あなたのために出来ること




三蔵が倒れた。
悟空の目の前で、崩れ折れるように。

突然の出来事に悟空は。声も上げられず、身動きすら出来ずに立ちすくむしかなかった。

「…さ、んぞ…あっ……」

零れんばかりに瞳を見開き、カタカタと小刻みに震えている。
三蔵が倒れる時、机に手をつこうとしてそれが空振りに終わったが、崩れ折れる拍子に身体が当たって、机の上のカップが転がり落ちて砕けた。
カップの割れる音と三蔵が倒れる音を聞きつけた笙玄が、どうしたのかと顔を覗かせた。
そして、床に倒れた三蔵とその側で怯えて立ちすくむ悟空の姿を見つけたのだった。

「三蔵様!」

慌てて駆け寄る笙玄の声に、悟空はへたんと糸が切れた人形のように床に座り込むと、ぽろぽろと涙を零した。

「…さんぞ…さん、ぞ…さんぞぉ……」

泣きじゃくる悟空をそのままに、笙玄は倒れている三蔵を抱き起こそうと手を伸ばした。
その手をやんわりと止められ、笙玄は己が目を見張った。
倒れていた三蔵が意識を取り戻したのか、自力で身体を起こそうとしていた。

「三蔵様…!」

助け手を差し出そうとする笙玄を無視して、三蔵は悟空を呼んだ。

「大、丈夫だ。俺は大丈夫だから、泣くな」

床に何とか体を起こして座ると、三蔵は悟空に側に来いと手招きした。
三蔵のしっかりした声音に、悟空はそろそろと四つん這いになって三蔵のもとへ躙り寄る。

「さんぞ…」
「心配するな。大丈夫だ」

泣き濡れた金の瞳に溜まった涙を指で拭ってやる。

「でも…倒れた」
「ちょっと、目眩がしただけだ」
「でも…でも、さんぞ、しんどそうだ…よ」
「ただの風邪だ」
「ホント?」
「ああ…」
「ホントに?」
「大丈夫なんだよ」

なかなか納得しない悟空に、大丈夫だからと笑ってやり、くしゃっと頭を撫でてやる。
それでやっと安心したのか、悟空はほわっとした笑顔を浮かべた。
その笑顔に、詰めていた息を吐く。
その途端、目眩がまた、襲った。
ここでもう一度、倒れるわけにはいかない。
せっかく安心させたのが、無駄になる。
三蔵は目を閉じて目眩をやり過ごすと、側にあった椅子にすがって何とか立ち上がった。
だが、膝が使い物にならない程に震えている。
それを悟空に悟らせないように立った。

「…三蔵様…」

笙玄がはらはらと見つめる中、何とか椅子にすがらずに三蔵は立った。

「笙玄、後は任せた…」
「あ、はい」

三蔵は悟空に「手を貸せ」と言って立たせ、その肩に手を置いて寝室に入って行った。






「さんぞ、大丈夫か?」

自分の肩に置いた三蔵の手が震えているのがわかる。
心配で泣いてしまった自分のために、無理に大丈夫なように振る舞っているのだ。
自分が不安にならないように。

「さんぞ…」
「大丈夫だから、そんな声を出すな」
「うん…」

三蔵は寝台の上掛けをめくると、寝台に倒れ込んだ。

「さんぞ!」
「喧しい!俺は今から寝るから、どっか行ってろ」
「やだっ、ここにいる」
「なら、静かにしてろ」
「わかった」

頷く悟空の顔に薄く笑いかけると、三蔵はそのまま眠ってしまった。
滅多に見ない三蔵の寝顔を見つめながら、悟空は三蔵の苦しげな吐息に気が付いた。



苦しかったんだ…



三蔵の優しさが嬉しい。
三蔵の変化に敏感で、すぐ不安になる自分のために、苦しくても大丈夫だと気遣ってくれる、その優しさが嬉しい。
そんな三蔵のために何か出来ることはないだろうか。
自分一人で、三蔵のために出来ることは。

悟空はぎゅっと自分の胸の辺りを掴んで、眠っていても苦しそうな三蔵の寝顔をしばらく見つめた後、何かを決心したように一人頷くと、そっと三蔵の側から離れ、振り返り、振り返り、何処かへ出掛けて行った。
















笙玄は三蔵が悟空と共に寝室に入ったのを見届けると、医師の康永を呼びに診療所へ走った。
倒れて起き上がった三蔵の顔に血の気はなく、立ち上がった身体は小さく震えていた。
三蔵の身体に直接触れて確かめてはいないが、その状態はかなり悪いと見て取れてた。

康永を急かして、戻ってくれば、寝室に悟空の姿は無く、荒い息を吐きながら苦しそうに眠る三蔵だけが居た。

「三蔵様、申し訳ないがお起こし致しますよ」

康永が軽く三蔵の肩を揺すると、三蔵の瞳が開いた。

「…康永?」
「はい。今回はずいぶんと我慢なさったんですな」
「うるせぇ…」

僧衣の前をはだけ、聴診器を当てる康永に、三蔵は悪態を付く。

「それだけおっしゃれれば、大丈夫ですね」

三蔵の悪態にも動じない康永に、三蔵はふんと鼻を鳴らすと窓の方へ顔を背けてしまった。
そこへ氷枕と氷嚢を持って入ってきた笙玄に、康永は大丈夫だと頷いた。

「今、流行の風邪です。このまま三、四日大人しく養生して下さい。久しぶりに良い休暇が取れますよ」
「抜かせ。こんな状態で休暇だと言えるか…」

康永の言葉に三蔵が、噛みつく。

「では、きちんとお薬を飲んで、笙玄の言うことを聞いて安静になさっていて下さい。そうすれば、早く治って良い休暇が取れます」

噛みつく三蔵を軽く受け流しながら、康永は釘を刺すことも忘れなかった。

「あ、悟空にはくれぐれも移さないで下さい」
「ふん、バカは風邪なんか引かねぇ」
「悟空に心配をかけるなってことですよ」
「ふん…」

ぷいっと、そっぽをまた向いてしまう。
康永は笙玄に、薬を後で取りに来るように支持すると、診療所へ帰っていった。
康永を見送ったあと、笙玄は三蔵に水枕を敷き、氷嚢を載せてやる。
いつもなら抵抗を示す三蔵だったが、今回はよほど熱が苦しいのか、何も言わず笙玄のさせたいようにさせていた。
氷の冷たさが高熱に火照った身体に心地いい。
知らずにほっとした息を吐くのだった。






三蔵が眠ったのを見届けると、笙玄は姿の見えなくなった悟空を探しに出掛けた。

三蔵が悟空の目の前で倒れて、寝込んだ。
こんな風に三蔵が寝込めば、心配性な悟空のこと、片時も側を離れようとはしないはずだ。
それなのに、側に居るどころか姿さえ見せない。
笙玄は悟空に何か合ったのではないかと、心配でならなかった。



どこへ行ってしまったんでしょう…



笙玄は悟空が行きそうな所をあちこち探したが、結局見つからなかった。



寺院の中にいないんでしょうか…



笙玄は探すのを諦めて、康永のもとへ三蔵の薬を取りに向かった。





















悟空は、裏山へ向かって走っていた。
木々をすり抜け、岩を飛び越えて、山の奥へと向かう。
人間の足が向かない山の奥へ。
息が切れて、近くの木にもたれて休んでいると、風が悟空を心配するかのように纏い付いた。

「大丈夫。三蔵の為だからへーき」

頬を撫でる風にふわっと笑う。

「薬草…探しに行くんだ。風邪に良く効くやつ」

色づき始めた木々の間に佇んで、悟空は風に語りかけた。
ヒュルヒュルと風は悟空の回りを巡っては纏い付くだけで、知らないと告げて初秋の空へ駆け上がっていく。
その風を見送るように顔を空に向けた後、悟空はため息を吐いた。

「そっか…じゃあ、もっと奥で訊いてみる」

悟空は根の絡まった獣道を軽々と走って、尚も奥へと向かう。
やがて森の切れ目に出た。
そこには広大な風景が広がっていた。

眼下に谷川が流れる谷が広がり、悟空の立つ斜面の正面の頂きにから細いが水量の多い滝が流れ落ちている。
谷間の木々は空に枝を伸ばし、天を掴もうとでもしているように見える。
色づき始めた木々の葉の色と常緑樹の緑が目に美しい錦を彩なしていた。

「すっげぇ……」

しばしその風景に見とれていた悟空に、ここまで一緒に来て悟空の頭で休む小鳥がチチッと鳴いて、悟空の注意を引き戻した。

「あっ、そうだ、薬草!」

はっとして、慌ててきょろきょろと辺りを見渡す。
悟空の周囲には、山の生き物たちがいつの間にか集っていた。
そして、悟空と一緒になって薬草を探してくれる。

「風邪に効くやつで、えっと…甘い草、な」

悟空の言葉にそれぞれが頷く仕草を見せる。
と、野ウサギが悟空の側へ濃い色をした草をくわえてやってきた。
その草を見て、悟空が首を振る。

「それ、違う…ごめんな」

次に鹿が、蔓草をくわえてくる。

「ごめん、違う。ありがと」

山の生き物たちが持ってきては見せる草や木の実一つ一つに、礼と確認をしながら悟空は頂の周囲や谷間を覗く斜面の周囲を探し回った。

夕暮れが、訪れようとしていた。

夕暮れの訪れを告げる太陽の光に、悟空の丸い頬が仄かに赤く染まる。

「日が暮れてきた。急がなくっちゃ……うわっ!」

空を見上げていて足下の注意を怠った悟空は、足を滑らせたかと思うと、勢いよく斜面を谷川の岸辺に向かって滑り落ちた。
何度か踏みとどまろうと手足を突っ張るが、まるで下草に無理矢理運ばれるように悟空は斜面を滑り落ちて行った。
投げ出されたと言える格好で、谷川の岸辺に背中から落ちた。
石と草と土が悟空の身体を受けとめたが、したたかに背中を打って一瞬息が出来なかった。

「痛ってぇ…」

あちこちすりむいて、あちこちかぎ裂きを作って、痛む背中や腰を庇いながら悟空は体を起こした。
その顔が、喜びに輝く。

「あったぁ!」

身体の痛みも忘れて悟空は立ち上がると、目の前に群生している薬草に駆け寄った。

「よかったぁ。これで三蔵の風邪、治る」

悟空はほっと息を吐くと、薬草を引き抜き始めた。
転がり落ちた悟空を追って、山の生き物たちが斜面を下って悟空の回りに集まってきた。

「追いかけて来てくれたんだ。ありがと。お陰で薬草が見つかったんだ」

すりむいた悟空の顔や手に鼻面を押しつける鹿や狐たちに引き抜いた薬草を見せる。

「これ、甘草って言うんだ。根っこが風邪に効くって康永先生がこの間遊びに行った時、教えてくれたんだぜ」

自慢げに説明してみせては、甘草を引き抜いてゆく。
一生懸命、摘んでいる悟空の頬を冷たい風が一撫でした。
その冷たさに顔を上げると、空はすっかり茜色に染まっていた。

「急がなきゃ」

悟空は両手に持ちきれるだけの甘草を集めると、帰り道を探した。

「あれ…こっち?」

行きかけた悟空の服を鹿が引っ張って止める。

「違うの?」

悟空の問いかけに鹿が頷く。
すると、足下にいた狸や狐、兎たちが悟空のズボンを引っ張って道案内を買って出た。

「サンキュ!」

悟空は素直に頷くと、甘草を抱えて走り出した。
途中で、着ていたシャツを脱いで甘草を包み、こぼれ落ちないように腰に括り付ける。
両手が開いて行動しやすくなったが、それでも転んだり、伸びた枝に引っかかったり、ぶつかったり、滑ったりしながら暗くなる山の中を三蔵目指して走り続けた。





















三蔵は康永の薬が効いたのか、熱も下がり、幾分すっきりした気分で寝台に体を起こしていた。
喉が酷くいたんで煙草が吸えず苛ついてもいたが、何より悟空の姿が見えないことが苛つきの大きな原因だった。



あのバカは、何処に行った?



日が沈んですっかり暗くなった外を見つめて三蔵は舌打ちする。
いつも言ってるはずだ。

夕焼けが始まったら部屋に戻っていろと。

先程、粥を持ってきた笙玄が昼食を食べに悟空が戻ってこなかったと言っていた。
どんなに遊びに夢中になっていても、食事のことだけは忘れたことのない万年欠食児の悟空がである。
まして、今日は三蔵が風邪を拗らせて伏せっているのだ。
三蔵のこととなると酷く怯えて、心配性になる悟空が、こんな時は片時も側を離れようとしない悟空が側に居ない。
たったそれだけのことが、三蔵の気分を苛つかせ、落ち着かなくさせているのだ。
三蔵は忌々しそうにため息を吐くと、寝台から降りた。

夜着の上に手近にあった上着を羽織ると、三蔵は悟空を探すために寝室を出た。
丁度居間に笙玄の姿が無いことに、ほっと息を吐く。
見つかれば悟空を探すどころか、下手をすれば寝台に括り付けられてしまう。
三蔵は足音を立てないように扉へ向かった。

そして、扉に手をかけようとした時、勢いよく扉が開かれ、泥に汚れた傷だらけの悟空が飛び込んできた。
その勢いは目の前に立つ三蔵に気付いても止まらず、そのまま悟空は三蔵と正面衝突することとなった。
いつもなら、反射的に避ける三蔵も今日ばかりは、熱が引いたばかりで動きがいささか鈍く、ぶつかってきた悟空を受けとめながらも床に悟空共々転がることとなった。

「何しやがる!」

上に乗った悟空にすかさずハリセンが力一杯振り下ろされる。
乾いた小気味のいい音に、笙玄が厨から飛び出してきた。

「三蔵様?!」

悟空を腹の上に乗せたまま、ハリセンを振るう三蔵の姿に笙玄はあっけにとられる。
一方、三蔵の上に馬乗りになったまま悟空はハリセンの雨に打たれていた。

「い、痛いって!痛いってば、三蔵!!」
「喧しい!こんな時間までほっつき歩きやがって!」
「ご、ごめん。ごめんってばぁ」
「反省しやがれ、バカザル!」

パパンと最後にもう一度ハリセンを悟空の頭に見舞うと、三蔵は腹の上から悟空を転がり落として、立ち上がった。
転がり落ちた悟空は、床で一回転して立ち上がる。
その様子を視界の端に捉えた三蔵は、本当にサルだと思うのだった。

「で、こんな時間まで何してた?そんな小汚い格好になるまで遊んでたのか?」

食卓の椅子に腰を下ろして悟空に問えば、悟空は違うと大きく首を振り、腰に巻いていたシャツをほどいて三蔵に差し出した。

「何だ?」

怪訝な顔でそれを受け取り、食卓の上で包みをほどいた。
中からは、まだ葉も土も付いたままの甘草が転がり出てきた。

「甘草ですか?」

それを見て笙玄が声を上げる。

「うん。それ風邪に良く効くって康永先生が言ってたから…さんぞ、すっげぇ苦しそうだったから…だから…」
「三蔵様のために?一人で?黙って?」
「…うん。遅くなって、ごめん」

笙玄の言葉に頷きながら、ようやく悟空の口から帰宅が遅くなった謝罪が紡がれる。
三蔵は呆れた。
たかだか風邪のために、三蔵のために、三蔵だけのためにこんなにたくさんの甘草を。
体中傷だらけで、食事も摂らず、こんな時間まで。
三蔵は悟空の頭をくしゃっと掻き混ぜ、ぎゅっとその身体を抱きしめた。

「さ、さんぞ?」

びっくりして声を上げる悟空の耳元に唇を寄せると、そっと囁いた。
その言葉に悟空は大輪の花を思わせる笑顔を浮かべたのだった。











翌日、笙玄によって康永のもとへ悟空が採ってきた甘草が届けられ、三蔵の風邪薬に調合された。
普段、薬嫌いな三蔵もその薬だけはちゃんと飲んだ。

やがて、悟空の薬のお陰か、三蔵の風邪は以外に早く治り、残った三蔵の休暇の大半は悟空のために使われたとか、使われなかったとか。




end




リクエスト:風邪を引いて寝込んでしまった三蔵のために、笙玄に内緒で寺院の裏山で薬草を探して回る悟空。
13333 Hit ありがとうございました。
謹んで、樋口妻子 様に捧げます。
close