ILL WILL
「おい、今、お前一人か?」 寺院の中庭の蓮池で遊んでいた悟空に、一人の修行僧が声を掛けた。 「…何?」 珍しい事もあるものだと返事を返せば、目の前に紙包みが差し出された。 「やるよ。三蔵様には内緒だ」 戸惑って受け取ろうとしない悟空の手に押しつけるようにして紙包みを渡すと、 「お、俺は、別に…お前のこと嫌いじゃないからな」 修行僧はそう言って、走り去ってしまった。 「あっ……」 悟空は追いかけようと走り出しかけて、思いとどまった。 自分と仲良くしている姿を他の僧侶に見つかったら何を言われるか。 悟空は、修行僧が走り去った方に頭を下げ、小さく「ありがとう」と言った。
蓮池の側に戻ってくると、悟空は池の縁の石に腰を下ろし、紙包みを開いた。 「うっめぇ〜」 饅頭の美味しさに悟空は、それは幸せそうな笑顔を浮かべて、いつもなら二口程で食べてしまう饅頭を味わって、味わって食べたのだった。 「ああ、美味かった」 饅頭が包まれていた紙を丁寧に折りたたみ、悟空は上着のポケットにしまった。
そんな悟空の様子を先程の修行僧とその仲間数人が、物陰から見つめていた。 「食べたぞ」 ヒソヒソと言葉を交わすと、悟空の後を追うように物陰から姿を消した。
三蔵の執務室へ向かう悟空は、息苦しくなって走るのを止めた。 「あれ…なんか、苦し……」 忙しなく肩で息をしながら、回廊の柱にすがりついた。 「どうしたんだ?」 青ざめた悟空の顔を見て、心配そうに様子を窺った。 「…さっきは、ありがと。俺……嬉しかった…」 苦しい息の下で悟空は、笑った。 「そうか。でもな俺は、お前なんか本当は嫌いなんだよ」 今度は悟空の瞳が見開かれる。 「お前は三蔵様のお側には相応しくない。それ以上苦しみたくなかった出て行くことだ」 驚きで声も出ない悟空をねめつけると、修行僧は悟空を突き飛ばして忌々しそうに顔を歪め、後も見ずに歩き去ってしまった。
自分を忌み嫌う僧侶の中にも好意を持っていてくれる人間が居ると知って、嬉しかった。
三蔵の執務室の扉の前に辿り着く頃には、悟空の意識は朦朧としてきていた。 「ぅぐっ…!」 我慢できずに吐いたそれは、血の固まりだった。 「…や…っ……さん…ぞ」 涙が、滲んできた。 「さんぞ………助け…」 開いた口から、ごぼごぼと血を流しながら悟空は吐息のような声を上げた。
三蔵は、扉が開いた気配に顔を上げた。 ───悟空か…。 また、たわいもないことを良いに来たのかと、気にとめることもなく仕事に戻り掛けた手が、人の倒れる音を聞いて止まった。 「悟空?!」 怪訝な面持ちで立ち上がって見れば、吐血した血の中に倒れている悟空の姿を見つけた。 「悟空!!」 駆け寄り、抱き起こした悟空の身体は燃えるように熱いのに呼吸は細く、今にも止まりそうだった。 「悟空!悟空!!」 青ざめて白くなった顔を叩けば、薄裏と瞳が開かれた。 「……さ…んぞ…?」 それだけ言うのに気力を使い果たしたのか、悟空は意識を失った。 「さ、三蔵…様…?悟…空?」 三蔵の切羽詰まった怒鳴り声に笙玄は我に返ると、転がるようにして医者を呼びに走った。
その間に笙玄は医者の康永を連れて戻り、寝台を整え、悟空の着替えと三蔵の着替えを用意した。
何も吐かなくなった悟空の汚れた服を脱がして、シャワーで血と吐瀉物で汚れた悟空の身体を綺麗に洗い流し、タオルに来るんで三蔵は寝室に戻って来た。 「三蔵様!」 青い顔をした三蔵とその腕の中の意識のない悟空に笙玄は青ざめる。 「…悟空を…」 康永は三蔵から悟空を受け取ると、寝台に寝かせ手当を始めた。 「的確なご処置でした。口にした毒物の量は少量だったようです。それと、この子が妖怪で、人より抵抗力も体力もあったことが幸いだったようです。人間ならば危なかったでしょう」 笙玄が信じられないと三蔵を振り返った。 「吐いた内容物はおわかりですか?」 吐き捨てるようにそう言った三蔵の纏う空気は、殺気立っていた。 「そんな…」 笙玄が凍り付き、康永はどうしようもないと首を振った。 「…三蔵様?」 三蔵の静かな声音に康永は、三蔵の怒りの深さを知る。
笙玄は康永の指示の下、熱の高い悟空に氷枕や冷たい水を用意するために寝室と厨を行ったり来たりしていた。 「三蔵様、悟空の容態は私が見ておりますから、着替えをなさって下さい」 笙玄と康永に言われて、自分の姿を見下ろせば、僧衣は悟空の血と吐瀉物にまみれ、水に濡れて、三蔵の身体に張り付いていた。 「…わかった」 ため息と共に三蔵は、湯殿へ向かった。
悟空の意識はなかなか戻らなかった。 目を開いても何も見えず、うわ言を言うかと思うと泣き叫び、暴れた。
悟空の容態が安定したのを見届けると、三蔵は行動を起こした。
寺院の僧侶達が悟空を忌み嫌っていることは充分にわかっていた。
「…と、以上だが、お前達に言い分はあるのか?」 そう締めくくった勒按の声は、何の感情も含まれてはいなかった。 確かに悟空の存在は、この寺院の品位を貶めているだろう。
「わ、私達は何も、あの妖怪を殺すつもりなど無かったのです。ちょっとした脅しのつもりで…その…」 一度口を切った弁明の流れは、留まることを知らなかった。 見れば、壇上に立つ三蔵の構えた銃から微かな紫煙が上がっていた。 「…三蔵…様?」 勒按の表情が凍り付いた。 目の前にいる僧侶達は、我知らず三蔵の逆鱗に触れた。 三蔵は、沸き上がる怒りを押し殺すことなく感情のままに引き金を引いた。 「………!」 笙玄が泣き出しそうな顔で、三蔵を見つめていた。 「三蔵様、もう…」 その顔に、頬の痛みに急速に怒りが冷めて行くのを三蔵は感じた。 「殺さないだけ有り難いと思え」 地を這うような声音でそう告げると、三蔵の行為に固まっていた勒按を呼んだ。 「勒按」 飛び上がるようにして返事をする勒按の姿に、怒りと衝動のままに行った行為の浅はかさを三蔵は知った。 「後は、任す」 そう告げると、後も見ずに三蔵は部屋を後にした。 「勒按様、これは三蔵様からの沙汰状です。ご覧の通り、三蔵様のお怒りは深く、決してかのもの達をお許しになることはございません。先程の三蔵様のなさりようはそのお怒りの深さを如実に表しているとお思いになって下さい」 笙玄は、三蔵から渡されていた沙汰状を勒按に差し出すと、一礼して三蔵の後を追うように、部屋を辞した。
三蔵に撃たれた僧侶達は手当を受けてすぐ、寺院を破門され、放逐された。 結果を報告に来た勒按に三蔵は、氷のようなまなざしを向けたきり、一言も発することはなかった。 この事件以後、勒按の中で三蔵に対する認識が変わったが、どう変わったかは誰にも語られることはなかった。
ゆっくりと、黄金が開いた。 「……さん…ぞ…」 大事な人を呼ぶ。 「気が…付いたか?」 ほっと息を吐く三蔵の様子に悟空は、微かに笑った。 「気が付いたか。どれ?」 康永が三蔵の後ろから顔を覗かせた。 「悟空?!」 すがりつく悟空を受けとめながら、三蔵は怪訝な声を上げた。 「どうした?」 悟空の悲鳴を聞きつけて、笙玄が居間から姿を見せた。 「ヤダ!…やっ、こ、恐い…恐いよ、さんぞぉ…さんぞぉ!!」 がたがたと震えながら、三蔵にしがみつく。 「悟空!おい、悟空!!」 パニックを起こして泣き出した悟空に三蔵の声すら届かない。 「…んっ……」 悟空の強張った身体から力が抜けるまで、三蔵の口づけは続いた。 「悟空…わかるか?」 三蔵の静かな声にゆっくりと顔を上げた。 「…さんぞ」 悟空を刺激しないように笙玄がそっと、悟空の名を呼ぶ。 「……笙…玄?」 か細い声で名前を呼ばれた笙玄は、優しく頬笑んで返事をした。 「よし、その隣の人間はわかるか?」 三蔵に促されて笙玄の隣に立つ人物に瞳を向けた。 「康永…先生…?」 頷く康永にほっと、息を吐いて三蔵を見上げた。 「もう大丈夫。美味しい物をたくさん食べて、よく寝れば、すぐに元のように外で遊べるようになる」 そう言って、悟空の頭をくしゃっとかき混ぜた。 「良かったです。本当に良かった」 笙玄が心底安心したのか、涙ぐんでいた。
薬をもらって悟空は、また眠りについた。 その手は三蔵の手を握って離そうとしないため、三蔵は悟空の寝台の側から動くことが出来なかった。 見下ろす悟空の寝顔は、熱と苛まれ続けた悪夢の所為で酷くやつれ、元々華奢だった身体がなお一層小さくなったようだった。 寝顔を見つめる三蔵の胸に小さな後悔が生まれた。 三蔵は空いた手で、大地色の髪をゆっくり漉いてやった。
悟空が寝台から起き出したのは、血を吐いて倒れてから半月以上経ってからのことだった。 以前のようによく食べ、よく笑い三蔵にじゃれついてはハリセンで殴られる、いつもの日常が戻ってきた───はずだった。
執務室に悟空は一人でいた。 その時三蔵は、寝所に忘れ物を取りに戻って席を外していた。 そこに偶然、勒按からの書類を持って勒按付きの側係の僧侶が三蔵の執務室を訊ねてきた。 「失礼致します。勒按様から書類をお預かりして参りました」 声を掛けて僧侶が執務室に入ってきた。 「三蔵様はいらっしゃらないのか?」 悟空はその姿に引きつったような声を上げたかと思うと、凄まじい悲鳴を上げた。 「悟空!」 部屋に飛び込んだ三蔵の目に映ったのは、驚いて立ちすくむ僧侶と真っ青な顔で悲鳴を上げ続ける悟空の姿だった。
悲鳴を上げ続ける悟空を居間の床に下ろすと、三蔵は軽く悟空の頬を叩いた。 一瞬の沈黙。 焦点を結んだ金の瞳に、三蔵の姿が映った。 「さんぞ…俺…」 きょとんとする悟空に先程の記憶は無かった。 「いい。何でもない。今日はここで遊んでろ」 三蔵のいつにない穏やかな声に悟空は不思議そうに頷いた。
夜更けに康永が三蔵の元を訊ねてきた。 「三蔵様、悟空の心の傷は以外に深いようですな」 煙草をくわえて、窓辺の長いすに座る三蔵は康永の言葉に頷く。 「日頃、邪険にされていた人間から初めて優しくされてよほど嬉しかったんでしょう。その代償は信じられないような行為でした。それが悟空の心を深く傷つけ、あいつらと同じ修行僧に対して恐怖を抱く…仕方のないことかも知れません」 煙草を灰皿に押しつけると、三蔵は康永に向き直った。 「確かにそうですが、いっそのこと僧衣の色を変えますか。あの青灰色からもうちっと明るい色に」 康永の提案に三蔵は呆れたため息を吐く。 「慣れるのを待つしかないって事ですか…」 仕方ないだろうがと、顔を眇める三蔵に康永は何とも嬉しそうな顔をした。 そうだ、この尊大で人を人とも思わないところのある最高僧が、それは慈悲深く、優しい人間であることを康永は思い出した。 康永は、三蔵に嬉しそうに笑いかけると、 「では、お任せ致します。私と笙玄はバックアップということでお手伝いいたします。やあ、問題解決の答えがわかって安心致しました。三蔵様、よしなに頼みます」 そう言って、診療所に戻って行った。
翌日、悟空は三蔵と笙玄から一つの約束を言い渡された。 「いいか、知らない奴からはどんなことがあっても食い物をもらうな。いいな」 一つ一つを納得させるようにゆっくりと三蔵が告げる約束という名の言いつけを悟空は真剣な面持ちで聞き、固く約束をした。
だが、僧侶達を見て怯える様子はなかなか改善されることはなかった。
そんなある日、悟空に避けられることに耐えきれなくなった三蔵は、嫌がる悟空を抱えて何処かへ出掛けて、丸一日戻って来なかった。
夕方、眠った悟空を背中に背負って戻って来た三蔵には、出掛ける前の荒んだ空気はみじんも感じられなかった。 「お帰りなさいませ」 笙玄の出迎えを受けたあと、三蔵は悟空を寝室に運び、寝かせた。
目が覚めて、何を最初に捜すのか。 愛しいと思うこの心が、欠けた心を埋めることを祈ろう。 眩しい笑顔にまた出会えるように。 幾万の甘い言葉に 君の傷が消えることを祈ろう
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リクエスト:「Chocolate」(Novel-basic)の悟空毒殺未遂事件の詳細 |
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ありがとうございました。 謹んで雪夜様に捧げます。 |
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