「それではよろしくお願い申し上げます」

深々と頭を下げたその夫婦に、三蔵は何も言葉を返すことが出来なかった。
夫婦は何も答えない三蔵にもう一度深く頭を下げ、客殿を出て行った。
二人の姿を見送った笙玄が客殿に戻ってくると、そこに三蔵の姿は無かった。

「…三蔵様……」

客殿に残された三蔵の煙草の香りが、酷く悲しげに笙玄には思えた。



君ヲ想フ
悟空を寺院に連れてきて何年経っただろう。

最初、全てを諦めていた。
触れるモノ全てに怯えていた。
やがて、素直な心が光を求め、優しい心が花開いた。
愛しいと想う心が二人を繋ぎ、掛け替えのない存在になった。
やっと手に入れた守らなくても良いもの。
いや、手放せない存在。
何よりも守りたい存在。






悟空は、三蔵の生きる支えになった。






萌葱色の衣と金糸に深緑の四君子柄の袈裟姿のまま、三蔵は神苑の奥に広がる草原にいた。
広がる草の海の中に座り込み、煙草を吸う。
その紫煙が緩やかに青空へ登ってゆく。
焦点のぼやけた視線の先の山は、新緑に染まった身体に薄ぼんやりとした霞の衣を纏っていた。




この話を聞いたらあいつはどうするだろう。




この話を受ければ、寺院にいるより穏やかに、辛い思いをすることもなく悟空は暮らして行ける。
寂しい思いも、悲しい思いもすることはないだろう。
ごく平凡に、普通の子供として安穏に、幸せに暮らして行けるはずだ。
良いことずくめだ。

分かっている。
分かっているが、どうにも納得できない自分が居る。

新たな世界への扉が開かれた時、悟空が望むならその背中を押して送り出してやるつもりでいた。
悟空が躊躇するなら、「さあ、行ってこい」と、その身体を蹴り出してやろうと決心し、言い聞かせてきた。
どんなに手放したくなくても、どんなに傍に居て欲しくても、伸びやかな魂を縛り付けることなどできはしない。
自分が惹かれた悟空は、広い世界で笑っていてこそなのだ。
そう、謂われのない悪意に曝されたり、不安や淋しさに染まった悟空ではないのだ。
だから事あるごとに己に誓い、言い聞かせてきたというのに、感情は受け入れようとはしない。
手放したくないと、悲鳴を上げ続ける。
愛しいと思い、その気持ちをお互いに確かめ合って悪意ばかりの中を二人肩寄せ合って今まで生きてきたのだ。
その相手を失うことなど考えたくもなかった。
だが、現実はその相手を手放せと、目も眩むような幸せな生活と共に突きつける。

感情と理性との板挟みに答えの出せぬ思いを抱えて三蔵は、ぼんやりと草の海に座り続けた。
やがて空は夕闇を纏い、草原に小さく踞るようにして座り続ける三蔵の姿を抱き込んで、夜の訪れを迎えた。





















「まだ、お仕事の切りがお着きにならないので、今日は一緒にお食べになれないそうです」

夕食の食卓について三蔵が戻らない理由を笙玄から聞かされ、残念だと肩を落とす悟空に笙玄は、柔らかく笑いかけた。

「そっか…。それじゃ仕方ないか。今日は話したいことがたくさんあったのに…」

そう答える悟空の眼差しは、寝所の入り口に注がれている。
その姿を見つめながら、笙玄は複雑な思いに囚われていた。




「決めるのはあいつだ」

三蔵はそう言った。
なら、そうなのだろう。
しかし、本当に三蔵は望んでいるのだろうか。
いつものように不機嫌な表情であったけれど、少し伸びた前髪から垣間見えた紫暗は、紡いだ言葉を裏切っているように笙玄には見えたからだ。

日頃やりたい放題の三蔵だが、その本質は優しい。
見えにくい優しさではあったが、その行動と言葉はいつも真実を射止め、それが無意識の産物であってもその言葉と行動に救われる。
そして、三蔵は己の欲求を押さえ込んでしまう。
ストイックな生活を今まで続けてきたからだという訳でなく、自分の本当に欲しいモノに対して臆病なのだ。
その心でどんなに欲していようと。

だからこそ、笙玄には三蔵が無理をしているように思えたのかもしれなかった。




「笙玄…?」

悟空の怪訝な声で、笙玄は我に返った。
夕食の準備の手を止めて、考え込んでいたらしい。
怪訝な顔をして自分を見つめている悟空に笙玄は「何でもないですよ」と、笑いかけた。

「頂きましょうね」

そう言って、食事を悟空に促した。
悟空は不思議そうに小首を傾げたがそれ以上は何も言わず、一日遊んで空腹になったお腹を満たすべく、嬉しそうに食事を始めた。






結局、三蔵が戻ってきたのは悟空が眠ってしまってからだった。

静まりかえった寺院の回廊を照らす月の光に送られて、三蔵は戻ってきた。
力無く寝所の扉を開け、中にはいると笙玄が食卓の椅子に座って待っていた。
部屋に入って来た三蔵を見るなり駆け寄り、何か言いたげに口を開いたが、それは音になることなく笙玄の胸に沈んだ。
そんな笙玄を三蔵は無表情な瞳でしばらく見つめた後、ぽつりと呟いた。

「明日、あいつを向こうへ使いに出してやれ…」

その言葉に笙玄は大きく息を呑んだが、何も言わずに頷いた。
それを確認すると、三蔵は疲れ切った仕草で袈裟と衣を脱ぎ、そのまま寝室へと姿を消した。
脱ぎ捨てられた衣と袈裟を拾い、その両手に抱えた笙玄は、寝所の明かりを消して自室に引き取った。

消えた明かりの後に残ったもの悲しい空気を窓から覗く月が、その金色の光で暖めようとでもするように弱々しい光を投げかけていた。





















「では、気を付けて行ってきて下さいね」
「分かってるって」

悟空は胸を張って答えると、嬉しそうに笑った。
その笑顔につきりと胸が痛い笙玄だったが、使いの荷物を悟空に手渡して、明るく頬笑んだ。

「行ってらっしゃい、悟空」
「行ってきまぁす」

見送る笙玄に元気よく手を振ると、街へ向かって駆けだして行った。

悟空の姿が坂の向こうに消えた頃、三蔵が総門の柱の影から姿を見せた。

「行ったか?」
「はい…」
「そうか…」

呟いた三蔵の横顔を見れば、どこか儚げな影が落ちていた。











悟空が使いに出された場所は、長安から少し離れた町だった。
寺院からの往復に一日かかる距離に位置する。
笙玄に書いてもらった地図を頼りに、悟空は目的の場所に昼過ぎに辿り着いた。

そこは果樹園に囲まれた屋敷だった。
開け放たれた門を潜り、玄関に辿り着く。
そして、呼び鈴を鳴らした。

しばらくして玄関の扉が開き、品の良い婦人が姿を見せた。
その婦人を見た途端、悟空の瞳が見開かれる。

「おばちゃん…?」
「あら、悟空ちゃん」

二人はお互いにびっくりした顔を向け合ったのも束の間、一緒に破顔した。

「ようこそ、さあ、入って」
「うん!」

悟空を招き入れた婦人は、客間に悟空を案内した。

「うわぁ…」

大きく広がる窓の向こうの景色に、悟空は瞳を輝かせた。

「さあ、座って」

促されて悟空は、客間のソファに腰を下ろした。
婦人も悟空の向かいに腰を下ろし、穏やかな笑みを浮かべて悟空の突然の来訪の目的を問うた。

「えっと、三蔵がこの荷物と手紙を届けてこいって。だから来たんだ」
「そう、三蔵法師様が…」
「うん」

婦人は悟空が差し出した包みと手紙を受け取ると、手紙の封を開けた。
そこには、流麗な文字で今日の悟空の訪問の目的が、したためられていた。



──一日を共に過ごし、悟空のことをもっとよく見て欲しい。
   世間知らずで、モノ知らずだから迷惑を掛けるが、頼むと。



行間から伝わる三蔵の想いの深さに、婦人は胸が痛んだ。
自分達の申し出であの綺麗で優しい少年を苦しめているのだろうかと、思う。
だが、漏れ聞く噂や話は、三蔵と悟空に好意的ではない。
どちらかと言えば、悪意を感じるのだ。
だから、知らぬ事とはいえ悟空と出来たこの縁を無くしたくはなかった。
無理を承知で三蔵法師に願い出たのだ。

悟空を養子に欲しいと。

聞き届けられるとは思ってはいなかった。
だが、今こうして目の前に使いを口実に、悟空との間を埋める機会を与えられた。
それは、望みがまだ消えていないと、思えた。

何も知らない悟空のこの輝く笑顔に、婦人は少し儚げな笑顔を返すのだった。


























「ただいま!」

悟空が戻ってきた。
満面の笑みを湛えて、それは嬉しそうに。
その姿に、迎え入れた笙玄は柔らかく微笑み、三蔵は素っ気なく答えた。
いつもと同じ。
でも、いつもと違う出迎え。

「お使い、ご苦労様でした」
「うん!ちゃんと届けた」

誉めて、誉めてと嬉しそうに振っているしっぽが見えて、三蔵は小さくため息を吐くと、その大地色の頭を掻き混ぜた。

「…楽しかったか?」
「うん、すっげー楽しかった。おっきな果樹園があって、いろんな果物が生ってるんだ。んで、おばちゃんもおっちゃんも優しくって、すっげー楽しかった」

三蔵を見上げて話す悟空の嬉しそうな顔に、三蔵の胸は痛んだ。
だが、その痛みなどおくびにも出さず、三蔵は悟空の話に頷いてやる。
と、

「なあ、さんぞ、何かあった?」

少し眉を顰めて悟空は三蔵の顔を見上げてきた。
その声にほんの一瞬三蔵は奥歯を噛みしめると、何でもないと首を振った。
だが、悟空は納得した訳ではなく、どことなく心配げにその黄金を曇らせる。

「…疲れただけだ」

ため息混じりに答えて、三蔵は長椅子に座った。
その傍に立って、尚も悟空は三蔵に何か言いたげに見つめる。

「昨日は徹夜をなさったので、三蔵様はお疲れなのです。悟空、三蔵様のためにお風呂にお湯を張って来てくれますか?」

笙玄がお茶を長椅子の前の机に置きながら、助け船を出す。
それが悟空の気を逸らすためだとは気付かず、悟空は三蔵の顔をもう一度見やってから、元気に返事をして湯殿へ走って行った。
悟空の姿が、湯殿へ続く扉に消えたのを確認して、三蔵は大きなため息を吐いた。

「…三蔵様…」
「……いい、気を付ける」
「はい…」

膝に肘を付いて両手を組むと、そこに顔を埋めた。
そんな三蔵の姿に、笙玄は痛ましさを感じた。
たった三日───悟空を引き取りたいと言う申し出からたった三日で、ずぶんと三蔵は憔悴している。
三蔵の変化に聡い悟空をどこまで誤魔化せるか、笙玄は確固たる自信はなかった。
そして、三蔵の思いが報われることを願うことしか出来ない自分が、歯がゆい笙玄だった。






件の夫婦の元へ悟空は、それから日を置かずに足繁く出掛けるようになった。

長安からの距離を考えれば、出掛けた日は必ず向こうに泊まってくる。
翌日、寺院へ帰ってきてその話を嬉しそうに何度も話す悟空の姿があった。

それは三蔵の気持ちを引き裂き、やがて些細なことから喧嘩が始まってしまった。
その喧嘩は、二人の関係に大きな亀裂を生むまでに大きくなり、三蔵が悟空に言ってはならない暴言を吐かせることとなった。

「何だよ、何イラついてるんだよ!そんなに俺の話すこと聞きたくないのかよ」
「ああ、聞きたくねぇ。俺は疲れてんだ」
「疲れてる、疲れてる!最近、いっつもそう言って俺の話なんか聞いてくれないくせに!」

悟空の言葉に、三蔵の纏う空気の温度が下がる。
それに気付いても、今の悟空にはそれを抑える気持ちが無かった。
この時、二人に余裕は無かったのだ。

「ああ、疲れてるさ。毎日毎日くだらねぇ仕事ばかりさせやがる奴らにも、どうでも良いことばかり喚くサルのおもりにもな」
「な、何だよ…それぇ…」
「もううんざりなんだよ。お前の相手なんて」
「さんぞ?何言って…」
「こんなに面倒臭せぇなんて思わなかったんだよ。うぜぇんだ、てめぇなんざどこでも行っちまえばいいんだよ」
「…さ、んぞ?」
「そうすりゃ、せえせえする」

くるりと、悟空に背を向けると、三蔵は寝所から出て行こうとする。
その背中に、悟空が叫んだ。

「何だよ、それっ!一緒にいて良いって言ったのは三蔵だろ?好きなだけ傍に居て良いって言ったじゃんか!あれは嘘だったのかよっ!!」
「それは、てめぇが傍に居たいって言ったからだ。俺はどうでもよかったんだよ!」
「三蔵!三蔵!そんなの、そんなの…三蔵!!」
「どこにでも好きなところへ行っちまえ」
「三蔵っ!三蔵─っ!!」

涙声になる悟空の叫び声を背中に受けても三蔵は、振り返ることも言葉を紡ぐこともなく寝所を足音も荒く出て行ってしまった。
一人部屋に残された悟空は、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙もそのままに、開け放たれた窓から外へと飛び出していった。





















喧嘩をした日からふっつりと悟空の姿は寺院から消えた。
三蔵は何も言わず、笙玄も何も問いかけはしなかった。
なぜなら、悟空が姿を消した二、三日後に、件の夫婦から書簡が届けられたからだった。
そこには、泣きながら悟空が訊ねてきたこと、寺院へは帰らないと言っていると書かれていた。
その手紙を読んだ三蔵は、疲れ切った表情に何処か安心した色を浮かべると、手紙の返事を書き綴り、笙玄に手渡した。

三蔵の手紙を受け取り、笙玄は三蔵の本心を慮って言いにくい言葉を紡いだ。

「三蔵様、このまま悟空に何も言わず、何も知らせることなくこのお話を進めてしまって本当によろしいのですか?後で本当のことを知った悟空が何というか…二度と…」
「二度と顔を見ない方が、いいんだよ」

それ以上何も言うなと、心配で顔を曇らせる笙玄を睨む。
そんな三蔵に仕方ないとでも言いたげに緩く頭を振ると、手紙を持って執務室を後にした。

笙玄が出て行ったのを確認すると、三蔵は初夏の陽ざしが降り注ぐ窓辺に寄った。

今の自分の気持ちとは正反対に、澄み渡る明るい空。
そこに重ねるのは、あの輝くような笑顔。
思い出すのは、涙に染まった自分を呼ぶ声。
胸を刺すのは、悲嘆にくれる声なき声。
全身で悟空をこの手に取り戻したいと、三蔵の心が、身体がきしんだ。

だが、暗い不安も、酷い仕打ちも悪意もなく、ただ愛され、慈しまれる生活を悟空は手に入れたのだ。
切っ掛けが、たわいもない言い合いだとしてもだ。

あの夫婦なら悟空を愛し、慈しみ、育んでくれる。
蔑みも悪意も謂われのない仕打ちも与えられることなく、普通の子供として暮らして行ける。
広い世界を手に入れたのだ。
自分の暗い独占欲から、嫉妬から解放されたのだ。
喜んでやれば・・・・・・。

三蔵は吸おうと手にしたままの煙草を握り締め、窓にもたれて明るい陽ざしを避けるように俯いた。
風が、その細くなった肩を抱くように窓のカーテンを揺らした。

「行っちまえ、何も縛られない、囚われないところへ…あいつは自由なんだよ…てめえらもそう思うだろうが…」

今にも涙に染まってしまいそうな声音で小さく誰かに言い聞かせるように呟く俯いたままの三蔵を風は、戸惑ったように纏い付いては離れて行った。


























泣きながら転げ込んだ悟空をその婦人とその夫は、優しく迎えた。

あの日、悟空と初めて出逢った日のようだと二人は笑った。




あの日も三蔵と些細なことで喧嘩して寺院を飛び出したのだ。
まだ、道もろくに覚えていない時だったし、泣きながら闇雲に走って、迷子になった。
心細さに泣いているところをこの二人に救われたのだった。

婦人の名前は澄蓮、夫の名前は蓮彌と言った。
二人に散々甘えて、悟空は寺院に送り届けてもらったのだ。
途中で、探しに来た三蔵と出会ったのだが、悟空が婦人の手を離さず、四人で寺院への道を歩いたのだった。
その時、悟空は母親と父親と一緒にいるというのは、こんな風に安心できるモノなのだと思った。
それが偽物で、たまたまの偶然だったとしてもその胸に生まれた温かな感情は、いつまでも悟空の心に残った。




悟空はひとしきり泣いて、三蔵への鬱憤を晴らしたが、それでも三蔵から言われた言葉はその胸を深く抉っていて、どうにも収まりがつかなかった。
そんな悟空に澄連が、一つの提案をした。

「じゃあ、ここで私達の息子としてしばらく暮らしてみる?」
「…えっ?」
「三蔵法師様のお怒りが解けるまでの間だけれど」
「三蔵の怒り?」
「悟空にそれほどまでのことを仰ったのにはきっと訳がおありになったのだろうし、お怒りもあったのだと私は思うのだけれど、悟空はそうは思わない?」

澄連に言われた言葉に、三蔵の背中を思い出す。
いつも何でも言う時は、ちゃんと悟空の顔を見据えて三蔵は言葉を紡ぐ。
たまに視線を逸らせて紡がれる時は、照れてる時で・・・・。

今回は違った。

背中を向けて、何かを断ち切るようだった。
何か、また三蔵に迷惑を掛けてしまったのだろうか、自分のあずかり知らぬ所で何かあったのだろうか。
それとも本当に傍にいられなくなったのだろうか。
それなら・・・・・。

「…おばちゃん、おっちゃん、しばらくここに置いてくれる?」

何かを決めた瞳で、悟空は二人を見返した。
その黄金に二人はどんな意志を見つけたのか、悟空の気が済むまで居たらいいと笑った。











そして、半月が経った。

三蔵から何も言ってこず、悟空もまた三蔵の事を訊ねようとすることもなく、季節は夏へと向かう前の雨の季節を迎えた。




しとしとと降る雨に濡れる庭先の紫陽花を見つめながら、悟空は雨の歌を聴いていた。
三蔵は雨の日が苦手なのか、雨の降る日はその纏う空気が痛かった。
何かに怯えたような、辛そうな空気を纏ってことさら不機嫌な顔で仕事をしていた。
今日みたいな日もきっと、苛つきながら不機嫌全開で仕事をしてるんだろうと思う。

三蔵と共に暮らすようになって、これほど仕事以外で離れたのは初めてだった。
仕事での遠出の時は、必ず帰って来てくれた。
普段でも仕事が終われば傍にいてくれた。
でも今は、どんなに望んでも傍には居てくれない。
離れてこそ思うは、三蔵のことばかり。

綺麗に輝く金糸、自分を見つめてくれる時だけ柔らかくなる紫暗の宝石。
深くて良く通る耳障りの良い声と温かな大きな手。
焚きしめた香の香りと煙草の香り。
誰よりも綺麗で強くて、でもとても寂しがり屋な悟空の太陽。

夏の強い陽ざしの太陽ではなく、春の柔らかな陽ざしの太陽。
目に映る全てを明るく照らしてくれる光。

それが三蔵。
悟空の宝物。

「……さんぞ、逢いたいよぉ…」

膝に顔を埋めて悟空は、小さく呟いた。
小さな背中を丸めて踞る姿は、まるで捨てられた子犬のようだと、おやつを運んできた澄連は思った。




悟空と暮らした半月、楽しかった。
幸せだった。
明るい笑顔にたくさんの喜びをもらった。
子供に恵まれず、夫と二人寂しい思いをしてきた生活が一変した。
だが、目の前に自分を育ててくれた養い親を慕って求める姿を見てしまえば、母親として願うことは一つだった。

それに、先日届いた手紙には、三蔵の様子がおかしいと書かれていた。
悟空を養子に欲しいと寺院を訪れた時、出逢った三蔵法師はまだ年若い青年だった。
噂通りの美貌の三蔵法師だったが、人を寄せ付けない空気など無く、むしろ優しげな儚さを感じた。
自分達の勝手な申し出を黙って聞き、一言、

「決めるのは悟空だ」

と、何の感情も交えないように努力した声音の答えを聞いた。
次の日、悟空が使いに出されて自分達を訪ねてきた。
その三蔵の気遣いに感謝した。
悟空の訪れを許してくれたことに。

だが、悟空が話すことは三蔵のことばかりで、彼に養子の話がされていないことはすぐに分かった。
きっと、言えなかったのだろうと思い、三蔵の手放したく無いという気持ちが理解できた。
これほどに慕われたら、手放せる訳がない。
それなのに三蔵は手放そうとしてくれたのだ。
些細な喧嘩を切っ掛けに。

その三蔵の様子がおかしいとなれば、悟空が側に居ないからだろう。
手紙の差出人の側係もそう綴っていた。
それに悟空もどことなく様子がおかしいと思える。

潮時だと、思った。




澄連はおやつをテーブルに置くと、そっと悟空を呼んだ。


























雨の中、悟空は寺院へ、三蔵の元へ走っていた。

澄連と蓮彌から聞かされた話に、腹が立った。
勝手に決めて、何が自分が決めることだというのだ。
三蔵の傍に居ることが、何よりの幸せだとどうして分かってくれない。
蔑みも心ない仕打ちも悪意もどんなことだって、三蔵が居るから耐えられるのに。
三蔵の傍に居るためだったら何だって我慢できるのに。
なのに三蔵は、分かってくれていなかったのだ。

悟空は三蔵の想いと自分の思いのすれ違いが悲しかった。
悔しかった。
腹が立った。

だから、いつもならどんなに不機嫌でも、怒っていても迎えに来てくれたのに、迎えにも来なかった。
このままなし崩しに養子になってしまえばいいなんて。
そんなの許さない。
逃げないでよ、三蔵。

悟空は唇を噛みしめて、走る速度を上げた。











三蔵は何も手に付かず、ぼんやりと降る雨を眺めていた。

悟空と喧嘩して、突き放した。
予想通り、悟空はあの夫婦の元を頼って行った。
これでいいのだ。
切っ掛けが自分の折り合いの付かない気持ちから出たイライラだとしても。
これで悟空は穏やかに、幸せになれる。
自分は、元の生活に戻るだけだ。

「…これで…いい」
「何がこれでいいんだよ!」

小さな呟きに答えが、聞き慣れたちょっと舌足らずな声が返って、三蔵は振り返った。
そこには、濡れ鼠になった悟空が、怒りに頬を染め、黄金の円らを燃え立たせて立っていた。

「悟空…」

三蔵の紫暗が信じられないと見開かれる。
そんな三蔵に構わず、悟空は傍によると濡れた姿もそのままに三蔵に抱きついた。

「…ご、くう」
「いい加減にしてよね。俺は怒ってるんだ」

ぎゅっと、三蔵の腰に回した腕に力を込める。

「俺はね三蔵の傍が良いの。他の誰でもない、三蔵の側に居たいんだ。なんでそれを信じてくれないの?」
「俺は…」
「勝手に人の幸せを決めないでよ。俺が幸せかそうでないかは三蔵が決める事じゃなくて、俺が決めることだろ」
「…悟空…」
「俺は三蔵の傍に居ることが幸せなんだ」

雨に濡れた悟空の身体から伝わる冷たさとそのぬくもりに、三蔵は自分がどれ程悟空を欲していたか知った。
この手に抱くこの存在がどれ程愛しいか。
三蔵はきつく悟空の濡れた身体を抱きしめた。

「俺のこと思うなら離さないで、三蔵の傍に置いて」

伝わる三蔵の暖かさに悟空は涙を溢れさせた。
変わらぬ三蔵の香り、三蔵の声。
惹かれて焦がれて止まぬ悟空の太陽。
この世でたった一つの宝物。

悟空のことを思い、手放すことが、こんな悪意ばかりの生活が正しいわけはないから、その方が幸せになるのだと信じた。
いや、信じようとした。
離れている間に聴こえるあの声なき声は、ずっと三蔵を求めていたというのに。
その声にさえ耳を塞いで、悟空のことを気持ちから閉め出そうと努力したのに。
思い出すのは、明るい笑顔。
舌足らずな口調で自分を呼ぶ声。
大地色の髪、何よりも眩しく美しい黄金の瞳。
大地に愛された愛し子の幼い姿ばかり。

離れて思い知る己の気持ち。
抱きしめた日向の子供。
惹かれて、焦がれて、手放せない三蔵の太陽。
たったひとつの生きる希望の宝石。

「…傍にいて…いいのか?いて、くれるのか…?」
「うん、離さないで。どこにもやらないで。三蔵の傍がいい」
「…本当に…いいんだな?」
「いいよ。三蔵の傍でなきゃ生きていけない…だから…」
「傍に居てくれ……ずっと…傍に…」
「うん、うん…」

もう離さない。
もう離れない。

君を想う為の行動は、己を傷つける。
君を想う為の行動が、君を傷つける。

思いの深さに、幸せを願うその願いの深さ故に見失う気持ち。

よかれと思うその気持ちが、互いを傷つけ合う。

でも、もう知ってしまったから。
もう、気付いてしまったから。
何があっても、傍にいるから。
何があっても、離さないから。

しっかりと離れていた時間を埋めるように抱き合う三蔵と悟空の姿を庭に咲く紫陽花たちが、銀糸の糸に濡れながら静かに見つめていた。





end

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