三蔵は、忙しい。
四月に入り、その忙しさは、常よりももっと酷くなった。
潅仏会という仏事のせいだ。
釈迦の聖誕を祝うというその行事が、悟空から三蔵を引き離してしまうのは毎年のことだが、今年はその距離が例年よりも遠い気がする。
東方随一と謳われるこの寺院に着任して、四年。以来、着々と増え続け、決して減ることは無い仕事量に、うんざりと溜め息をついている三蔵を知っている自分が、彼を責めることは出来ないけれど。
せめて、今日くらいは―――と。つい、そう思ってしまう自分に、悟空はそっと溜め息を吐いた。
四月五日。
五行山の岩牢で、五百年ぶりに『光』を見た日を、三蔵が誕生日だと定めてくれたから、その日は特別な一日になった。
けれど。
己以外の人間にとって、それはただの二十四時間。険しい起伏さえも予定調和に取り込みながら、淡々と続いていく三百六十五日の、一日に過ぎない。
我が侭なことは分かっている。
分かっているから―――扉の向こうに立った気配に、意識して笑顔を形作った。
「おかえり」
程なく開いた扉の向こうから、現れた白い法衣。
部屋に入るのも待ちきれないように煙草を咥えた三蔵に、悟空は控えめに声を掛けた。
言葉にはせず、しかし、頷くことで応えを返した彼が、マルボロの先端に赤い火を灯す。
深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、切れかけたニコチンを補充したことでようやくひと心地ついたのか、そこで初めて、三蔵は悟空に目を向けた。
「・・・何?」
何をするでもなく、寝台の上で膝を抱えている子供の姿に、彼は物言いたげな視線を向ける。
すっと眇められた紫暗に、悟空は慌てて、己の周りを見回した。
怒られるようなことは、していない筈だ。
彼の機嫌を、損ねることも。
今日は一日、この部屋でおとなしく過ごしていた。外に出て、慌ただしく動き回っている僧達や、出入りの業者連中に見つかれば、またくだらないいざこざに巻き込まれることは目に見えていたから。
「あ」
それとも。
座っている場所が問題なのだろうか。
躯の下にある、三蔵の寝台。
少しだけ皺の寄ったシーツが、彼の視線を吸い寄せたのだろうか。
けれど、仕事が忙しく、構えない自覚がある時の三蔵は、この程度のことでは怒らない筈だ。
迷いながら、悟空は腰を浮かせたが、寝台から飛び降りる前に、三蔵の視線はすっと自分から離れていった。
ハリセンが出てくる様子もない。
きっと、何でもなかったのだろう。
「風呂、入れるよ。それとも、もう寝る?」
彼が何も言わないのを良いことに、寝台に居座ることを決めて、悟空は問う。
「明日も、早いんだろ?」
深夜に戻り、早朝に出て行く。ここの所、三蔵の生活はずっとそんな調子で、そういえば、こんな風に日付が変わる前に戻ってくることも久しぶりなのだ。
黙したまま法衣を寛げた三蔵は、またちらりと悟空を見て、何故か小さく嘆息した。
吸い差しのマルボロを灰皿に押し付け、徐に踵を返して、近寄ってくる。
「―――?」
髪に、手が触れた。
珍しい、自発的な接触に驚いていると、今度は、くしゃりとかき回された。
「さん・・・」
「忘れてねぇよ」
吐息混じりの低い一言が、耳に届いた。
「・・・・・・・・・」
それだけで、充分だった。
頭の上に置かれたままの彼の手のひらに己の手を添えて、嬉しさの余り、顔を上げられなくなった悟空に、三蔵は呆れたようだった。
「バカ猿」
お決まりの科白を吐いて、ぐいと手に力を込める。
俯いた面を無理に上げられ、悟空は滲みかけていた涙を慌てて押し留めて、ヘラリと笑みを浮かべてみせた。
「・・・マヌケ面」
「ひでぇ」
「じゃあ、バカ面、だな」
「ちげーよ」
「童顔」
「ちがうって」
「目がでけぇ」
からかっているにしては妙に真面目な顔つきで、三蔵は次々と悪態をつく。
間近から見下ろしてくる秀麗な面に、悟空は一々噛み付いてみせたが、それでも、声は止むことはなかった。
「ぴーぴー泣いてやがるし」
「三蔵っ」
「てんでガキだな」
「三蔵ってば!」
「欲しいモンがあるんじゃねぇのか?」
「だから止めろって―――え?」
聞き慣れた悪口雑言。
その合間に、耳慣れない言葉を聞いた気がして、悟空はぽかんと三蔵を見上げた。
「三蔵?」
構って欲しくて。偶には二人で街に出たくて。アレが欲しいコレが食いたいと、甘えてみせることはある。
だが、悟空が本当の意味で物を強請ることは少ない。
それが分かっているからか、三蔵が悟空に、生活に必要な物以外を買い与えることも、滅多に無いのに。
せめて今日くらいは―――口には出さなかった想いが、彼には伝わってしまったのだろうか。
本当は。
ただの、三百六十五分の一。
それが悟空にとっては特別な日だと覚えていてくれただけで、充分で。
彼に会えなかった日中、抱き続けていた願いは、頭に触れた手のひらの感触に、跡形も無く霧散してしまったのだけれど。
「・・・いらない」
「あ?」
「だって、何か貰ったら、三蔵の誕生日に、三蔵の欲しいものあげないといけなくなるだろ?」
煩い。
仕事の邪魔だ。
どっか行ってろ。
事ある毎にそう口にする彼が、悟空に望むものなど、想像がつく。
でも、その願いは聞けそうにないから―――と、言えば、三蔵は何か・・・まるで奇妙なものでも見るような目で、悟空を見つめた。
「・・・逆だ、バカ」
「へ? 逆・・・?」
整った唇が、僅かに動いた。
紡ぎ出された科白は、予想とは違っていて、悟空は訝るように小首を傾げた。
が、その仕草に、三蔵は我に返ったようだ。
己の口から零れた言葉を誤魔化すように、綺麗な顔を背けてしまった。
「逆って? なあ、さんぞう」
「煩ェ」
甘えた声で呼んでみても、悟空の頭から手を離し、また煙草を咥えた彼は、もう追及を受け付けなかった。
「・・・ちぇ」
何故か大事なことを聞き逃した気がして、悟空は唇を尖らせる。
子供染みた拗ね方を横目で見届けていた彼は、細く紫煙を吐き出しながら、ついでのように、口にした。
「欲しいものがあるなら、今、言え」
「・・・・・・・・・」
再び促されて、言葉に詰まる。
彼に返すものを気にしなくていいなら―――欲しいものは、ある。
だが、三蔵を目の前にして、それを言うのは、憚られた。
そもそも、言葉にすることが、困難なのだ。
それさえ貰うことが出来れば、何だか色々と足りないと思いがちな我が侭なココロが、満たされることは分かっていても。
「・・・・・・・・・」
いつにない根気強さで、三蔵は待ってくれた。
寝台にペタリと座り込んだまま、黙り込んだ悟空の傍で、ゆっくりとマルボロをふかしながら。
それでも、言い出せない。
やがて、先端から長く伸びた灰が、磨かれた床にポトリと落ちる。
溜め息をついて、三蔵は踵を返した。
「時間切れだ、サル」
「あっ・・・」
白い法衣を揺らして、離れようとする三蔵。
何を考える間もなく、悟空はその背中に抱きついていた。
腰を浮かせた不安定な姿勢から勢いよく両腕を伸ばしたせいで、肉の薄い三蔵の背中に、思い切り鼻がぶつかった。
余裕が無い悟空の方はまるで痛みを感じなかったが、三蔵はそうでもなかったかもしれない。
罵声とハリセンを覚悟して、ぎゅっと身を固くしたが、降り落ちてきたのは、何故か、柔らかい声音だった。
「時間切れだと言っただろうが」
言いながら身を捻り、向き直る。
外されてしまった腕のやり場に困った悟空に、彼はまた、呆れたような目を向けた。
そうして。
「??」
すっと伸ばされた彼の腕が、小柄な躰を抱き寄せた。
先刻は背にぶつかった鼻が、今度は法衣の胸元に触れて、鼻孔を擽るマルボロの匂いに、悟空は目を瞬いた。
「・・・さんぞー?」
一体何をされているのか。
分かるのに、分からない。
現状に、思考が追いついていかない。
それでも、背に回った腕の感触は本物で。
窮屈な姿勢から首を捻って、悟空は困ったように三蔵を見上げた。
「何だ、欲しかったんじゃねぇのか」
「そ・・・だけど」
「要らねぇなら、放すぞ」
「やだっ」
慌てて、ぎゅっと彼にしがみつく。
いつものように引き剥がされないのを良い事に、暫くそうしてくっついていれば、着込んだ法衣越しに伝わる三蔵の体温が、じわじわと悟空の内に染みていった。
あまりにも、幸せで。
パンクしそうになっている悟空を、面白がるように眺めて、三蔵は呟く。
「単純バカ猿」
「別にいいよ、それでも」
先刻は反発した悪態も素直に受け入れて、三蔵の胸に顔を伏せたまま、悟空は小さく笑った。
「ありがと」
(2003/04/05 end)
お誕生日です。聖誕祭です。ハッピーバースディ、悟空v・・・と祝う気持ちだけはいっぱいあったんですが・・・時間と技量が足りませんでした。クッ・・・(悔涙)。何でこんなありがちネタなしょうもない話にこんなに時間がかかったのか謎ですが・・・(それは、ワタシが「忘れてねぇよ」と言う三蔵を書いた時点で、この話を書く目的は終了〜と思ったからかも・笑)でも、楽しい企画に参加出来て嬉しかったです。他の参加者様が軒並み十二時と同時に作品公開される中、思いっきり遅刻ですみませんでした。