幾 望−きぼう−

ほとほとと、足音が夜闇に響く。
回廊に灯された灯りが、微かな風にちろりと、揺れる。
燈籠が照らす影は長く伸びて、夜の影に取り込まれる。

ほとほとと、足音は止まることなく夜闇に響く。
白い夜着が朱塗りの柱の影を渡る。
差し込む光は、その影を追う。

ほとほとと、夜闇に響く足音が不意に、止まった。
同時に上がる、息を呑む微かな声。

目の前に広がる光景に声もなく、子供は見惚れた。
望月の昼間のような明るさの中、運河は煌めき、星の大河の影が晴れた夜空を渡る。
まだ、緑濃い木々は黒い影の輪郭を艶やかな緑に光らせ、夜を渡る風にその姿を揺らめかせる。

人以外のものが息づく世界。
子供を虜にしようとする。

「………呼んだ…?」

夜着の裾を撫でる風に問えば、ざわりと空気が動いた。
その気配に、子供はぐるりと周囲を見渡して、吐息をこぼした。

呼ばれた。
優しい聲で、穏やかな気配で。
今日はとても月が、世界が綺麗な日だから見にお出でと、誘われた。
だから、寝所を抜け出してきたのだけれど。

「………えっと……」

困ったように小首を傾げて、子供は目の前に広がる美しい光景にもう一度視線を向けた。
目の前の景色は幽玄。
透明な世界の硝子細工。

「……還らないって……言った、よ…?」

聞く耳を持たない相手の様子を窺うように紡がれた言葉に、また、ざわりと、空気が動いた。
その気配に含まれる苛立ちを感じて、子供は夜着の裾を握りしめる。

「…な…で……わかって…くれ、な…いの?」

子供の耳に聴こえる聲は、子供を責める。
養い親を悪し様に罵る。

「俺が…いたいんだから…俺の、意志なんだから…あの人は関係ない」

関係ない。
養い親のあの綺麗な人は、ただ、優しい手を差し出してくれただけ。
世界をくれただけ。
眩しい時間をくれただけ。

その手を掴んだのは自分。
望んだのは自分。
願ったのは自分。

だから───

悲しいことを言わないで欲しい。
辛い選択を望まないで欲しい。
淋しいことを言わないで欲しい。
痛い思いを抱かないで欲しい。

「……関係ないんだから…俺の…──っ!?」

懇願は響き渡った銃声に呑み込まれた。

長く、鋭く、夜闇を引き裂く。
木霊が木霊を呼び、殷々と乾いた音が鳴り響く。

「──悟空」

その響きを縫って届くのは、子供の名前。
子供は一度、身体を怯えたように揺らし、振り返った。

そこに立つのは月の化身。
子供の──

「…来い、悟空」

差し出された手と子供の名前。
そして、子供の背後に向けられた銀色の鋼。

「来い、悟空!」

真っ直ぐな言葉に弾かれるように子供がその腕の中に飛び込む。
華奢な身体はしっかりと受け止められ、嗅ぎ慣れた香りと温もりが子供を包む。

怒りに染まる気配に、子供を腕に抱いた養い親は告げた。

「大人しくしていやがれ」

怒りの気配が膨れ上がった途端、また、銃声が夜闇を引き裂いた。

「…………さんぞ…?!」

腕の中の子供が問えば、

「これで、ちったぁ大人しくなるだろうさ」

銃を下ろし、腕の中の子供を見下ろして、養い親がため息を落とした。
そのため息に、子供が瞳を揺らす。

「……ゴメン…」

謝れば、

「てめぇも大人しくしていやがれ」

そう言って、養い親は困ったような、呆れたように子供を見下ろした。




end

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