little wish

朝から重くたれ込めた雲と凍てつくような空気の色に、三蔵は歩んでいた足を止めて空を見上げた。
すると、それを待っていたかのように、白いものが落ち始める。
そう言えば、今朝の天気予報で今日は寒さも厳しく、雪も降ると言っていたことを思い出した。

そして、恋人の小さな願いも思い出す。

三蔵の恋人は大地色の髪と蜂蜜色に濡れた金瞳を持つ。
出逢った時は、生意気な子供だと思っていたけれど、その真っ直ぐな瞳と輝くような笑顔でいつの間にか三蔵の心に住みつき、他人を寄せ付けなかった三蔵を変えてしまった。
そして、お互いの想いに気が付き、その気持ちに名前が付いた時には、離れられない位置にお互いがいた。
偶然か、神の思し召しか、どちらも身よりのない身軽な立場だとお互いに理解した時、極当然のように一緒に暮らすようになった。
今までの淋しさを埋めるように、貪るように愛し合った。
嵐のような時期が過ぎ、ようやくそれぞれが一緒に暮らすという現実的なことに慣れたのは、二人が出逢ってから両手では足りない程の月日が流れていた。

そして、今日は三蔵と恋人が同居を始めた日。
世間では恋人達の記念日、もしくは片思いの告白の日であった。

三蔵はそう言う行事に疎い。
というより嫌いだ。
けれど、恋人は年に数回ある恋人達に用意されたイベントが好きだったり、記念日が好きだったりする。
それに三蔵が素直に応えたことなど、一体何度あったか。
それでも、三蔵の恋人は、

「俺がしたいからしてるだけだから、三蔵は気にしなくていいよ」

と、幸せそうに花ほころぶ笑顔を見せるのだ。
そんな恋人が、今日は外で待ち合わせをして逢わないかと、提案してきた。

「なあ、今日は約束通り外でご飯食べるんだろ?」
「ああ」

朝食の後片付けをしながら振り返った恋人に、三蔵は新聞から目を離さずに答える。

「ならさ、待ち合わせしない?」
「ああ?」

ぽたぽたと新聞を叩く雫の音に顔を上げれば、恋人が泡のついたスポンジとカップを持って目の前に立っていた。

「だって、今日は特別な日だからさ、前みたいに待ち合わせして、それからちょっと街を歩いて…で、ご飯食べるっての、やりたい」

ダメ?、と小首を傾げる。
その姿に三蔵は呆れたようなため息を吐いた。

「悟空、その前にそれ置いてこい。濡れて新聞が読めねぇ」
「へ?…ぁ、あ、ごめん」

三蔵の言葉に恋人──悟空は、慌てて手に持ったスポンジとカップを流しに置きに行った。
その後ろ姿に三蔵は小さく笑って、濡れた新聞を広げたままダイニングテーブルに置いた。

「で、さ、待ち合わせ、いい?」

濡れた手をエプロンの裾で拭きながら悟空が戻ってきた。

「やっぱりダメ?面倒臭い?」

三蔵の側に立って顔を覗き込むようにして伺う悟空の様子に三蔵は、

「…何時に何処だ?」

と、返してやった。
一瞬、何を言われたのか解らなかったのか、ぽかんとした顔をしたかと思う間もなく、悟空は三蔵の首にしがみついてきた。

「おい」
「ありがと、三蔵!」

その勢いに椅子ごとひっくり返りそうになった三蔵の抗議の声も聞こえないのか、座る三蔵の膝に曲がるように座って、悟空は三蔵の首筋に柔らかな頬を擦りつけ、何度も礼を言った。

「わかった、わかったからちゃんと時間と場所を教えろ」
「うん!」

しがみつく悟空の体を引き離し、三蔵は満面の笑顔で頷く悟空に小さく息をついたのだった。




”待ち合わせをして、夕飯を食べに行く”

たったそれだけの小さな願い。
小さな我が儘。

たまにはいいかと、深く考えもせず頷けば、予想外の喜びと幸せな笑顔に三蔵は、日頃の自分の所行がいかに悟空の気持ちを蔑ろにしているのかを気付かされた気分だった。

だから、こんなことを思いついたのかも知れなかった。
だから、柄にもないことをしようと思い立ったのかもしれなかった。

待ち合わせの場所へ行く通り道にある花屋で見かけた早咲きのスイトピーやチューリップ。
すぐそこまで来ている春の息吹を伝えるように色とりどりに所狭しと並べられたその姿に、元気な悟空を思い出した。
そう言えば今日はチョコレート屋の思惑に踊るイベントの日だと、同居記念日以外のことも思い出す。
いつも悟空から貰うばかりだと過ぎった考えに、三蔵はイタズラ心半分、日頃の己の態度に対する悟空への贖罪半分に柄にもないことを思いついた。

一体どんな顔をするのか。

驚くか?
笑うか?
泣くか?

試してみるのもイイかも知れない。
丁度今日はそんな馬鹿なことをしても怪しまれない日だ。
三蔵は暫し考えた後、花屋の店員に声をかけた。

















待ち合わせの並木道のはずれに、花束を抱えた美丈夫が一人。

片手に無造作に抱えた花束は、綺麗なラッピングと赤いリボンが飾られて、持っている三蔵には甚だ恥ずかしい代物だった。
花屋からこの場所まで、どうにもこうにも落ち着かなかった。

なぜなら、不機嫌全開の顔であっても片手に花束を抱えて歩く三蔵の姿は、持ち前の端麗な容姿と相まって、ひと目を惹きつけずにはおかなかったからだ。
だからといって、声を掛ける者などいやしないのだけれど、こうしてもうすぐ来るであろう悟空を待っていても道行く人々の視線が外されることはなく、今更ながらに三蔵は、己が思い立ったとは言え、実行に移したことを後悔していた。

けれど、この花束を渡した時の悟空の顔が見たいという欲求は諦めることが出来なくて。
後悔と期待の板挟みに、三蔵の眉間の皺は深くなるばかりだった。

が、それもあと少し。
もうすぐ待ち合わせの時間がくる。

静かに舞い落ちる雪の中を悟空が頬も鼻の頭も真っ赤にして、白い吐息を零しながら走ってくる姿が見えた。

















三蔵が悟空のために柄にもない買い物をしている頃、悟空は三蔵と住む部屋を慌てて飛び出していた。

なぜなら、今日の日のために用意したチョコレートをしまった場所が解らなくなって。
三蔵が先に仕事で寄る所があるからと出掛けた後、用意をしようとしまったはずの場所を見れば、そこにチョコレートは無かったのだ。
慌てて部屋のそこかしこをひっくり返して、ようやくキッチンの戸棚の奥で見つけた。

そこで思い出す。

ここなら三蔵に見つからないと、確信して隠したことに。

綺麗な光沢のある黒い包み紙に包まれた小さな箱。
細い金と赤のリボンが結ばれている。
箱の中身は、一口サイズのリキュールボンボン。
洋菓子の甘さが苦手な三蔵のために選んだ。

その箱を暫し眺めていた悟空は、リビングの掛け時計が時間を告げる音に我に返った。

「やべっ」

箱をコートのポケットに滑り込ませ、玄関へ走る。
靴を履くのももどかしげに、悟空は部屋を飛び出して行った。

走りながら時計を見れば、待ち合わせの時間までまだ少し間があるけれど、三蔵はいつも時間より少し早く来ているから、早く行かなければ三蔵を余分に待たせてしまう。
それに、今日は特別だから尚のこと三蔵を待たせたくなくて、悟空は舞い落ちる雪の中を走った。




今日は三蔵と暮らし始めた記念日でもあるけれど、今日はこの溢れる想いを告げるイベントの日。

けれど、三蔵は菓子屋の思惑に踊らされる日だとか言って取り合ってはくれないけれど、これは自分の気持ちだから。
いつも愛してくれる三蔵への感謝だから何を言われても渡したいのだ。

それに、小言を言いながらも決して拒否せず、受け取ってくれるから。
文句を言いながらも苦手でも必ず食べてくれるから。

その気持ちが嬉しいから。
その優しさが三蔵だから。

早く渡したくて。
早く逢いたくて。

悟空は休まずに待ち合わせの並木道のはずれまで走った。

















待ち合わせの場所に雪の中佇む三蔵の姿を見つけた悟空は一度立ち止まり、大きく深呼吸すると、三蔵の名前を呼んだ。

「三蔵──っ!」

大きく手を振って三蔵の傍へ駆け寄る悟空の目の前に、突然、春が来た。

その春に抱きつくように止まれば、鼻先を甘い薫りがくすぐる。
どうなったのかと顔を上げた悟空に、三蔵は押し付けるようにそれを手渡した。
悟空は押し付けられるままに、それを受け取った。

「…これ…」

抱えた手の中を見れば、それは色とりどりの一抱えもある春の花の花束だった。
一体何が起こったのか、把握しきれない事実に悟空は手の中の花束と目の前の三蔵を見比べるばかりで、声もない。
そんな三蔵の予想と違う悟空の様子に、どこか緊張していたらしい身体の強張りが融けるのを三蔵は感じた。
けれど、よくよく悟空の様子を見てみれば、花束を抱えたままどうしたらいいのかと途方に暮れた顔をしていた。



手のかかる…



三蔵は内心で舌打つと、花束を抱えたまま動かない悟空の耳元に唇を寄せて告げた。

「チョコの代わりだ」

その言葉に悟空の強張った顔がゆっくりとほころんでゆく。

「………うれし…」

告げられた悟空の言葉に、三蔵は照れたような憮然とした、それでいて困ったような顔を見せた。
その頬が僅かに赤いのは、きっと寒さの所為だ。

「あり…が、と…」

もう一度感謝を告げる悟空の言葉は涙に濡れて、綻ぶ金瞳が滲んでいた。

「泣くか、笑うかどっちかにしろ、バカ」
「…うん、うん…うん」

花の中に顔を埋めるようにして何度も頷く悟空に、三蔵の口元も綻んでゆくのだった。




end

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