優しい時間




「三蔵、チビ知らねえ?」

ミルクの皿を持って悟空が執務室を覗いた。
笙玄と打ち合わせをしていた三蔵は、怪訝な顔で悟空を見やった。

「いねえぞ」
「えーっ、何で?」

ぷうっと頬を膨らませてしまう。
その姿に三蔵はため息を吐くと、傍らの笙玄を見やった。

「笙玄、もういいから一緒に探してやれ」
「でもまだ…」
「いい、後は何とかする」
「三蔵様」
「とっとと行って、探してきてやれ。でねぇと後がうるせぇ」
「はい」

三蔵の言葉に笙玄は頷くと、膨れている悟空に向き直った。

「三蔵様のお許しが出ましたよ、悟空」

笙玄の言葉に膨れいた悟空の顔があっという間にほころぶ。

「いいの?」

それでも三蔵の顔を伺う悟空に、自分でも呆れるほど甘いと思いながら三蔵は悟空の機嫌を取ってしまう。
ほんの微かな瞳の揺れに、折れてしまう。
目の前のこの子猿は、それを知って居るのではないかと勘ぐってしまうほど、タイミングがいいのだ。
三蔵はため息を吐く声音で、どうにでもなれと投げやりな気分を乗せて、頷いてやった。

「ああ、かまわん。とっとと行って来い」
「うん!」

途端、先程とは打って変わった輝くような笑顔を浮かべて、返事を返すのだった。
悟空は、ミルクの入った皿を三蔵の執務机の端に置くと、笙玄の手を引っ張るようにして出ていった。
その姿を見送った三蔵は、軽く首を振りながらため息を吐いた。






チビというのは、十日ほど前に悟空が裏山で拾ってきた薄い茶色と白の毛をした琥珀色の瞳の子猫の名前だった。
生まれてまだあまり日の経っていない子猫で、世話をする手がなければ死んでしまうほどに幼い子猫だった。
拾ってきた日、三蔵とさんざんもめて、結局、悟空が世話をすることで三蔵が折れたのだった。

その日から、寝てもさめても子猫にかかりっきりの悟空の姿を寺院のあちこちで見るようになった。
だが、修行僧達に見つかればどんなことになるかしれなかったので、子猫を連れてうろうろ出来るのは三蔵の寝所と他を隔てる大扉までと決めて。






楽しい日々が続いた。






子猫は愛くるしい仕草でミルクをねだり、悟空にじゃれついた。
悟空は大地のもの達と会話するように、その子猫とも会話をしているようだったが、人間で言えばまだ赤ん坊の子猫と話が通じるわけもなく、ただただ小動物同士がじゃれ合っているようにしか三蔵には見えなかった。






朝、目が覚めた時は悟空の寝台でその小さな身体を丸めて眠っていた。
朝食の時も確かに、悟空の足下でミルクを舐めていた。
仕事に向かう時、悟空と居間の床でじゃれていた。

まだ幼い子猫が、部屋の扉を自分で開けて外へ出て行くことはまず、あり得ない。
ならば、悟空が扉を開けっ放しにしていた隙に外へ出て行ったのかも知れなかった。



しょうがねえ、奴…



三蔵は書類をめくりながら、つらつらとそんなことを考えていると、バタバタと走る足音が聞こえたかと思う間もなく、悟空が今にも泣き出しそうな顔をして執務室に飛び込んできた。

「さんぞぉ──っ!」

何事と、顔を上げる三蔵の首に悟空は飛びついた。
その勢いに後ろに椅子ごと倒れそうになった三蔵は何とか持ちこたえて、悟空の身体を受け止めた。
お陰で手に持っていた書類の束が、盛大にばらまかれる。

「何だ?」

首にかじりつく悟空を引き剥がそうとしているところに、笙玄が戻ってきた。
三蔵に抱きつく悟空の姿を見て、やっぱりと言った顔でため息を吐いた。
その様子を目敏く見つけた三蔵が、

「笙玄」

と呼べば、笙玄は困ったような表情で三蔵の側へやってきた。

「何があった?」

引き剥がそうとしても剥がれない悟空に諦めて、三蔵は悟空の身体を膝に抱き上げた。

「子猫…僧侶が捨ててしまったそうなんです」
「捨てた?」
「はい。大扉が少し開いていたらしく、そこから外へ出た所を僧に見つかってしまって、総門の外へ出されたんです。それを聞いてすぐに捜しに行ったのですが、子猫の姿はどこにも在りませんでした」
「で、これか…」

笙玄の話に三蔵は、悟空が自分に抱きついて動かない理由に納得した。
三蔵は一つ息を吐くと、悟空の顔を両手で上げた。
上げた悟空の顔は、涙に濡れていた。

「居なくなったもんはしょうがねぇ。無事に誰かに拾われていることを願ってやれ」
「でも…でも…いらないって、捨てたんだ…あいつは、いらないって…」
「お前は必要だったんだろ?ならいいじゃねえか。あいつはちゃんと知っている。そして、ちゃんと必要だと思われて、拾われてる」
「何で、そんなこと、三蔵にわかんのさ?」

三蔵の言葉に悟空は泣き濡れた金の瞳で、そんなのごまかしだと、訴える。

「わかるさ。俺はお前の飼い主だからだ」
「飼い主?」
「ああ、ペットを飼ってりゃ、ペットの気持ちもわかるようになるんだよ」
「何…それ?」

自信たっぷりに告げる三蔵の言葉に悟空は、呆れた顔をする。

「変なの…」
「いいんだよ」

三蔵はふんと鼻を鳴らして、悟空を膝から下ろした。
悟空は服の袖で涙を拭うと、執務机の隅に置いたままになっていたミルクの皿をそっと手に取ると、

「洗って…くる」

と言って、寝所に戻っていった。
その寂しそうな後ろ姿に、笙玄は何か一人で頷くと、三蔵に声を掛けた。
散らばってしまった書類を拾いかけたまま、三蔵は笙玄を振り返った。

「何だ?」
「あの、お弁当をこれから作りますから、悟空とお散歩に行かれませんか?」
「ああ?」

笙玄の言葉に三蔵は、何を言い出すんだとあからさまに眉を顰めた。

「あんなに可愛がっていたんです。それを捨てられて、ショックが大きいでしょうし、寂しいと思います。それに、最近三蔵様はお忙しくて、子猫に悟空の相手を任せっぱなしだったではありませんか」
「あのなぁ…」

三蔵は笙玄の言葉に、脱力を禁じ得ない。
確かに悟空が子猫を拾ってきた辺りから色々と仕事が忙しかった。
それは認めるが、悟空の相手を子猫に任せた覚えはなかった。
任せたというより、悟空が子猫に夢中で、三蔵の忙しさや不在にほとんど気が付かなかったと言った方が正しい。
なのに、何で自分の所為になる?
三蔵は酷く理不尽なというか、悟空贔屓な笙玄の言いぐさに、深いため息を吐いた。
笙玄は三蔵の吐いたため息を了解と取ったのか、嬉しそうな笑顔を浮かべると、

「では、すぐに用意致します。悟空にも知らせてきますね」

バタバタと寝所へ走って行ってしまった。

「…なに…マジかよぉ…」

三蔵はぐったりと椅子に身体を預けると、こめかみを押さえて唸った。
集めかけた書類は、再び床に散らばった。





















弁当の包みをリュックに入れてもらって、悟空は嬉しそうに三蔵の少し前を歩いてゆく。
何が嬉しいのか、時々三蔵を振り返っては頷き、また、前を歩いてゆく。

柔らかく暖かな陽ざしが木々の葉陰を写し、晴れた空はどこまでも青い。
春と夏の狭間の季節は、どこか薄ぼんやりとして吹く風すらも柔らかい。
もうすぐ初夏のハッキリした陽ざしと色に変わるまでの僅かな時間。
そう、季節が微睡む一瞬。

三蔵は短くなった煙草を投げ捨てると、先を行く悟空を愛しげに見つめた。




子猫が捨てられたことが悲しいわけでなく、必要とされなかった事が悲しかった子供。
まるでそれは自分の姿のようで。
三蔵の側にただ居る。
何の役に立つわけでなく、ただ居るだけの存在。
自分の必要性を見失う、そんな一瞬。
だが、三蔵にとって悟空はもう、心の一部だ。
失うことなんて考えられないほどに、三蔵の中に入り込み、根を張っているというのに。
身体を重ねるようになって、羞恥を押し隠して告げた言葉もあるというのに、まだ、怯える。
いつになったら、安心するのか。



バーカ…



三蔵は前を行く悟空の背中に、小さくため息を吐くのだった。

「なあ、向こうの方に行ってみねえ?」
「ああ?」

分かれ道、悟空は立ち止まって行き慣れた原っぱとは違う道を指していた。

「好きにすれば…」
「さんぞ?」

途中で三蔵の言葉は途切れ、訝しんだ悟空の耳に聞き慣れた声が聞こえた。

「八戒と…悟浄?」

そう?と三蔵を見れば、苦虫を噛みつぶした顔がそこにあった。
その表情で、声の主がそうだとわかる。

「あっ、来たよ」

指さす方を見れば、見たくもない姿が二つ、こちらに近づいてきた。

「悟空─っ!」

八戒が手を振っている。

「八戒─っ!悟浄─っ!」

悟空は嬉しそうに両手を振って二人を出迎えた。

「なんとか追いつきましたね」
「結構。足早ぇな」

二人を迎える悟空は嬉しそうに笑い、三蔵は不機嫌な顔を向けた。

「どこ行くんです?」
「うんと、散歩」

八戒の問いかけに悟空は三蔵とだよと、幸せな笑顔を向ける。

「じゃあ、僕たちもご一緒していいですか?」

と、問えば、

「いいよ、お弁当もあるし、ピクニックになる!な、さんぞ」

そう言って、三蔵を見やった。
三蔵が答えるより早く、三蔵の不機嫌の理由を察した悟浄が、にやりと笑うなり、

「お邪魔だったぁ?」

シナを作って三蔵に問えば、すかさずハリセンが飛ぶ。

「ってぇな、邪魔なら邪魔って口で言え、クソ坊主」
「うるせえ、邪魔だと思うんなら、とっとと帰れ」
「冗談、俺たちはお前じゃなくて、可愛い小猿に会いに来たんだよ。な、八戒」

話を振られた八戒が、そうですと、頷く。
そして、

「お菓子をたくさん作ったのでお裾分けに持ってきたんですよ。その途中で、こっち歩いてゆくあなた方を見つけたんです。それで、急いで後を追ってきたと、言うわけです」

そう言って、悟空の前に下げていた袋を見せた。

「ホントに?」
「ええ、ホントですよ」

びっくりする悟空に優しい笑顔で頷いてやる。

「じゃあ、早く行こう!」

悟空は八戒の手を掴み、空いた手で三蔵の手を握ると二人を引っ張って、いつもの道を歩き出した。

「ご、悟空…」
「おい、サル」
「おっ。可愛いねえ」
「こっち、こっちぃ」






幸せな笑顔が見たくて、甘くなる。
輝く笑顔が大好きで、優しくなる。

この子のためならば、この笑顔のためならば、何だって出来る、してやる。

優しい時間と優しい季節の狭間の出来事。




end




リクエスト:悟空が拾ってきた猫を僧が何処かに捨ててしまい落ち込んでしまった悟空を心配した笙玄が、三蔵と悟空を散歩に行かせるが、悟浄と八戒が途中参加して散歩がピクニックに変わってしまうお話。
9000Hitありがとうございました。
謹んで、葵咲さまに捧げます。
close