in a fret |
朝から悟空が、煩い。 三蔵にまとわりついて離れようとしない。 邪険に振り払おうが、ハリセンで追い払おうが、無視を決め込んで相手にしなくても、まとわりついて離れない。 三蔵の苛つきは、頂点を極めようとしていた。 長旅を終えてやっと帰って来たのだ。 「なあ、なあ、飯すんだらさ、散歩に行こうぜ。俺、すっげえいいとこ見つけたんだ。だからさあ、な」 この上、散歩に付き合えとは。 「うせろ、猿」 ピンと澄んだ音を立てて、三蔵が置いた湯飲みにヒビが入った。 「出て行け。しばらく顔みせるな」 感情のこもらない冷たく低い声音で言い放つと、三蔵は席を立ち、寝室に向かった。 「三蔵様、なんということをおっしゃるのですか。悟空がどれほどあなたのお帰りを待っていたか、ご存じでそのようなことをおっしゃるのですか」 珍しく笙玄が、怒鳴った。 「喧しい!てめえも今日はその面、見せるな」 荒々しく閉められた寝室の扉が、笙玄の言葉を断ち切った。 「三蔵様!」 尚も、笙玄が三蔵を呼ぼうと扉に手を掛けた。 「…も、いいよ……笙玄」 見やれば、酷く寂しげな金色の瞳が笙玄を見上げていた。 「悟空…」 と、悟空は笑顔をみせ、 「遊びに行ってくる」 そう言うなり、寝所を走り出て行った。 「悟空!」 笙玄が呼び止める声だけが、虚ろに部屋に木霊した。
「いらないって…言われちゃった…」 樹齢が千年になろうとするブナの老木の根元で悟空は、涙を一杯に溜めた笑顔を見せた。 「…待ってたんだよ。ちゃんと…大人しくして……笙玄の言うことちゃんと聞いて…」 太い幹に抱きつくように身体を預けた。 「嬉か……たのに…」 呟きは嗚咽に変わる。 「ふぇ……ぁぁぅ…」 ずるずるとしゃがみ込む。
イライラとした気持ちのまま、笙玄は一日を過ごした。 三蔵は、朝の言い争いの後、寝室から一度も出てこない。
今回の仕事が、片道七日はかかる遠い先での仕事だということは知っていた。
もう少し、悟空に優しくなさっても良いのに…
夕食の用意を終えた笙玄は寝室の扉を軽く叩き、三蔵に声を掛けた。 「三蔵様、夕餉の支度ができました」 朝から初めての返事が聞こえた。 なんて顔をしているのだろう。
ふらつく三蔵の身体を支えようと差し出した手を軽く払われた。 「…サルは…?」 呟くような問いかけに笙玄は、はっとして顔を上げた。 「ま、まだ…」 笙玄の返事に三蔵は頷いたが、悟空を探しに行こうとはしなかった。 「三蔵様…?」 不安に彩られた笙玄に三蔵は一瞥を投げた。
この側係が来てからと言うもの、どうも調子が悪い。 今までの奴らみたいな人間なら、扱いも簡単だったはずなのに。 違うのだ。 見せかけだけの好意ならいくらも向けられてきた。 だが、笙玄が寄せる好意は、三蔵自身に寄せられる心からの好意。
依る術のない悟空と二人、この偏見と悪意の中で暮らして行く。
───あいつ、イイ奴だったらいいな…
あの日の言葉は、無い物ねだりのはずだった。
そして、漕瑛の件以来、三蔵以外に懐こうとしなかった悟空が、笙玄を受け入れた。
三蔵が居ない不安に泣いているかも知れない。 悟空を心配するその思いに正直に三蔵は、自己新記録を樹立しそうな勢いで出先の仕事から戻ってみれば、新しく来た側係の僧と笑っていた。 「練習したのに、やっぱだめで、夜、行ったら気が付いてくれなかった。でも、後でぎゅってしてくれて、目覚めたらいてくれたの」 ぎゅっと、三蔵の法衣を掴んで話す悟空の瞳が、はにかんだ嬉しさにほころんでいた。 その歪みが、遂に出た。 「うせろ」と言った時の悟空の零れんばかりに見開かれた瞳。 泣かせてしまった。 胸に響く声が、呼んでいる。
…うるせぇ…泣くな、サル
三蔵は煙草をもみ消し、立ち上がった。 「…あ、あの…どこへ…」 おずおずと訊ねてくる笙玄を三蔵は、何も言わずしばらく見つめた。 綺麗に剃り上げられた形の良い頭。 受け入れて行くしかないのかも知れなかった。 三蔵は踵を返す。 「……悪かったな。サルを連れてくる」 掠れた小さな声であったけれど、笙玄の耳にはハッキリ届いた。 「は…い。お気を付けて…」 震える声で見送れば、三蔵は小さく頷いて出掛けて行った。
思いも寄らぬ三蔵の言葉に、笙玄は涙がこぼれそうになった。 まだまだ、受け入れてもらうには時間が掛かるだろうが、諦めずにいられそうだと笙玄は思った。 誰よりも敬愛する三蔵と何より可愛い悟空のために。
三蔵は声なき声に引っ張られるように、裏山の獣道を歩き、ブナの巨木の前に出た。 柔らかな踏み心地の大地に膝をつく。 「…悟空」 身体を屈め、悟空の耳元で名前を呼んだ。 「悟空…」 名を呼びながら、涙の痕が痛々しい丸い頬に触れる。 「悟空…」 もう一度呼べば、華は何度か瞬き、三蔵に気が付いた。 「…さ、んぞ…?」 頷けば悟空は、身体を起こした。 「何で、ここにいるの?」 信じられないモノでも見るように瞳が、見開かれた。 「迎えに来た」 かぶりが振られた。 「ウソじゃねぇよ」 差し出す手を掴もうとせず、悟空は見る間に涙を溢れさせた。 「…やっ…やだぁ」 抱き込まれた三蔵の腕から逃れようと身をよじる悟空を更に力を入れて三蔵は、抱きしめた。 「…悪かったな、悟空」 抱き込んだ悟空の肩に顔を埋めた三蔵の言葉に、悟空の動きが止まった。 「さんぞ…?」 三蔵の微かに震える声に悟空は、そっと三蔵の身体に腕を回した。 「いいの?居ても…」 また、涙が溢れた。 「さんぞ、大好き…」 涙に濡れた黄金が、月の光に燦然と輝いた。
三人の生活が、こうして始まった。
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