ふわふわした浮遊感。
目を開いたそこは、乳白色の闇の中。
足下すらおぼつかない塗り込めたような白い闇。

───何でこんなとこに・・・いるんだろう・・・

悟空は呆然と立ちすくんでいた。




White Haze




錫杖を走らせながら、悟浄が呆れた。───数の多さに。

気孔を放ちながら、八戒が困った笑顔を向けた。───強さに。

寸分違わぬ射撃の腕を見せながら、三蔵がうんざりした舌打ちをする。
───打ち倒しても経文に伸ばされる手に。

如意棒を振るいながら、悟空は空腹を訴えた。───予定してない運動に。


それは日常になりつつある妖怪達の来訪。
いつものように簡単に片付けられるはずだった。



だが今、ぐったりした悟空を抱えて、八戒が走っていた。



「悟空──っ!」

八戒の焦った叫び声が、辺りに木霊した。

目の前で倒れ込む姿。

一瞬の閃光。

それに包まれた悟空の身体。
光が消えたその後、悟空は倒れた。

迫る妖怪達を薙ぎ払い、八戒は倒れた悟空に襲いかかる妖怪を気孔波で弾き飛ばす。

「悟空っ!」

駆け寄り、抱き起こした悟空に意識は無かった。

「そいつはもう目覚めない」

悟空を抱く八戒の周囲で声が響いた。

「どんなことをしても、孫悟空は二度と目覚めない」

嘲笑が響き渡った。

「何を!!」

周囲を見渡しても声の主の姿は見つけられない。
じりじりと周囲を取り囲む下っ端の妖怪達の姿しかない。

「どこに隠れてるんです?」
「さあ?猪八戒、その術は俺を見つけて、倒したとしても解けない」
「そんなこと、やってみないとわかりません」

そう言いながら何もない空間を八戒は、睨み付けた。

「無駄だよ。お前には俺は見つけられない」
「解りました。無駄だとおっしゃるなら、こちらも考えさせていただきます」

八戒は睨み付けていた表情をいつもの人好きのする笑顔に変えると、悟空を抱き上げる。
そして、離れてしまった三蔵の元へと走り出した。
その背に嘲笑が追い打ちを駆ける。

「例え三蔵法師であろうと無駄なことだ」

走る八戒の後を追いすがって、妖怪が刃を向ける。
その刃を打ち払いながら、八戒は三蔵の姿を求めて走り続けた。













「うにゅぅ・・・」

妙な声を上げて、子供が目覚めた。

「起きたか」

もぞもぞと毛布の中から這い出てきた子供に、金色の美丈夫が声を掛けた。
声の方を見た子供の瞳が、大きく見開かれた。
自分に声を掛けた金色の人の美しさに。
さらさらとこぼれ落ちる金糸の髪、自分を見つめる深い紫の瞳。
白い肌、純白の服。
窓から差し込む陽の光に照らされるその姿は、何もかもが眩しく、神々しい。
その姿に見とれる子供の視線に美しい眉間にしわを寄せて、金色の美丈夫は振り返った。

「何、見てる。起きたのならさっさと、顔洗って、飯を食え」

不機嫌な口調で言われて、子供は我に返る。

「あっ、う、うん」

頷くと、布団から出て、側に寄っていく。

「おはよ、金蝉」
「ああ」

子供の遅蒔きながらの挨拶に、ぶっきらぼうな返事が返った。
答えてくれたそのことが嬉しくて、子供は、ほわっとした笑顔を浮かべた。













「三蔵!」

銃を撃つ三蔵の姿を認めて八戒は叫んだ。
その声にちらと、視線を向けただけで、三蔵は戦闘に意識を戻す。
八戒は三蔵が相手にしている妖怪の数を見て、なるほどと、納得する。
ここに悟空を置いて、三蔵の戦いに参加することを一瞬八戒は考えたが、戦場の真ん中に意識のない悟空を置くことは、殺してくださいと自分から首を差し出すようなものだ。
かといって、片手で悟空を抱いて、人数だけは多い妖怪を相手にするのは、相手にハンデを付けるようで面白くなかった。

「さて、困りましたねぇ」

さして困ってないような笑顔を浮かべて、八戒は悟空を抱き込んだまま、三蔵が戦っている姿を眺めていた。

と、不意にしゃがみ込んだ。

それに答えるように、鎖の擦れる音がしたかと思うと、八戒の周囲に迫っていた妖怪が薙ぎ払われる。

「何、ぼうっとしてんだ?」

悟浄が、鎖の戻った錫杖を肩に担いで近づいてきた。

「はあ、ちょっと手が離せなかったものですから」

八戒は、少し困ったような曖昧な笑顔を悟浄に向けた。
その笑顔に悟浄は、訝しげな視線を八戒に向ける。

「それ、ひょとしてサル?!」

八戒の腕の中で気を失っている悟空に悟浄が、気付いた。

「どしたの?」
「それが・・・」

口を開こうとした八戒が、振り向く。
すかさず、悟浄が背後に迫っていた妖怪を打ち倒した。

「取りあえずこいつらを片づけないと、ゆっくり話もできねえな」
「そうですね」
「んじゃぁ、片づけて、三蔵様に合流しましょ」
「はい」

にやりと笑う悟浄の腕の一降りで、錫杖から唸りをあげて鎖が放たれた。













「ねえ、ねえ、天ちゃん。これ、何の本?」

子供が差し出した本を見た男は一瞬目を見開くが、すぐにいつもの掴めない笑顔を浮かべると、その本をさりげなく受け取った。
そして、

「これは、悟空にはまだ難しいですから、もう少し大きくなったら読んでください」

言い含めるような男の言葉に、子供はちょっと小首を傾げて考えた後、素直に頷いた。

「わかった。じゃあ、違うのにする」
「はい」

男の返事に子供は、にっこっと笑うと、貸してもらう本を捜しに、雑然と積み上げられ、詰め込まれた書棚をまた、物色し始めた。
その幼い姿をしばらく見つめた後、子供から取り上げた本を見て、苦笑を漏らした。
こんな本を子供に見せたと知ったら、子供の保護者がどんな顔をして怒鳴り込んでくるか。

「面白いものが見られるかも」

考える程に、面白くなってきた。
男は、人の悪い笑みを口の端に浮かべて、本を捜す子供を呼んだ。

───これくらいは、いいですよねぇ

子供が男に見せた本の内容より、少し内容の穏やかな本を子供に勧めるために。













気を失い、目を覚ます気配のない悟空を腕に抱いた三蔵が、説明しろと、八戒を睨んだ。
その視線のきつさに八戒は、思わず苦笑を浮かべる。
何とか妖怪の襲撃をかわし、打ち捨てられた廃墟の中、その民家の一つに避難し、今に至る。
意識のない悟空を八戒から受け取った三蔵は、二人がみたこともない優しい仕草で悟空を抱き込んだ。
その姿に思わず悟浄は、

「愛されてるねぇ、猿は」

と呟いて、鉛玉を食らった。
人を人とも思わない普段の三蔵だが、こと悟空に関してはペットだ下僕だと言いながら、甘やかし、大切にしている。
そのことを三蔵は、隠しているつもりらしいが、日頃の言動を見ていれば一目瞭然であった。
そして、今の三蔵の態度に今更ながらに三蔵の悟空に対する思いを実感した二人だった。

「実際の所、僕にもよくわからないんですよ。突然、閃光に包まれたかと思うと、倒れたものですから」
「怪我は?」

悟浄が、三蔵の腕の中の悟空を覗き込んだ。

「無いと、思います」

そう言いながら、三蔵を伺う。
三蔵は、八戒の視線に黙って頷いた。

「そーかよ。で?」

先を促す。

「正体が掴めなかったのが残念ですが、相手はもう二度と悟空は目覚めないと、どんなことをしても無駄だと笑っていました」

告げる八戒の瞳が、悔しげに伏せられる。

「どんなことをねえ・・・」

悟浄が新しい煙草に火をつけながらため息を吐いた。

「三蔵、どうしたら・・・」

八戒の言葉は、ふいっと、顔を上げた三蔵によって遮られた。

「三蔵?」
「何だ?」

八戒と悟浄が、三蔵の視線を追う。

「来るぞ」

三蔵が言うが早いか、無数の岩が民家の壁を突き破って襲いかかってきた。













「ああ、捲兄ちゃんずっるいーっ!」

子供がぷうっと頬を膨らませて、怒る。

「狡くなんかねえよ」

くっくっと笑いながら、男は最後の一枚を机の上に向けた。

「むうっ!」

負けたのが悔しくて、にやにや笑う男を上目遣いに睨む子供の瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。

たかがトランプ。
されどトランプ。

子供相手に本気で相手をしなくてもと思うが、いい加減では相手に失礼と、男は手加減せずに相手をする。
これは子供に限ったことではない。
どんな相手に対してもだから、トラブルの元には事欠かない。
が、目の前で悔し涙を浮かべる子供には、どうも甘くなる傾向にあった。
男は今にも泣きそうな子供の姿に居心地の悪さを感じて、つい、口をついて子供を宥める言葉が出てしまう。

「よし、もう一回だ」

男のその言葉に、今まで泣きそうに歪んでいた子供の顔が、ぱっと、明るくなる。

「今度はぜってー勝つもん」

机の上に身を乗り出して、机に伏せられてゆくトランプを目を輝かせて、子供は見つめていた。













崩れた瓦礫の中から八戒が立ち上がった。
服のほこりを払いながら。

「三蔵、生きてます?」
「ああ・・・」

バラバラと砂埃を撒き散らして、三蔵が忌々しそうに身体を起こした。

「悟浄?」
「生きてるよ。悟空は?」

悟浄の声に、三蔵が腕の中に抱き込んで庇っていた悟空を見せる。

「おやま、お優しいこ・・・」

悟浄の頬をかすめて、鉛玉が飛んだ。

「っつぶねえだろーが!」

その声に重なるように悲鳴が上がる。

「あら、まーだいらっしゃる?」
「のようで」
「とっとと、片付けちまえ」

吐き捨てるように言う三蔵の声に、八戒と悟浄は顔を見合わせる。

「怒って、ますね」
「怒ってるよ」
「仕方ないですか?悟空のことですから」
「だな」

二人はため息を吐くと、悟空を抱えた三蔵を挟むようにして身構えた。













「金蝉──っ!」

桜の木の上から、下で酒を飲む金色の美丈夫を子供が呼んだ。
呼ばれて上を見上げれば、子供が嬉しそうに手を振っている。
その様子にふっと、男は瞳を眩しそうに眇めた。
それにほころぶ子供の笑顔を、隣に座る翠の瞳の男が、楽しそうに見上げた。

「可愛いですねえ」
「何が?」
「悟空が、ですよ」
「ふん、あれはサルだ」
「だから、可愛いんじゃないですか」

にこにこと笑顔を向ける男に、金色の美丈夫は嫌そうな顔を向けただけで、盃をあおった。
桜はたわわに花を付け、散り始めた花びらがはらはらと舞い落ちる。

たゆたい、微睡む時間。

子供の笑い声が耳に心地いい。
日常の煩わしさが引いて行く。

「このまま、過ごせればいいんですけどねぇ」

何を思ってか男が口にした言葉は、ここにいる誰もが望んでいた事だった。













足下に寝かせた悟空を抱え上げた三蔵は、言い知れない焦燥を抱いていた。

目覚めない悟空。

意識がないだけで、その姿は眠っていると言っても過言ではない。
微かに上下する胸と、暖かい体温だけが、悟空が生きていることを伝えている。

目覚めなければどうなる?

この過酷な旅において、足手まとい以外の何者でもなくなる。
例えどんなに戦闘能力に優れていようと、三仏神からの下命であろうと。
そして、自分が離したくないと思っていても、足手まといは切り捨てなければならない。
それは悟空とて例外ではない。
頭ではわかっていても、気持ちは納得できはしない。
このまま目覚めなければ、置いて行く。
その決断をさせないで欲しいと、三蔵は願っていた。



「取りあえずは片づいたようですね」

八戒が、瓦礫と化した周囲を見渡して言う。

「で、どうするよ?三蔵」

煙草に火を付けながら悟浄がお伺いを立てた。

「こいつを術に掛けたヤツを探し出す」
「さいで」

悟浄の返事を待たず、三蔵は悟空の身体を抱え直すと、歩き出した。

「なーんか焦ってる?」
「みたいですね。気持ちは分かりますが、少し腰を落ち着けないと良い考えも浮かばないと思うんですけど」

歩く三蔵の後ろ姿を見ながら、八戒がため息を吐く。

「術を掛けたヤツを締め上げるしかねえんなら、やるっきゃないっしょ」
「そうですね」
「猿が元気でないと、三蔵が鬱陶しいば・・・」

悟浄の足下の瓦礫が、弾けた。
驚いてみれば、三蔵が立ち止まって、こちらを睨んでいる。

「地獄耳」

ぽつりと呟いたと同時に頬を銃弾が掠める。

「くそ坊主が!」
「行きますよ、悟浄」

不服そうに舌打ちする悟浄を促して、八戒は先を行く三蔵を追って走り出した。













白いもやを透かして見える優しげな風景。
薄ぼんやりと形作る遠い記憶。
それは幸せだった毎日。
泣くこともなく、淋しさを知ることもなく、穏やかに流れて行った時間。

「あれは・・・こ・・んぜ・・ん」

無意識に口をついて出るその名前は、誰よりも大切な、何よりも眩しい太陽。
その名を口にする悟空の胸に、言いようのない思いがこみ上げてくる。
美しい金糸の長い髪。
深い紫の水晶の瞳。
不機嫌な顔、不機嫌な口調。
でも優しくて、暖かくて、心の綺麗な人。

「金蝉だ・・・」

もやを通して見るその姿は、変わらずに美しくて、眩しい。
その金蝉の側をじゃれるように付いて歩く幼い日の自分を見て、悟空の顔がほころんでゆく。

「うん、この後、金蝉が俺に蹴躓いて転んで、おもっきし怒られたんだ」

楽しそうに笑う。

「あ、天ちゃんだ」

黒髪の白衣を着た眼鏡の若者が、金蝉と悟空に話しかけていた。

「天蓬・・・天ちゃん」

天界軍の元帥。
いつもにこにこして、色々なことを教えてくれた人。
白衣を着て、山のような本の中に埋もれてた。
時々、金蝉と捲兄ちゃんと俺の三人で、天ちゃんの部屋の掃除に行ったっけ。
でも、掃除するのは俺と金蝉と捲兄ちゃんで、天ちゃんは何もしないんだ。
そんで、金蝉がキレて、怒るんだ。
くすくすと笑いがこみ上げてくる。
懐かしい顔ぶれ。
楽しかった毎日。

「捲兄ちゃんが、天ちゃんに怒られてる」

軍服を着た若者が、天蓬に怒られている。
その姿を憮然とした表情で金蝉が見ていた。
自分は金蝉にしがみついて、目に涙を浮かべている。

「そうだ、こん時、捲兄ちゃんにめちゃめちゃ脅かされたんだ」

半泣きになった悟空を庇うように金蝉が立ち、いつも笑っている天蓬が、珍しく怒っていた。
怒られている若者は、曲がりなりにも天蓬の上官、捲簾大将。
天界軍の将軍だった。

「居心地が良かったんだ・・・」

呟く悟空の瞳が潤んでゆく。

「会いたいよう・・・もう一回会いたいよう・・・」

思いは言葉となって、悟空からあふれ出る。
忘れていた大切な思い出。
消えていた大切な記憶。
泣き崩れる悟空の後ろに、ひっそりと降り立った影があった。













前を行く三蔵が、突然立ち止まった。
そこは、悟空が倒れた場所。

「三蔵?」

悟浄と八戒が追いついて、立ち止まった。

「どうした?」

三蔵がそっと、悟空を下ろし、その場に寝かせた。
そして、懐から銃を取り出すやいなや、何もない空間に向けて発砲した。
途端に上がる苦鳴。

「なーる」

悟浄が錫杖を召還する。

「そう言うことですか」

八戒が、気孔波を三蔵が撃った空間に向けて、放った。
すると、目の前の空間が歪み、その歪みは周囲に波及し、三蔵達を覆う空間全部が歪んで消えた。
そこには、無数の妖怪達がおのおの獲物を構えて、立っていた。
その数の多さに悟浄が口笛を吹く。

「なんとご大層なことで」
「一体何人の方がいらっしゃるのやら」
「めんどくせぇ」

三蔵が吐き捨てる。

「三蔵は、悟空をお願いします」

八戒の言葉に三蔵が、一瞬、目を見開いた。

「飼い主は、ペットを守れって」
「ふん」

揶揄するような悟浄の視線に三蔵は、つまらなそうに鼻を鳴らすと言った。

「後で、殺してやる」
「あら、珍しい」

にやっと笑った悟浄の頬を銃弾がかすめた。

「なろぉ」
「やっぱり、今殺す」
「三蔵、後にして下さい。今、戦力ダウンすると、悟空が死んでしまいます」

八戒の言葉に忌々しげに舌打ちすると、三蔵は銃口を妖怪達に向けた。
そして、ろくに照準も合わさずに発砲する。
それが、合図となった。













しばらく泣いた後、悟空はまた、白いもやを通してみる懐かしい思い出に目をやった。

桜の下でのお花見。
ほろ酔い加減の金蝉と天蓬。
自分と一緒にはしゃぐ捲簾。
舞い散る花びら、十六夜の月。

香る思いを悟空は抱き込むようにして見入っていた。
その肩を不意に叩かれた。
大きく肩を揺らして、振り返ればそこにはもう一人の自分がいた。

長く伸びた髪、尖った耳、伸びた爪。
猫のような光彩を持った金晴眼。
斉天大聖孫悟空。
天に並ぶもの無き強き力を持った神と等しい存在。
もう一人の自分。
纏う空気まで鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた自分。
破壊と殺戮を好む異端の存在。

その彼が踞る悟空を見下ろしていた。
声もなく見上げる悟空の濡れた頬にそっと手を触れ、静かな声音で諭すように言葉を綴った。

「ここは居心地がいいだろうな。だが、お前が今見ているその風景は遠い。その手を差し伸べても届かぬものだ」

そっと頬を撫で、その輪郭をたどる。
その手が酷く優しくて、悟空は黙ってもう一人の自分を見つめた。

「過去の幸せに浸ってお前はどうする?それでお前は満足するのか?」
「・・・・えっ?」
「やがて、彼のもの達の側に行きたいと、お前は望むのではないのか?」

告げられた質問の形を取った断定に悟空の瞳が見開かれる。

「望むのはお前の自由だ。誰に遠慮することも無いだろう。だが、今は何より側にいたいと思う存在がお前にはあるはず。思い出に浸って忘れてしまったか?」
「側に居たい・・・存在?」

呟く悟空の脳裏を一瞬、金の光が過ぎる。

「”外”へ戻ればここでの事はお前は忘れてしまう。ならば、お前の気が済むまでここにいることを俺は止めはしない。だが、いずれは”外”へと戻らねばならない。わかっているな」

噛んで含めるように話すその瞳は、柔らかく暖かい。

「”外”って・・・」
「”外”だ。”外”への道はお前の中にある。たどってきた道も戻る道も」
「戻る・・・何処へ?」

揺らめく瞳に笑いかけると、その瞼に口づけを贈る。

「よく考えるがいい。お前にとって大切なものについて、”外”について。今、お前の見ているものについて。だから、お前が戻るまでの間、お前の大切なものは俺が守ってやる」
「・・・大切・・な・・もの」
「お前をここへ追いやった鬱陶しい輩は、俺が遊んでいてやる。だが、時を間違えるな。それだけは覚えておけ、いいな」

もう一度、悟空の瞼に口づけると、もう一人の悟空は姿を消した。
その後を薄ぼんやりとした顔で見つめていた悟空の耳に笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、あの幸せが見えていた。













「悟空!!」

三蔵の焦った声が、聞こえた。
振り返れば、寝かせた悟空の側から三蔵が離れている。
その横たわった悟空に妖怪の刃が迫っていた。
間に合わない。

「悟空!!」

八戒と悟浄が叫ぶ。
三蔵が妖怪めがけて銃を撃つ。

「死ねーっ!!」

刃は悟空の心臓を貫いたはずだった。
だが、

「う・・そだ・・」

信じられないものを見るように妖怪は自分の胸に刺さった刃を見つめたまま、倒れた。

「悟空!」

悟浄が側に走り寄る足を止める。
妖怪が倒れた位置から沸き上がる妖気。
三蔵がその妖気の正体を知って舌打ちした。
八戒も妖気の持ち主に思い至る。

「・・・まさか」

小さな影が立ち上がった。
空気の色が変わる。

「ってめぇ・・」

悟浄が唸るように呟く。
吹き払われる風に現れた姿は、本来の姿の孫悟空。

「久しいな、沙悟浄」

いつもの悟空より幾分低い声音で悟浄を見つけて、笑う。

「悟空?」
「お前も相変わらずか、猪八戒」

戸惑う八戒に視線を向ける。
その視線が正面の三蔵に向けられた。
苦虫を噛みつぶしたような三蔵の表情に薄く笑うと、地を蹴った。
重さの無いもののように宙を舞い、三蔵のすぐ側に降り立つ。

「玄奘三蔵、今日は、楽しませてもらう」
「てめぇ・・・」

喉を鳴らして笑うと、悟空は三蔵のすぐ側に迫っていた妖怪を腕の一振りで引き裂く。
それが、殺戮の合図となった。

「三蔵、これは・・・」

駆け寄ってきた八戒と悟浄を見やって、三蔵は舌打ちする。

「知るか」
「おい、知るかって、てめえのペットだろうが」

悟浄が色をなす。

「ペットだろうが何だろうが、あんなサルは、見たことねぇんだよ」

忌々しげに言い捨てる三蔵の額に青筋が浮かんでいる。
いい加減切れそうな三蔵のオーラに悟浄が身を引いた。

「金鈷着いてますよ、三蔵」

煽るようなことを指摘する八戒が恨めしい。
悟浄は恐る恐る三蔵を見やった。
その視線をたどる先に、妖怪達を嬉々として引き裂く悟空の変化した姿があった。


その額に輝く、黄金の戒め。


それをはめたまま悟空は、変化していた。

長くのびた大地色の髪、尖った耳、伸びた爪、猫のような光彩の金の瞳。
斉天大聖孫悟空。

金鈷が外れた時にしか現れないもう一人の悟空。

それが今、金鈷をはめたままその姿を見せていた。
それの意味することはただ一つ。
悟空の人格が完全に食われたと。
もうあの無邪気な子供には戻らないということ。
三蔵は心が軋むのを感じた。
戻らないのなら・・・そんな考えが三蔵の頭を過ぎった。



「玄奘三蔵、お前の後ろの奴で最後だ」

指摘され、反射的に振り返った三蔵は、銃を放った。
銃弾は妖怪の眉間を寸分違わぬ正確さで、打ち抜く。

「流石だ、玄奘三蔵」

にいっと笑って、三蔵の側に寄る。

「三蔵!」

悟浄と八戒が色めく。

「騒ぐな。何もせぬ、なあ、玄奘三蔵」

面白そうに笑うと、三蔵に手を伸ばす。

「触るな」

その手が触れる前に、三蔵は打ち払う。

「悟空がいいか。わかりやすい奴」

ぎりっと、音がしそうなほど唇を噛みしめる三蔵の姿に悟浄と八戒は驚く。
三蔵が悟空をどう思っているかなど、普段の態度を見ていれば一目瞭然だったが、今の三蔵にはそんな態度は微塵も感じられなかった。
代わりに感じるのは、嫌悪と怒り。
変化しようとも悟空には変わりないはずなのに。
何が三蔵にそこまでの感情を抱かせるのだろう。
その気持ちに考えの及ばない悟浄と八戒は、金鈷をはめたまま本来の姿に戻ってしまった悟空を見つめる三蔵の姿に、立ちつくすしかなかった。
三蔵は、叫びだしそうな嫌悪と怒りに体を震わせていた。
そんな三蔵をあざ笑うように悟空は、如意棒を召還する。

「俺は、悟空が求めればこうして意志を持って入れ替われる。覚えておくがいい。悟空が暴走するその裏には、玄奘三蔵、お前にすら理解できない深淵があるということを。今回、このような形でお前達に相まみえるのは面白いな。なあ、玄奘三蔵」
「何を・・」

三蔵が言い返すより早く、悟空は地を蹴り、岩の影に如意棒を突き立てた。
途端、堅いものが割れる音と共に、妖怪が揺らめく岩影から姿を現した。

「ボスキャラみたいですね」
「だな。って、見てるだけか」
「でしょうね。差し出たことしたら、命なさそうですよ」

八戒の言葉に悟浄は頷くと、拳を握りしめ、悟空を睨め付けたまま立ちつくしている三蔵を見やった。

「お前のお陰で楽しめた。礼を言う。だが、悟空を惑わせた罪は償ってもらおう」
「何をほざく、この化け物が!!」

叫びざま、周囲の岩が悟空めがけて襲いかかる。
その岩をものともせず、悟空は滑るように妖怪に近づいて行く。

「このぉ!!」

雨のように降り注ぐ岩は、三蔵達にも襲いかかった。

「三蔵!悟浄!!」

八戒が、三蔵と悟浄を庇って、防護壁を張る。
悟空は如意棒を巧みに操り、降り注ぐ岩を払いながら、妖怪の前に立った。

「代償はもらった」

にぃと、笑ったその笑顔に、妖怪は凍り付いた。
悟空は、恐怖に動けなくなった妖怪をまるで猫が捕まえたネズミを弄ぶように、いたぶった。
致命傷は与えず、意識を失わせること無く、責め苛んでゆく。

「お、おい三蔵・・」

あまりに凄惨な仕打ちに悟浄が、三蔵に止めろと振り返る。

「喧しい!」

地を這うような声が返ってくる。
そこに含まれる怒りの凄まじさに、悟浄が目を剥く。

「三蔵・・」

八戒が、気遣わしげな眼差しを三蔵に向ける。
三蔵は、荒れ狂い溢れ出しそうな怒りを押さえつけながら、妖怪をいたぶる悟空に向かって歩き出した。
その姿に口を開きかけた八戒に掛ける言葉は無かった。




───さんぞ、腹減った

困ったように空腹を訴える。

───さんぞ

舌足らずに自分を呼ぶ声。
まっすぐに飛び込んでくる輝くような意思。
思い。

───さんぞ、大好き

かけがえのない存在が今、消えようとしている。
己の内から沸き上がってくるのは怒り。
例えようもない程の激しい怒り。
何に対してなのかさえわからないほどの怒り。

「悟空」

その怒りの矛先は確かに、変化した悟空に向かっていた。
もう一人の悟空に───













白いもやの中、悟空は自分を呼ぶ声を聞いた気がして、顔を上げた。
振り返る先には塗り込めたような白い闇がある。
その中を差し貫く声がした。

「・・・呼んで・・る?」

霞のかかった頭の中に灯る光。

「・・・あれ・・は」

射抜く瞳。
感じる激情。

「・・・さ・・ん・・」

大切な、誰よりも、何よりも・・・・。
閃く金色───暗闇を照らす太陽。

「さ・・んぞ・・・」


───悟空!


聞こえた。
白い闇を貫き、道を示す声。

「三蔵!!」

悟空は立ち上がった。
ふと、振り返る。
そこに懐かしい顔が、もやの向こうで笑っていた。

優しい、幸せな日々。
消されていた記憶。
戻れば失う記憶。

それでも、自分を今呼んでいる彼の方が大切だから。
誰よりも側に居たいと願う人だから。

「・・・ごめん」

小さく呟いて、悟空は走り出した。
彼方に灯る光を目指して。













断末魔の痙攣を如意棒が伝えてくる。
その感触を楽しむように悟空は、如意棒を動かす。
背後に近づく三蔵を感じて、悟空は妖怪の身体から如意棒を引き抜くと、振り返った。

「玄奘三蔵、そんなに俺が憎いか?」

悟空の言葉に三蔵の足が止まる。

「無垢な悟空の方が大事か?」

妖怪が最後の力で悟空の足下から、刃を振りかざした。
銃声が一発、乾いた音を立てて響いた。
妖怪は、眉間を打ち抜かれ、事切れた。

「さすがにいい腕をしている」

妖怪に向けられていた銃口が、悟空と向き合った。

「元に戻らないのなら、俺を殺すか?簡単な奴め」
「黙れ」

殺気を孕んだ三蔵の声にも動じることなく、悟空は三蔵を嘲笑う。

「悟空は俺にとっても大事なんだよ。玄奘三蔵」

銃口を払うようにして三蔵に近づく。

「悟空に何か有れば、その命で償ってもらおう。覚えておくがいい」

感情のこもらない声音が、三蔵の胸を抉る。

「・・・・!」

悟空は酷く酷薄な笑みを見せると、ゆっくりと目を閉じた。
そして、

「お帰り」

吐息のような声で呟くと、その身体から力が抜け、三蔵の胸に倒れ込んできた。

「?!」

咄嗟に受けとめる悟空の身体は、すぐに身じろぎ、やがて、金色の花が咲いた。

「・・・さんぞ?」

か細い声が、三蔵の名を呼んだ。
その声に見やれば、腕の中の子供は、不思議そうな金の瞳で自分を見上げていた。

「・・・っつ、この・・」

目にも止まらぬ早業で、ハリセンが子供の頭で乾いた音を立てた。
その音で、三蔵と悟空のやりとりを見ていた八戒と悟浄は、悟空が元に戻ったことを知った。
二人は三蔵の側に慌てて、駆け寄った。
見れば、痛む頭を抱えて、蹲る悟空の姿があった。

「戻ったんですね、悟空」

ほっとした八戒の顔。

「起きたか、サル」

安心したように細められる紅い瞳。

「何で、殴るんだよ、さんぞ」
「喧しい!」

忌々しそうに返される金色の答え。

「何だよそれぇ」

三蔵の言葉にむくれる悟空に悟浄が、囁く。

「心配してたぞー三蔵様」
「えっ?」

振り返った悟空の目の前を銃弾が掠めた。

「いやん、恥ずかしがりぃ」

ちゃかす悟浄に銃を撃つ三蔵の頬が、うっすらと赤いことに誰も気づかなかった。













ようやくたどり着いた町の宿屋で、三蔵達はやっと一息ついた。
喧しい夕食の後、悟空は三蔵と、八戒は悟浄とのいつもの部屋割りで、それぞれの部屋に引き取った。
三蔵は、部屋に入るなり悟空を抱きしめた。
その突然の抱擁に悟空の瞳が、見開かれる。

「さんぞ?」

戸惑ったような声で悟空が名を呼ぶ。

それには答えず、三蔵は悟空を抱く腕に力を込める。
三蔵の腕の中で、悟空は微かに三蔵が震えてることに気がついた。

「・・・さんぞ・・?」

そっと、三蔵の背中に腕を回しながら、どうしたのかと名を呼ぶ。
だが、三蔵は何も答えず、抱きしめた悟空の肩に顔を埋めていた。




怖かった。

そして、全身を焼き焦がすような怒り。

誰であろうと、この無垢な魂を連れ去ることは許さない。

自分が見つけた。
自分が連れだした。
自分がこの手で育てた。

全てを引き替えにしてもいいほどの思い。
全てを犠牲にしてもいいほどの存在。
それを奪うものは、例え変化した悟空であっても許しはしない。

あの溢れるほどの怒りは、独占欲。
暴走し、破壊と殺戮を是とする悟空を元に戻すのは、戻すことが出来るのは自分だけだという優越感。
それが、足下から瓦解する恐怖。
この存在を失う恐怖。

あいつは、この無垢な魂を守るためなら悟空を自分のうちに閉じこめることぐらい簡単にやってのけるだろう。


させない。


何があっても、させない。




三蔵は、腕の中の悟空が心配そうに自分を見上げていることに気がついた。

見上げる黄金の澄んだ瞳。
何よりも守りたい。

「・・・悟空」
「な・・に?」

見返す紫は物言いたげに揺れたが、

「いや、いい」

答えは無かった。
三蔵は、悟空を離すと、ベットに腰を下ろし、煙草に火をつけた。
煙草に火をつける手がまだ、ほんの微かに震えている。
その震えに悟空は、三蔵の思いを知る。

どれほどの心配をかけたのか。
もう一人の自分が何をしたのか。
そして、それを押し隠すその優しさを。

「さんぞ、俺・・・目が覚める直前、三蔵が呼んでる声が聞こえたんだ」

何を言い出すんだと、少し呆れた顔をする三蔵にはんなりと笑いかけながら、

「白い闇の中で、三蔵の声は俺を導いてくれた。だから、迷わず戻ってこれたんだ」

悟空は、煙草をくゆらす三蔵の前に立つ。

「あそこは居心地が良くて、俺の失った懐かしいものがたくさんあって、幸せな気持ちも一杯あった。でも、何かがったりなかった。それが何かわかったのは、あいつがきっかけだけど、でも・・・」
「でも?」

先を促す三蔵に身体を預けるように抱きつく。

「ちゃんと自分で気がついたんだ。俺にとって三蔵が一番大事だって。だから、戻ってこれた。だから俺、側に居ていいよね?・・ね?」

息がかかるほど顔を近づけて、悟空が確かめるように三蔵に言った。
見つめ合う金と紫が交差する。
その思いのたけを込めて。
ゆっくりと、金を見つめる紫が和らぐ。
返す金がほころんでゆく。

「好きにするさ」

囁かれた言葉は静かに。

「うん、大好き」

答える声は、吐息のごとく。

柔らかく微笑んだ悟空の唇に三蔵の口づけが降りた。
その柔らかな思いに彩られながら。




end




リクエスト:敵の術に悟空がはまって、心の中で迷子になり、金鈷をはめたままの斉天大聖出現。最後は三空なお話。
3333 Hit ありがとうございました。
謹んで雪夜様に捧げます。
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