雪の聲 |
晴れていた空が曇ってきていたのは気が付いていた。 けれど、雪が降り始めたことまでは笙玄に言われるまで気付きもしなかった。 外で遊ぶ養い子の声が聞こえなくなっていることにも注意を促されるまで気にもしていなかった。 初めて雪を見たあの日、笑っていた顔が年を重ねるごとに翳って、澄んだ金色が朧な闇に囚われて、怯えるようになった。 それが、変わったのはこの冬、初めて雪の積もった日。 とある事件で知り合った二人の青年のたわいもない誘いに載せられるように、頑なだった気持ちが解れた。 理解したはずだった。 八戒と悟浄が寺院を訪れるたび、雪が積もっていようが、降っていようが構わずに、幼子のようにはしゃいでいた。 克服したのだと、信じていた。 けれど、それが強がりだったのだと気付いたのはいつだったか。 いつものように日付が変わるまで詰めて仕事をこなし、寝所へ戻って見たのは、吹きすさぶ吹雪を見つめる養い子の影の薄い姿だった。 「まだ、起きていたのか」 三蔵の問いに答える声は何処か上の空で、ガラスに映る悟空の瞳は焦点を結んでいなかった。 「眠れないのか?」 問えば、 「…ちょっと…そうかも…」 そう言って振り返った表情に、三蔵は紫暗を見開いた。 「何て顔してやがる」 思わず漏れた三蔵の言葉に悟空は不思議そうに首を傾げるだけで、何も解ってはいない。 「…さ、んぞ?」 見上げてくる金瞳が揺れる様子に、三蔵は悟空がまだ雪を恐れていることに気が付いた。 「いいから、もう寝ろ。俺も寝る」 戸惑う悟空に、三蔵は髪に触れていた手でくしゃっと髪を掻き混ぜて、悟空が望んでるであろう言葉を紡いだ。 「一緒に寝てやるから、枕を持ってこい」 その途端、いつものように嬉しそうな笑顔を見せ、頷いた姿に三蔵は内心安堵の吐息を零し、無理をするなとそう思った。 思った、気付いた。 そんな中で、何か言いたそうに三蔵を見つめる悟空の視線に気付いた。 けれど、仕事が忙しかった。 知っていて、理解していて、悟空の不安定な気持ちから目をそらした。 晴れ渡った厳冬の空の下、昨日見つけたという子犬と戯れていた。 だから、安心したのだ。
それが───何故、こんな事になる?
夕暮れの前、さっきまで白いものを落としていたどんよりと重くたれ込めた雲。 最初、三蔵は悟空を探しに出掛ける気などなかった。 そう、いつも必ず聴こえていた悟空の声なき聲。 それを感じた時、不意に胸に湧き上がってきた危機感に三蔵は苛々と舌打ち、笙玄の心配する声に追い立てられるように執務室を後にしてきたのだ。 笙玄の悟空を心配する声に押されて出てきたことなど体裁に過ぎない。 急がなければ間に合わないと。 三蔵は悟空が行きそうな場所を捜して、裏山の方へ足を向けた。
───雪ってさ…聲が、ね…聴こえねえんだ……だから……
大地とそれを含む自然の煩いぐらいに悟空を呼び、悟空に語りかける聲。 そうだ、「だから…」、だから──── 華奢な見慣れた姿を捜して、雪が激しくなる夕暮れ、三蔵の姿が裏山に消えた。
昨日、寺院の門前で荒縄に繋がれて鳴いていた茶色い斑の子犬。 そうして見つけた子犬は、三蔵に怒られはしたものの、飼い主が見つかるまで傍に置いても良いと許しを貰った。 「あ、チビ、そっちはダメだって」 子犬が何か見つけたのか、一声鳴いて駆けだした。 「チビ!」 伸ばした悟空の手をするりと抜けて、子犬はどんどん小道の奥へ、裏山へ駆ける。
「チビ──っ」 子犬の名前を呼んでは耳を澄ます。 冬枯れの裏山は先日降った雪がまだ解けずにそこここに青い影を落とし、常緑樹の葉は白い薄衣を纏っていた。 「…っチ─ビ─っ!」 胸に満ちてくる不安を振り払うように子犬の名前を呼んで、木々の間を歩き回る。 「あ、いた」 悟空はその姿に不安で強張っていた顔を綻ばせて、子犬に向かって走り出した。 「もう…お前、迷子になるぞ」 子犬を悟空は自分の目の前に抱え上げ、軽く睨む。 「帰ろ…雪、降りそうだ…か、ら…」 来た道を辿りかけたその時、頬に冷たいものが当たった。 「……ぇ?」 反射的に振り仰いだ空。 どれほどそうしていただろう、前がはっきり見えない程降りだした雪の冷たさと、子犬の鳴き声で我に返った悟空は、降りしきる雪から逃げるように走り出した。
怖くなくなったと、そう思った。 悟浄が、八戒が、何より三蔵が、大丈夫だと、一人ではないと教えてくれたから。 けれど─────聲は聴こえてはこない。 風の聲も雨の聲も、木々や花々、鳥や獣たち、空も月も太陽の聲さえ聴こうとすれば聴こえるというのに、雪の聲だけは、どれ程気持ちを研ぎ澄まそうと、どれ程大地や自然と同調しようと聴こえない。 あの人も鳥も獣も虫さえも訪れることのない岩牢で、世界を真っ白に覆って静寂を落とす雪を見るたび、それに触れるたび、世界にたった一人取り残されたと思った。 だから、怖かった。 三蔵に救われて初めて触れた雪は白くて綺麗で冷たかった。 けれど、気付いてしまった。 そうするとまた、怖くなった。 降る雪に、世界を覆う白さに、無音の世界が甦った。 その悪循環を三蔵達が断ち切ってくれた。 悟空は降りしきる雪の中、膝を抱えて小さな洞窟の片隅に蹲っていた。
三蔵は悟空がよく行く林や大樹、草原、野原を悟空の姿を求めて歩き回った。 その時、微かに聴こえた。 歩き出しかけた歩みを止め、大きく肩を震わせて、三蔵は降りしきる雪の向こうを透かすように瞳を眇めた。 また、聴こえた。 間違いのない聲。
……悟空…
三蔵は聴こえた聲の気配を辿るように、意識を研ぎ澄ます。 もう、見失わない。 悟空の元へ向かおうとする三蔵を風に舞う雪がその姿を覆い尽くすように、三蔵の周囲に渦巻く。 「…あの猿は、お前が怖いんだよ」 誰とも無しに三蔵は語りかけ、薄く笑った。 「お前の聲が聴こえないんだとよ。大事ならちゃんと大事にしやがれ」 ぱしっと、三蔵の周囲で何かが弾ける音がして、不意に雪が止んだ。
懐に入れた子犬がもぞもぞと顔を出し、何かを呼ぶように鳴きだしたことに、驚いて顔を上げた。 「あ、チビ」 慌てて追いかけようと、立ち上がったそのままで悟空は固まった。 「……ぁ…さ…ん、ぞ…」 そう、そこには少し息を乱した三蔵が、足許に子犬をまとわりつかせて立っていたのだ。 「この…バカが」 やっと見つけた悟空の様子に何も言えず、金瞳を見開いたままの悟空にそう言えば、あっという間にくしゃっと顔が歪んだ。 「我慢なんかするんじゃねえ」 言えば、悟空は弾かれたように三蔵に抱きつくと、声を上げて泣きだした。 どれほどそうしていたのか、何度か鼻を啜り、悟空はようやく三蔵の胸元に埋めていた顔を上げた。 「…も、大丈夫」 そう言って、悟空はうっすらと笑った。 聲を頼りに辿り着いたのは、道から外れた岩壁に空いた小さな洞窟だった。 酷く怯えた顔をして。 その姿を見た途端、胸を締めるのは安堵。 今までどれ程我慢してきたのか。 それが痛い程に伝わって、出た言葉は「我慢するな」だった。 「で、こんなところで何をしていた?」 問えば、悟空は、 「…あ、えっと…チビが裏山に走っていっちまったから、追っかけたんだ。そしたら雪が降ってきて…怖くなって、そんで…」 と、答えた。 「ここに避難したのか」 三蔵の言葉に、しゅんと項垂れて、悟空は小さな声で謝った。 「帰るぞ」 洞窟から出ることを渋った悟空に見えるように身体をずらした三蔵の背後には、月の光に輝く白い世界が広がっていた。 「………きれ─…」 三蔵の上着を握りしめて、悟空は外の景色に見とれた。 と、悟空が小さな声をあげて、三蔵を見やった。 「悟空?」 悟空はそう言って今度は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「そうか…」 しがみついていた三蔵から離れ、悟空はひとり月の光に照らされた白い世界に立った。 「三蔵、もう、大丈夫。もう…怖くない」 そう言って笑った顔から、翳りは消えていた。 「さんぞ?」 頷く悟空に小さく笑って、三蔵はまた歩き出した。 二人と一匹の影が、白い世界に一筋の温もりを灯した。 それは雪の聲が聴こえた日。
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