あなたに出会えた事は、きっと偶然なんかじゃない。




護りの森。




その森に入ったのは初めてだった。

いつも遊んでいる寺院裏の山まで駆けて行って、いつも遊んでいる場所を通り過ぎても駆けて行って、そしたらいつのまにか今まで入り込んだ事のない森まで入り込んでしまっていた。
いつも遊ぶ山よりずっとずっと深い。
覆い茂る樹は、本当ならば頭上をさんさんと照らしているであろう太陽の光までも薄暗く隠している。


「・・・ぁ、はぁっ、は・・・・・・。」
ここまで一度も休まず走り続けていた悟空は、はっきり言って今自分がいる場所が何処だかよく分かっていなかった。
むしろどうでもよかったのだ。


走り出したきっかけなんて当たり前に近い言葉だった。
寺の奴らに悪く言われるのはもう日常みたいな物で、とっくに慣れてしまっていた筈だった。
けれど、悪い言葉という物は確実にぶつけられた相手に深い傷をつけていく。
いつも聞いている「妖怪だから」、「金瞳だから」、「だから三蔵様の迷惑にしかならない」。
なんでか今日は堪えられなくなって、無我夢中に走り出していた。




・・・なんで?

俺が人間だったら、こんな風に言われなかったのだろうか。

俺が金瞳じゃなかったら、こんな風に叩かれなくて済んだのだろうか。

俺が今の俺じゃなかったら、三蔵に迷惑はかからなかったのだろうか。





全てを投げやるような、ぐるぐると回るマイナス思考はただただ混乱と、降り積もった痛みを掘り返して。

陽の届かない暗い森が自分をそのまま映し出しているように見えた。





















ざわざわざわ。
急に辺りに強い風が吹き始めた。まるで何か得体の知れない物が潜んでいそうな雰囲気に、漸く悟空は我に返った。
ここが何処だとか、怖いと思う感情が作動を始める。
故意に遮られているような不自然な暗闇に心臓が悲鳴を上げ始め出すのにそう時間は掛からなかった。

「あ、れ・・・・ここ、何処だろ・・・・・」
記憶には無い道。景色。
暗い森。
身体がカタカタ震え出すのを、悟空は肩を抱きしめる事で抑えようとした。それでも震えは止まってはくれない。
音が無いのだ、この森は。


―――だめ。呼んじゃだめ。


思わずさんぞう、と言いそうになった口を悟空は両手で抑えた。
僧達が言っていた事を否定できる事実が自分には無かったから。
妖怪だし、金瞳だし、迷惑しかかけたことが無い。

「・・・・・っ」
自分で思って、泣きたくなった。


何の為に居るのだろう、自分は。





「・・・く・・・」

「・・え。」
今にも涙がこぼれそうになった瞬間、悟空の耳に何かの声が聞こえてきた。
それは真剣に耳を傾けなければ聞き取れないような、とてもちいさなもので。


「・・・く、ふぇ・・・・・」

「・・・泣き声?」


悟空は耳を澄ませ、泣きかけたことも一瞬で忘れ、立ちっぱなしだったその場から声がする方へと近づいていった。
段々近づく声に、それが子供の、それもとても小さな歳の泣き声である事が分かった。

迷子かもしれない。

慌てて悟空は目の前の草木を押し避けて一歩を踏み出した。独りでいることの辛さは、誰よりも自分が知っていたから。
少し小走りに行くと、丁度目の前の草陰に悟空の予期した通り5歳位であろう幼子が膝を抱え込んで、その場に蹲っていた。






「なあ、大丈夫か?」

悟空はその子供に声をかけた。すると子供はびくっと反応し、警戒もあらわに振り返るなり、拒絶をするような瞳で悟空を見た。

「だ、れだ、あんた。」
「あ、俺?悟空っていうんだ。ゴメンな、驚かしちゃったな。」
威嚇するように怯える子供に、悟空は安心させる様にふわりと笑った。
すると、まだ警戒心を解いてはいないが、子供は少し緊張を和らげた。
そして流していた涙に気が付いて、慌てて着ていた物の袖で拭いはじめた。

「駄目だよ、赤くなるよ。」
悟空は持っていたハンカチで子供の頬を拭おうと一歩近づいた。
すると子供が嫌がるように一歩後ずさる。
その様子に悟空は足を止めて子供を見た。

・・・どうしよう。

きっとこの子は、無理矢理近づけばそれだけ逃げていってしまうだろう。
警戒心が凄く強い。
そう思った途端、ふと目の前の子供が急に良く知る人物に重なった。


・・・良く見たら、似てる。


悟空は、ゆっくりと子供の服装と容姿を見た。


裾は短いけれど、着ている物は確かに寺で見慣れている法衣。
とても幼い顔立ちだけれども、金髪に紫暗の瞳、そして何よりその容姿は間違いなく三蔵にそっくりだったのだ。



「なに、じろじろみてるんだよ。」
そう言って、左足を押さえながら立ちあがった子供は、視線に居心地が悪いのだろう、悟空の目をじっと見るように視線を合わせている。
多分、睨んでいるつもりなのだろう。
けれど三蔵の底冷えするような睨みに慣れてしまっている悟空は、それは「睨んでいる」と形容できる物ではなく逆にクスクスと笑い始めてしまった。

「なっ、なんでわらうんだよ!!」

笑われた意味がわからない子供は、顔を赤くさせて怒鳴った。
けれど、その行動一つ一つを三蔵と比べてしまい、あまりの幼さに、愛しさしか込み上げてこない。

容姿がそっくりな所為で、まるで小さくなった三蔵が怒鳴っているみたいで。
もっと話したい、そう思って、そこで悟空は自分が目の前の子供の名前を知らないことに気が付いた。


「・・・ご、めん、ごめん。ところでさ、なんて呼べばいいのか分かんないから名前教えてくれる?」
「・・わらってばっかりのやつに、おしえてなんかやらない!」


なんとか笑いを押さえこんで、名前を聞こうと訪ねれば、すっかり不貞腐れてしまった子供は素直に教えてはくれなかった。
ちょっとやり過ぎちゃったな、と反省をしつつ、悟空は無理に名前を聞き出すよりも目の前の子供をなんて呼べば良いのかと首を傾げた。
「うー・・・ん、じゃなんて呼ぼう・・・。」
名前が分からないと会話が進み難い事を悟空は三蔵との会話で知っている。
だからといって、「おい」とか「お前」で相手を呼ぶ事を悟空は好きではない。初めて会った相手ならば尚更だ。

・・・そういえば。
以前一度だけ三蔵の小さい頃の名前を聞いたことがあった。
昔から三蔵を知っている人がたまたま寺院に来て、態と三蔵の目の前でその名前を呼んで。
呼ばれた三蔵はめちゃめちゃ機嫌悪くなって、無視するみたいに職務室に戻ってきてた。

目の前の子は三蔵に容姿も態度もそっくりだから、合うかもしれない。


「っおまえ、かってになまえをつけようとするなよ!」
敏感にも子供は勝手に別の名前で呼ばれようとした事に気付いたのか、慌てて止めさせようと近づいてくる。
そんな仕草が、大人びて見せるものの、まだ小さい子供なのだと感じさせて。
思わずからかってみたくなってしまった悟空は、ちょっと逃げるそぶりを見せながら屁理屈を言い返した。
「お前じゃないよ、悟空。だって教えてくれないじゃん。大丈夫だよ、変な名前じゃないもん。えーっと・・・」






「江流。」 























「・・・なんでおれのなまえわかったんだ?」

てっきり「そんな名前嫌だ!」と、抵抗する(しよう)と悟空も子供も思っていたのだ。
ところがお互いの予想に反して、悟空は目の前の三蔵にそっくりな子供の名前を見事引き当ててしまっていた。
























「そういえばさ、なんでこんなトコに江流は一人で居たんだ?」

お互いの名前が知れた後、二人はもう昔から仲が良かったかのように、その場に座り込んで話していた。
警戒心が強かった江流も、悟空の今までの行動と、名前を当てた後の「良い名前だな」という素直な一言ですっかり警戒を解いていた。
と言っても口数は三蔵同様少なく、悟空が一方的に話す形であったが。
そんな会話も、江流が悟空の質問を耳にした途端に終わりを告げてしまった。

「・・うるさいよ、そんなんごくうにかんけいないだろーが。」
そう言うと、江流はそっぽを向くと悟空とは正反対を向いてしまった。




悔しそうな、今にも泣きそうな、でも必死に堪えているような。

一瞬見せた、江流の表情を悟空は見てしまっていた。
江流の年齢は、今年で6歳だと言っていた。
つまりまだ5歳の子供だ。
寂しいとか、構って欲しいとか、そういうことをまだ当たり前に言える歳なのだ。
沢山抱っこしてもらったり、頭を撫でてもらったり、そういうことをお母さんにしてもらっても良い歳なのだ。
・・・本来なら。


「・・・ごめんな、俺江流傷付けること言っちゃった。ほんとごめん。」
悟空はぽん、と江流の頭を撫でた。
江流は驚いたようにビクリと反応しながらこちらを凝視している。が、撫でている手を払おうとはせず、どうしたら良いのか分からない、という表情で黙って頭を撫でられていた。

悟空はそんな江流の顔を見ながら頭を暫く撫で続けていた。
誰にだって言いたくない事があるし、知られたくないことがある。
江流にとって、きっと「ここに独りでいた理由」は聞かれたくないし、本当は誰にも知られたくなかったことなのだ。
でなければ独りでここにいる筈は無いのだから。














今まで姿を確認できなかった太陽が枝葉の波の切れ目から漸く姿を見せはじめた。
木々の覆い茂った森での切れ目。
もう夕暮れが近づいていたのだ。

西日が其処へ座り込んでいた二人を照らし出した事で、江流はそろそろ戻らなければと腰を上げようとした。
すると、目の前で悟空が背中を向けて、片足をついたまま手を差し出してきた。

「乗れよ。」
「え?」
「左足、怪我してるだろ。送っていくから、早く乗れよ。」
「!!」

江流は驚いて、思わず法衣の裾で膝上の痣を隠した。
まさか他人と思っていた悟空にばれているとは思っていなかったから。

その顔には恐怖と、驚きと、怯えと。
悟空は背を向けたまま江流の手を引っ張って背に載せ、無理矢理おんぶをして立ち上がった。
「っな!!」
「俺背中向けてるから、江流の顔見れねーもん。江流が泣いても見れないから大丈夫だよ。」
「だれがないてるんだよ!!」
「江流、道教えろよー、俺江流の家分からないんだから。」
いきなりの出来事に驚きを隠せない江流を黙らせるように、そのまま悟空は足を動かしはじめた。

カアカアと鳴くカラスの声と、赤とオレンジと、藍色の空のグラデーション。
目の前の夕日がやけにきれいに見えた。











「・・・ごめん。」

耳にしたのは江流の謝罪。

江流は家を出た後、後先考えずに山を突っ切っていたらしい。そのため帰り道を覚えておらず、ぐるぐると回って後ようやく見覚えのある道に今辿りつけたのだった。
既に空は深い紺色。
天井の星が五月蝿いほど煌いていて、まるで吸い込まれてしまいそうで、江流はそのまま悟空の背中に顔を埋めて服を握り締めた。

今江流の頭を巡っているのは、勝手に飛び出してしまった事への反省と、迷惑をかけてしまった目の前の少年と、今もきっと探しまわっているだろう自分の保護者のこと。
全てに情けなくなって、江流は預けた頭を上げる事ができなくなってしまった。







「俺さぁ、今三蔵と一緒に長安で一番でっかい寺に住んでるんだ。」


突然悟空が話し出した。

「でも、俺寺の奴らに嫌われててさ。・・妖怪なんだよ、俺。しかも金瞳だから、その所為でもっと嫌われちゃってて。結構嫌がらせされるんだ。なんもしてないのに叩かれたりとか、めちゃめちゃ言われたりとか、よくあるよ。」

まるで森の中に響いていた静寂を打ち消すように、悟空は話し出していた。
誰も聞いていない事まで、大きめの明るい声で。
背中に感じた少し違う濡れた温かさを、悟空はそのまま見逃した。


「俺もなー、多分迷子。今日もやなこと言われたんだけど、いつもと同じなのになんか悲しくなって、走り回ってたらあそこに居たんだよなぁ。」

「・・じゃぁ、おれとおなじなのか?」

「うん、そう。だから、お相子な。」

「ごくうのほうがおれよりとしうえなのに。」

「あはは、俺いつも三蔵に馬鹿ザルって呼ばれてるくらいだもんなー。」



江流が声にせずに少し笑った。
つられて悟空も笑った。

「確かにちょっと辛いし、痛いし、悲しいけど。でも大好きな人の傍に居れれば、俺我慢できるんだ。」
江流は?


背中に、息を細めたのを感じる。
首に回されている腕が、ちょっと力を込めた事も。

ホー、ホー。


山梟の鳴き声と、超音波よりも耳に付く静寂。
迷いそうな、不安で押しつぶされそうな森の中を、真っ直ぐ土を踏みしめて歩く音が江流の手を引いた。

「・・・ごくうは、さんぞうってひとがたいせつなのか?」

「うん、そう。」

「おれのだいじなひとも、そうよばれてたきがする。むずかしくて、まだおぼえてないけど、たしか。」

「そっか。」

「うん。おあいこだ。」










地面を踏みしめながら、確実に民家への道を辿りながら、悟空は背中が重くなった事を感じた。
耳に届くのは穏やかな寝息。
耳にして、ほっと安心した。

自分は、十を過ぎてから三蔵に拾われたから江流の歳のことなんて分からない。
昔の事なんて自分には残っていないから。
だから、「こういう」悲しさとか、悔しさとか、痛みとか、江流の歳で感じたことは無い。
だから。

まだ江流は、こんな自分と似たような理不尽な暴力を受けなくたって良いんだ。

江流は人間だから、自分のような理由は無い。
紫暗の瞳だから、自分みたいに吉兆がなんとか、なんて理由も無い。
まだ五歳なんだから、失敗したって当たり前だ。


だから、受けなくても良い「自分と同じ痛み」を受けるには、まだまだ早すぎるよ?


































「あの馬鹿ザルはこんな時間どこまでほっつき歩いてやがる!!」
ばん、と私室の机を壊す勢いで三蔵は叫んだ。
三蔵の命令で裏庭や裏山を一回りさせられた僧達が、報告の為に入り口で固まっていることなど三蔵の目になど入っていない。
「見つけた」「連れてきた」の報告で無かった以上、其処に居るのは無用の長物に等しいゴミにしか見えていないのだ。

部屋にはマルボロの煙が視界を鈍らせるほど充満し、それ以上に絶対零度のオーラが渦巻いている。
それもそうである。
今の時刻は夜の10時。
保護者と呼ばれる者であれば、被保護者がまだ帰宅していない事実に心配して慌てふためくに違いないのだ。
生憎、現在不良真っ最中の子供の保護者はそんな可愛らしい行動の持ち主ではなかったが。

「もういい。表の門は俺が出てから勝手に閉めてろ。」
「・・は!?」
「三蔵様!?」

ついに痺れを切らした三蔵は、腰掛けていた椅子から立ちあがると他の僧の引止めを土足で蹴散らし、門を潜るなりさっさと裏山への道を登り始めた。

頭に響く音無き声は、昼に泣きそうな声を一度耳にして以来聞こえてこない。
何か帰って来れない事情があるのか、それとも何らかの危険に晒されているのか。
後者はまず有り得ない、と持ち前の勘で判断した三蔵は、不良ザルを回収するためだけに足を運んでいた。
・・・決して「心配だから」などという感情ではない、と無意識のうちに言い聞かせて。



































「本当にありがとうございます、態々こんな遅くまで連れて来て下さって、親御さんも心配なさっているでしょうに。本当にありがとうございます。」
あれから暫く歩いて後、悟空は江流を必死の形相で探しまわっていた江流の保護者と鉢合わせをした。
その人は光明と名乗り、江流の安心そうな寝顔を見て、「この子が初対面の方にこんな風に気を許すなんてこと無かったんですよ」と驚きつつも嬉しそうな顔をして、悟空から江流を受け取った。

「もう酉(とり)の時刻を過ぎています。これ以上悟空さんのような年齢の方を一人で歩かせるわけにはいきませんし、江流のお礼もかねて送らせてください。」
光明は江流を住んでいる寺の自室に寝かしつけた後、後ろで束ねた長い髪を揺らせながら笑ってそう言った。
本当は「泊まっていきませんか」と言われたのだが、何の連絡もしていない三蔵のことを考えたら、帰ったほうが良いと悟空が判断したためだった。
山道を二人並んで歩きながら、ふと光明が口を開いた。

「あの子・・江流は、人見知りが激しい子でしてね。回りの環境の所為もあるんでしょうが・・・。
なので、初対面や信用していない人間には、悟空さんのように負ぶさってもらった上に安心しきって寝る事なんて無かったんですよ。」
そう言って、光明は江流のことを色々と話してくれた。

親はいなくて、自分が拾って育てていること。
小さいながらも自分をしっかり持って行動していること。
けれどまだ経験が足りないが故に、言葉や力による暴力に傷付いて、そしてそれを自分にすら隠して影で泣いていること。

悟空は左足の怪我のことを話してみた。
光明は、もっと気をつけるようにしなくてはいけませんかね、と少し悲しそうな顔をした。



やがて空の星明りも遮るような、悟空と江流の迷った森へ二人は足を踏み入れた。
途端、光明の纏っていた雰囲気が変わる。
「どうしたの?」
「悟空さん、この森を通ってきたんですか?」
いきなりの変わりように驚いた悟空の問いかけに、光明は答えず逆に質問で聞き返してきた。
分からないまま「そうだよ」とごくうが伝えると光明はそのまま何かを考えるような仕草をしている。
その時、既に歩き疲れていた上にいつもならとうに寝ている11時を過ぎていたため、悟空は大きな欠伸をしてしまった。
慌てて手で口を抑える悟空に、光明は笑いかけて
「じゃあ、今度は私が背負いましょうね。」
そう言うなり、光明は膝を突いて、悟空が江流にしたようにさっさと背中に乗せてしまった。


































その森に足を踏み入れた時、通常なら有り得ないであろう違いに三蔵は辺りを睨みつけるように見まわした。

現在地に近づくにつれて少しずつ聞こえるようになってきた悟空の声を辿りながら、三蔵は裏山を越え、それより20分程先へ進んだこの森の中へ足を踏み入れていた。
三蔵の記憶が正しければ、この場所は何処の国や寺院などにも領土化されていないという珍しい地のはずだった。
そして其処には地図上、森など無かった筈なのである。

「あのサル、余計なとこに迷い込みやがって・・・。」
悪態をつきつつも三蔵は迷いもなく足を森の奥へと進めて行く。
確かに通常有り得ない場所であろうとも、そこは危険な気配は微塵と無かった。
ただ、歩くたびにゆらりと回りがまるで蜃気楼のように揺らめく感じがするのは否めない。
だが三蔵はそんなことよりも気になる事が浮かびつつあった。



・・・以前、自分はここに来たことがあるのか?

ゆらりと感じる森の空気は決して嫌な物ではない。そしてこの感覚を自分は知っている。
遠い記憶の奥底で、確かに自分はこの空気を知っていると何かが三蔵に訴えかけてくる。
そして、そこにいた自分が誰かと出会ったと。




ガサリ。






背後の草が音を立てたことで、三蔵は素早く中を構えて振り向いた。

其処には悟空を背負った光明が、驚きを隠せないように呆然と三蔵を見つめたまま立ち尽くしていた。


















「江流・・・・ですよねぇ。いや、大きくなって。」
2分程度、お互い見詰め合ったまま固まっていた二人は、一歩早く我に帰った光明によって漸く思考を働かせはじめた。
「・・・お師匠様、ですか?」
「ええ。江流、今あなた幾つになったんですか?」
「十八ですが・・・。」
我に返った光明は、のほほんといつものマイペースを取り戻し、にこやかに笑いながら「おや、ここは十三年も先の未来なんですねぇ」と一人感心していた。
三蔵は、既に記憶の人となった自分の師がこの場にいる事に困惑しつつも、その師の言った一言でこの森の異常さに納得をした。


この森に時間は存在しない。
きっとここはあらゆる時間と繋がっている異空間なのだ。
ゆらめく景色は、その度に変わる時間の流れによるもの。
感じる気配は、そのまま時空全体が混ざった物なのだから異常なのは当然なのだ。


「?ところでお師匠様、なんであなたが背にサ・・・悟空を背負っていらっしゃるんです?」
ふと三蔵が顔を上げて見れば、光明は「いやぁ、こんなに立派に成長するんですねぇ」となんとも嬉しそうに三蔵を見ながら、背には依然悟空を背負っていた。そして三蔵の問いかけに「ああ、」と笑顔で話し出す。

「江流が傷心のままこの森に迷子になりましてね。悟空さんが眠ってしまった江流を背負って寺まで送ってい来て下さったんですよ。」
時間も時間ですから今度は私が悟空さんを送ってきたんです、と光明はなんの悪びれもなくにこやかな笑顔で三蔵に言い放つ。




「・・・・―――!!!」
数秒後、一気に顔を青ざめさせた三蔵は「ご迷惑をお掛けしました」と、それこそ慌てふためきながら悟空を受け取り、自分の背に背負った。
その様子に光明はくすくすと笑いながら、足を着た方向に向けつつ、最後に三蔵に向かって振りかえる。



「その子を護ってあげて下さいね、江流。」



そのまま三蔵に一言も言わせる隙を与えないまま二度と振り返ることなく、光明の姿は森の奥へとかき消されていった。




















ざく、ざく、ざく。

「う・・・・・ぁ、・・あれ?さんぞう?」
山道を下る途中、さくさくと草を踏みしめる音と、揺られながら感じる慣れ親しんだ体温と煙草の匂いに悟空は目を覚ました。
「寝てろ。まだ夜中だ。」
それに気付いた三蔵は振り返りもせず、足を止めないままそう一言だけをつき返し、そのまま無言で歩き続けている。
悟空はそんな三蔵の返事に安心し、そのままとろとろと再び眠りの世界へと落ちていった。
悟空が完全に眠りについた事を確認してから、三蔵はほぅと溜息を吐き出した。



・・・遠い遠い、まだ自分が幼すぎた頃。
今では屁でもない嫌がらせに一々傷付いては、誰も居ないところで泣いていた頃があった。
一度だけ、何故か遠くまで逃げ出したくなって感情任せに走り回り、迷子になった場所で出会った奴。
笑顔で、からかってきて、頭を撫でてきて、勝手に背負って。
自分は振りまわされながらも一人じゃないことに安心して、いつの間に眠っていたのか目が覚めれば、そこはいつもの寺の中の自分の部屋だった。

まさかそんな風に自分を構っていた奴が、現在自分が拾って世話をしているサルだなんて。




「・・・手前ぇは、ずっと知らなくていい。」

三蔵は聞き取れないような小声で呟く。
まさかあの時の自分が、出会ったばかりの悟空の一言や行動の一つにひどく救われていたなんて。

知らなくていい、

「一生、教えてなんかやらねぇ。」


背に確かな重みを感じながら、三蔵は口の端を僅かに上げた。








end.




1111hitありがとうございます!!
ワガママを聞き入れてリクエストを下さったmichiko様に謹んで差し上げます。

お題は「迷子の子供と一緒に迷子になる悟空のお話」。

・・・悟空、一緒に迷子になってません(死)
すみません、リクエストどおりじゃないです
きっとこんな話を望んでいたわけではないでしょう・・・・(滝汗)
こんな物でよろしかったらお受け取りください。返品はもちろん受け付けております。
感謝の気持ちを込めて。




<七海空ちひろ 様 作>

七海空様のサイト「Benesse.」 のキリバン 1111Hit の権利を下さいました。
嬉しくて、幸せで、考えたリクエスト「迷子の子供と一緒に迷子になる悟空のお話」が、こんなステキなお話になりました。
幼い三蔵(江流)との出会い、お師匠様の光明と大きくなった三蔵都の出会い。
幼い三蔵は、意地っ張りで、でも光明に愛されていたんですね。
大きくなった三蔵の姿は、きっと光明には眩しく、逞しく映ったことでしょう。
愛するモノ、大切なモノが傍にある幸せの記憶はちゃんと三蔵の中にあって、
悟空もまた、大好きな人と一緒にいられる幸せを感じているんです。
七海空様、幸せをありがとうございました。

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