山道を歩く悟空の姿があった。
うつむいて歩く背中が、小さく見えて、危うげな雰囲気を辺りに放っていた。
山道を辿る足下を、小さな花が慰めるように触れてゆく。
木々を揺らす風が、宥めるように悟空の周囲を吹きすぎてゆく。
悟空は慰めも、宥めも気に留まらない様子で、山道を奥へ奥へと辿っていた。
山は、夏の盛りを過ぎ、秋の気配を微かに漂わせ、今を盛りとその生命を咲き誇っていた。
雑木林の中を抜け、奥に茂るブナの森が、悟空を静かに迎えた。
悟空は、一度天を仰ぐと、また、道を奥へと辿り、その姿は、森の奥に消えていった。
上弦の月の下で
「…あっ…やぁ…」
与える熱に華奢な身体を震わせて、吐息をこぼす。
行為がもたらす熱にいつまでも慣れない幼い身体。
その一つ一つが、三蔵を溺れさせてゆく。
「あ…あん……」
すがりつくように伸ばされた手に己の手を絡ませ、三蔵は楔を打ち込む。
「ひぁっ…!」
息を呑むような声を上げ、反り返る。
「…さん…ぞ」
涙で潤んだ金が開き、欲に染まった紫と交差する。
「悟空」
掠れる声音で名を呼べば、儚げな微笑みが花開く。
「…さんぞ、す…き」
艶やかに濡れた唇から零れる言葉に愛しさが募る。
耳元に吐息の答えを返しながら、行為は頂へと上り詰めてゆく。
ゆすりあげられ、与えられる快感に悟空が、三蔵にすがりつく。
しなる身体を掻き抱き、三蔵は己の欲望を打ち付ける。
煽られる熱に華奢な身体は、弓なりに反り返り、絶頂を迎えた。
それでも、打ち付けられる楔に容赦はなく、絶頂を迎えた身体を尚も翻弄する。
「ふっ‥あ‥さ…ぞ、あっんん…」
漏れる嬌声に熱はより一層煽られて。
「も‥もう…んぞ…」
再び熱を持った花芯を包み込まれ、揺さぶられる細腰を押さえられ、悟空は何度目になるかわからない絶頂を迎えた。
その迸りとほぼ同時に三蔵も己の熱を悟空の最奥に向けて放った。
絶頂と共に意識を飛ばしてしまった悟空の身体を抱き込んだまま、三蔵は息が落ち着くのを待った。
繋がった身体を離し、寝乱れた寝台に仰向けに寝転がる。
見上げる窓の向こうに、細い下弦の二日月が見えた。
明日から三日、この小猿を置いて出かけなければならない。
仕事に悟空を連れてゆくことは滅多にない。
それはいつものこと。
遠出の時は、起こしてでも居ない間のことを悟空に言い置いてゆくこともまた、いつものことだった。
だが、明日の出発の時間は夜明けと同時刻。
起こすには忍びないと、珍しいことを三蔵は思ってしまった。
だから、明日は起こさずに出発しようと決めて、行為に及んだ。
そのことが悟空が側を離れることになるとは、この時の三蔵には思いも及ばなかった。
三蔵は、汗に濡れた悟空の顔を愛しそうに見やると、後始末のために起き上がった。
朝、と言っても昼前に目が覚めた悟空は、夜着のまま居間に姿を見せた。
それは、いつもの朝の風景。
いつもと変わらない目覚めの風景。
しかしそこに、普段なら寝所の掃除をしているはずの側係の笙玄の姿は無く、机に悟空の食事が、ふきんを掛けられて置かれているだけだった。
「あれ…?」
人の気配のなさに、悟空は小首を傾げた。
三蔵と笙玄は、仕事だろうか。
着替えたら、仕事部屋に行ってみよう。
悟空は、居間で着替えると、脱いだ夜着もそのままに、執務室へ向かった。
「さんぞ?」
居るはずの人間の名前を呼びながら、執務室に続く扉を開けた。
だが、そこに三蔵の姿は無かった。
「…さんぞ?笙玄?」
名前を呼びながら、笙玄の仕事部屋へ行く。
そこにも居るはずの人間の姿は無かった。
「あれ…?」
と、お腹が鳴った。
空腹を訴えるお腹を納めるべく、悟空は居間に戻った。
いないの?
どして……あれ?
小首を傾げながら悟空は、机の食事に手を伸ばし、食べ始めた。
さほども食べない内に、突然、胃を掴まれるような吐き気が襲ってきた。
慌てて口を押さえ、洗面所へ走る。
今食べたものを全て吐き、悟空は洗面台の下に崩れ折れた。
しばらくして、気が付いた悟空はゆっくりと立ち上がり、ふらつく身体を壁にもたれさせながら居間に戻った。
そして、窓の下の長椅子に踞るように座ると、目を閉じた。
「何で居ないの?」
外は、夕闇に染まっていた。
その耳に声が聞こえた。
「置いてかれたの?」
下弦の月が昇る頃、心は凍てつこうとしていた。
それは、悟空を愛しげに呼ぶ。
「も…いらないの?」
呟いた言葉に、酷く悟空は傷ついた。
それは、切なげに心に届く。
「ひとり…なの?」
潤む瞳の先には、月の沈んだ夜の闇。
それは、優しく誘う。
「…夢…だった……の?」
白み始めた空が、愛しい人の瞳の色に一瞬光り、明るい光りを投げかける太陽をそのかいなに抱いた。
それは、大地の声。
「…い…らない……んだ」
震えるまつげに銀色の滴が光り、白い頬を流れ落ちた。
そして、微かに頷く悟空がいた。
三蔵が戻ってきたのは、それから五日の後だった。
予定していた仕事が、行った先の手違いで段取りが狂い、三日の予定が五日に延びてしまったのだった。
お陰で帰途についた三蔵の機嫌は、すこぶる悪く、不機嫌のオーラをまき散らしながらの帰還となった。
出迎えの小坊主や修行僧を適当にあしらい、まっすぐに寝所に向かった。
そして、寝所の扉を開けたまま、目の前に広がる部屋の有様に三蔵はそこに立ちつくしてしまった。
脱ぎ捨てられたままの夜着。
食べ散らかされた机。
開け放たれた窓。
全開になった寝室の戸口。
そこから見える寝乱れたままの寝台。
そして何より、悟空の気配が全くしないことに。
「…悟空?」
部屋を引き散らかした相手に対する怒りすら忘れて三蔵は、我が目を疑った。
どうしたというのだろう。
自分が帰ったら、一番に飛び出してくる小猿の姿が、そう言えば無かった。
境の大扉の前でいつも三蔵を出迎える笙玄の姿も無かった。
何があったというのだろう。
自分が居ないたった五日の間に。
半ば無意識に寝所に足を踏み入れた三蔵は、突然、心臓を鷲掴みにされる痛みに襲われた。
「な…に……」
思わず膝をつく三蔵に声が届いた。
『我らの愛し子を還してもらった。二度とそなたの元には戻さぬと思え』
「何を…言って……くっ」
『我らの愛し子の手を離したは、そなた。ゆえにそなたに愛し子を求めることはもはや叶わぬ』
「てめぇ、一体何をふざけたことぬか…」
息もできないほどの痛みが、三蔵の心臓を襲う。
それでも意識は、研ぎ澄まされ、気を失うことすらできない。
三蔵は、寝所の床に胸を押さえて、踞ることしかできなかった。
耳に届く声は、痛みに震える三蔵を嘲笑うかのように続く。
『自らの意思で還ってきたのだ。ゆえに愛し子はそなたの元には戻らぬ。我らの愛し子を傷つけた代償は、その痛み。甘んじて受けるがいい』
「ぐっ!!」
更に痛みが増す。
痛みの凄まじさに痙攣する三蔵。
研ぎ澄まされていた意識が、あまりの激痛に朦朧とし、闇に落ちる寸前、三蔵は悟空の声を聞いた気がした。
悟空は森に抱かれるようにして眠っていた。
柔らかな苔が褥になり、まだ幼さの残る身体を土の上に眠る痛みから守っていた。
踞るようにして丸まって眠る悟空の頬にうっすらと涙の痕が見えた。
朝日を浴びて眠る悟空の姿は神々しささえあって、何ものをも近づけない壁を感じさせた。
暖かな風が、悟空の回りを吹きすぎてゆく。
その風に悟空は身じろぎ、その黄金を開いた。
「…んっ」
まだ眠そうな目を擦りながら、悟空は身体を起こした。
朝の空気が、優しく悟空を包み込む。
「…おはよ…」
呟くように誰とも無しに挨拶をする。
と、ざわざわとブナの梢が鳴った。
それを合図のように、森の申し子達が、悟空に糧─木の実─を運んでやってきた。
その姿を認めて、悟空が嬉しそうに笑った。
「おはよ、ありがとうな」
渡される木の実を受け取るたびに、悟空は申し子達から頬ずりされたり、舐められたりと挨拶を受けた。
森に入ったときの危うげな様子は、もうみじんも感じられなかった。
悟空は、木の実に口を付け、食べ始めた。
「おいしいよ」
嬉しそうに木の実をほおばるその姿に、森中が安堵する。
今、悟空の居るこの森は、三蔵と住んでいた寺院の裏山から遙か奥に入った所にあった。
人の踏み込むことを許さない堅い結界に守られた聖地。
その昔、大地母神が愛し子を育んだと言い伝えられる場所。
悟空にとっては、母の体内に還るような場所といえた。
悟空に生まれた本来の場所の記憶は無かったが、ここはその場所に似た気が満ちていた。
傷ついた心と身体を癒してくれる優しい気。
その大地の気に包み込まれ、悟空は大地に還ろうとしていた。
床の冷たい感触に三蔵は、気がついた。
疲れ切り、酷く怠い体を無理矢理起こすと、床に座った。
激しい痛みに流した汗に濡れた前髪を掻き上げる。
と、微かな風を感じて目をやれば、夕闇が辺りを包んでいた。
三蔵は、気を失っていた時間の長さに、舌打ちすると、立ち上がった。
一瞬、目眩がしたが、三蔵は構わず長椅子の所まで歩いて、腰を下ろした。
懐を探って煙草を出すと、くわえた。
───自らの意志で還ったのだ
あの声は、誰のものだというのだ。
大地の声だと言うのか。
何故、還る。
理由は何だ。
思い当たるものがなく、三蔵はイライラと煙草を吸う。
口に残る苦みが、まるで今の自分の気分そのままで、嘲るような笑みが口の端に浮かぶのをどうしようもなかった。
「三蔵様、お帰りなさいませ」
側係の笙玄が、駆け込んできた。
そして、居間の様子に戸口から数歩入ったところで、立ち止まってしまった。
居間の長椅子に足を投げ出し、開け放した窓から外を見ている三蔵の姿が酷く朧気に見えて笙玄は、しばらく声をかけることが出来なかった。
やがて、ものの判別がつかない程に暗くなっていた部屋に気が付いた笙玄は、明かりをつけた。
不意に明るくなった周囲の眩しさに三蔵は、振り返った。
「…笙玄」
三蔵の呟く声に笙玄は、静かに返事をすると、長椅子の側に寄った。
「三蔵様、どうかなさいましたか?」
笙玄の問いかけに三蔵は、深く息をすると、まるで何かを振り切るように立ち上がった。
そして、
「いや、何でもない。で、お前は何処にいた?」
と、普段の三蔵からは考えられないような静かな声が返ってきた。
「私は、三蔵様がお出かけになられた日、どうしても人手が足りないとのことで、丁度三蔵様も居らっしゃらないから大丈夫だと、別院の方へ手伝いに行っておりました。それで、先ほど、三蔵様がお戻りになったと連絡が参りまして、戻って来たのです」
「猿は?」
「私が出かけるときは、まだ眠っていました。食事の用意をして、起こしに行ったのですが、起きなくて、別院へ出かける時間が迫っておりましたので、置き手紙を残す暇も無く、出かけてしまいました。気になっていたのですが、様子を見に戻ることが一度も出来ませんでした。三蔵様と私が居ない間、悟空は大丈夫だったでしょうか?ちゃんと食事を摂っていたのでしょうか?一応、頼んではおいたのですが・・・」
そう言って、悟空の姿を捜す笙玄に三蔵は、何も答えなかったが、部屋の有様を見れば、二人が居ない間の悟空の生活がどういうものだったか伺い知れ、笙玄は、改めて僧侶達の悟空に対する感情を思い知らされた気がした。
「それで、悟空は遊びに行ってまだ、帰ってないのですか?」
笙玄の言葉を聞きながら、三蔵は、出かける日の朝に見た穏やかな幼い悟空の寝顔を思い出した。
その顔を消すように目をゆっくり閉じて、開くと、三蔵は旅装束を解きながら、湯殿に向かった。
「三蔵様?」
どこかいつもと違う空気を纏った三蔵に戸惑う笙玄の声に、
「片づけてくれ」
それだけ言うと、三蔵は湯殿に続く扉を開けた。
その背中に笙玄は、返事を返すだけで、それ以上何も言えなかった。
三蔵は、湯殿の扉を閉めるとシャワーのコックを開けた。
「バカ猿…」
呟きはシャワーの音に消えて、迸る冷たい水に身体を投げ出したまま、三蔵は動こうとはしなかった。
山の斜面に広がるカンゾウの花畑の中に悟空は、佇んでいた。
山の端に沈もうとする夕日をただ、見つめている。
悟空の足下には、身を寄せるように狐や兎が、肩には鳥がいた。
まるで悟空を守るように見える。
花達は、大地の子を迎えた喜びに咲き誇る。
悟空は、夕日の赤をその金に映しながら、胸に開いた隙間について考えていた。
一人で、空ばかり見てた。
ずっと、長いこと。
誰かを待っていた。
空を見ながら、迎えに来てくれる誰かを。
ここで…?
違う、もっと暗いところで、一人で。
どこで?
誰を?
なんで?
涼しい夜風が、最初の吐息を悟空に届ける。
それを合図に、悟空の回りの動物達がそろりそろりと、佇む悟空を振り返り、振り返り巣穴に帰り始めた。
夕日が、最後の光を空に投げ、その姿を隠してしまっても、夜のとばりが降り初めても悟空は、カンゾウの野に立っていた。
悟空が寺院から姿を消して、瞬く間に半月が過ぎようとしていた。
三蔵は何も言わない。
悟空が居ない理由を。
悟空が姿を消した理由を。
笙玄もまた、何も言わなかった。
三蔵の背中が拒否していたから。
三蔵の瞳がガラスのように無表情だったから。
三蔵は黙々と仕事をこなし、休むことはなかった。
就寝時間は遅く、食事もろくに摂らず、まずそうに酒をあおって床につく生活が続いていた。
笙玄は、そんな三蔵を見かねて、密かに悟空を探していた。
しかし、手がかりは何一つ無く、寺院の僧侶達は、ここの生活に耐えきれず出て行ったのだと、やっかい払いが出来て良かったと噂していた。
秋の気配が色濃くなってきたその日も、日付が変わる時間まで執務室で仕事をこなし、開け放った窓にもたれて、三蔵は酒をあおっていた。
いくら飲んでも酔えない自分に苛立ちながら。
悟空の居ない生活。
五行山から連れ帰るまでは、当たり前だった静寂。
それを懐かしんでいたのは、ほんの少し前。
側に居るのが当たり前だった。
喧しいのも当たり前だった。
居なくなって初めて、三蔵は己の孤独を知った。
これほどまでに寺院で、いや、世界で一人だったのかと。
どれ程、あの小猿に救われていたのかと。
そして何より、これほどに心を占めていたとは。
愛しい、何ものにも代え難い存在だったとは。
失って気付く己の馬鹿さ加減に目眩がした。
そして、気付く。
いつも心の何処かに必ずあった悟空の”声”が全く聞こえないことに。
手にしたビールの缶が、滑り落ちた。
乾いた音を立てて、床に転がり、ビールの染みが床に広がってゆく。
「……くっ・くく…」
押し殺した笑いが、三蔵の口から漏れた。
肩を揺らし、身体を折って三蔵は、笑う。
押し殺した笑い声は、やがて微かな嗚咽を含み、唐突に止んだ。
三蔵は、窓枠を握りしめ、うつむいたまましばらく、佇んでいた。
夜風が金糸を揺らす気配に三蔵は、顔を上げた。
「探し出して、取り戻してやる。何処にいても必ず、見つけだす」
鋼の声で三蔵は誓った。
あれは、俺のものだ。
俺だけのものだ。
焼け付くような独占欲。
そこに胸を焦がす程にあの魂を渇望する自分が居た。
そして、今度は三蔵が呼ぶ。
その魂をかけて。
───悟空…!
大きな羽音を立てて鳥達が飛び立った。
梢がざわめき揺れる。
悟空は声を聞いた。
魂に直接響く声を。
「…誰?」
見渡す辺りに人の気配は無い。
小首を傾げて、声の主を探ろうとする悟空に森は、危惧する。
あの人間が、我らの愛し子を連れ戻しに来る。
天界に連れて行かれた時の大地母神の嘆きは深く、暗い荒れた時代が長く続いた。
戻ってきたときには全てを失っていた。
神と呼ばれれるもの達が傷付けた愛し子をその神が、岩牢に閉じこめた。
封印は堅く、愛し子は永く孤独を味わうこととなった。
その孤独から愛し子を救ったのは人間。
愛し子が太陽と呼ぶ金色の人間。
その人間が、不用意に愛し子の手を離した。
支えを失った愛し子は、全てを心の奥に閉じこめてしまった。
いずれ無くなってしまうものなら、最初から無いものと思えばいい。
そうやって待ちわびた愛し子が還ってきた。
もう、誰にも渡さない。
例え、愛し子が望んだとしても。
大地とそれに属するもの全てが、悟空を隠そうとざわめく。
しかし、悟空に届く声は、あらゆるものを突き通す。
───悟空
悟空の魂に直接届く声。
はっきりと、自分の名前を呼んでいる。
「誰…?」
聞き返す声は、森に吸い込まれ、消えてゆく。
───…悟空
どこか懐かしさを呼び覚ます。
胸に沸き上がる不思議な感情。
胸に開いていた隙間を埋めるような声。
悟空は、その声を抱き込むように両手を胸の前で組んだ。
「ねえ、声が聞こえる。何か…嬉しい」
ブナの幹にもたれて悟空は呟いた。
「俺、この声…好き」
幸せそうに頬笑むと、もっと声を聴こうとするように組んだ両手を胸に付けるのだった。
山道を三蔵は辿っていた。
半月以上前に悟空が辿った同じ道を、ゆっくりした足取りで歩いてゆく。
細い山道を奥へ辿る三蔵の胸には、悟空の所在を示す声が、聞こえていた。
言葉にならない声。
それでも、三蔵には確信できた。
悟空の声だと。
声が聞こえてきた時の喜びは言葉に尽くせないものがあった。
そして思う。
まだ、間に合う。
取り戻すことが出来る。
三蔵は、山の奥へと入って行った。
寺院の敷地を抜ける頃には、辿っていた山道はなくなり、下草に覆われた獣道に取って代わっていた。
三蔵は構わず先へと進む。
先へと進むに連れて、山がざわめきだしていた。
ざわざわと梢を揺らして風が吹き渡る。
三蔵は生い茂る草が、足に絡みつくのを引きちぎるようにして前へ進む。
茂みが覆い被さるようにして行く手を遮る。
三蔵はその茂みを打ち払い、薙ぎ払って進む。
三蔵の周囲を動物達が取り囲み、様子を窺いながら付かず離れず付いてくる。
茂みは三蔵の手や顔を傷つけ、着衣を引き裂く。
先へ、悟空の微かな声を頼りに、悟空を思いながら三蔵は歩いて行く。
山の奥へ進む三蔵の心臓をじわりじわりと痛みが襲いつつあった。
その痛みに三蔵は大地の意志を感じる。
「そんなに会わせたくないか。だが、あいつは俺を呼んでるんだよ」
痛みが増すに連れて、呼吸が荒くなっていく。
「……くっ…」
冷や汗が頬を伝う。
痛みが、心臓を鷲掴みにしていく。
それでも三蔵は、足を引きずるように例え一歩でも悟空の元へ近づくように前へ進んで行く。
───悟空…
「ご…くう……」
途切れそうになる意識と闘いながら、三蔵は倒れ込むようにしてブナの森へ出た。
途端に痛みが引いて行く。
「結界…か?」
今出てきた茂みと目の前に広がるブナの森とを交互に見た。
痛みで上がっていた呼吸が元に戻るのを待つように、三蔵はしばらく座り込んだまま動くこうとはしなかった。
風は緩やかに吹き渡り、ブナの梢を揺らしてゆく。
揺れる梢を見上げながら、三蔵は胸の内へ意識を向けた。
そこに悟空の声はまだあった。
微かに、それでもはっきりと届いていた。
「…今、行く」
大きく深呼吸すると、三蔵は立ち上がった。
そして迷うことなく、森の奥へと歩き出したのだった。
悟空は声が聞こえ始めてから、カンゾウの花畑に居ることが多くなった。
咲き乱れる花の中に座って、空を眺めている。
澄んだ秋の色の空。
高く、何処までも高く澄み渡っている。
この空の下に、自分を呼んでいる人がいる。
そう思うだけで、嬉しさがこみ上げてくる。
一人だと思っていた。
この胸に空いた喪失の思いは、何時生まれたのかもわからなかった。
気が付けば、胸の奥にそこにあるのが当然のようにあった喪失。
何を失ったのだろう。
何が欠けてしまったのだろう。
思いは空回りするばかりで。
孤独が忍び寄るばかりで。
満たされない思いに考えることすら諦めようとしたとき、聞こえた声。
愛しい者を探すように呼びかける声。
後悔と哀しみと強い意志を感じる声。
愛してくれるものの中にあって、諦めと孤独に染まりつつあったこの胸。
その胸に響く声。
自分を呼ぶ確かな声。
深く、優しく、そして少し切なげに呼ぶ声。
「誰?俺、ここに居るよ…」
呟く声は嬉しそうに、口元には微笑みさえ浮かべて。
まるで愛しい人の来訪を待つように、悟空は声の主を待っていた。
大地は畏れおののく。
もうすぐあの人間が愛し子に会う。
最後の結界までもう距離も時間も残されては居ない。
大地は全てに命じた。
あの金色の魂をした人間をここへ、愛し子の元へ近づけるなと。
”是”と、答えは返った。
三蔵と大地に属するもの達との攻防が始まった。
森の奥へ進むに連れて風が意志を持ったもののように吹き荒れ始めた。
風に舞い上がる木の葉が、視界を塞ぐ。
三蔵は片手で顔を庇い、足下にからみつく下草や行く手を遮る茂みを打ち払い、引きちぎり、薙ぎ払いながら先へ進む。
三蔵の歩みが止まらないと見るや、大地の申し子達は暗い一陣の凶器となって三蔵を攻撃し始めた。
「…っつ!このっ!!」
向かってくる影をあるいは避け、あるいは打ち落とし、あるいは撃ち落として反撃するが、間断の無い攻撃に、先へ進めなくなってきた。
三蔵は忌々しげに舌打ちすると、小さく真言を唱え始めた。
ゆうるりと三蔵の周囲に金色の結界が生まれる。
その光りに一瞬、攻撃が止むが、すぐに再開される。
が、どの攻撃も光りに阻まれて、三蔵に届くことはなかった。
三蔵はそのまま真言を唱えながら、先へと走りだした。
あと少し。
再び、あの痛みが三蔵を苛み始めていたが、それは結界が近い証拠。
それは、悟空が近い証拠。
痛みに走る足が鈍くなるのを叱咤して、三蔵は森を走り抜けた。
心臓を引き裂かれるような痛みを抱いて、三蔵は森の中心に辿り着いていた。
三蔵がブナの森で攻撃を受けていた同じ頃、悟空は、微かなざわめきを感じて、空を降り仰いだ。
「何…?」
耳をそばだて、周囲に気を配る。
しかし、ざわざわと揺らめく気配ばかりで、何がどうなったのかも掴むことができなかった。
「どう…したの?」
問いかけは風に運ばれて、答えは運んできてはくれなかった。
「…胸が、ざわざわして…る」
黒い不安が頭をもたげ始めていた。
その時、悟空を呼んでいた声が
、一瞬、途切れた。
「えっ?!」
血の気が引いた。
すぐにまた、声が聞こえても、悟空の蒼白になった顔に血の気は戻らなかった。
そして気付く。
自分を呼んでいた声の主が、すぐ側に来ていることに。
闘っている、そのことに。
誰と?
何と?
「あっ、ダメ!ダメだ!!」
悟空は、叫んだ。
その叫びに一斉に花が音を立てて散る。
風が散った花びらを巻き上げ、叫ぶ悟空の姿を隠した。
激痛に耐え、三蔵は身体を引きずるように前へ進む。
「ご・・くう」
愛しい子供の名を呼びながら。
───悟…空
悟空は荒れ狂う花びらの嵐を突き抜けて、転がるように走り出した。
大地が嘆く。
もう、止められないと。
ならばあの金色の人間を殺して・・・・
「ダメ───っ!!」
悟空の叫びが、大地を貫いた。
「…悟空」
霞む視界の端に大地色の髪が見えた。
走る先に白い姿が見えた。
「あ…ああ…さんぞ───っ!!」
───声が聞こえたんだ。
「悟空っ!!」
───うるせーんだよ。いい加減にしろ。
「三蔵──っ!!」
───連れってやるよ…仕方ねーから
崩れ折れる三蔵の胸に悟空は飛び込んだ。
その衝撃を受けとめながら、三蔵の意識は落ちた。
───泣くな。
黄金の瞳からはらはらと透明な滴が零れる。
───泣くな。
儚げに揺れる細い肩。
───泣くな。
その肩に手を伸ばせば、その姿を突き抜ける。
空を掴む恐怖。
悟空!
はっと身を起こせば、目の前に驚いたように見開かれた金の瞳があった。
けぶる様な黄金の瞳。
大地色の少し伸びた髪。
額の金鈷。
華奢な身体。
何もかもが、酷く消え入りそうで、三蔵は思わず悟空を掻き抱いていた。
倒れた三蔵を抱えて、泉まで歩いた。
着ている服を裂いて、水に浸し、汚れた三蔵の顔を拭った。
ちょっと苦しそうに閉じた瞳。
木の葉にまみれた金糸の髪。
裂けた法衣。
無数の傷。
そして、──声。
ひたすらに自分を呼んでいたのは、三蔵だった。
誰よりも愛しい大切な人。
自分を照らし、導いてくれる大切な太陽。
その三蔵の元を何故離れたのか。
何故・・・。
ああ、居なかったのだ。
目が覚めて、何処にも居なかったのだ。
置いて行かれたと思った。
いらないと思った。
たったそれだけのことだったのだ。
そのことが、こんなにも三蔵を傷つけてしまった。
優しい大地に牙を剥かせた。
「……ごめん」
涙が溢れた。
後悔と安堵の涙が。
「ごめん…さんぞ」
ひとしきり声を殺して泣いた。
悟空の嗚咽が消える頃、三蔵が何かを掴むようにして、跳ね起きた。
そして─────
どちらが求めたのかわからなかった。
お互いの顔が近づき、吐息はお互いの中に飲み込まれた。
最初はゆっくりと。
次第に激しさを増し、お互いがお互いを確かめるように求め合った。
「ふぁ…んっ」
漏れる吐息が甘く、三蔵の耳朶をくすぐる。
久しぶりに腕に抱く身体は、三蔵の与える愛撫にどん欲なまでに反応する。
それは離れていた間の時間を埋めるように。
触れ合わなかった心を埋めるように。
「さん・・ぞ」
名を呼ぶ声に顔を上げれば、熱に潤んだ黄金が見返す。
「悟空」
呼び返せば、ほころぶような微笑みを浮かべた。
その微笑みに、紫暗の瞳も愛しげにほころぶ。
与えられる快感に震える身体を辿り、三蔵は悟空自身を包み込んだ。
「あ…んっ」
直接伝わる快感に悟空の身体は跳ね上がった。
逃げをうつ細腰を抱え込み、三蔵は花芯に口づけを落とす。
「あ、やっ」
苦しげに眉根を寄せて、三蔵の金糸をかき混ぜる。
「……やっ…もで…る」
やがて、大きく体を震わせて、悟空は熱を吐き出した。
その余韻に荒い息を吐く悟空の腰を抱え上げると、三蔵は蕾をほぐしにかかった。
途端に上がる嬌声に、三蔵は満足げな笑みを漏らす。
今、与えられる快感に身も世もなく嬌声をあげる愛し子。
この子共は誰にも渡さない。
全てを敵に回しても構わない。
この魂賭けて───。
「ん…あ、も、もさんぞ…」
両手を伸ばし、三蔵を捜す悟空の腕に自身の手を絡めると、三蔵はその熱で悟空の内を埋めた。
「──!!」
声にならない悲鳴を上げて、悟空の身体がのけぞる。
三蔵は、衝撃に悟空の息が落ち着くのを待ちながら、涙に濡れた頬に口づけを落とした。
その感触にきつく閉じられていた瞳が開いた。
「大丈夫か?」
問えば、
「…うん。へーき」
と、笑う。
そして、
「さんぞ…好き」
吐息のように告げる思いに、見下ろす紫は優しい光りを宿す。
「…ああ」
返す言葉も吐息に紛れて、三蔵は動き出した。
ゆっくりと徐々に激しく、二人は頂へと上り詰めてゆく。
静かな森に悟空の嬌声が響く。
上弦の柔らかな月光に照らし出された二つの重なり合う影は、神々しいまでに輝いて、申し子達の心を打った。
やがて、ひときは高い声が悟空の口から上がり、行為は終わりを告げた。
三蔵は悟空を抱えて、泉に入り、お互いの身体を清めた。
森は静まりかえり、風すらも息を潜めている。
その静けさに三蔵が訝しげな様子を見せると、悟空が笑った。
「みんな、びっくりしたんだ。俺と三蔵がさ、あんなことしたから」
言いながら思い出したのか、悟空は頬を桜色に染めて瞳を伏せた。
「そうかよ」
頷きながら三蔵は、法衣にくるまれた悟空を抱き寄せると、誰の目からも隠すように抱き込んでしまった。
悟空は、三蔵の懐かしいぬくもりに包まれ、行為の気だるい疲れも手伝って、眠気が瞼を下ろし始めた。
その眠りの縁に漂う心地よさに素直な言葉が滑り落ちた。
「…声、聞こえて…嬉しかった。さんぞ、俺…ちゃんと居てね。離さな…いで……よ」
ことんと、三蔵の胸に悟空の頭が落ち、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
三蔵は抱きしめる腕を少し解くと、悟空の寝顔に口づけを落とした。
「…離さねえよ」
その囁きに、途絶えていた風が生まれた。
風に誘われるように顔を上げれば、晴れ渡った夜空に、上弦の月が朧に浮かんでいた。
目が覚めたら、また、日常へ戻ろう。
帰ったら、居なくなった理由を聴こう。
眠るまで、居ない間の話をしよう。
この胸の思いを込めて。
この心に満ちる愛しさを
お前に・・・・
end
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