轟きが、部屋を揺らした。
朱色の柱に挟まれた、白い壁がビリビリと音を立てる。
ああ。
嵐が来るのだと。
悟空は寝台にうつ伏せたまま、北北西へと顔を上げた。
界 雷
anzai momoco
山脈を跨ぐ様な雷鳴は、北の気流から流れて来たものではないのか?
嵐は長引くだろう。
その方角からやって来るからには、夜半までの憂鬱を覚悟しなくてはならない。
悟空にその事を教えた男は、朝から執務室へと篭っている。
この処はずっとそうだ。
悟空が目覚めるよりも先に起き出しては、就寝した後に戻って来て。
彼の微かな残り香だけが、唯一存在を確かめさせるもの。
「……三蔵?」
枕元の書物を閉じて、悟空は男の名前を呼んだ。
この世を覆い尽くしてしまいそうな、轟鳴が恐ろしかった訳では無い。
「……三蔵、」
ただ不意に。
突然に襲った訳の判らない感情が。
静寂の中に取り残された様な、薄闇色の孤独が恐ろしかった。
呼べば三蔵は、何時でも応えてくれる。
それは五行山での悟空が、『呼ぶ』自覚を持たなかった時から始まっていた。
――――探し出すのに、手間がかかった。
岩牢から連れ出してくれた時、三蔵が呟いた言葉。
――――お前がもっと、強い声で呼ばねぇからだ。
決して優しい口振りではなかったが、紫の瞳が微笑みの色を湛えていた事を覚えている。
それは初めて目にした三蔵の温もり。
太陽の様な眩さが、自分の全てを攫って行った瞬間。
寺院で一緒に暮らす様になってから、その優しさは確信的なものへと変わって行った。
言葉や態度では感じ取る事が難しい。
彼の判り難い優しさは、悟空だけが知る事の出来る特権だったのだ。
何時でも何処に居たとしても、呼べば三蔵は来てくれる。
それがただの我儘であったとしても、ただ会いたいと願うだけでも。
不安な時に頭を撫でてくれる、包み様な手のひらは大きかった。
黙ったまま傍に居る事を許してくれたのは、三蔵では無かったのか?
――――俺に会いたけりゃ、強く呼べよ。
そう言ったのは、ほかでもない三蔵なのだ。
――――そしたら直ぐに、見付け出してやるから。
その時の不敵な微笑みは、今でも思い出す事が出来るのに。
なのに。
どうしてここに、三蔵はいないのか?
悟空は執務室の扉を開いた。
仄白い雷光は、寝室と同じ様に室内を照らし出す。
蝋燭の灯かりが微かに揺れて、三蔵の居場所を正確に教えていた。
三蔵の双眸が、闇の中で爛と光る。
紫暗の瞳は入り口を見据え、まるで悟空が訪れる事を知っていたかの様だった。
「……聞こえてたんだろ?」
扉を閉める事も忘れて、悟空は室内へと足を踏み入れた。
三蔵へと歩み寄れば、両開きの扉は軋んだ音を立てて閉まって行く。
反動で扉が引き戻されるよりも先に、悟空は三蔵の目の前へと立った。
「俺の声、ずっと。……答えてよ。」
三蔵が座る執務机と向かい合う様に両手を着く。
答えを探る様に瞳を覗き込んで来た黄金色を、三蔵は見詰めてから瞳を伏せた。
「……ああ。」
「……三蔵、」
「煩ぇ位にな。」
「っ、なら、」
聞き慣れている筈の悟空の声には余裕が無い。
しかしそれは、応える三蔵にしても同じ事だった。
「お前は自分が、何を言っているのか判っているのか?」
「何、ゆって…」
「お前は何も、判っちゃいねぇ。」
言いながらも三蔵の、線の細い眉には皺が刻み込まれる。
途惑いながらも視線を逸らそうとはしない、被保護者の姿には眩暈すら覚えた。
「いいのか?」
問いながらも三蔵の指は、悟空の手の甲へと這わされる。
「何、が…」
手首を這い上がる様に捕まれた、悟空の声は上擦った。
「嫌なら、殴ってでも逃げろ」
「……三蔵。」
その時耳に届いた声は、本当に三蔵のものだったのか。
気付いた時に身体は引き寄せられ、何かで口唇を覆われている最中で。
その行為が口付けなのだと、乏しい知識から引き出すには余りにも時間がかかり過ぎた。
自分の口唇を覆うそれが、三蔵の口唇なのだと判った時には。
もう、手遅れ。
三蔵の舌は、歯列をなぞって口腔内を嬲って行く。
いつも嗅いでいる煙草の匂いは、体温を通して口の中へと広がって行った。
悟空には、抵抗する事さえ適わない。
齎される苦しさが、三蔵によって与えられるものであると言う事と。
それから初めて知ることになる、雄としての三蔵の表情と。
三蔵にも、こうした欲が沸く事があるのだ。
濃厚な口付けを受けながらも、悟空はぼんやりと思考していた。
分け与えられる透明な液。
混ざり合った唾液は、二人の口唇から溢れて行く。
机の上に組み伏せられて、光るその眼を綺麗だと思った。
口許を伝う糸は銀色に輝き、三蔵の口唇を紅く濡らしている。
少しだけ高揚した頬。
悟空がきつく掴んだ為なのか、法衣は少しだけ着乱れていた。
「……三蔵、」
悟空が呼べば、金糸が柔らかく舞い落ちて来る。
「……何だ?」
「……どうして?」
静かに近付く口唇は、言葉を交わす度に触れ合った。
戒められていた手首を、抗わない事で解放を促して。
悟空の両手は、緩やかな動きで三蔵へと伸ばされて行く。
綺麗な稜線を描く白い首筋の、形を確かめるかの様に腕を回した。
「お前は俺を、呼んだだろう?」
引き寄せられる事で、深くなって行く口付け。
三蔵の乾いた指が、悟空の顎のラインを捕らえて挟んだ。
「煩ぇ位に、叫んでた。」
「……ん、」
口付けを交わしながらも、二人の吐息は上がって行く。
まるで乾いた大地が、天の恵みを待つ様に。
そう。
嵐が来る事を、ずっと待ち望んでいたのだ。
激しくなる口付け。
忙しなく繰り返される抱擁。
「どうして欲しいのか、言えよ、」
「……三蔵、」
「お前が何を希むのか。今ならお前にも判る筈だ。」
三蔵の口唇は頬へと押し当てられ、悟空の耳元へと囁きを落として行く。
「俺が、希んでいたこと?」
「……ああ、」
「…んなの、わかんねぇ。」
悟空は三蔵の背へと腕を回したまま、ゆっくりと黄金色の瞳を閉じた。
上がってしまった息を整えるかの様に、小さな呼吸を繰り返す。
「それなら俺が、言ってやろうか?」
柔らかな下口唇の容形を、確かめる様に三蔵の親指が準えて。
背中へ回されていた悟空の手を取った。
手のひらを重ねて引き寄せると、まるで誓いの様に口付ける。
手の甲から人差し指、中指と、飴をしゃぶる様に口へ含んだ。
「……悟空、」
そうして促す様に囁かれたその言葉は、悟空の箍を祓って行く。
「……狡いね、」
悟空は泣き出しそうに、けれど微笑みを浮かべてみせて
「三蔵は、狡い。」
それから小さな呟きを口に出した。
両腕は改めて、三蔵へと伸ばされる。
眩いばかりの金糸を纏った頭を抱え込むと、悟空は耳元へと口唇を寄せた。
「俺を、抱いてよ。」
そう。
多分、ずっと希んでいたのだ。
自分でも気付く事の出来なかった欲望を、三蔵はずっと前から知っていた。
だから三蔵は、狡いのだと思う。
知っていながらも知らない振りをする事で、堕ちて来るのを待ち続けていたのだから。
「……ああ。」
応える男の声は、けれど何もかもを許してしまいそうな程に優しい。
「俺から離れたいなんて、思えねぇ様にしてやる。」
そうして、弱みは全て握られてしまうのだ。
「お前が希む事ならば。」
言い出す事を待ちながら、そうとは気付かせない巧みさで。
ああ。
この手の中へと堕ちてしまった。
悟空はそっと、瞳を閉じて。
それから静かに手を伸ばす。
「離さ、ないで……」
何処に居ても、誰と居ても。
手に入れたのが三蔵ならば、決して離れる事など出来ないのだから。
「……傍に、居て。」
願いを消す様に重ねられた口唇は、静かに深みを増して行く。
押し上げられた身体は卓上の書類を落として。
やがて二人は溶け合った。
それは互いの境界線が無くなってしまうまで。
届くことの無い雷鳴が、やがて遠くで音を鳴らす。
end
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