おはようございます。
今朝も良いお天気で、ずいぶんと季節が夏に近づいたのがわかります。

空の青さが一段と濃くなって、雲の白さが美しい季節到来です。

さあ、朝食の準備を始めましょうか。




折々の詩




小気味の良いハリセンの音が、居間で朝食の準備をしている笙玄に三蔵と悟空の目覚めを告げる。
毎日とは言わないが、さして日を置かずに朝から三蔵と悟空は喧しい。

今日は、夜中に悟空が三蔵の布団に潜り込んできたのが、三蔵の気に障ったらしい。
昨夜は、いつもより蒸して暑かったので、なおのこと眠りの浅い三蔵には辛かったらしいのだ。
不機嫌な声で悟空を罵りながら三蔵が、寝室から出てきた。
手にはしっかりハリセンが握られている。
その後を悟空が殴られた頭をさすりながら、ぶつぶつと文句を言いつつ出てきた。

笙玄は小さくため息を吐くと、今朝の爽やかな気分そのままの笑顔で、三蔵と悟空に挨拶した。

「おはようございます、三蔵様、悟空」

その笑顔に何を感じたのか、二人の言い争いはぴたりと収まり、素直な挨拶が返ってきた。

「おはよう、笙玄」
「ああ…」

二人はそそくさと食卓に着き、「いただきます」と両手を逢わせて、食事を始めた。
それを見計らって、笙玄は今日の三蔵の予定を告げた。

「今日は一日、執務でございます。盂蘭盆会の準備の前段階の書類が、各部門、各寺院から来ておりますので、お目を通して頂いてその決裁をお願い致します」

笙玄の告げる予定に三蔵は、げんなりした顔をする。
その顔を見ながら、笙玄は今日は何処かへ三蔵が逃げ出す確立が上がったと思っていた。

目の前でげんなりした表情を隠しもせず、緑茶を飲んでいる仏教界の最高僧の肩書きを持つこの若者が、実は信じられないほどの面倒くさがりで、短気で、すぐに手が出て、我が侭なだだっ子だと、気付いたのはいつだったか。
反対に、美味しそうに三人分はあろうかという朝食を食べている三蔵の養い子悟空の方が、気が長く、忍耐強く、大人だと知ったのも。

綺麗な外見と正反対の性格に、どれ程の人間が騙されているか。
どれほどの幻想を抱いているか。

だが、まだ親の庇護が必要な時から自分の足で立ち、前を向いて進んでゆく生き方を選ばざるをえなかった二人。
地位に対する羨望と嫉妬、外見に対する下卑た揶揄、年齢に対するあからさまな侮り、手元に置いている養い子に対する無慈悲な仕打ち。
押し殺した敵意と悪意ばかりが人の世だと、気持ちの何処かで認識し、確信している二人。

傍に居る時間が長くなればなる程に、その魂の汚れなさに、潔癖さに、誰よりもまっすぐな心に惹かれてゆく。
それと同時に湧き上がるのは、どんなものからも守りたいと思う心。
そんなことを二人が望んでいないとわかってはいても、どうしても思ってしまう。
こうして時折触れる年相応の表情や感情に。



こんな三蔵様を可愛いと思ってしまうのは、罰当たりですかねぇ



笙玄は三蔵に向けた笑顔を深くすると、緑茶のお代わりを湯飲みに注いだ。
















「笙玄、これ何て読むの?」

せっかくの天気の日に珍しく、悟空は執務室で本を読んでいる。
その本は、街へ三蔵と出かけたおりに買ってもらった本だった。

最初、絵本程度なら何とか読めた悟空だったが、少し難しいものになると読めるとは言い難い状態だった。
それを三蔵と笙玄が忍耐の限界に挑む努力の結果、まあ、その年齢に相応しい程度には読み書きできるようにはなっていた。
それでも読めない漢字や理解できない言葉が出てくると、こうして笙玄や三蔵のもとへ聞きに来るのだった。

「これは”さみだれ”って読みます」
「さみだれ…って、雨のこと?」
「はい」
「そっか、ありがと」

にこっと笑うと、執務室の床に座り込んでまた、本を読み出した。
最近、悟空は読書に凝っている。
読める字が増えた事がきっかけなのか、三蔵が買い与えた本がきっかけなのかはわからないが、本に酷く興味を持つようになった。

三蔵は、結構読書家だ。
仕事関係、仏教、他宗教に関すること、国の歴史、雑学、物語など何でも読む。
笙玄は自分も結構本の虫であると思っていたが、三蔵の足下にも及ばないことはすぐに自覚できた。
だが、忙しい三蔵がいつ、本を読んでいるのだろう。
笙玄が知る限り、そんなそぶりもない。
食事時やくつろいでいる時などは、大概新聞を読んでいる。
では、夜中にとも思うのだが、激務をこなす三蔵にとって睡眠不足は百害あって一利なしなのは本人も自覚しているのであり得ない。
これは、笙玄にとっての三蔵の不思議の一つだった。

そして、ひょっとすると悟空が読書に興味を持ったのは、何より三蔵が本を読んでいる姿を見たからではないかと、笙玄は思い至った。
悟空は三蔵のすることに何でも興味を持つ。
だが、自分ができる事とそうでない事の区別はきちんと着く。
だから、仕事を手伝うとは言わない。
それでも何かの役に立ちたいらしく、三蔵が忙しい時ほどまとわりついては三蔵に怒られ、流さなくてもいい涙を流したりしている。
その健気さに何か手助けをと思うのだが、悟空に、

「俺がしたくてしてんだから、笙玄は気にしなくていいよ」

と、やんわりと拒絶された。
その時はショックだったが、自分のできることの中での手助けなら悟空も受け入れてくれることに気が付いた。
以後、出しゃばったまねはしていない。
が、悟空が危なっかしいのは変わらず、いつも端で見ている笙玄をはらはらさせていた。

しかし、どんなに怒ろうと邪険に扱おうと三蔵は結局の所悟空に甘く、さりげない優しさで悟空の気の済むようにさせていた。
これも笙玄にとっては、三蔵の不思議の一つかもしれなかった。



本を読むことはいいことですからね



頷いて、時計を見れば昼食の用意をする時間だった。
















昼食の後片付けを終えて執務室に戻った笙玄を誰も居ない部屋が、迎えた。



やっぱり、逃げましたね。



今朝の予想が的中したことに、半ば呆れたため息を吐く。
一緒に居た悟空の姿もないことから、二人で何処かへ逃げたらしい。



良いんですけどね。お仕事が溜まるんですよ、わかっておいでなんでしょうか…



そんなこと百も承知だが、嫌なものはしかたがねえと、三蔵の言い訳が聞こえてきそうで、笙玄は口元をほころばせた。

「では、お探しいたしましょ」

声に出してそう言って、笙玄は軽くガッツポーズをとると、踵を返した。






今日は本当に天気が良い。
雨の季節がもうすぐだというのに、吹く風は乾いている。
陽ざしも夏の前にしては穏やかで、心地よかった。

笙玄は、逃げた三蔵が大抵身を隠す奥の院の一番奥の祠に向かった。
だが、その祠の裏に三蔵の姿はなく、そこに居た形跡すらなかった。



ああ、今日は悟空が一緒でしたね



それを思い出して笙玄は、ぽんと手を打つと、裏山に向かった。




悟空が遊び場にしている裏山。

みずみずしい若葉に山は彩られ、命の息吹で溢れている。
鳥の鳴き声、咲き誇る初夏の花々、柔らかな若葉がしっかりした濃い緑の葉に成長していく。
季節と季節の狭間の時期は、本当に美しく、活気に満ちていた。

笙玄はか細い山道を以前悟空に教えてもらった、お気に入りの場所へと辿って行く。
額に汗が滲む頃、ようやく目的の場所に着いた。
そこには、ブナの巨木が生い茂り、柔らかな土の寝床と、涼しい木陰を作っていた。
空気は清浄に澄み、あまり法力のない笙玄ですら山の気をその全身に感じることができる場所であった。

張り出した木の根を踏み越え、あるいは跨ぎ、辺りを探して笙玄はうろうろした。
だが、ここにも二人の姿はなく、笙玄は肩を落として足下の木の根に座った。

涼しい風が、火照った笙玄の身体を冷やしてくれる。

こんな場所に居ると、世の些末な出来事などどうでも良い気分になる。
心が解き放たれ、何処にでも行ける、何でもできる様な気分になってくる。
だが、差し迫った仕事を思うと、そうも言ってられず、笙玄は深呼吸一回、立ち上がった。
そして、もう少し奥へ向かった。






森を抜けたそこは、広い野原だった。
遠くに見える山並みは霞んで、広がる野原に果ては無いように見えた。

ぐるりと周囲を見渡して、ようやく笙玄は三蔵と悟空を見つけた。

二人は野原の端に生えたケヤキの木陰で、眠っていた。
緩やかな暖かい風が、三蔵の金糸を揺らし、悟空の髪を弄ぶ。
お互いに寄り添うようにして眠る姿は、とても幼く、儚げですらあった。

笙玄はケヤキの木の根元で眠る二人の姿と周囲の景色が、まるで一枚の絵のようで、そこにそれ以上足を踏み入れることができなかった。
そのまましばらく、二人の姿を見つめた後、笙玄は何も言わず寺院へと戻って行った。
















夕暮れ、夕食の支度が終わる頃、二人は戻ってきた。
今まで二人であの場所で眠っていたらしい。
三蔵の僧衣や悟空の服に、草の切れ端や泥が所々付いている。
ばつが悪そうに戻ってきた二人に、ことさら優しい笑顔を浮かべて、笙玄は二人を出迎えた。

「お帰りなさいませ」
「た、ただいま、笙玄」
「はい、夕食の支度できてますので、手と顔を洗ってきて下さいね」
「わ、わかった。さんぞ、行こ」

悟空が三蔵の手を引っ張って洗面所へ向かう。
悟空に引っ張られながら自分から視線を外さない三蔵に、笙玄はにっこりと笑って頷いた。
途端に、三蔵の顔が引きつる。
そのまま何も言わずに三蔵は、洗面所へ悟空に引っ張られて姿を消した。




「三蔵様、決裁済みの書類は勒按様にお渡ししておきました。後の残りは今日中の処理がご希望と勒按様より伺っておりますが、如何なさいますか?」

夕食の後、悟空が風呂に入っている間に、三蔵は笙玄から引導を渡された。
昼間逃げて、手つかずになった仕事を今日中にやり終えろと、笙玄は言っているのだ。

「…わかった。悟空を寝かしつけたらする」

苦虫をこれ以上ないほど噛みつぶした顔で三蔵は頷くのだった。




いつも楽しいばかりじゃない。
いつも大目に見ているわけじゃない。

しなければならない義務と果たさなければならない責任。
ソレがあってこその自由。

何をしても許してしまいそうになる自分を叱咤して、笙玄は夜も遅い執務室で三蔵を待つのだった。






これ以後、三蔵が悟空と仕事から逃げ出す回数が減ったとか、減らなかったとか。

とある日常のとあるお話。




end




リクエスト:笙玄の視点から見た三蔵と悟空、二人の一日。
45000Hit ありがとうございました。
謹んで、たえこ 様に捧げます。
close