大きくて、柔らかくて、ほんのり甘くて、ちょっとちくちくする白い果物。

水蜜桃。

たまたま困っていた人を助けた。
たまたまその人が果物屋さんで。
市場に行く途中に荷崩れした荷物を拾うのを手伝った。

そのお礼にもらった、白い宝石のような大きな桃。

嬉しくて、嬉しくて。

人の役に立て事が、嬉しくて。
助けた人が喜んでくれたことが、嬉しくて。
びっくりするようなご褒美がもらえたことが、嬉しくて。

子供は、小さなカゴに鉋屑と一緒に入れられた水蜜桃と呼ばれる、至宝の果物を大切にその両腕に抱えて、大好きな人のもとへ帰って行く。

木漏れ日に光る桃のほんのりと赤く染まった白い肌が、子供の幸せな笑顔を見つめていた。



水蜜桃
回廊を大事そうにカゴを抱えて、悟空は走っていた。

その姿を見かけた修行僧がいた。
悟空の手にあるのは、蟠桃の実ではないかと、見咎めた。
蟠桃は、天界におわす観世音菩薩の為に寺院の薬草苑で大切に育てられている桃の木の実だった。
それを何故、妖怪であるあの子供が持っているのか。


盗んできたのだ。


僧は、慌てて悟空を捕まえるべく、その後を追った。
奥の院へと続く大扉を潜られれば、自分にはどうすることも出来ないから。
三蔵法師のもとへ行ってしまえば、盗んだ行為さえ正当化され、妖怪の仕業も自分達の仕業にされてしまう。
そんなことになる前に、あの妖怪を捕まえて仕置きをしなければ。
修行僧は、悟空を追う途中で、何人かの仲間の僧に声を掛け、悟空を取り囲むようにして追った。




ぎりぎり、奥の院の大扉へ向かう回廊の入り口で悟空を捕まえることが出来た。
幼い両手に抱えられたカゴの桃は、確かに蟠桃の桃だった。

周囲を修行僧に囲まれた悟空は、その金色の瞳で修行僧の顔を睨みつけた。
その燃えるような金色に一瞬、睨まれた修行僧は見惚れる。

「何だよ!」

手に抱えたカゴと水蜜桃を守るようにして、悟空は修行僧達と向き合った。

「それは、観世音菩薩様にお供えする蟠桃の実。妖怪風情が盗んで良いモノではない」
「そうだ。罰当たりに薬草苑にまで入り込みおって」
「その上、蟠桃の実を盗むなど到底許されることではないわ」

口々に悟空を攻める修行僧達の言葉を黙って悟空は聞いていたが、盗んだと言われて黙っているわけにはいかなかった。
手にしている桃は、荷崩れを起こした露天商の荷車を助けたそのお礼にもらったモノだ。
盗んだと言われて、その露天商の気持ちが踏みにじられた気がした。

「盗んでなんかいない!これは、街から帰る途中でもらったんだ!」
「ウソをつくな!ウソを」
「ウソなんか言ってない!ばんとーなんて知らない!薬草苑だって!」
「三蔵様のお側に居るから何でも許されると思うな。そんな言い逃れなど信じられぬわ」

こう言えば、ああ言う、僧侶達にただでさえ語彙の少ない悟空は、最後にはだだっ子のように首を振って拒否するしかない。

「ええい、その蟠桃を返せ!」

悟空との言い合いに業を煮やした一人の僧侶が、悟空が抱えるカゴに手を伸ばした。

「何すんだ!」

反射的に悟空は、その僧侶の手を払った。
手を叩く乾いた音が、辺りに響く。

「このぉ…!」

手を払われたその痛みが、抑えていた気持ちに火をつけた。
僧侶は、そう言うなり悟空に掴みかかった。

「ヤだ!!」

カゴを取られまいと、その場に踞った悟空の身体を僧侶達は蹴り飛ばした。
四方八方から蹴られながらも悟空は、その小さな身体を一杯に使って桃を渡すまいとする。
その姿に益々僧侶達は苛立ち、悟空に加える暴力が加速して行く。

と、背後から凛とした声が、僧侶達の動きを止めた。

「こんな所で何をしているのですか!」

一斉に振り向く。
痛みに朦朧としながら悟空も声のする方を見やった。
そこに、書類を携えた笙玄と眉間に深いシワ刻んだ三蔵が、立っていた。

「さ、さ、三蔵様…!」
「笙…玄…」

音を立てて僧侶達の顔から血の気が引いて行く。
しかし、ここで怯んではならないと、悟空を見咎めた修行僧が、震える声で説明を始めた。
その説明を黙って聞く三蔵に書類を渡すと、笙玄は立ち上がろうとしている悟空に手を貸した。

「大丈夫ですか?」
「…うん、へーき」

心配する笙玄にふわりと笑いかけると、大事に抱えていたカゴを見せた。

「桃ですか?」
「うん、もらった……」
「ウソです!」

笙玄に言いかけた悟空の言葉を説明していた修行僧が、大きな声で遮った。

「ウソじゃない!もらったんだもん」
「悟空…」
「それは、確かに蟠桃の実です」

言い切る修行僧に悟空はそれ以上言い返すことが出来ずに、唇を噛んだ。
うっすらと涙を浮かべて、勝ち誇った表情を浮かべている顔を睨みつける。
カゴを握りしめる手が、震えていた。
笙玄は、悟空の肩を抱いて、三蔵を見つめた。

「…そうか、あれが蟠桃の実か」

さも感心したと、三蔵が呟いた。
その呟きに、修行僧達が、「えっ?」という顔をした。

「…三蔵…?」
「三蔵様?」

きょとんとする悟空と笙玄の様子に三蔵は、微かに笑うと、修行僧達に向き直った。

「お前は、見たことがあるのか?」

三蔵の問いかけに、修行僧は我が意を得たりと、大きく肯いた。

「はい、入山して間もない頃に拝見致しました。美しい白い宝石のような桃でございました」
「…そうか」
「ですから、あの妖…み、御子の持っている桃が、蟠桃の実だとわかったのでございます」

誉めてもらえると思ったらしい修行僧の話はまだ、続いていたが、三蔵は聞く降りをしながら、笙玄に支えられるようにして立つ悟空のケガの様子を見ていた。



剥き出しの二の腕や顔が赤く腫れている。
その腫れ具合から身体に出来た傷は、推して知るべし。
着ているモノの汚れ具合からもかなり酷くやられたらしい。



たかが、桃のために───



「笙玄、薬草苑の管理は誰だ?」

修行僧の話が途切れるや、三蔵は笙玄に声を掛けた。

「あ、栢宋僧正様です」
「これから掟破りのバカを六人連れて行くから、始末しろと言いに行ってこい」
「はい」

笙玄は三蔵に一礼すると、栢宋僧正のもとへ急ぎ走った。

「栢宋僧正様が何か…」

怪訝な面持ちの修行僧を無視し、三蔵は悟空を傍に呼んだ。
そして、抱えたカゴの中身を見る。
みずみずしい白桃が二個、鉋屑に守られて入っていた。
もし仮に悟空が、蟠桃の実を盗んだとして、この何事にもおおざっぱなサルが、桃が傷付かないようになどと考えるだろうか。
考えるまでもなく、否だ。

人のモンに傷つけた償いは、ちゃんと払ってもらうぞ



「さんぞ?」

じっと、桃を見つめる三蔵の僧衣の袂を悟空は、軽く引っ張った。
その動きで悟空に視線を移せば、不安に染まった金眼が見返してきた。
三蔵は、小さく息を吐くと、修行僧達に付いてくるように命じ、悟空の肩を抱くようにして歩き始めた。




栢宋僧正の居室の前で、笙玄が三蔵達を待っていた。
訪れた三蔵達を見とめると、入り口の扉を開けて入室を促した。
部屋の中では、三蔵の突然の訪問に半ばパニック状態の栢宋と側付きの僧侶が、硬い表情で三蔵達を迎えた。

「三蔵様、今し方、笙玄から聞いたのですが、掟破りとは一体、何があったのでございますか?」

三蔵と共に入ってきた修行僧六人と悟空の姿に怪訝な顔をする。
それを無視して、三蔵は口を開いた。

「栢宋僧正、薬草苑は係の者以外の人間が入れば罰を受けると聞いているが?」
「はい、この寺院の薬草苑は、皇帝陛下からのご下命にて造られ、三仏神様のご指導の下に全てのモノが育てられております」
「だそうだ」

そう言って三蔵は後ろの修行僧を見やった。
三蔵に得意げに説明し、言い切った修行僧の顔が心なしか青ざめる。

「蟠桃の実というのはこれか?」
「あっ…」

三蔵は悟空が持っていた桃を一つ掴むと、栢宋の前に差し出した。
栢宋は、目の前に差し出された大きな白桃の実をしげしげと眺めた後、ゆっくりと首を振った。

「いいえ、これは水蜜桃という桃でございます。蟠桃の実はこのように大きくなりませぬ。これより二回りほど小さく、全体にほんのりと赤みの差したモノでございます」
「そうか…」
「もうすぐ実りの頃を迎えますので、実った暁にはぜひ、お目に掛けましょう」
「ああ」

誇らしげに告げる栢宋の言葉に頷いた三蔵は、桃を悟空に返す。

「三蔵様、この者達はいったい何なのでしょう」

改めて、三蔵に連れて来られた修行僧達を指して、事の次第を三蔵に尋ねた。

「入山したての頃、薬草苑に入って蟠桃を見たとぬかしていたから、連れてきたまでだ。どうするかは、栢宋僧正殿が決められるが良かろう。俺は、何も言わねえよ」

そう言って、三蔵は悟空と笙玄を促して栢宋の居室を後にした。
残された修行僧六人は、黙ってうつむいたまま立ちすくみ、栢宋は目眩を起こして椅子に倒れ込んだ。

三蔵は暗に栢宋に言っているのだ。
この僧侶達を捕まえたのは自分だから、処分に手心を加えるなと。

栢宋は助け起こされながら、小さくなっている修行僧達の行いを胸の内で罵っていた。



悟空にいらぬ疑いを掛けた件の修行僧達は、破門とまではいかなかったが、反省を促すために法力僧の荒々しい修行に一月ばかり出されたらしい。











部屋に戻り、ケガの手当を終えた悟空を前に、三蔵はため息混じりで悟空に問うた。

「で、その桃はどうしたんだ?」

三蔵の呆れた果てたようなため息を聞いて悟空は、思わず肩を大きく揺らした。


また、迷惑をかけてしまった。
忙しい三蔵の手を煩わせてしまった。


そういう思いが先程から悟空の胸を黒く塗りつぶしていた。
うつむく悟空の様子から、また、この子供はいらぬ事を考えている。
手に取るようにわかる悟空の気持ちに、三蔵は苦笑を微かに浮かべた。

結局、三蔵は騒ぎ以降の仕事を全て放棄した。
三蔵でなくとも裁可を下せる人間が、この寺院には山ほどいるのだ。
そいつらがたまに忙しくなっても、誰も文句は言わないだろう。
そう、笙玄がうまく立ち回るだろう事がわかっていたから。

だから、目の前でうなだれている悟空が気に病むことはないのだ。
三蔵とて、休みは必要だ。
それをたまたま、今日、強引に取ったとして、何が悪い。
どうせ、明日からはまた、煩わしい日常が否応なく戻ってくる。


だから気にしなくていいんだよ…


三蔵は、うつむく悟空の顎に手を添えて、顔を上げさせた。

「ちゃんと答えろ」

自分を見つめる紫暗の瞳の暖かさに気が付いた。
三蔵は、怒っているわけではないのだ。
ちゃんとした理由を知りたいだけなのだ。

悟空は、ようやく安心したのか、薄い笑みを浮かべると話し出した。



街で遊んだ帰り、街道で荷崩れを起こした露天商の荷車を助けたこと。
その礼だと言って、桃を二つカゴに入れてくれたこと。
人の役に立って嬉しい気持ち。
思いも掛けないご褒美をもらって、もっと嬉しくなった気持ち。



たどたどしく話す悟空の表情が、その時の気持ちを思いだしたのか、だんだんと輝いてくる。

「…だから、三蔵に見せたかったんだ」

にこっと笑うその笑顔にウソはなかった。

「そうか」
「うん」

力一杯頷く悟空の柔らかい髪をくしゃっと掻き混ぜると、三蔵は僧衣を脱いで、普段着に着替え始めた。

「…さんぞ?」

きょとんとする悟空をよそに、三蔵は着替え終わると、悟空に声を掛けた。

「行くぞ」
「えっ?」

まだわからない。

「行かねえのか?」
「ど…こに?」

ちょっと三蔵に近づいて、

「飯食いにだよ」
「…えっと…」

考えて、

「…褒美だ」
「さんぞ?」

背けた顔がほんのり赤くて、

「行かねえのなら、一人で…」
「行くっ!!」

満面の笑顔が、三蔵の腕に降り立った。




食事の帰り、悟空が助けた露天商のもとに立ち寄り、袋一杯、水蜜桃を悟空は買ってもらった。
大切に持ち帰ったあの水蜜桃と一緒に、翌日の朝、冷たく冷やされて食卓に上った。




嬉しい気持ちそのままの甘く、幸せな味がした。




end

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