俺はね、皆が逝くのを見送るんだ。
Deep
River
キミの名を呼ぶ
新天地創造を夢見た男が逝った。
男が望んだ死に様は、同胞ともいうべき異端の子供の手に掛かってその生を閉じる事だった。
子供はその願いを聞き届け、手を血に染めた。
解っていた。
と言うにはあまりにも唐突な結末。
子供は男が先のない生を生きているのだとは知る由もなく。
男が望んだ結果に嵌められてしまった、といったほうが正しかったのかもしれない。
「笑っているだろうが。」
男を手にかけてしまった事を悔やむ幼子に。
彼の太陽が救った言葉。
「そうだね。」
それがよかったのかなんて、誰にもわからなかったけれど。
それでも、そんなお決まりな言葉しかかけてやれない太陽に彼は微笑んで見せた。
その笑顔が本心からではない事などお見通しだったけど。
誰が何を言おうと、結局最後には自分ひとりで乗り越えなければならない事もよく知っていたから。
それ以上の言葉は無用だと思えた。
それまで長い時間をかけて築いてきた、自分と子供の世界に強引に割って入って。
かき乱すだけ荒らしまくって、あげく最後まで我侭を行使した目の前の男に腹が立った。
それでも、この世で愛しい者の手に掛かって死ねる男は幸せなのだ。
本心からそう思ったから。
それは偽善でも、哀れみでもなかったのに。
愛するものと生きていかれるのなら、それはこの世で一番の奇跡かもしれない。
だが、それがかなわぬ夢ならば。
そんな逝き方もまたあるのだと、それは痛いほど良く解っていた。
自分勝手な行為の代償を、それを与えた者の胸深くに傷として残す事で彼の願いは成就したと言えるだろう。
心に深く刻まれた痛み。
逝くものはいい。
死んでしまえば全てが終わってしまうのだ。
どんなにもがき苦しんで死んでいこうと。
死が全てを浄化する。
死んでいくものよりも、むしろ残されたものの痛みは未来永劫。
幾度、朝が訪れようと。
腹は減り、意識は眠り、呼吸は止まる事を知らない。
そんな毎日と言う残酷な枷を嵌められて、生き続けなければいけないものの苦しみがどれほどのものであるのか。
知っていたはずなのに。
自分の言った言葉を、彼が微笑んで頷いて見せた事で受け入れられたのだと勘違いをした。
そのときを境に少しずつ音を立てて崩れる悟空の心に気付いてはやれなかった。
何を話していた流れでその話に行き着いたのかは覚えてはいない。
「このところ悟空がおかしいと思いませんか?」
悟浄が悟空を伴って、買出しと称して出かけていった宿の部屋で。
唐突に八戒が切り出した言葉。
悟空が変だと言われても読みふける新聞から顔をあげもしない三蔵の反応のなさに、言うべきではなかったかと八戒が取り繕うような笑いで誤魔化した。
「あはは。僕の思い過ごしですかね?」
何時ものように何気なく笑うその声の中に潜む少しの不安。
ここにあの二人がいたなら消して見せないその不安は、見落としても仕方がないくらい些細なもの。
それでも気付いて欲しいと伝えてくる八戒の視線に、仕方なさそうに溜息をついて読んでいた新聞から顔を上げた紫暗の瞳がぶつかった。
「・・・・何が言いたい?」
この人に隠し事は出来ないことを知っていて、敢えて煽るように笑ってみせた事を見透かされて。
思ったとおりの反応に内心苦い笑みが漏れそうになるのを必死で抑えた。
「・・・何が、というほどの事ではないんです。よく食べるし、よく笑ってるのはいつも通りの悟空なんですけど。」
そう、そう思ったのはほんの少し何時もとは違うと思った些細な事の積み重ねだった。
ひょんな事で気がついたその異変は、気をつけていなければ見落としてしまいそうな事ばかりで。
本当にどこがおかしいのか、そう思った事さえ疑ってしまうような些細なものだった。
食後のデザ−トを残した事とか、ジ−プで黙っている時間が多くなったとか。
食欲がないわけではない。
ジ−プの上でも相変わらず寄ると触ると、悟浄とじゃれあうようにはしゃいでいる。
笑わなくなったわけでもない。
身体の調子が悪そうにも見えない。
でも、なぜだか此処にいる悟空は自分のよく知る悟空ではないと心の隅で声がするのだ。
そんな悟空の僅かの異変に気付いて目をやれば、決まって遠くを見つめている金色の瞳を見る。
ほんの僅か、視線をそらすような仕草で。
「もしかして、ちゃんと眠れてないんじゃないでしょうか?」
ぼそりと独り言のように呟く八戒の言葉にも、三蔵は聞こえないかのように何も言わない。
「ただいま-!!」
そんな重苦しい空気を破ったのは、おかしいと心配されている子供の元気な声だった。
それから買い物の包みを抱えた悟浄が文句を言いながら部屋に入ってきて。
あとは何時も見慣れた光景が繰り広げられる。
それを止めに入る八戒の頭の中は、すでに先ほどまでの重苦しい考えなど忘れてしまったかのようだった。
唯一他愛無いじゃれあいを繰り広げている者を見つめる三蔵の、紫暗の瞳と呼ばれるその瞳に濃い影が落ちたことを覗いて。
それまでと何一つ変わらない彼らの日常がそこに存在した。
「俺がみんなのお墓を作ってあげるから、心配なんてしなくていいからな?」
多分悟浄が、俺たちなんてどっかでのたれ死んでもおかしくない。
死んでも悲しんでくれるやつらなんていない、とか何とかふざけていった言葉に悟空が答えた他愛もない一言だったと思う。
だがそのあまりにも屈託なく呟かれた一言が、何時もの悟空らしからぬ響きを持っていた事に気付いたのは、今度ばかりは八戒だけではなかった。
「何言ってんだよ?猿頭らしくねえじゃん?」
冗談で済ませようと、その場を取り繕う悟浄の軽口にも一度箍の外れてしまった悟空には届かない。
「だってそうだろ?三蔵は人間だし、八戒と悟浄も妖怪だけどそれでも俺のほうが長く生きられそうだしさ。ほら、俺もう500年も生きてるから。」
だから、この中で最後に残るのは自分なのだと。
「悟空・・・それって笑えない冗談ですよ?」
笑ってみせる八戒の笑みもぎこちなく。
そんな言葉に過剰に反応する事で悟空を煽っているなどと思いもよらない事らしい。
「・・・・だってさ。八戒は愛してたお姉さんと、悟浄は大好きだったお母さんと。三蔵は大切なお師匠さんを見送ってきたんじゃん?」
「だから、今度は俺がみんなを見送ってあげる。」
屈託のない、およそ18だと言っても信じられないほど子供の顔のままで。
「・・・ふざけんな、馬鹿猿。てめえに死に顔なんて拝まれた日にゃ、死んでも死に切れねえだろうが。」
それまで黙って事の成り行きを聞いていた三蔵が、仕方なさそうに溜息をついて立ち上がった。
「くだらねえこと言ってないで、メシ食いに行くぞ?」
つかつかと歩み寄った悟空の頭をぐしゃぐしゃとかき乱すように撫でる三蔵が、見上げる悟空に顎を杓って注意を促した。
と、それまで気がつかなかった階下で食事の支度が出来たと言う宿の主の声が耳に入ってくる。
途端に何時もの子供の顔を取り戻した悟空が、満面の笑みを湛えて見えぬ尻尾をぶんぶんと振り回した。
「わ―――いっ!!メシメシ!!」
心此処にあらず、といった様子で駆け出してゆく悟空の背中を見送りながら、安堵の溜息を漏らしたのは八戒と悟浄。
内心、三蔵の言葉に助けられたと思う。
あのまま話がエスカレ−トしていたら、何を言ってしまうか解らないとこまで追い詰められていたのではないかと思う。
どうして悟空がそんなことを言うのか。
何が彼をそこまで追い詰めているのかはわからなかったが、あんな悟空を見ているのは辛いだけだ。
悟空がたったひとりで500年の孤独を耐えていたことは知っている。
閉じ込められる以前の記憶がないことも。
だが、出会ったときの悟空はもう、元気でよく笑う子供だったし。
こうして一緒に旅をするようになっても、そんな影を見せた事など一度たりともなかったから。
そんな悟空の暗い部分を思い出すことさえなかったのだ。
思い出す、と言うよりはむしろ感じさせないといったほうが正しいのかもしれない。
それほどまでに、彼を救った太陽の存在が大きく影響しているのかと多少の嫉妬は覚えても、今でもそれを抱えているなどと考えもしなかった。
「何してる。」
悟空が出て行った扉の前で振り返る彼の太陽。
早く来い、と不機嫌そうな顔が物語っている。
その表情は相変わらず無表情で、何を考えているのかなど計り知る事はできはしない。
本当なら、ここで声を荒げて怒り出してもよさそうなものなのに。
敢えてそれをしないのは彼なりに思うことがあっての事だろうと、残されたふたりも彼らの後を追って日常へと足を踏み出した。
悟空の抱えた闇に、気付かないふりをした。
それはただ面倒だったからかもしれない。
あいつをあの岩牢から連れ出してから暫く経ったころ。
執務室の隣の部屋で寝ている筈の悟空の気配が動いた事に気付いた事があった。
ひとりは嫌だと言うが、寝る場所はそこしかなかったので寝付くまで傍にいてやって、寝付いた事を確認してから仕事に戻ると言う日々が日常化した矢先の出来事だった。
隣にある寝室は、仕事をする執務室とは続き部屋のようになってはいたが、外へと続く扉もあったので悟空の気配が動いた事に気付いても、まさかと自分の耳を疑った。
この部屋には簡易的なものだが、トイレもちょっとした台所のようなものも備えていたので悟空が外に出る理由は、トイレでも喉が乾いたといったものでもない事は確かだったから。
こんな夜更けに、自分に悟られないように細心の注意を払って。
それもひとりで抜け出す理由は何なのか、思い当たる節は見つからない。
気のせいかとも思ったが、そっと覗いてみた隣室に寝ている筈のその姿はなく。
何となく不快には思っては見たものの、そんなこともあるかと自分に言い聞かせ、追いかけも問いただしたりもせずにいた。
だがそれも3日が限度。
さしもの三蔵も、悟空の奇怪な行動が4日目ともなれば不可解を通り越して怒りさえ覚えていた。
自分に黙っていったいどこに行っているのか。
朝方、仕事が終わって眠りにつく頃にはちゃんと寝台に戻って安らかな寝息を立ててさえいるのだから、そう遠くに行ったわけではないのだろう。
だが、今夜こそは猿がどこに行って何をしているのかを突き止めてやる。
そう決めた三蔵の耳に、今夜も僅かな気配が掠めた。
扉をそおっと閉めた悟空が出てゆく事を確認して、気配をうかがっていた三蔵も気付かれないように細心の注意を払ってその後をつける。
姿を見失わないように、気がつかれないように後をつける三蔵の思惑通りに、悟空が向かったのは此処に来たときに見た桜の木がある小高い丘。
何を考えていやがるんだといぶかしむ三蔵の目の前で、悟空は丘の先端に腰掛けてただ天を仰いでいた。
微動だにせず、ただ一心不乱に。
食い入るように見つめるその視線の先には、夜空を照らし出す月がある。
何を思ってそれを見つめているのか。
ふと、そのとき悟空を連れ出したときに聴いた言葉が鮮明に蘇ってきた。
「俺ね。太陽が好きだけど、月も好きだな。」
あそこで、初めて俺を見たときに太陽が降りてきたのかと思った。
そう言っていた。
暗い世界を照らしてくれる。
空に輝くそれよりももっと眩しい世界をくれた。
そんな事をほざいていたっけ。
「でもね。月もね、何でだかわからないけど好きなんだ。」
そう言う瞳の中に見え隠れする悟空の、今は閉ざされた過去を見つめているような目に無性に腹が立った。
その頃の俺は自分のそんな気持ちが何故だか理解できなかったが、今ならはっきりとわかる。
そう。あれは嫉妬。
悟空が見つめる月に、誰の姿を重ねているのか。
それはその瞳を見れば知れた事。
きっと、悟空の過去において最愛と称するに値するだろう人物。
自分ではない、誰かを見つめている事が腹立たしかったのだ。
お前を解き放ったのは、この俺。お前の声なき声を聞き分けられるのも、この俺だけ。
だからお前が見つめるのはこの俺だけでいいと、天に浮かぶ月にさえ嫉妬した。
そのときの俺はそんな自分の気持ちに気付いてはいなかったので、無性に腹が立ったがそのまま悟空の好きなようにさせていた。
させていた、というより放っておいたのだ。
暫く続いた悟空の奇怪な行動も、目まぐるしい出来事の中で矢継ぎ早に襲い掛かる日々に押し流され、気がつけば何時の間にかそんなことはなかったかのようにぴたりと抜け出す事もなくなっていた。
それは悟空が自分の中で、過去との決別をしたということなのだろうと。
忘れられないまでも、それを過去の出来事にすることが出来たのだと思っていた。
忘れていたそんな出来事。
此処最近、悟空が再び夜中にこっそりと宿を抜け出してはその奇怪な行動を再開していた事に気付いていた。
八戒が悟空がおかしいと言い出したのは、そんな行動を三蔵が知ってから5日目の事。
今度も三蔵は悟空を問いただしたり、それをやめろとは言わなかった。
悟空にそれをやめろといったところで、こればかりは他人がいくら口を挟んでも仕方のないことと、己の身をもって知っているから。
たとえば、雨が降る日に。自分の大切だったあの人をなくしたことに囚われている自分。
それをやめろと言われても、意図してやっているわけではない事くらい三蔵自身がよく知っている。
だから、なくした過去に囚われるなと。
いくら言葉で取り繕っても、悟空自身がそれを認めない限りは無駄な事なのだ。
だから、今度も知っていて敢えて黙っていてやろうと。そう思っていた。
そんな折に悟空が吐露した心の痛み。
多分きっかけは、あの焔の死に違いないだろう。
自分の手で。
男の最後の望みだったとはいえ、自分と同じ痛みを抱えたものを。
逝かせた。
それが悟空の心を捉えてしまった。
あのときの自分と悟空に選択の余地などありはしなかった。
それがどれほどの痛みを伴って悟空の心にあいつという存在を刻み付けてしまったのか今更ながら口惜しいと思う。
だがそれとても所詮は死者の戯言。
未だ悟空がいるべき場所は自分のところだけなのだから。
ゆっくりと時間をかけて、その心の痛みも癒してゆけばいいと。
思っていた。
だが、その心の闇の深さが思わぬところにまで浸透している事を三蔵が知る事となるまでに、そうたいした時間は掛からなかった。
「ったく!!こう毎日毎日じゃあ、こっちの身がもたねえって-の!!!」
悟浄が襲い掛かる刺客をなぎ倒しながら、ぶつぶつと文句をたれていた。
「仕方ありませんよ。敵さんもコレがお仕事ですから。」
にこやかな微笑を浮かべながら、気功を放つ八戒が実は相当切れている事を知っている悟浄は心底こいつが敵じゃなくてよかったと頷いていた。
そんないつもと何の代わり映えもしないと思っていた日常のヒトコマ。
「くだらねえ事言ってやがると、てめえらも殺すぞ?!」
無表情に愛用の銃を撃ち続けた三蔵は、呑気なふたりを叱咤する。
それから、ふと何気なく少し離れたところで敵と相対する悟空へと視線を泳がせた。
八戒が悟空がおかしいと言ってから5日が経っていたが、相変わらず悟空は夜中に出かける事をやめてはいなかった。
さしもの悟空も、ろくに寝られない日々が10日も続けば身体に変調をきたしてもおかしくはない。
悟空の好きなようにさせてやろうと決めていた三蔵だが、昔と今では生きている環境が違いすぎる。
寺にいた頃は少し寝不足だろうが、昼間いくらでもそれを補う事は出来たし、何しろ命にかかわる事態なんてこととは程遠い世界だった。
だが今は違う。
寝不足が続けば嫌でも身体は気付かぬところで歪を生み出し、その一瞬の遅れが命取りになるとも限らない今の自分たちの日常。
そろそろやめさせなければと、そう思っていた矢先の強襲。
気にならない筈がないではないか。
だが、そんな三蔵の心配をよそに、敵をなぎ倒す悟空は普段となんら変わりのないように見えた。
だが、そろそろ敵の数も尽きようかというその時になって視線を向けたその先で。
ふらりと僅かに悟空の身体が揺れた。
「・・っ!!この馬鹿!!!」
そんな僅かな気の緩みも、切羽詰った敵が見逃すわけもなく。
悟空に向けて振り下ろされようとした刃に向けて、三蔵が弾丸を打ち放った。
そうして今度は自分に出来た僅かの隙を突いて、唯一の残っていた敵が打ち放つ気功。
「さんぞ・・・・!!!」
しまった。
そう思ったときには何時の間にか駆け込んでいた小さな身体が目の前にあった。
敵と自分の間に割って入ったその身体に向けて、避ける暇を与えずに解き放たれた刃。
どけ、と。
覆いかぶさる身体を振り払おうと見上げた紫暗の瞳が驚愕のそれに取って代わった。
その僅かな遅れが、振り払おうとした細い身体を盾にすることとなり。
直撃ではない衝撃が、その身体を通して三蔵に伝わった。
「!悟空?!」
駆けつける八戒の目の前で崩れ落ちるその身体。その崩れる身体の向こうで、敵を切り裂く悟浄の姿が見える。
意識を失った身体はやけに軽くて。受け止めた事さえ実感がわかずにいた。
抱きしめたままで放心する腕の中からもぎ取るように悟空を地面に寝かせた八戒が、傷を塞ぐ為に気功を送っている。
「三蔵!!何ボケてんだよっ!!」
自分を叱咤する悟浄の声でやっと我に返った三蔵が目にしたものは、意識を失って力なく横たわる悟空の白い顔。
日の光を集めて光る金の瞳はきつく閉ざされたまま。
「・・・いそいで町に戻るぞ。」
それだけ言うのが精一杯だった。
「・・・う・・・・」
小さな呻き声が暗い部屋に響いた。
ゆっくりと重い瞼をこじ開けるようにして持ち上げれば、そこに見えるのは暗闇を照らし出す金色の輝き。
「・・なんで・・・・?・・っ!!」
どうして自分は此処にいるのか。
ぼやけた記憶を呼び覚ますように動かした身体に痛みが走った。
その身体を走り抜ける激痛に、きつく唇を噛み声を押し殺して身体を抱きこんで絶える。
その痛みが萎えた頭にぼやけた記憶を呼び覚ました。
痛みが引くのを待ってそっと顔を上げれば、自分の寝ている寝台から少しだけ離れたところに置かれたイスに凭れ掛かるようにして三蔵がいた。
多分、自分の看病をしていたのであろうその人は静かな寝息を立てていた。
夜半になって昼間の疲れも手伝って転寝をしてしまったというところだろう。
そんな三蔵が起きてしまった様子のないことに、悟空はほっと胸を撫で下ろした。
それから今度はゆっくりと傷が痛まないように気を配りながら、そっと起こした身体を支えて窓から差し込む月の灯りを仰ぎ見る。
「俺、生きてるんだ。」
食い入るように見つめる、その唇から漏れた言葉。
多分悟空自身は声に出してしまった事に気がついているわけではないのだろう。
無意識に呟かれたその言葉に、寝ている筈の三蔵の肩が僅かに揺れた。
暫く無言で月を見詰めていた悟空だが、ふと何かを決意したように寝台から身体を滑らせた。
そっと、三蔵を起こさないように細心の注意を払って悟空が扉を閉め、外へと向かう。
その扉の閉まる音で、眠っていたフリをしていた三蔵が紫暗の瞳をそっと開ける。
「あの馬鹿猿が!」
八戒の気功で傷を塞いだ意識のない悟空を町へと運んで、何とか探しあてた医者に見てもらってからこの宿に落ち着いた。
早めの処置が効いたらしく、命に別状はないが暫くは安静にと言う医者の言葉に従って、暫くはこの町に落ち着くつもりだった。
相変わらず悟空の意識は戻らなかったが、それでも倒れたときに比べると顔に血の気も戻っている様子。
怪我のせいで熱が高い事を覗けばたいしたことはないだろうと、悟空の傷の手当てで体力を使い果たした八戒が傍にいたいというのを無理に休むように言い聞かせ、三蔵自ら悟空の看病をしていたのだ。
起きたなら、一発殴ってやるのだと苦しげに眠るその顔を見ながら苛々としていた三蔵は、緊張の糸が取れたことと昼間の戦闘で疲れていたこともあって、何時の間にかうとうとしてしまったらしい。
もともとそんなに眠りの深いほうではない三蔵の耳に、悟空の痛みを堪える声が届いた事で一気に現実へと引き戻されていた。
だが起きてはいるらしいのに、一向に名前を呼ばない事に更に腹を立てて。
呼ぶまで気付いたことなど教えてやるもんか、意地を張って寝たフリを決め込めば黙って抜け出していきやがる。
今度こそ堪忍袋がぶちきれた三蔵は、悟空の後を追うように夜の帳の中へと消えていった。
「おい。この馬鹿猿。てめえ何してやがる?」
怒りを露にした三蔵の声に、ゆっくりと悟空が振り返った。
その瞳に驚きのそれはない。
多分、悟空は三蔵が起きていたことを知っていた。
追いかけてくるだろう事を承知で。それでも此処へと足を運んでいたのだ。
この月の光を一心に浴びる事の出来る草原に。
宿から程近いところにある此処を見つけたのはほんの偶然から。
多分月が自分を呼んでいたのだと、後になってから悟空はそういっていた。
月の光を浴びた悟空の顔は、治りきっていない怪我のせいも手伝って酷く儚げに見える。
そんな悟空の姿を見て、三蔵は苛々と舌を打った。
「何をしてやがる?と聞いてるんだ。」
再度の問いかけに、悟空が天の月を仰ぐように視線を反らせた。
「・・・うん。月をね、見てたんだ。」
その手をゆっくりと月に差し出して。
まるでその月を抱きしめたいと言わんばかりの行動が、三蔵の怒りを募らせる。
「てめえは!まだそんなものに囚われてやがるのか?!」
悟空が決別したと思っていた過去に。
悟空が思いを馳せている誰かに対して沸き上がる嫉妬。
「何かいろんなこと考えててた。頭では考えたって仕方ないってわかってんのに、気がつくとそっちに想いがいっちゃうんだもん。・・・俺ね、焔の事嫌いじゃなかったよ?どっちかっていうと好きだった。嘘でも、あんなふうに求められて、きっと嬉しかったのかもしれない。焔があの時、本気で三蔵を殺そうとしてたんじゃないってわかってたら、きっと殺すなんて出来なかったと思う。」
差し伸べていた手を、諦めたようにゆっくりと下ろして。
何かを悟ったように寂しげな笑みを浮かべる。
「だって焔は、三蔵に手を差し伸べられなかったもう一人の俺だもん。」
そんな寂しい魂を。
どうして忘れる事が出来ようか。
殺してしまったのは自分。
それを望まれた事と言え、寂しいままで逝かせてしまった。
「・・・それで、今度はてめえが俺を置いて逝くのか?」
怒りを抑えた三蔵の問いかけに、今度は驚いたように悟空が目を見開いて振り返る。
「何だよ、それ?俺は三蔵を見送るって、言ったじゃんか?」
「嘘付け。じゃあ何で、俺を庇った時に笑ったりしやがったんだ?」
三蔵が指摘するその行為に、身に覚えがないといった様子で悟空が眉を潜めた。
「そんな事しないもん。」
「笑ったんだよ!!てめえは。」
それまで抑えていた全ての怒りを露に、声を荒げるように言い切る三蔵。
三蔵の怒りを目の前に、悟空はただ息を飲むばかり。
「・・・・覚えてない。」
それは本当の事だった。
無意識の行動ゆえに、悟空の本心の程が伺える。
だからこそ三蔵はあの時になってやっと悟空の抱えているものの核心に触れた気がした。
恐らくはあの岩牢からずっとその心の奥に抱えていた悟空の苦しみ。
それは三蔵が思っていたように、過去に囚われていたのでも誰かを懐かしんでいたのでもない。
「お前は俺を置いては行かないといいながら、その深いところで置いていかれるだろう事を硬くなに拒み続けているんだ。置いていかれる事の悲しみを、命よりも大切なものを失って生きていかなければならない悲しみを知っているから。だから俺を庇ったときにお前は、今度は自分が先に逝かれるのだと、置いていかれる側ではなく、置いてゆく側になれると思ったからこそ・・・笑ったんだ。」
「・・・そう・・・かもしれない。」
三蔵が吐露する怒りを、黙って聞いていた悟空がそっと視線を月へと戻して呟いた。
「三蔵さ、俺が三蔵に連れてこられてまだそんなに経ってない頃いった言葉。覚えてる?」
全てを吐き出して、苦いものがこみ上げるような居たたまれなさに煙草を取り出しかけた三蔵の手が止まった。
何を言うのかと思えば、いきなり話を違うほうに向けた悟空の真意を測りかねた三蔵は黙ったまま。
「俺はおまえに、永遠という言葉をやれないって。そう言ったんだよ?」
意外な悟空の言葉。
だが、思い当たる自分の思いに三蔵はそのまま悟空の言葉を待っていた。
ずっと一人で孤独に耐えてきた子供。
その孤独から救われたばかりの幼子に、何を冷たいと人は言うだろう。
だが、だからこそ嘘はつきたくなかったのだ。
悟空は昼となく夜となく何時でも、時間の許す限り三蔵の傍にいたがった。
あんな暗いところで長い間ひとりきりの時間を強いられていたのだから、人恋しいのだろうと最初のうちは甘んじて受け止めてやった。
だが、出かけるたびに涙を浮かべて耐えるような表情を浮かべる悟空を見て。
嘘偽りのない真実を教えておかなければならないと思ったのだ。
何をどう取り繕っても、それはいずれ知らなければならない事。
この世に生を受けたもの全てに死は訪れる。
それが短いか、長いかの違いだけで平等に与えれれる自然の理なのだから。
だから、突き放すようだと誤解されても。
向き合って生きていって欲しいと切に思った。
だから敢えてそれを悟空に言い渡したのだ。
「俺は人間だから、お前とは違ってこの世にいられる時間は短い。だからお前の傍に何時までもいてやることは出来ない。」
今日かもしれない。明日か、50年先の事か。
誰にだって知る事なんざできやしねえんだ。
「俺はお前に、ずっと一緒に、という言葉だけはくれてやれねえんだ。」
何も知らずにいきなりひとり取り残されるよりも、知ってそれに立ち向かえるだけの強さを持って欲しいと思っただけなのに。
そう願って伝えた、切なる思いのはずだった。
「置いて逝く人は辛くないじゃない?どんなに苦しんでも、死んじゃえば全部終わるんだ。俺はあそこでず-と待ってた。死ぬ事も出来ずに、誰かが来てくれるなんて希望さえなくしてしまうくらい、ずっと。
だからね。もう疲れちゃったのかもしれない。いつまで続くのか、終わりがあるのかさえもわからないでただ待ってるだけの日々に。」
「・・・焔なら、お前に永遠をくれると。そう思ったのか?」
疲れたという悟空の横顔は、見てくれだけの子供が浮かべる表情ではない。
人生に疲れた老人のような寂しさと切なさが入り混じったような。
500年の時を生き続けた者にしか解らない悲しみ。
三蔵は悟空の言葉を噛み締めながら、手にしたままだった煙草に火をつけてゆっくと吸い込んだ。
「焔なら俺が欲しいものをくれたかも知れない。でもね。俺は焔からそれをもらいたかったわけじゃない。俺が欲しいのはたったひとりからだけなんだよ?」
「俺はおまえに永遠をくれてはやれない。」
あの日言った言葉をもう一度と繰り返す。
これだけは覆す事が出来ない。どんなにお前がそれを望んでも、運命と言う波に抗ってみたところで何れは受け入れなければならない真実なのだから。
冷たいと罵られても、愛してないのかと罵倒されても。
俺はお前と共に時を生きては行かれないのだ。
はっきりと言い切る三蔵の紫暗の瞳にはこれっぽっちの翳りさえ見られない。
そんな瞳を受け止める金色の目が優しく細められた。
「うん、わかってる。嘘でも言って欲しいなんて思ってない。三蔵がくれるのは何時もほんとのことだから。うわべだけの優しさじゃないってわかるから嬉しいんだ。」
でも、皆を見送った後に一人残されて。
いつかまた姿を変えて出会える時を待つ事には耐えられないって言ったのも本当だよ?
「俺はただの人間だし、お前がどっかで野垂れ死にでもしねえ限りは順当にいけば俺のが先に死ぬだろうな。」
「・・・うん。」
そだね。
「だから俺は約束なんてしてやれないし、ずっとって言葉をくれてもやれない。」
「でも俺は今、お前を手放す気なんてさらさらねえ。お前を誰かに譲りたいなんて思ったことはないし、それはこれからも変えられない。」
俺がお前の傍にいたいんだ。
「・・・・・?!」
三蔵の言葉の前に、悟空はただ目を見張るばかり。
言うべきはずの言葉さえ見つからない。
涙もとうに枯れてしまった。
希望さえ持たないほうがいいのだと悟っていた。
なのに、今。
それこそが悟空が欲しかった答えなのかもしれなかった。
何時までも一緒だなんてわかりきった嘘でもなく。
ただあるがままの真実。
「・・・・知ってたけどさ。三蔵ってすっごい我侭。」
ふん。ほっとけ。
不敵な笑みを湛えてはき捨てるように呟いた三蔵の精一杯の強がり。
僅かの距離を置いていた悟空のそばに三蔵が歩み寄り、そして差し出される大きな手はあの日のまま。
「でも、いいよ。俺もさ、今はそれだけでいいや。」
嬉しさを隠し切れない悟空の顔は、何かを払拭したように晴れやかなものへと変化を遂げていた。
差し出された手を握り返す、今はあの頃よりも少しだけ大きくなった自分の手。
背ばかりが伸びて、相変わらず軽い体のどこにアレだけの食いモンが入っているのかと疑いたくなるような身体はすっぽりと三蔵の腕の中に納まってしまう。
抱き上げた身体から、いつもなら暖かな体温が伝わってくるはずなのに、血の気が少ないせいなのかひんやりとした感触が三蔵を居たたまれない気持ちにさせた。
「・・馬鹿が。怪我してるヤツがうろうろ出歩ってるから。見ろ、こんなに冷えちまったじゃねえか。」
ぶつぶつと文句を言いながら歩き出した三蔵の首に、白い腕を巻きつかせて悟空がきつく抱きつく。
「・・・ごめん。」
「あやまるくらいなら、こんな事二度とするんじゃねえ。」
宿に向かって歩き出した三蔵の腕に抱かれて、ゆらゆらと揺れる気持ちのいい揺れに身を任せた悟空が聞こえないくらいの声でうんと呟いた。
そのとき、ふと何を思ったのか。
三蔵が歩みを止めて立ち止まる。
不意に立ち止まってしまった三蔵の行動を、それまで埋めていた胸元から見上げた瞳が怪訝そうに見つめる。
「・・見ろ。」
遠くを見つめる瞳に何を映すのかと思えば、見ろと三蔵が指し示す方向。
その先にあるのは夜の帳を白く染め出した太陽の輝き。
だが、悟空の見つめるものは太陽の光ではなく。
その白くて長い指先。
その指が指し示すのは自分の来た道であるのか。
それともこれから進むべき道なのか。
「・・・・全てを受け入れるなんてしなくてもいい。俺たちが生きてるのは現在だ。それ以下でもそれ以上でもない。」
いつか三蔵と別れるときに、三蔵が待っていろと言ったなら俺はまた待ち続けるのだろうか。
あなたが生きろと言うのなら、きっと俺はそれに逆らえない。
でも、たとえ三蔵がもう一度生まれ変わってこの手を取ってくれる未来があったとしても。もう、それは俺にとって三蔵じゃないんだ。
三蔵はひとりだけ。
その魂が姿を変えてしまったら、にどとあなたに出会う事は出来ない。
それでも先のない未来を憂いて生きて行くよりも、今こうしてあなたの傍に生きていられる事を魂で感じていられればそれでいいと思うから。
自分は愚かな恋をしているのかもしれない。
魂までも焼き尽くす業火の中に身を投じるような、そんな痛みしか残らない。
行く先に待っているのがたとえどんな未来でも。
俺はただ、あなたの名前を呼び続けていよう。
「・・・うん。」
声が枯れても。
この、声なき声で。
「三蔵」
あなたを見送る、その瞬間まで。
END