a declaration of moon

誰も居ない屋上で、一人悟空は煌々と輝く満月を見上げた。

まだ、残暑が色濃く残る九月。
今日は十五夜。
少し早い気のする中秋の名月と呼ばれる月の夜。

風は夕方に降った夕立で柔らかな湿り気を帯び、半袖のパジャマから伝わる熱は少しだがひんやりしていた。




もうすぐ三蔵はアメリカへ留学してしまう。
そうすれば最低でも二年は逢えなくなる。

その間にこの壊れかけた心臓が止まってしまったら?
一人で逝かなければならなくなったら?

三蔵はあの日の約束を守るために医者になった。
自分はあの日の憔悴した三蔵の姿を見て置いて逝けないと、生きると誓った。

でもそれは一緒にいてこその誓い。
離れても構わない誓いではない。




「…さんぞ……」

ぎゅっと、パジャマの胸の辺りを握って、悟空は切なげな瞳を満月へと向けた。




いつからだろう、大好きな優しいお兄ちゃんが、大切な人に変わったのは。




いつも不機嫌で、不愛想で、結構ヘビースモーカーで面倒臭がりな人。
綺麗な金糸の髪と誰よりも綺麗で以外に表情豊かな紫暗の瞳。
不器用に優しくて、でも生きることに真摯で真っ直ぐな人。

女の人にもてて、男の人にももてて、みんなが三蔵を独り占めしたいと思っている事に気付かないくせに、人の気持ちの変化に聡い人。




悟空は外の世界をろくに知らない。

体調が良い時にだけ病院内の私設の学校へゆく。
そんな生活の中でも人並みなことは体験すべきだと、物好きな両親や兄たちが勧めるので、高校受験をしたのが今年の冬。
奇跡か偶然か、見事に合格した時は本当に信じられなかった。
喜びすぎて、はしゃいで発作を起こして、三蔵に大目玉をもらった。




楽しかった。




学校に行けなくても、友達が出来なくても、外に出られなくても。
三蔵が運んで来てくれる世界がとても眩しかったから。

三蔵さえ居てくれれば何もいらないとさえ思うようになって。
自分を取りまく世界の中心に三蔵が居た。






そして─────






居ないと落ち着かなくなった。
顔を見ないと不安になった。
声を聞かないと眠れなくなった。

そんな気持ちに名前があることなど知らない悟空は、落ち着かない心を持て余して、容態が不安定になった。




そんな時、知り合った年の割に大人びた少女に言われたのだ。

「それって、悟空は恋してるんだ」
「恋?」
「うん。だって、玄奘先生を見るとドキドキして、お話すると嬉しくって、傍にいてくれるともっと嬉しいくせに、ドキドキが止まんないんでしょ?」

少女が小首を傾げて、悟空の顔を覗き込む。
それにちょっと、怯えたように悟空は身体を反らす。

「ね、今だってちょっと先生のこと考えただけなのに、悟空の顔は赤いよ」
「…ぇえっ…え?」

少女は可愛らしい繊手を口元に当ててころころと笑う。
その笑い声に悟空は、頬を朱に染めた。




それから、益々三蔵の側に居るだけで壊れかけた心臓が忙しなく動き、息苦しさを覚えるようになった。

悟空の態度の変化を目敏く見つけた三蔵は、さりげなく「どうしたのか」と訊いてくる。
が、まさか好きだと告白するわけにもいかず、悟空はモノ問いたげな紫暗の瞳にただ、頬を桜色に染めて首を振るばかりだった。






きっと、変に思ってるよな…さんぞ…



小さくため息を吐く。

見上げる月の柔らかくも静謐な光に照らされて、悟空はその金色に三蔵を思う。
留学まであと、ほんの少し。
両手の指を折って数えると、指が少し足りない。
それだけの時間。

「どうしよう…」

誰にともなく呟かれた言葉は、月光に消えて。
少女に指摘されて、自覚してから益々三蔵への思いは募ると言うのに、示す態度は緊張して、ぎこちないことこの上なく。




───言ってしまえ




声が聴こえた。




───時間はないぞ




胸の内で嵐が吹く。




───迷うな




聴こえないはずの声に、悟空は空を振り仰いだ。

澄んだ黄金の瞳が柔らかな金色に染まる。
見上げる月のその光に力を貰うように悟空は両手を高く差し上げ、ゆっくりと抱き寄せる。




拒絶されたらどうしよう。
振り向いてもくれなくなったら?
声も聞けなくなったら?




止めどもなく溢れる不安を抱きしめて、悟空はしばらく己の心と向き合う。




やがて黄金の円らは開かれ、そこに確固たる意志の光が宿っていた。
華奢な身体を照らす月光の光にも似て、静謐で柔らかく力強い光。




悟空は一つ深呼吸すると、当直で三蔵が詰めている救急外来へ向かおうと踵を返した。
その歩みが、半歩で止まる。

「……あ…」

明るい月光の中、白衣姿の三蔵がいつもより不機嫌な顔で立っていた。

「お前は、そんなに死にてぇのか?」

紡がれる言葉に怒りが滲む。

夜半の散歩は、三蔵によって禁止されていたから。
容態の安定しない悟空を慮ってのことだったのだ。
だから、三蔵の怒りももっともなことで。

「…ごめん」

うなだれて、でもすぐに顔を上げて、悟空はゆっくりと三蔵に近づいた。
そして、少し震える腕を三蔵の腰に回す。

「ご、くう…?」

驚いた三蔵の声に、悟空は口元をほころばせた。




ゆっくり深呼吸をして─────




「三蔵が好き…大好き…」




黄金色の柔らかな光の中、悟空の告白が溶けた。




end

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