little wish |
朝から重くたれ込めた雲と凍てつくような空気の色に、三蔵は歩んでいた足を止めて空を見上げた。 すると、それを待っていたかのように、白いものが落ち始める。 そう言えば、今朝の天気予報で今日は寒さも厳しく、雪も降ると言っていたことを思い出した。 そして、恋人の小さな願いも思い出す。 三蔵の恋人は大地色の髪と蜂蜜色に濡れた金瞳を持つ。 そして、今日は三蔵と恋人が同居を始めた日。 三蔵はそう言う行事に疎い。 「俺がしたいからしてるだけだから、三蔵は気にしなくていいよ」 と、幸せそうに花ほころぶ笑顔を見せるのだ。 「なあ、今日は約束通り外でご飯食べるんだろ?」 朝食の後片付けをしながら振り返った恋人に、三蔵は新聞から目を離さずに答える。 「ならさ、待ち合わせしない?」 ぽたぽたと新聞を叩く雫の音に顔を上げれば、恋人が泡のついたスポンジとカップを持って目の前に立っていた。 「だって、今日は特別な日だからさ、前みたいに待ち合わせして、それからちょっと街を歩いて…で、ご飯食べるっての、やりたい」 ダメ?、と小首を傾げる。 「悟空、その前にそれ置いてこい。濡れて新聞が読めねぇ」 三蔵の言葉に恋人──悟空は、慌てて手に持ったスポンジとカップを流しに置きに行った。 「で、さ、待ち合わせ、いい?」 濡れた手をエプロンの裾で拭きながら悟空が戻ってきた。 「やっぱりダメ?面倒臭い?」 三蔵の側に立って顔を覗き込むようにして伺う悟空の様子に三蔵は、 「…何時に何処だ?」 と、返してやった。 「おい」 その勢いに椅子ごとひっくり返りそうになった三蔵の抗議の声も聞こえないのか、座る三蔵の膝に曲がるように座って、悟空は三蔵の首筋に柔らかな頬を擦りつけ、何度も礼を言った。 「わかった、わかったからちゃんと時間と場所を教えろ」 しがみつく悟空の体を引き離し、三蔵は満面の笑顔で頷く悟空に小さく息をついたのだった。
”待ち合わせをして、夕飯を食べに行く” たったそれだけの小さな願い。 たまにはいいかと、深く考えもせず頷けば、予想外の喜びと幸せな笑顔に三蔵は、日頃の自分の所行がいかに悟空の気持ちを蔑ろにしているのかを気付かされた気分だった。 だから、こんなことを思いついたのかも知れなかった。 待ち合わせの場所へ行く通り道にある花屋で見かけた早咲きのスイトピーやチューリップ。 一体どんな顔をするのか。 驚くか? 試してみるのもイイかも知れない。
待ち合わせの並木道のはずれに、花束を抱えた美丈夫が一人。 片手に無造作に抱えた花束は、綺麗なラッピングと赤いリボンが飾られて、持っている三蔵には甚だ恥ずかしい代物だった。 なぜなら、不機嫌全開の顔であっても片手に花束を抱えて歩く三蔵の姿は、持ち前の端麗な容姿と相まって、ひと目を惹きつけずにはおかなかったからだ。 けれど、この花束を渡した時の悟空の顔が見たいという欲求は諦めることが出来なくて。 が、それもあと少し。 静かに舞い落ちる雪の中を悟空が頬も鼻の頭も真っ赤にして、白い吐息を零しながら走ってくる姿が見えた。
三蔵が悟空のために柄にもない買い物をしている頃、悟空は三蔵と住む部屋を慌てて飛び出していた。 なぜなら、今日の日のために用意したチョコレートをしまった場所が解らなくなって。 そこで思い出す。 ここなら三蔵に見つからないと、確信して隠したことに。 綺麗な光沢のある黒い包み紙に包まれた小さな箱。 その箱を暫し眺めていた悟空は、リビングの掛け時計が時間を告げる音に我に返った。 「やべっ」 箱をコートのポケットに滑り込ませ、玄関へ走る。 走りながら時計を見れば、待ち合わせの時間までまだ少し間があるけれど、三蔵はいつも時間より少し早く来ているから、早く行かなければ三蔵を余分に待たせてしまう。
今日は三蔵と暮らし始めた記念日でもあるけれど、今日はこの溢れる想いを告げるイベントの日。 けれど、三蔵は菓子屋の思惑に踊らされる日だとか言って取り合ってはくれないけれど、これは自分の気持ちだから。 それに、小言を言いながらも決して拒否せず、受け取ってくれるから。 その気持ちが嬉しいから。 早く渡したくて。 悟空は休まずに待ち合わせの並木道のはずれまで走った。
待ち合わせの場所に雪の中佇む三蔵の姿を見つけた悟空は一度立ち止まり、大きく深呼吸すると、三蔵の名前を呼んだ。 「三蔵──っ!」 大きく手を振って三蔵の傍へ駆け寄る悟空の目の前に、突然、春が来た。 その春に抱きつくように止まれば、鼻先を甘い薫りがくすぐる。 「…これ…」 抱えた手の中を見れば、それは色とりどりの一抱えもある春の花の花束だった。
手のかかる…
三蔵は内心で舌打つと、花束を抱えたまま動かない悟空の耳元に唇を寄せて告げた。 「チョコの代わりだ」 その言葉に悟空の強張った顔がゆっくりとほころんでゆく。 「………うれし…」 告げられた悟空の言葉に、三蔵は照れたような憮然とした、それでいて困ったような顔を見せた。 「あり…が、と…」 もう一度感謝を告げる悟空の言葉は涙に濡れて、綻ぶ金瞳が滲んでいた。 「泣くか、笑うかどっちかにしろ、バカ」 花の中に顔を埋めるようにして何度も頷く悟空に、三蔵の口元も綻んでゆくのだった。
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