ILL WILL




「おい、今、お前一人か?」

寺院の中庭の蓮池で遊んでいた悟空に、一人の修行僧が声を掛けた。

「…何?」

珍しい事もあるものだと返事を返せば、目の前に紙包みが差し出された。

「やるよ。三蔵様には内緒だ」
「でも……」

戸惑って受け取ろうとしない悟空の手に押しつけるようにして紙包みを渡すと、

「お、俺は、別に…お前のこと嫌いじゃないからな」

修行僧はそう言って、走り去ってしまった。

「あっ……」

悟空は追いかけようと走り出しかけて、思いとどまった。

自分と仲良くしている姿を他の僧侶に見つかったら何を言われるか。
悟空は自分が非難されるのにはいい加減慣れていたが、そういうことに慣れて居ない修行僧にとっては堪らないことこの上ないだろう。
居づらくなって、寺院を出て行ってしまうかも知れない。
そんなことになったら、三蔵にも迷惑が掛かる。
ならば、手渡された好意を素直に受け取ることだ。

悟空は、修行僧が走り去った方に頭を下げ、小さく「ありがとう」と言った。




蓮池の側に戻ってくると、悟空は池の縁の石に腰を下ろし、紙包みを開いた。
そこには、饅頭が一つ包まれていた。
白い饅頭は美味しそうで、これをくれた修行僧の気持ちが嬉しくて、悟空はしばらく眺めた後、大事そうに食べ始めた。

「うっめぇ〜」

饅頭の美味しさに悟空は、それは幸せそうな笑顔を浮かべて、いつもなら二口程で食べてしまう饅頭を味わって、味わって食べたのだった。

「ああ、美味かった」

饅頭が包まれていた紙を丁寧に折りたたみ、悟空は上着のポケットにしまった。
そして、このことを三蔵に知らせたくなって、三蔵の居る執務室に向かった。






そんな悟空の様子を先程の修行僧とその仲間数人が、物陰から見つめていた。

「食べたぞ」
「ああ、確かに食べた」
「大丈夫か?」
「効くのか?本当に」
「死なないまでも苦しむはずさ」
「ならいい」
「三蔵様のお側にあんな下賤で汚らわしい奴が居るなんて許せないからな」
「そうだ」
「ああ、あのお美しい三蔵様のお側は常に清らかでなければならぬ」
「これに懲りて出て行くかな?」
「大丈夫さ。きっと、出て行く」
「どうなったか、様子を見に行こう」
「行こう」

ヒソヒソと言葉を交わすと、悟空の後を追うように物陰から姿を消した。






三蔵の執務室へ向かう悟空は、息苦しくなって走るのを止めた。

「あれ…なんか、苦し……」

忙しなく肩で息をしながら、回廊の柱にすがりついた。
回廊の柱にもたれて息が楽になるのを待っていたが、呼吸は楽になるどころか、どんどん苦しくなってくる。
悟空は、自分の身体の様子にどうして良いのかわからなくて、助けを求める様に誰か人を捜した。
そこへ、先程の修行僧が悟空を見つけて走り寄って来た。

「どうしたんだ?」

青ざめた悟空の顔を見て、心配そうに様子を窺った。

「…さっきは、ありがと。俺……嬉しかった…」

苦しい息の下で悟空は、笑った。
その笑顔に一瞬修行僧は、瞳を見開いたが、苦しそうな悟空の様子に歪んだ笑顔を向けた。

「そうか。でもな俺は、お前なんか本当は嫌いなんだよ」
「…えっ……あ…」

今度は悟空の瞳が見開かれる。

「お前は三蔵様のお側には相応しくない。それ以上苦しみたくなかった出て行くことだ」

驚きで声も出ない悟空をねめつけると、修行僧は悟空を突き飛ばして忌々しそうに顔を歪め、後も見ずに歩き去ってしまった。
その後ろ姿を呆然と見つめながら、悟空は突き飛ばされて倒れたまましばらく動けなかった。


いや、起きあがれなかった。


悟空に向けられた修行僧の言葉は、悟空の心を打ち砕いた。

自分を忌み嫌う僧侶の中にも好意を持っていてくれる人間が居ると知って、嬉しかった。
示された好意を無条件に信じたのに・・・。


涙は、出なかった。


悟空はやっとのことで体を起こすと、這うようにして三蔵の執務室に向かった。






三蔵の執務室の扉の前に辿り着く頃には、悟空の意識は朦朧としてきていた。
すがるようにノブに手を掛けた時、喉の奥から込み上げて来る物があった。

「ぅぐっ…!」

我慢できずに吐いたそれは、血の固まりだった。

「…や…っ……さん…ぞ」

涙が、滲んできた。
力の入らない手でなんとか扉を開けると、書類の山に埋もれた金糸が見えた。
三蔵が居る。
そのことが嬉しくて、修行僧に突き立てられた刃の痛みを悟空は一瞬、忘れる。
しかし、また迫り上がってきた物に悟空は膝をつき、思い出す。

「さんぞ………助け…」

開いた口から、ごぼごぼと血を流しながら悟空は吐息のような声を上げた。




三蔵は、扉が開いた気配に顔を上げた。
見れば、山積みの書類の隙間から大地色の髪が見えた。

───悟空か…。

また、たわいもないことを良いに来たのかと、気にとめることもなく仕事に戻り掛けた手が、人の倒れる音を聞いて止まった。

「悟空?!」

怪訝な面持ちで立ち上がって見れば、吐血した血の中に倒れている悟空の姿を見つけた。

「悟空!!」

駆け寄り、抱き起こした悟空の身体は燃えるように熱いのに呼吸は細く、今にも止まりそうだった。

「悟空!悟空!!」

青ざめて白くなった顔を叩けば、薄裏と瞳が開かれた。

「……さ…んぞ…?」
「ああ…何があった」
「…ま……んじゅ…もら……べた…」
「誰に?」
「……ぼ………ず…」

それだけ言うのに気力を使い果たしたのか、悟空は意識を失った。
それでも、ごぼごぼと音を立てて血を吐く。
その血を僧衣で拭いながら、三蔵は悟空を抱え上げた。
寝所の扉を蹴破る勢いで開けながら、三蔵は笙玄を呼んだ。
普段、悟空のことを怒鳴る以外で声を荒げることのない三蔵の叫ぶような呼び声に厨から走り出てきた笙玄は、三蔵と悟空の姿を見るなりその場に固まってしまった。

「さ、三蔵…様…?悟…空?」
「医者を早く!笙玄、急げ!!」

三蔵の切羽詰まった怒鳴り声に笙玄は我に返ると、転がるようにして医者を呼びに走った。
その姿を見届けると、三蔵は湯殿へ悟空を連れて行った。
そして、悟空をうつぶせにすると、その口に指を突っ込んだ。
それが刺激になって、悟空は胃の中の物を血と一緒に吐きだした。
三蔵は、自分が吐瀉物にまみれるのも厭わず、何も吐かなくなるまで悟空の口に指を突っ込んでは吐かせる行為を続けた。



その間に笙玄は医者の康永を連れて戻り、寝台を整え、悟空の着替えと三蔵の着替えを用意した。



何も吐かなくなった悟空の汚れた服を脱がして、シャワーで血と吐瀉物で汚れた悟空の身体を綺麗に洗い流し、タオルに来るんで三蔵は寝室に戻って来た。

「三蔵様!」

青い顔をした三蔵とその腕の中の意識のない悟空に笙玄は青ざめる。

「…悟空を…」
「わかった」

康永は三蔵から悟空を受け取ると、寝台に寝かせ手当を始めた。
三蔵と笙玄が見守る中、康永は悟空の手当を終えると、二人を振り返った。

「的確なご処置でした。口にした毒物の量は少量だったようです。それと、この子が妖怪で、人より抵抗力も体力もあったことが幸いだったようです。人間ならば危なかったでしょう」
「どうして、毒物なんかを口にしたのでしょう?」

笙玄が信じられないと三蔵を振り返った。

「吐いた内容物はおわかりですか?」
「饅頭だ」
「饅頭?」
「そうだ。馬鹿な奴らに与えられたらしい」

吐き捨てるようにそう言った三蔵の纏う空気は、殺気立っていた。

「そんな…」

笙玄が凍り付き、康永はどうしようもないと首を振った。
しばらく、誰も口を開く者もなく、血の気のない白い悟空の苦しそうな寝顔を眺めていた。
と、悟空の顔をじっと見つめる三蔵の静かさに、笙玄は気が付いた。
先程までの痛いくらいの殺気が影を潜め、静謐な気が三蔵の周囲を取りまいていた。
怪訝な面持ちで三蔵を見やれば、冷たい紫暗が返された。

「…三蔵様?」
「訊くな」
「…はい」

三蔵の静かな声音に康永は、三蔵の怒りの深さを知る。
笙玄はその声音に三蔵の深い悲しみを聴いた。




笙玄は康永の指示の下、熱の高い悟空に氷枕や冷たい水を用意するために寝室と厨を行ったり来たりしていた。
一通り用を済ませた笙玄は、血と汚物と水に濡れたままの三蔵の姿にようやく気が付いた。

「三蔵様、悟空の容態は私が見ておりますから、着替えをなさって下さい」
「…?」
「なかなかに凄まじいですぞ」

笙玄と康永に言われて、自分の姿を見下ろせば、僧衣は悟空の血と吐瀉物にまみれ、水に濡れて、三蔵の身体に張り付いていた。

「…わかった」

ため息と共に三蔵は、湯殿へ向かった。









悟空の意識はなかなか戻らなかった。

目を開いても何も見えず、うわ言を言うかと思うと泣き叫び、暴れた。
それは、夜となく昼となく続き、毒に冒された身体は回復するどころか、日を追うごとに衰弱し、弱っていった。
看病する三蔵や笙玄に疲れが見え始め、悟空の容態に光明を見いだせず、誰もが諦めを思い始めた頃、ようやく悟空は小康状態を迎えた。



悟空が毒を口にしてから十日が経とうとしていた。



悟空の容態が安定したのを見届けると、三蔵は行動を起こした。
看病の合間を縫って、悟空に毒入り饅頭を与えた僧侶とそれに荷担した者全てを笙玄に調べさせた。
その顔ぶれを見た三蔵は、常々悟空に難癖を付けていた相手だと知った。
その果ての行為が、毒殺未遂。
周囲の人間に漏らした理由は、三蔵の側に悟空は相応しくないから。


───ふざけろよ。


三蔵の中で抑えていた獣が起きた。



寺院の僧侶達が悟空を忌み嫌っていることは充分にわかっていた。
意味もなく殴られたり、水を掛けられたり、罵られたりと理不尽この上ない嫌がらせや暴力を受けていたことも知っていた。
だが、二人が一緒に居るためにはしなければならない我慢もあるわけで、目に余らない限りは三蔵は口出しを極力控えていた。


しかし、やって良いことと悪いことがある。
そんなこともわからないのか。


悟空を三蔵の側から離したい、寺院から排斥したいがために毒を盛るなど、人道にももとる。


何が無殺生か。
何が慈悲か。


悟空が一体何をしたと言うのか。
何を言われても、何をされてもじっと黙って耐え、寂しいことも辛いことも我慢し、ただ、三蔵の側に在ることだけを望んでいる。


純粋に。
ひたむきに。


その望みを奪う権利は、誰にも無いはずではないか。
それを好意という綺麗な包み紙でどす黒い悪意を隠した好意であっても、示されれば無条件で信じてしまう。
そんな悟空の綺麗な気持ちを泥足で踏みにじった。


───許さねぇ。


三蔵は、目の前で平身低頭している僧侶達を射殺しかねない瞳で見据えていた。
僧侶達は三蔵の側に立つ総支配の勒按から何故、三蔵の前に引き据えられたのか、その理由を聞かされ、呼吸もままならない程にすくみ上がっていた。

「…と、以上だが、お前達に言い分はあるのか?」

そう締めくくった勒按の声は、何の感情も含まれてはいなかった。
だが、心の内は苦々しさで一杯だった。

確かに悟空の存在は、この寺院の品位を貶めているだろう。
その反面、孤児の妖怪の子供を庇護し、育てていると言う事実は、この寺院の後ろ盾である皇帝に好感を抱かせ、信者達には慈悲深い寺院としてこれまで以上の信仰という名の信頼を集めることに繋がっていた。
故に、簡単に悟空を寺院から排斥出来ない。
もし、悟空が寺院を出て行くとすれば、新しい養い親に引き取られるか、自立して仕事を持った時。
悟空をこの寺院に置くことを決めた時に三蔵から聞かされた話が事実なら、悟空は天界に連なる者と言うことになる。
そんな、三仏神までが認める存在を無下に扱うことも出来ないというのに、この目の前にいる僧侶共の”毒殺未遂”というあまりな軽挙。
勒按は、三蔵とは別の意味で、この僧侶達を殺したいと思った。



勒按の言葉に僧侶の一人が恐る恐る口を開いた。

「わ、私達は何も、あの妖怪を殺すつもりなど無かったのです。ちょっとした脅しのつもりで…その…」
「そうです。私達は仏教徒としてそんな教義に反する事などするはずがございません」

一度口を切った弁明の流れは、留まることを知らなかった。
口々に己の正当性を訴え、助けて欲しいと口に泡を飛ばして訴えた。
果ては、悟空の非難にまで及び、いつの間にか自分達が犯した行為の原因は悟空の所為に転嫁されていた。
口汚く罵るその口を、一発の銃声が黙らせた。

見れば、壇上に立つ三蔵の構えた銃から微かな紫煙が上がっていた。

「…三蔵…様?」

勒按の表情が凍り付いた。

目の前にいる僧侶達は、我知らず三蔵の逆鱗に触れた。
いつも不機嫌で、感情を表に出さないこの年若い最高僧は、穏やかであることも珍しいが、これ程怒りを顕わにすることも滅多になかった。
その最高僧の殺気すら隠そうとしない凄まじい怒りに、勒按はなすすべもなく立ちすくんでしまった。

三蔵は、沸き上がる怒りを押し殺すことなく感情のままに引き金を引いた。
過たず、銃弾は驚愕に彩られた僧侶の足を撃ち抜いた。
痛みに転げ回る僧侶を横目にまた一人、今度は腕を打ち抜かれた。
上がる悲鳴に三蔵の口元が、微かにほころぶ。
その頬に乾いた音が、響いた。

「………!」

笙玄が泣き出しそうな顔で、三蔵を見つめていた。

「三蔵様、もう…」

その顔に、頬の痛みに急速に怒りが冷めて行くのを三蔵は感じた。

「殺さないだけ有り難いと思え」

地を這うような声音でそう告げると、三蔵の行為に固まっていた勒按を呼んだ。

「勒按」
「は、はい」

飛び上がるようにして返事をする勒按の姿に、怒りと衝動のままに行った行為の浅はかさを三蔵は知った。

「後は、任す」

そう告げると、後も見ずに三蔵は部屋を後にした。

「勒按様、これは三蔵様からの沙汰状です。ご覧の通り、三蔵様のお怒りは深く、決してかのもの達をお許しになることはございません。先程の三蔵様のなさりようはそのお怒りの深さを如実に表しているとお思いになって下さい」

笙玄は、三蔵から渡されていた沙汰状を勒按に差し出すと、一礼して三蔵の後を追うように、部屋を辞した。
手渡された沙汰状を見つめたまま、勒按はしばらく動けなかった。



三蔵に撃たれた僧侶達は手当を受けてすぐ、寺院を破門され、放逐された。

結果を報告に来た勒按に三蔵は、氷のようなまなざしを向けたきり、一言も発することはなかった。

この事件以後、勒按の中で三蔵に対する認識が変わったが、どう変わったかは誰にも語られることはなかった。
ただ、何処かしらに漂っていた三蔵に対する侮りは影を潜め、悟空に辛く当たることはなくなった。











ゆっくりと、黄金が開いた。

「……さん…ぞ…」

大事な人を呼ぶ。
すぐに頬に少し冷たい手が触れ、夜明けの紫が見えた。

「気が…付いたか?」

ほっと息を吐く三蔵の様子に悟空は、微かに笑った。

「気が付いたか。どれ?」

康永が三蔵の後ろから顔を覗かせた。
その途端、悟空は悲鳴を上げて飛び起きるなり、三蔵にしがみついた。

「悟空?!」

すがりつく悟空を受けとめながら、三蔵は怪訝な声を上げた。

「どうした?」
「悟空?」

悟空の悲鳴を聞きつけて、笙玄が居間から姿を見せた。

「ヤダ!…やっ、こ、恐い…恐いよ、さんぞぉ…さんぞぉ!!」

がたがたと震えながら、三蔵にしがみつく。

「悟空!おい、悟空!!」
「いやっ!さんぞ、さんぞぉ…」

パニックを起こして泣き出した悟空に三蔵の声すら届かない。
三蔵は悟空のあごを掴むと、その口を自分のそれで塞いだ。

「…んっ……」

悟空の強張った身体から力が抜けるまで、三蔵の口づけは続いた。
唇が離された後、悟空は三蔵の胸に身体を預け、顔を赤くしている。
笙玄と康永は、落ち着いたらしい悟空の様子にほっと息を吐いた。

「悟空…わかるか?」

三蔵の静かな声にゆっくりと顔を上げた。

「…さんぞ」
「なら、笙玄はわかるか?」
「悟空?」

悟空を刺激しないように笙玄がそっと、悟空の名を呼ぶ。
呼ばれた方に顔を向けると、心配に顔を曇らせた笙玄が見慣れた藍染めの作務衣を着て立っていた。

「……笙…玄?」
「はい、悟空」

か細い声で名前を呼ばれた笙玄は、優しく頬笑んで返事をした。
その笑顔に悟空も微かに笑顔を浮かべる。

「よし、その隣の人間はわかるか?」
「…えっ…」

三蔵に促されて笙玄の隣に立つ人物に瞳を向けた。
白衣を着た穏やかなごま塩頭の男性。

「康永…先生…?」
「そうだよ、悟空」

頷く康永にほっと、息を吐いて三蔵を見上げた。
その視線に黙って答えてやると、悟空を腕に抱いたまま三蔵は康永に向き直った。
自分の方を向いた三蔵の意図を理解した康永は、診察鞄を広げて診察道具を広げると、悟空の診察を始めた。

「もう大丈夫。美味しい物をたくさん食べて、よく寝れば、すぐに元のように外で遊べるようになる」

そう言って、悟空の頭をくしゃっとかき混ぜた。
その手のひらをくすぐったそうに瞳を細めて悟空は受けとめた。

「良かったです。本当に良かった」

笙玄が心底安心したのか、涙ぐんでいた。




薬をもらって悟空は、また眠りについた。

その手は三蔵の手を握って離そうとしないため、三蔵は悟空の寝台の側から動くことが出来なかった。

見下ろす悟空の寝顔は、熱と苛まれ続けた悪夢の所為で酷くやつれ、元々華奢だった身体がなお一層小さくなったようだった。

寝顔を見つめる三蔵の胸に小さな後悔が生まれた。
この寺院へ連れてこなければこんな目に遭うこともないだろうに。
と言って、今更この綺麗な子供を自分から手放すことなど出来ないこともまた事実で。
守らなくても良い物が欲しかったくせに、自分から手を伸ばして掴んだ存在は、こんなにも脆くて、危なっかしい。
そんなことは拾った時点でわかっていたはずなのに。

三蔵は空いた手で、大地色の髪をゆっくり漉いてやった。






悟空が寝台から起き出したのは、血を吐いて倒れてから半月以上経ってからのことだった。

以前のようによく食べ、よく笑い三蔵にじゃれついてはハリセンで殴られる、いつもの日常が戻ってきた───はずだった。



執務室に悟空は一人でいた。

その時三蔵は、寝所に忘れ物を取りに戻って席を外していた。
笙玄は、控えの間でいつものように仕事をしていた。

そこに偶然、勒按からの書類を持って勒按付きの側係の僧侶が三蔵の執務室を訊ねてきた。

「失礼致します。勒按様から書類をお預かりして参りました」

声を掛けて僧侶が執務室に入ってきた。
その声に床で遊んでいた悟空が顔を上げた。
僧侶は、床にいる悟空を見つけて声を掛けた。

「三蔵様はいらっしゃらないのか?」

悟空はその姿に引きつったような声を上げたかと思うと、凄まじい悲鳴を上げた。
その悲鳴に控えの間から笙玄が、寝所から三蔵が飛び込んできた。

「悟空!」
「悟空?!」

部屋に飛び込んだ三蔵の目に映ったのは、驚いて立ちすくむ僧侶と真っ青な顔で悲鳴を上げ続ける悟空の姿だった。
三蔵は、悟空の腕を掴むと悲鳴を上げ続けるのを無視して抱き上げ、寝所へと戻って行った。
笙玄は、三蔵と悟空の姿が寝所へ続く扉の向こうへ消えたのを確認すると、驚きで固まってしまっている僧侶に声を掛けた。



悲鳴を上げ続ける悟空を居間の床に下ろすと、三蔵は軽く悟空の頬を叩いた。

一瞬の沈黙。

焦点を結んだ金の瞳に、三蔵の姿が映った。

「さんぞ…俺…」

きょとんとする悟空に先程の記憶は無かった。

「いい。何でもない。今日はここで遊んでろ」
「う…ん」

三蔵のいつにない穏やかな声に悟空は不思議そうに頷いた。
その様子にため息が漏れそうになるのを三蔵はこらえると、仕事に戻ると言い置いて、寝所を後にした。




夜更けに康永が三蔵の元を訊ねてきた。
昼間の悟空の様子が、笙玄によって康永の元へもたらされていたからだった。

「三蔵様、悟空の心の傷は以外に深いようですな」
「らしいな」

煙草をくわえて、窓辺の長いすに座る三蔵は康永の言葉に頷く。

「日頃、邪険にされていた人間から初めて優しくされてよほど嬉しかったんでしょう。その代償は信じられないような行為でした。それが悟空の心を深く傷つけ、あいつらと同じ修行僧に対して恐怖を抱く…仕方のないことかも知れません」
「…ああ。だが、ここは寺院だ。あのくそ共と同じ風体の奴らは掃いて捨てるほどいる。いちいちそいつらに怯えていてはここでは暮らしていけないだろうが」

煙草を灰皿に押しつけると、三蔵は康永に向き直った。

「確かにそうですが、いっそのこと僧衣の色を変えますか。あの青灰色からもうちっと明るい色に」
「出来るか。桃源郷中の寺が対象になるんだぞ」

康永の提案に三蔵は呆れたため息を吐く。

「慣れるのを待つしかないって事ですか…」
「付き合ってやるしかねぇだろうが」
「三蔵様?」
「連れてきた責任はとらねぇとなんねぇだろうが」

仕方ないだろうがと、顔を眇める三蔵に康永は何とも嬉しそうな顔をした。

そうだ、この尊大で人を人とも思わないところのある最高僧が、それは慈悲深く、優しい人間であることを康永は思い出した。
強くあろうとするその姿勢と生きる力が、自分のためだと語るその言葉や態度が、どれ程の人間に救いを与えているか。
本人に自覚がないところが何とも不思議な所だが。
そして、三蔵が連れてきた悟空という妖怪の孤児をどれほど大切にしているのか。
ならば、大丈夫だ。
悟空はきっと、元の天真爛漫な太陽の子供になる。
三蔵がきっと戻してくれる。

康永は、三蔵に嬉しそうに笑いかけると、

「では、お任せ致します。私と笙玄はバックアップということでお手伝いいたします。やあ、問題解決の答えがわかって安心致しました。三蔵様、よしなに頼みます」

そう言って、診療所に戻って行った。
その後ろ姿を見送る三蔵の顔は、唖然としたままだった。
我に返った時には既に遅く、三蔵は頭を抱える羽目になった。




翌日、悟空は三蔵と笙玄から一つの約束を言い渡された。

「いいか、知らない奴からはどんなことがあっても食い物をもらうな。いいな」
「寺院で顔を知ってても?話したことがあっても?」
「ったりめぇだ。いいな」
「うん、わかった」
「それから、どんなに知ってる奴からでも食べ物をもらったら俺に報告して見せろ。絶対勝手に食うな。もし俺が居なかったら笙玄に報告して見せろ。笙玄がダメだと言ったらその言いつけを守って、その食い物は何があっても食うな」
「良いっていったら?」
「食って良い」
「そして、一番大事なことだ。俺も笙玄も居ない時に食い物をもらった時は、どちらかが帰って来るまで、その食い物に触れるな。食うな。いいな。これは俺とお前と笙玄との大事な約束だ。わかったな」
「約束だな」
「そうだ」
「わかった」

一つ一つを納得させるようにゆっくりと三蔵が告げる約束という名の言いつけを悟空は真剣な面持ちで聞き、固く約束をした。



だが、僧侶達を見て怯える様子はなかなか改善されることはなかった。
回廊で出逢えば、悲鳴を上げて立ちすくむ。
そんなことが長い間続き、それが改善されても僧侶の姿を見ただけで、悟空は柱や堂の扉の影に隠れ、やり過ごしていた。
三蔵はそんな悟空を寺院内を移動する時には必ず連れ歩き、僧侶に慣れるようにと苦心した。
それが一時、三蔵をも怖がらせる羽目になり、三蔵は悟空の側に寄れなくなってしまった。
自分から招いてしまった結果に、三蔵は苛つき益々悟空との関係がぎくしゃくして、間に入った形の笙玄も頭の痛い日々を送った。


そんなある日、悟空に避けられることに耐えきれなくなった三蔵は、嫌がる悟空を抱えて何処かへ出掛けて、丸一日戻って来なかった。


夕方、眠った悟空を背中に背負って戻って来た三蔵には、出掛ける前の荒んだ空気はみじんも感じられなかった。

「お帰りなさいませ」

笙玄の出迎えを受けたあと、三蔵は悟空を寝室に運び、寝かせた。
安らかな寝息を立てて眠る愛し子のまだ幼い頬に口づけを落とすと、三蔵は寝室を後にした。


寝返りを打つ悟空の華奢な首筋に、赤い花が見えていた。




目が覚めて、何を最初に捜すのか。
何を最初に思うのか。

愛しいと思うこの心が、欠けた心を埋めることを祈ろう。

眩しい笑顔にまた出会えるように。
暗い怯えた心に光が差すことを。

幾万の甘い言葉に
幾万の降る甘い口づけに

君の傷が消えることを祈ろう




end




リクエスト:「Chocolate」(Novel-basic)の悟空毒殺未遂事件の詳細
11111 Hit ありがとうございました。
謹んで雪夜様に捧げます。
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