give a name




「いーち、にーぃ、さぁーん」

口に出しながら、ミミズののたくった様な文字が、紙の上にできあがって行く。
ぎゅっと、握り締められた鉛筆が紙の上を動くたびに痛そうだと、三蔵は思った。

悟空が今、紙の上に書いているのは、自分の名前”孫悟空”。
まずはひらがなで”そんごくう”。
次は、漢字で。

「さんぞ、これでいいか?」

誇らしげに見上げて来た悟空の笑顔に、三蔵は分からないようにため息を一つ吐く。
そして、悟空が差し出した紙の文字を見てげんなりする。




文字の書き方を練習し始めて、どれぐらい経っただろうか。
ひらがなの”あいうえお”と、カタカナの”アイウエオ”、五十音は何とか書けるようになった。
それは、他人が読んでも判読できるようになったということだ。

だが、漢字はなかなかに苦手らしい。
漢数字と簡単な漢字は、読み書き出来るようになった。
次ぎに取り組んだのが、自分の名前。

”孫悟空”

まず、意味を説明しなければならない。
だが、説明する意味を悟空が理解できるかということが甚だ疑わしい。
文字を覚える基本は、その文字の意味を知ることだと、幼い日、光明三蔵が話して聞かせてくれた。



───いいですか、江流。文字には皆、それぞれ意味があるのですよ。
    ですから、その意味を正しく覚えれば、難しい文字も簡単に覚えられるのです。



そう言って笑って、光明三蔵は難解な経文の文字や言葉を優しい言葉でひもといてくれた。
そんな根気のいることを自分が出来るとも三蔵は思わなかったし、ましてや悟空がそんなことで難しい漢字を覚えるとも思えなかった。

だから、まずは形をなぞることから始めさせた。

それは絵の模写によく似ていて、縦の線と横の線、曲線を組み合わせていく作業。
薄墨で書いた文字をなぞってゆく。
慣れれば、自分で書く。

繰り返し、繰り返し。

単調で単純な作業に、飽きるという気持ちは付き物で。
悟空も例外なく、その飽きるに支配された。

「さんぞ、つまんねぇ。孫悟空ってちゃんとなんないじゃんかぁ」

ぷっとまろい頬を膨らませて、悟空は大きなため息を吐く。

「文句言わねぇで、ちゃんと練習しろ」

夕食後のお茶を飲みながら、三蔵が軽く悟空の頭を小突いた。

「だってぇ…よくわかんねぇもん」
「何がだ?」
「何でこんな字が俺の名前なのか…さ」

その言葉に、意味など悟空には必要ないと思っていた自分の考えを見透かされたような気がして、三蔵は一瞬、紫暗を見開いた。
そうして、光明三蔵が言っていた言葉をまた、思い出す。

「…そうか」

三蔵の静かな声に、悟空はいらぬ事を自分は言ったのかと、青ざめる。
三蔵は怯えた視線を向ける悟空の頭をくしゃっと、掻き混ぜると言った。

「”孫”はお前が人であると言う意味。”悟空”は目に見えないものをその心で悟る…感じて、知ることが出来ると言う意味だ。お前に名前をつけた人間は、お前のことがとても大切だったってことだ」

三蔵の言葉に、悟空はその金眼を大きく見開き、そのまま固まったように動かなくなった。






『なあ、名前付けてくれよ』

───うるせぇ。お前の名前は、サルだ。サル。

『…そんな…  のバカ…』

───悟空…それがお前の名だ。

『  ?』

───短いからサルでも覚えられるだろうが

『悟空…悟空、か…うん、ありがと   っ!』

───ふんっ…






「ご、悟空…?」

見開いた瞳からぽろぽろと、涙が零れ落ちる。
その姿に三蔵は、唇を噛んだ。
それは、悟空を岩牢から出した時に見せた涙に酷く似ていた。

過去の記憶が一切無い悟空。
その過去と現在を繋ぐ唯一の手がかりは、その名前だけだ。
”孫悟空”と、この子供に付けた人物が、どんな人間かは知らない。
三仏神が言うように天界に悟空が居たというのなら、その頃面倒を見ていた神が、名付けたのだろう。
だが、この悟空の反応は、その神がどれ程悟空にとって大切だったかを如実に物語っている。
見も知らぬその神に、三蔵は知らずに苛立ちを抱いた。
五百年の時を経て尚、悟空の心を捉えて離さないその存在に。

「悟空…」

そっと、涙に濡れる頬に三蔵は、手を伸ばした。
その指先の暖かさに悟空は、ゆるゆると視線を目の前の存在に向ける。






あのぶっきらぼうで優しいあの人は誰?
金色に輝いていたのあの人は…何処?

温かく、柔らかな儚い想い出。
真っ白な心に浮かんだ金色の面影。

それが、何故か悲しくて、寂しくて────






瞳を向ければ、そこには夜明けの空の瞳を持った太陽のような人が、頬に触れて、少し辛そうな瞳を向けていた。






「悟空?」

柔らかな声音で名前を呼ばれて、悟空は瞬いた。

「…さ、んぞ……?」

弱々しい声で名前を呼んだかと思うと、悟空は椅子から飛び降り、三蔵に抱きついた。

「…おい」

受けとめた悟空の身体は、小刻みに震えていた。
ぎゅっと、三蔵の首にしがみついた悟空は、顔をその肩に埋めて動かなくなった。
三蔵は小さく息を吐くと、斜めになった悟空の身体を膝に抱き上げた。
そして、震える身体にそっと、腕を回す。
三蔵が触れたことに気が付いたのか、悟空は顔を上げ、三蔵を見返した。

「…さんぞ、は…居なくならない?俺、さんぞのこと忘れたりしない?」

不安に染まった金瞳が、紫暗を見つめる。

「当たり前だ。もし忘れたら、思い出させてやるよ」
「ホント…に?」
「ああ、簡単だろうさ。そのサル頭じゃな」

そう言って、三蔵は喉を鳴らして笑った。
悟空は、きょとんとしていたが、その意味に気が付いたのか、それは見事に頬を膨らませた。

「ひっでぇ…俺、マジ、不安だったのにぃっ!」
「わかった、わかった」

怒る悟空を三蔵は膝から下ろすと、続きを促した。

「ほら、ちゃんと練習しろ。あと十回書いたら、風呂入るぞ」

そう言って、むくれる悟空の頭を小突く。

「ちぇっ、三蔵のバカ」

唇を尖らせても、その瞳は何処か嬉しそうで。
悟空は自分の椅子に戻ると、また、名前の練習を始めたのだった。

その姿を見つめながら、三蔵は思う。
想い出など今から作ればいい。
失くした記憶など気にならなくなるほど新しい記憶を積み重ねてゆけばいい。
その全てが、お前の笑顔で埋まっていればいいと。

新しい記憶が、お前の過去と今を結ぶ名前の上にも新しい意味を刻むことを願って。

静かに夜は、更けてゆく。




end




リクエスト:悟空が岩牢から解放された後日、三蔵が悟空に漢字や言葉の意味を教えてあげるほのぼの話。
75000 Hit ありがとうございました。
謹んで、るい様に捧げます。
close