜狩り




「三蔵、桜が咲いた」

窓辺に座った悟空が、嬉しそうに笑った。
仕事の手を止めて顔を上げた三蔵は、一瞬、目を見張る。

柔らかな春の陽差しに透ける姿。
悟空の身体を透かして見える窓の向こうの景色。

椅子をならして三蔵は思わず立ち上がった。
その音に、悟空は驚いた顔をして、三蔵を振り返った。

「な、に…?」

悟空の戸惑った問いかけに、三蔵は何でもないと、小さく息を吐き、そのまま、窓辺に座る悟空の傍へ寄った。
三蔵が自分の傍へ来てくれたのが嬉しいのか、嬉しそうに笑って、開け放った窓の向こうを指さす。

「ほら、あそこ」

窓のすぐ脇に立つ桜の枝に、数輪の花が咲いていた。

今年の春の訪れは遅い。
四月だというのに冷え込む日が続いた。
まるで、大地が、自然が、温かくなるのを拒むように、真冬のような気候が続いたのだ。
だが、それも漸く終わったのか、ここ十日ほどは温かい穏やかな日が続くようになった。
おかげで、いつもならとっくに咲き終わっている花達が、まだその姿を咲き競い、春の盛りを告げる桜の開花の時期と重なって、珍しく花の溢れる春を迎えようとしていた。

「ようやく、咲いたか…」
「うん…」

三蔵の言葉に頷きながら、悟空はすぐ傍らに立つ三蔵に身体を預けてきた。

「…どうした?」
「……なんでも、ない」
「そうか?」
「うん…」

もたれた悟空の身体に腕を回して支えながら、三蔵は唇を噛んだ。






西への旅が終わってどれくらいの日が過ぎたか。
旅立つ前に身を寄せていた寺院に一端戻った三蔵は、事後処理という名の報告を三仏神に行い、その後、斜陽殿のある山嶺の麓の小さな塔頭に身を寄せた。

”三蔵”としての責務や身を寄せていた寺院の責任を放棄したわけでなく、しばらくは静養を兼ねた静かな時間を過ごしたかったのだ。
その為に、寺院を離れて新たな生活を始めていた笙玄を無理を言って呼び戻し、悟空と共にその塔頭、瑶春院で暮らしていた。


だが、本来の理由は別の所にあった。


西への旅が終わって長安に戻った頃から、悟空は体調を崩すことが多くなった。
元来丈夫で、滅多に風邪も引かない悟空の変調は、三蔵のみならず、八戒悟浄をも慌てさせた。
だが、西への旅の疲れが出たのだと笑って、その場は治まったのだ。
その後、新しい生活が始まる頃には、悟空が体調を崩すことが無くなった所為もあった。
だから、皆、疲れだったのだと信じた。

三蔵以外は、信じた。

そう、三蔵は漠然と気が付いたのだ。
悟空が体調を崩した最初の時に。
旅立つ前と差して変わらぬ華奢な身体の小さな変調に。




近いのだと。




旅の間に、三蔵も悟空も数知れぬ怪我を負った。
死にかけたことも一度や二度ではない。
そのたびに、生きた心地もなく、失うかも知れない恐怖に苛まれて。
それでも失わずに今まで来られたのは、僥倖だったとでも言うのだろうか。

この今になって、命の危険など無いようなこの時期になって。
穏やかな生活が、また、旅立つ前の緩やかな時間が戻ってくるこの時に。
何故、悟空なのか。
悟空でなければならないのか。

誰に気付かれることなく、本人でさえ自覚しているかどうかさえ分からない状態で、少しずつ弱っていく。
人が病に冒されて弱っていくのとは違い、その存在が希薄になってゆく。
その魂が透けてゆくのだ。

幸せに笑っている実像が目の前で透けて、光に溶けそうになる姿に何度も心臓を鷲掴みにされて。
それでも尚、素知らぬふりをする自分。
成す術もなくただ、見ているしかない自分。
口にも態度にも出せず、ただ、いつもと変わりない時間をたわいない事柄で埋め尽くして。
穏やかに笑いながら。

移りゆく大地と共に、普段のままその時を迎えるのだ。



透き通る指先を日に透かしながら、悟空が窓辺に集う鳥達に話していた。

「…もうすぐ、消えちゃうんだ、俺。ずっと三蔵の傍に居たかったのに、寿命なんだって。酷いよなぁ…」

くしゃっと歪む表情とこぼれ落ちる涙。

「まだ、三蔵といっぱいしたいことも行きたい所もあるのに…まだ、もっと三蔵の傍に居たいのに」

服の袖で頬を流れ落ちる涙を拭って、悟空は笑った。

「でもな、三蔵、もうすぐ俺が居なくなるって知らないんだ。それが嬉しい…いつもと同じまんまで、三蔵の傍を離れたい…でないと、俺、我が侭言っちゃうだろ?」

差し出した手にコマドリが乗り、小首を傾げる。

「一緒に来てって…逝きたくないって泣いて喚いて、三蔵を困らせちゃうからさ…今のまま、何にも知らないままで…」

笑う瞳からまた、涙が溢れた。

「………でも、俺が…逝った後、三蔵が知ったら、怒るんだろうな…でも、俺、今のまま三蔵の傍に居たいから……内緒な」

悟空は手に止まったコマドリを空に追いやり、声も立てずに泣き続けた。
その口元には消えそうな笑顔を湛えて。



それが望みだと、それが願いだと、泣きながら笑っていた悟空の話を聞いてしまったから。
三蔵には、叶えてやる道しか残ってはいない。

喪失へ向かう時間の長さに怯えながら、三蔵は変わることなく、愛し子の傍に立っていた。






「満開になったらお花見に行こうな、三蔵」
「面倒くせぇなぁ。ここでも十分できるじゃねぇか」

微かな風に揺れる桜の花を見つめながら答える三蔵に、悟空はがばっと身体を起こした。

「ダメ!お花見なの。笙玄に弁当作ってもらって、お気に入りのあの場所へ行くんだ」

三蔵の法衣を握り締め、頬を膨らませて三蔵の顔を睨んでくる。
それに苦笑を漏らし、三蔵は悟空の頭を一つはたいた。

「何だよぉ」
「ガキ」
「いいじゃんか」

むくれた口調ではたかれた差していたくもない頭をさする。

「ふん…満開になったらな」

仕方がないと言外に滲ませて頷いてやれば、悟空のむくれた顔が見る間に綻んでゆく。
そして、

「笙玄に言ってくる」

そう言って、座っていた窓辺から飛び降りると、笙玄を探しに仕事部屋を飛び出して行った。
















一の重には、卵焼き、ほうれん草のおひたし、きんぴらゴボウ、菜の花の辛子和え、若竹の木の芽和えとキンカンの甘煮。
二の重には、唐揚げ、牛肉の野菜巻き、豚のショウガ焼き、レタスとキュウリのサラダ、プチトマト、スパゲッティのミートソース和えとミニグラタン。
三の重には、山菜おこわ、タケノコご飯、豆ご飯と小豆ご飯。
四の重には、ちらし寿司と巻きずし。
最後、五の重には、果物と和菓子。
そして、水筒と三蔵のための冷酒。

悟空の見守る前で、笙玄は一つ一つ説明しながら重箱を重ね、桜水を染め抜いた風呂敷に包んだ。

「出来ましたよ。悟空」
「うん!ありがと、笙玄」

幼い頃の仕草で、悟空は笙玄に抱きついた。

「悟空」
「ありがとうな」
「はい」

すりすりと額を笙玄の肩に触れ、とっておきの笑顔を悟空は見せた。
それに、笙玄も旅立つ前と変わらぬ穏やかで優しい笑顔で答える。

「三蔵様と楽しんできて下さいね」
「うん。でも、ごめんな」
「何がです?」
「だって、一緒にお花見に行けないからさ…」

曇った笑顔に笙玄は、小さくため息を吐く。

「そんな心配は無用ですよ。私は悟空と三蔵様の熱々な姿に当てられなくて、ほっとしてるんですから」

そう言って、笙玄は笑った。
途端、悟空の頬がバラ色に染まる。

「な、な、なに…そ、そんな、わけ…」
「ほら、図星」

慌てる悟空に笙玄はくすくすと、笑いを堪えて悟空の額を弾く。

「あ〜〜っ!」

笙玄の仕草にからかわれた事に気が付いた悟空が、今度こそ顔を真っ赤にして。
耐えきれず、笙玄が声を上げて笑う。

「もうっ!」

膨れながら、結局悟空も笙玄に誘われるように笑い出してしまった。
ひとしきり笑って、

「さ、急がないと三蔵様の気が変わってしまいますよ」

笑いすぎて滲んだ涙を拭う悟空を笙玄は促した。

「うん!」

弁当と水筒、冷酒の入った籠を二人で下げて三蔵の待つ玄関へ急いだ。
そして、遅いと怒られながら、嬉しそうに手を振る悟空と、冷酒の入った籠を下げて先を行く三蔵の背中を笙玄は、柔らかな笑顔で見送ったのだった。















「綺麗…」

散々はしゃぎ回って、お弁当をお腹一杯食べて満足したらしい悟空は、桜の幹にもたれて座る三蔵の腕の中で、はらりはらりと時折花弁を散らす満開の桜を見上げていた。

「さんぞ…綺麗だね…」
「ああ…お前でも分かるか」
「ひっでぇ…」

三蔵の小馬鹿にした言いぐさにくすくすと、喉を鳴らして笑い、悟空は三蔵の手を取った。
そして、その手で自分を抱きしめるように両手で抱き込む。

「……さんぞ…」
「…あぁ?」
「あのな…俺、何が幸せで何が不幸かよくわかんなねぇけど…今、こうして三蔵と一緒に居られることは幸せだと思うんだ」
「そうかよ」
「うん…三蔵は?三蔵は今、幸せ?」

ぎゅっと、三蔵の腕を抱き込む手に力がこもる。
それに三蔵は深く息を吐いて、手をほどき、悟空を自分の方に向けた。

「…さ、んぞ?」
「バカだとは思っていたが、いくつになってもお前は賢くならねぇらしいな」
「何だよ、それ…」

拗ねたように眉を寄せる悟空の表情に、三蔵は小さく笑った。
そして、

「幸せじゃなきゃ、ここにいねぇよ」

そう言って、悟空に口付けた。
触れた唇の冷たさに、ふいに三蔵は確信を持った。



今日だと。
今、この時だと。



ただ、心に落ちた揺るぎない確信。

それでもこの手に抱き込んだ身体の柔らかさに安堵し、伝わる温もりに甘い想いが広がる一方で、鼻の奥がつんと痛くなる。
だが、態度は何処までもいつものままで。



「そうか…そうだよな」

そう言って、悟空は笑い、三蔵の首に抱きついた。
触れる髪のくすぐったさ。
首筋にかかる吐息は甘い。

ただ、抱き込んだ身体を透かして見える本来は身体に遮られて見えないはずの己の身体。
光に溶けるように、透明になって行く。

「うん…三蔵も幸せで、俺も幸せだ…うん…嬉しい…」

はんなりとした微笑みを浮かべた悟空を掻き抱いた腕は、宙を掻いた。
三蔵はそのまま、己の身体を抱いて踞る。
風が、柔らかく温かい風が三蔵を包み、唐突に吹き上げた。
その風に誘われるように顔を上げれば、いつか見たあの風景のように、桜の花びらが吹き上がり、蒼空へと消えた。

「…バカ猿」

呟いた三蔵の頬を、銀の雫が一筋伝った。
















「よう、笙玄」
「こんにちは、笙玄さん」
「あ、いらっしゃいませ」

散り始めた桜の花びらを玄関先で掃いていた笙玄に、八戒と悟浄が声をかけた。
笙玄は手を止めて、挨拶を返す。

「三蔵と悟空は居ますか?」

悟浄が抱えた風呂敷包みを見つけた笙玄が、申し訳なさそうに首を振った。

「いねぇのか?」
「はい。朝からお二人でお花見に出掛けられました」
「あらら…遅かったようですねぇ」
「みたいだな」

八戒と悟浄は互いに顔を見合わせて、苦笑を零し合う。
そんな二人に、笙玄は申し訳ないと、頭を下げた。

「あなたが謝る事じゃないですから」
「そうそう、突然来た俺たちが悪いんだからよ」
「はあ…」

それでも申し訳ないと、表情の晴れない笙玄に、

「では、三人でお花見しましょう」

と、八戒が提案した。
それに悟浄も嬉しそうに賛成し、戸惑う笙玄をひっぱて瑶春院の庭に咲く桜の下に持ってきた包みを開いた。

「腕によりをかけて作りましたから、たくさん食べて下さいね」
「そうそう。熱い二人のお邪魔虫よりずっとこっちの方が楽しいぞ」
「お二人とも…」

小皿に取り分けられ、差し出された料理を受け取りながら、笙玄は苦笑を零した。

と、突然三人の傍を桜の花びらを抱き込んだ風が走り抜けた。
その風に無理矢理導かれた三人は、自分達が座る桜の木を見上げた。
見上げた先で、風に運ばれて消えて行く花びらと、雨のように降り注ぐ花びらを見た。

それは、春の陽差しを反射して、今ここにいない尊大な男の金糸と慈しむ少年の澄んだ金瞳のように光った。

「帰ってきたら、朝まで付き合ってもらいましょうね」
「だな。朝まで酒盛りしような」
「ほどほどに」

二人が帰って来る日暮れまでの時間、三人は笑い合いながら盃を酌み交わした。




end




リクエスト:悟空の寿命ネタで、切なく、甘い感じの二人のお話。
160000 Hit ありがとうございました。
謹んで、河原ノこのは様に捧げます。。
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