in a fret

朝から悟空が、煩い。
三蔵にまとわりついて離れようとしない。
邪険に振り払おうが、ハリセンで追い払おうが、無視を決め込んで相手にしなくても、まとわりついて離れない。

三蔵の苛つきは、頂点を極めようとしていた。

長旅を終えてやっと帰って来たのだ。
疲れている。
疲れた。
昨夜、と言っても明け方の帰着で。
それでも、三蔵なりに悟空に寂しい思いをさせたと感じるから、睡眠を欲する身体にむち打って、朝食を一緒に食べてやってる。
三蔵の最大の気遣い。
その気遣いを無視するように、悟空はまとわりついて、離れようとしなかった。

「なあ、なあ、飯すんだらさ、散歩に行こうぜ。俺、すっげえいいとこ見つけたんだ。だからさあ、な」

この上、散歩に付き合えとは。
遂に、三蔵の忍耐が切れた。

「うせろ、猿」
「…えっ?」

ピンと澄んだ音を立てて、三蔵が置いた湯飲みにヒビが入った。
それと同時に告げられた言葉に、部屋の空気が一瞬で凍る。

「出て行け。しばらく顔みせるな」
「…な……で…」

感情のこもらない冷たく低い声音で言い放つと、三蔵は席を立ち、寝室に向かった。
三蔵が席を立った音で、笙玄が我に返る。

「三蔵様、なんということをおっしゃるのですか。悟空がどれほどあなたのお帰りを待っていたか、ご存じでそのようなことをおっしゃるのですか」
「…そんなこと知るか」
「三蔵様!」

珍しく笙玄が、怒鳴った。

「喧しい!てめえも今日はその面、見せるな」
「三蔵様、ダメです。ちゃんと悟空に…」

荒々しく閉められた寝室の扉が、笙玄の言葉を断ち切った。

「三蔵様!」

尚も、笙玄が三蔵を呼ぼうと扉に手を掛けた。
その手に幼い手のひらが重ねられた。

「…も、いいよ……笙玄」

見やれば、酷く寂しげな金色の瞳が笙玄を見上げていた。

「悟空…」
「ありがと…味方、してくれて」
「悟空」
「…俺、へーきだから」

と、悟空は笑顔をみせ、

「遊びに行ってくる」

そう言うなり、寝所を走り出て行った。

「悟空!」

笙玄が呼び止める声だけが、虚ろに部屋に木霊した。





















「いらないって…言われちゃった…」

樹齢が千年になろうとするブナの老木の根元で悟空は、涙を一杯に溜めた笑顔を見せた。

「…待ってたんだよ。ちゃんと…大人しくして……笙玄の言うことちゃんと聞いて…」

太い幹に抱きつくように身体を預けた。

「嬉か……たのに…」

呟きは嗚咽に変わる。
溢れる涙が丸い頬を伝い、幹にこぼれ落ちた。

「ふぇ……ぁぁぅ…」

ずるずるとしゃがみ込む。
薄い肩を震わせて、悟空はいつまでも止まらない涙を溢れさせていた。




















イライラとした気持ちのまま、笙玄は一日を過ごした。

三蔵は、朝の言い争いの後、寝室から一度も出てこない。
悟空は、逃げるように遊びに行ったきり、日暮れの時間になっても帰って来なかった。



今回の仕事が、片道七日はかかる遠い先での仕事だということは知っていた。
やっかいな内容で、手間取ることこの上なく、向こうで過ごしたであろう時間は、最初の予定の倍。
休む暇もなく三蔵はまた、七日の道のりを戻ってきたのだ。
だから、疲れているのはわかる。
だが、三蔵がいない一月近くの間を悟空は、一人で待っていたのだ。
どんなに美味しい料理を作ろうと、どんなに面白い話題を話そうと、悟空の輝くような笑顔は見られなかった。
それが、三蔵の姿を見た途端、翳っていた笑顔が本当に輝くそれに変わる。
そんな悟空の姿を見てきた笙玄には、今朝の三蔵の態度は許せなかった。



もう少し、悟空に優しくなさっても良いのに…






夕食の用意を終えた笙玄は寝室の扉を軽く叩き、三蔵に声を掛けた。

「三蔵様、夕餉の支度ができました」
「……ああ」

朝から初めての返事が聞こえた。
そして、気だるげな表情のままの三蔵が、寝室からようやく姿を見せた。
その疲れ切り、憔悴した顔に笙玄は、びっくりした。

なんて顔をしているのだろう。
何日も寝ていない、休んでいない、今にも倒れそうな顔と姿。
本当に疲れていたのだ。
悟空の気持ちを思いやる余裕すら無いほどに。



笙玄は、自分の狭い了見を悔いた。



「大丈夫ですか?」

ふらつく三蔵の身体を支えようと差し出した手を軽く払われた。
その動作に胸が痛くなる。
三蔵は長椅子に座ると、煙草に火をつけた。

「…サルは…?」

呟くような問いかけに笙玄は、はっとして顔を上げた。
見ればもうすっかり日は落ちて、窓の外は夜の闇に染まりつつある。

「ま、まだ…」
「わかった」

笙玄の返事に三蔵は頷いたが、悟空を探しに行こうとはしなかった。

「三蔵様…?」

不安に彩られた笙玄に三蔵は一瞥を投げた。




この側係が来てからと言うもの、どうも調子が悪い。
自分の責任で拾ってきた子供をそれは可愛がる。
当たり前のように心の中に入り込んでくる。

今までの奴らみたいな人間なら、扱いも簡単だったはずなのに。

違うのだ。
この笙玄という僧侶は。

見せかけだけの好意ならいくらも向けられてきた。
最高僧という肩書きに寄せられる好意。
おもねられ、敬われる影で蔑まれ、侮る気持ちを隠すために寄せられる好意。
そんなモノ、歯牙にもかけなかった。
気にもなりはしなかった。
悪意ばかりが目立つ好意など、気持ち悪いだけで、無視するに限った。
何より、どうでもよかった。

だが、笙玄が寄せる好意は、三蔵自身に寄せられる心からの好意。
そんな人間は知らない。
見たこともない。
唯一知るのは、今は亡き光明三蔵と養い子の悟空だけ。
何の代償を求めるわけでなく、三蔵の特別でありたいと望むわけでなく、ただ、三蔵という人間が好きなのだと。


信じられなかった。


寄せられる好意を拒絶する己の中に、それが嬉しくて仕方のない感情を見つける。
信じても良いのか。
裏切られはしないか。
相反する気持ちに、恐怖すら感じて。
受け入れ難い思いに三蔵は苛立つ。

依る術のない悟空と二人、この偏見と悪意の中で暮らして行く。
失くしたものを取り戻す、その時まで。
そう誓って。




───あいつ、イイ奴だったらいいな…




あの日の言葉は、無い物ねだりのはずだった。
それが、目の前に差し出されて、幼子のように戸惑う。




そして、漕瑛の件以来、三蔵以外に懐こうとしなかった悟空が、笙玄を受け入れた。




三蔵が居ない不安に泣いているかも知れない。
寺院の僧侶共に酷いことをされているかも知れない。

悟空を心配するその思いに正直に三蔵は、自己新記録を樹立しそうな勢いで出先の仕事から戻ってみれば、新しく来た側係の僧と笑っていた。
たった、三日。
その間に何があったのか。
悟空に問いかければ、たどたどしい返事が返ってくる。

「練習したのに、やっぱだめで、夜、行ったら気が付いてくれなかった。でも、後でぎゅってしてくれて、目覚めたらいてくれたの」

ぎゅっと、三蔵の法衣を掴んで話す悟空の瞳が、はにかんだ嬉しさにほころんでいた。
あれほどの警戒心をたった三日ほどで溶かせてしまった。
その思いの深さに三蔵は、言い知れない怒りすら覚えた。
だが、この子供が笑っているなら、安心するならと、自分の中の激情と言っていいほどの思いに蓋をした。

その歪みが、遂に出た。

「うせろ」と言った時の悟空の零れんばかりに見開かれた瞳。
疲れ切っていたのも災いした。
欠片も余裕なんぞ残っていなかった。
訳知り顔の笙玄にも腹が立った。
その足で踏み込むなと叫びだしたいほどの衝動を抑えることに精一杯で。

泣かせてしまった。

胸に響く声が、呼んでいる。
その声が痛い。
あの金色の宝石が、涙で濡れている。



…うるせぇ…泣くな、サル



三蔵は煙草をもみ消し、立ち上がった。

「…あ、あの…どこへ…」

おずおずと訊ねてくる笙玄を三蔵は、何も言わずしばらく見つめた。

綺麗に剃り上げられた形の良い頭。
不安と少しの怯えと真摯な色を湛えた鳶色の瞳。
自分より十ほど年上の柔らかな声の人間。

受け入れて行くしかないのかも知れなかった。
悟空のために・・・・・。

三蔵は踵を返す。
その背中に笙玄は、拒絶を感じて掛けるべき言葉を飲み込んでしまった。
その気配を背中で感じた三蔵は、扉に手を掛けたまま振り向くことなく、笙玄に告げた。

「……悪かったな。サルを連れてくる」

掠れた小さな声であったけれど、笙玄の耳にはハッキリ届いた。
笙玄はその言葉に、破顔した。

「は…い。お気を付けて…」

震える声で見送れば、三蔵は小さく頷いて出掛けて行った。






思いも寄らぬ三蔵の言葉に、笙玄は涙がこぼれそうになった。

まだまだ、受け入れてもらうには時間が掛かるだろうが、諦めずにいられそうだと笙玄は思った。
何より三蔵が大切にしている悟空が、自分に懐いてくれているのだから。

誰よりも敬愛する三蔵と何より可愛い悟空のために。





















三蔵は声なき声に引っ張られるように、裏山の獣道を歩き、ブナの巨木の前に出た。
その根元に声の主が、身体を丸めて泣き寝入っていた。
その頬を白々と梢の間から漏れる月の光が、照らしていた。
三蔵は小さくため息を吐くと、そっと、悟空の側に近づいた。

柔らかな踏み心地の大地に膝をつく。

「…悟空」

身体を屈め、悟空の耳元で名前を呼んだ。
しんと静まりかえった森の中、静かに悟空を呼ぶ三蔵の声だけが染み渡る。

「悟空…」

名を呼びながら、涙の痕が痛々しい丸い頬に触れる。
その微かなぬくもりに反応するように、閉じた瞼が震えた。
ゆっくりと開く黄金の華。

「悟空…」

もう一度呼べば、華は何度か瞬き、三蔵に気が付いた。

「…さ、んぞ…?」
「…ああ」

頷けば悟空は、身体を起こした。

「何で、ここにいるの?」

信じられないモノでも見るように瞳が、見開かれた。

「迎えに来た」
「…う、そ…」

かぶりが振られた。

「ウソじゃねぇよ」
「だって、い…いらないってゆったじゃんかぁ…」

差し出す手を掴もうとせず、悟空は見る間に涙を溢れさせた。
三蔵は泣きながら後ずさる悟空の肩を掴むと、その小さな身体を抱き込んだ。

「…やっ…やだぁ」

抱き込まれた三蔵の腕から逃れようと身をよじる悟空を更に力を入れて三蔵は、抱きしめた。

「…悪かったな、悟空」

抱き込んだ悟空の肩に顔を埋めた三蔵の言葉に、悟空の動きが止まった。

「さんぞ…?」
「傍に…傍に居るんだろ?どこにも…行かねぇん……だろ?」

三蔵の微かに震える声に悟空は、そっと三蔵の身体に腕を回した。
といっても腕ごと抱き込まれているため、悟空が出来たのは三蔵のシャツを掴むぐらいのことだったが。

「いいの?居ても…」
「居て…くれ…」
「うん、うん…」

また、涙が溢れた。
今度は嬉しくて。

「さんぞ、大好き…」

涙に濡れた黄金が、月の光に燦然と輝いた。




三人の生活が、こうして始まった。




end

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