緑 桜 |
灌仏会が終わり、束の間、三蔵の仕事は暇になる。 暇と言っても通常業務に戻るだけなのだけれど、それでも年に何度かある大きな行事の前の忙しさに比べれば遙かに暇なのであった。 暇なのだが、書類の山は相も変わらずで、何処が暇になったと訴えたい気分の三蔵だった。 「…ったく、減らねぇ…」 いい加減手が疲れて、少し痺れてきた三蔵は筆を投げ出し、傍らの煙草に手を伸ばした。 桜の花の時期も終わり、庭先の桜の木々は柔らかな緑の葉に覆われている。 三蔵の執務室の扉を応えも無しに開けて入ってくる勇者はこの寺院には二人しかいない。 勢いよく開いた扉と同時に名前を呼ぶ声に三蔵は眉間の皺を深くして、小さなため息を吐いた。 「静かに入ってこいといつも……」 顔を上げて怒鳴りかけた三蔵の顔が驚きに染まり、そのまま固まった。 「さんぞ、すっげぇだろ」 弾む声が桜の枝の向こうから聞こえる。 「…悟空」 名前を呼べば、ばさりと花が置かれ、悟空のはにかんだような、ばつの悪そうな表情がようやく見えた。 「何でこうなったのか、ちゃんと話せ」 言えば、悟空は驚いたように金瞳を見開いた後、ふわりと笑って、頷いたのだった。
八重桜の花が満開を迎えたと、風が教えてくれた。 そこには、春、既に咲き終えた桜の若緑の葉と、赤味の強い若葉を背に八重桜の重たそうな花が枝々にたわわに咲いていた。 「うわぁ…きれー」 目に映る八重桜の花々にそれは嬉しそうに笑って、悟空は林を歩き回った。 「緑…?」 見上げた花は白いようにも見えたが、よくよく見れば緑の色を持っていた。 「緑の…桜…?!」 それは薄茶色に葉先を染めた若葉に溶けているように見えて、違う薄緑の八重の花びらがそこにあった。 「うわっ!」 驚いて飛び退く悟空の足下に、桜の枝が軽い音を立てて落ちる。 「えっと…」 そして、どうしたものかと周囲を見回す悟空の耳に、桜の聲が聴こえた。 「くれ…るの?いいの?…確かに珍しいけど…」 桜の言葉に困惑した表情を悟空は見せる。 「だからって…こんな大きな枝……」 そう言って拾い上げた枝は一抱えもあった。 「こんなに落としたら…痛くない?枯れない?」 悟空の心配に軽やかな笑い声と共に、こんなことで枯れはしないと、聲が聴こえる。 「うん…わかった。じゃあ、遠慮無くもらうな」 桜の優しく、そして何処か誇らしげな聲に、悟空は何度も頷き、ようやく晴れた空のような明るい笑顔を浮かべ、その枝を受け取ったのだった。
「本当にあいつらは…」 悟空の話に、三蔵が頭を抱えてため息を吐いた。 「…うん、俺もそう思う」 三蔵のため息に悟空も頷けば、三蔵は苦笑を浮かべた。 「さて、どうしたものか…」 桜の枝の傍まで三蔵は近づき、その扱いに渋い顔を見せた時、執務室の扉が開いた。 「これは…また……凄い…」 執務室の床に置かれた桜の大きな枝を見つめて笙玄が、その美しさにため息混じりに呟く。 「み、緑……の、桜…ですか?」 笙玄の言葉に嬉しそうに頷く悟空に、笙玄はほっとしたような、けれど何処か畏れを抱いたような笑顔を浮かべた。 悟空は大地母神が生み落とした子供だと、三蔵から聞いた。 だから、こういった人の目には触れたこともない珍しい花が、人の力では手折れそうにもない大きな枝が、それも手折るのを憚る桜の枝が目の前にある理由を考えれば、笙玄にはただ、畏れが先になってしまう。 「で、これ…どうしたんですか?」 そっと桜に触れて問えば、 「サルが連中から貰ってきたんだよ」 と、悟空ではなく、三蔵から答えが返ってきた。 「はい?」 三蔵の言葉に悟空を振り返れば、悟空は困ったような、はにかんだような表情を浮かべていた。 「連中って…?」 至極最もな笙玄の問いに、悟空と三蔵は顔を見合わせる。 「このままでは枯れてしまいますから、ちゃんと花瓶に入れてあげましょうね」 そう言った。 それからしばらく、珍しい緑の桜が、三蔵と悟空の住む部屋を飾っていた。
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