give a name
「いーち、にーぃ、さぁーん」 口に出しながら、ミミズののたくった様な文字が、紙の上にできあがって行く。 悟空が今、紙の上に書いているのは、自分の名前”孫悟空”。 「さんぞ、これでいいか?」 誇らしげに見上げて来た悟空の笑顔に、三蔵は分からないようにため息を一つ吐く。
文字の書き方を練習し始めて、どれぐらい経っただろうか。 だが、漢字はなかなかに苦手らしい。 ”孫悟空” まず、意味を説明しなければならない。
───いいですか、江流。文字には皆、それぞれ意味があるのですよ。
そう言って笑って、光明三蔵は難解な経文の文字や言葉を優しい言葉でひもといてくれた。 だから、まずは形をなぞることから始めさせた。 それは絵の模写によく似ていて、縦の線と横の線、曲線を組み合わせていく作業。 繰り返し、繰り返し。 単調で単純な作業に、飽きるという気持ちは付き物で。 「さんぞ、つまんねぇ。孫悟空ってちゃんとなんないじゃんかぁ」 ぷっとまろい頬を膨らませて、悟空は大きなため息を吐く。 「文句言わねぇで、ちゃんと練習しろ」 夕食後のお茶を飲みながら、三蔵が軽く悟空の頭を小突いた。 「だってぇ…よくわかんねぇもん」 その言葉に、意味など悟空には必要ないと思っていた自分の考えを見透かされたような気がして、三蔵は一瞬、紫暗を見開いた。 「…そうか」 三蔵の静かな声に、悟空はいらぬ事を自分は言ったのかと、青ざめる。 「”孫”はお前が人であると言う意味。”悟空”は目に見えないものをその心で悟る…感じて、知ることが出来ると言う意味だ。お前に名前をつけた人間は、お前のことがとても大切だったってことだ」 三蔵の言葉に、悟空はその金眼を大きく見開き、そのまま固まったように動かなくなった。
『なあ、名前付けてくれよ』 ───うるせぇ。お前の名前は、サルだ。サル。 『…そんな… のバカ…』 ───悟空…それがお前の名だ。 『 ?』 ───短いからサルでも覚えられるだろうが 『悟空…悟空、か…うん、ありがと っ!』 ───ふんっ…
「ご、悟空…?」 見開いた瞳からぽろぽろと、涙が零れ落ちる。 過去の記憶が一切無い悟空。 「悟空…」 そっと、涙に濡れる頬に三蔵は、手を伸ばした。
あのぶっきらぼうで優しいあの人は誰? 温かく、柔らかな儚い想い出。 それが、何故か悲しくて、寂しくて────
瞳を向ければ、そこには夜明けの空の瞳を持った太陽のような人が、頬に触れて、少し辛そうな瞳を向けていた。
「悟空?」 柔らかな声音で名前を呼ばれて、悟空は瞬いた。 「…さ、んぞ……?」 弱々しい声で名前を呼んだかと思うと、悟空は椅子から飛び降り、三蔵に抱きついた。 「…おい」 受けとめた悟空の身体は、小刻みに震えていた。 「…さんぞ、は…居なくならない?俺、さんぞのこと忘れたりしない?」 不安に染まった金瞳が、紫暗を見つめる。 「当たり前だ。もし忘れたら、思い出させてやるよ」 そう言って、三蔵は喉を鳴らして笑った。 「ひっでぇ…俺、マジ、不安だったのにぃっ!」 怒る悟空を三蔵は膝から下ろすと、続きを促した。 「ほら、ちゃんと練習しろ。あと十回書いたら、風呂入るぞ」 そう言って、むくれる悟空の頭を小突く。 「ちぇっ、三蔵のバカ」 唇を尖らせても、その瞳は何処か嬉しそうで。 その姿を見つめながら、三蔵は思う。 新しい記憶が、お前の過去と今を結ぶ名前の上にも新しい意味を刻むことを願って。 静かに夜は、更けてゆく。
end |
リクエスト:悟空が岩牢から解放された後日、三蔵が悟空に漢字や言葉の意味を教えてあげるほのぼの話。 |
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ありがとうございました。 謹んで、るい様に捧げます。 |
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