ベネチアングラス (from 愛をください)
立ちすくむ足許に砕けたグラスの破片が、青い光を放つ。
以前、三蔵がこれは亡くなった父のお気に入りだと聞かされたグラス。
今では希少価値の高いベネチアングラス。
悟空は身動きも出来ず、その場にただ、立ちつくしていた。

どれほどそうしていただろう、ドアを開ける音で我に返った悟空は真っ青な顔でそこに立つ人影を見つめていた。
震える唇がその人の名を呼ぶ。

「…さん、ぞ…」

呼ばれた三蔵は悟空の様子に眉を顰めた。

「どうした?」

三蔵の声に悟空の肩が大きく震え、目に解るほどに震えた手が口元に上がる。

「悟空?」
「…ぁ……ぅあ…」

ぱたぱたと見開いた金瞳から涙が溢れ出す。

「悟空、何を泣く?」

声もなく泣きだした悟空に驚いて三蔵が傍へ近づいた。
その足が何かを踏んだ。
ガラスの砕ける澄んだ音が響く。
それに気付いて下を見た三蔵の瞳が見開かれた。
同時に悟空を振り返る。

「………ごめ…さ…ぁ」

泣きながら後ずさる悟空と足許の破片に三蔵は悟空が何を割ったのか理解した。

大事にしていた青いベネチアングラス。
生前の父が大切にしていた。

何故、悟空がそれに触れたのか。
何故、悟空が割ったのか。
理由は後で良い。
今は、異様な程怯えている悟空の方が大事だ。

ようやく笑顔を見せるようになったのに。
ようやく怯えが消えたのに。

「悟空」

これ以上怯えさせないように出来るだけ静かに名前を呼んだはずなのに、悟空は弾かれたようにその場に蹲った。
そして、久しくなかったあの卑屈に怯えた仕草で許しを請う。
その姿に三蔵は思わず激昂した。

「それは二度とするなと言ったはずだ、悟空!」

怒鳴った三蔵の怒気に悟空は悲鳴のように息を呑んで、硬直する。
構わず三蔵は蹲る悟空の肩を掴み、身体を無理矢理起こした。
上げた悟空の身体は小刻みに震え、三蔵を見返す顔に血の気は無かった。

「ご、ごめ…ごめんな、さい。ゆ、許し…てくだ…い」
「悟空!」
「ひっ…ぁ」

きつい三蔵の自分を呼ぶ声に悟空は息を詰めた。
怯えきった悟空の涙に潤んだ金瞳に、怒りに顔を歪めた三蔵の顔が映る。
それに気が付いた三蔵はがちがちになった悟空の痩身をその腕に抱き込んだ。
急速に怒りが後悔に変わって行く。

「…すまない」
「…ぅぁ…ご…なさ…さん…ぞぅ…」
「もう、いいから…いいから、悟空」

思い出す。
卑屈に身を縮こませて許しを請う悟空は、三蔵が怒れば怒るほどより一層怯えて卑屈になることを。
身の置き所を探して小さくなって、部屋の隅に蹲ってしまうことを。

「悟空…泣くな。怯えるな」
「ぅあ…うぇ…っ…」

三蔵の胸から悟空の嗚咽が聞こえる。
何と言って宥めればいいのか、上手い言葉が浮かんでこない己に腹が立つ。
悟空を怯えさせるのは簡単に出来るくせに、いつもいつも肝心な時に言葉が出ない。
不器用な己に腹が立つばかりで。

「大丈夫だから」
「…ぇう…っくぅ…」
「だから…泣くな…悟空」

抱き締めた腕に力を込めて細い肩口に唇を押し当てる。
怯えて、硬くなっていた体から僅かに力が抜けて。
やがて、くぐもった嗚咽が聞こえなくなった頃、三蔵は腕の力をそっと緩め、悟空の顔を自分の方へ向けさせた。
見下ろす顔は泣き晴らして、赤く目元が腫れている。
その目元に三蔵は唇で触れる。
そのたびに悟空の身体が小さく揺れて、目尻に残った涙が零れた。

「気にするな。壊れたものは仕方ないのだから」
「さんぞ…」

吐息のような声で三蔵を呼び、ようやく悟空が三蔵の顔を見上げた。

「ケガはしていないな?」
「…ぅん」

頷いて、何か言おうとする唇を三蔵は自分のそれで塞いだ。
そして、もう一度悟空をその腕に抱き込んで、三蔵は悟空の耳元でそっと告げた。

「俺は、お前に泣かれるのが一番困る」

その言葉に悟空は一瞬、瞳を見開いた後、三蔵の腕の中で仄かな笑顔を浮かべた。

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