花が散る。
はらりはらりと音も立てずに花が散る。
見上げる先は薄紅の霞。

降り積もる淡雪にも似て、幼い心に陰を差す。
朧の月に浮かぶ姿の儚さに、大地は震えた。



櫻 樹
呼ばれ、誘われるままに悟空は日没後、ここへ、桜の大樹ばかりに埋め尽くされた谷へ来ていた。

淋しくて、寂しくて、悟空の養い親が帰って来るのを今か今かと身を寄せる寺院の総門脇に咲く枝垂れ桜の根元に座って待っていた。
頬に触れる枝垂れ桜の枝が、悟空の耳元で囁く。
その囁きに悟空は淋しさに少し潤んだ瞳を後ろの桜に向け、仄かに笑った。

「…日が…暮れてからで、いい?」

さわりと、枝垂れ桜が枝を揺らして頷いた。
悟空は薄桃色の花弁に触れて、「ありがと」と、小さく呟いた。











夕陽がその裳裾を山際に隠してしまう頃、悟空は待っても、待っても帰って来ない養い親である三蔵の姿を探すように精一杯背伸びをして、薄暗くなった参道を見やった。
薄闇の向こう、目指す姿は見つけられず、悟空は哀しげに瞳を揺らした。

「……三日って言ったじゃんか」

出発する日の朝、三蔵は付いて行くと追いすがる悟空に、三日たったら戻ってくるからと、固い約束をして出掛けて行ったのだ。
悟空はその約束を頼りに、三蔵のいない淋しさに耐えた。

あと二日、あと一日・・・・・。

そして、今日の三日目、朝からいつ帰ってくるかと落ち着かない悟空に三蔵の側仕えの僧侶が、

「今朝、向こうを出立されたはずですので、お帰りは夕方になりますよ。向こうまで往復二日の道のりなんですから」

そう言って、笑った。
悟空はその言葉と三蔵との固い約束を信じてしばらくは大人しく寝所で待っていたが、我慢しきれず、寺院の総門で一番に三蔵を迎えるのだと、日暮れを告げる風と共に待った。

だが、待っても待っても三蔵の姿は見えなかった。

夕陽が光の最後の一滴を空に落として山の向こうへ姿を隠しても、三蔵の姿は見えることはなかった。

「…嘘つき……」

ぽろりと、堪った雫が地面に落ちた。
枝垂れ桜が俯いて立ちつくす悟空を抱き込むようにその枝を揺らした。

「………うん…行く…」

纏い付くような桜の枝を掻き分け、悟空は誘う風と聲に導かれて歩き出した。
何度も何度も参道を振り返って。





















「……す、ごい…」

降るように桜の花びらが舞い落ちる。
視線の届く先は全て薄紅の雲と霞に覆われて。
垣間見える夜空に浮かぶ月ですら幻のように見えた。

悟空は誘われるまま、谷の奥へ歩みを進めた。
悟空が木々の前を通るたびに梢が嬉しそうに揺れ、柔らかな聲が悟空を迎えた。
その聲に、悟空ははにかんだような笑顔を浮かべる。

「…誰?誰が待ってるの?」

奥へ奥へと誘われながら、木々の告げる聲に悟空は不思議そうに首を傾げた。

「ぇ…行けば分かるの?…ふぅん…」

答えは、逢えば分かる、行けば分かるというだけで。
悟空はふと、足を止め、周囲を見渡した。



………まさか…ね…



見知った気配を感じたのだが、それはすぐに桜霞の中に掻き消えてしまった。
暫く、悟空は瞳を凝らして周囲を、後ろを見回し、振り返ったりしていたが、ゆるく首を振るとまた、歩き出した。
絨毯のように降り積もった花びらを踏みながら、悟空は谷の奥へ奥へと誘われて行った。





















仕事先へ向かう道中も、仕事先の寺院でも、仕事をしていても、眠っていても、何をしていても、悟空の声なき聲が、三蔵を苛み続けた。

「…うるせぇ…」

読経に紛れて三蔵は苛む悟空の聲に悪態を吐く。
が、そんな三蔵の声が悟空に届くはずもなく、三蔵は頭痛のする頭を抱えながら、素晴らしいスピードで仕事をこなしたのだった。

そして、引き留める僧侶達を有無を言わさぬ声音と態度で振り切り、三蔵は帰途を急いだ。

休む間も惜しんで悟空との約束の三日目の昼過ぎ、三蔵は寺院まであと三分の一の距離まで返ってきていた。
しかし、どこで道を間違えたのか、いや、確かに街道を歩いていたはずで。
気が付けば周囲は薄紅の霞に覆われて、視界が閉ざされてしまっていた。

「何だ…?」

眉を顰めて辺りを見回しても、何の気配も感じず、物音すらしない。

「…どういう…」

呟いた声はざわりと動いた空気に呑み込まれた。
身構える間もなく、三蔵は薄紅の霞に呑み込まれ、息苦しさに意識を持っていかれた。
意識が闇に落ちる寸前、三蔵は微かな聲を聴いた気がした。





















不意に開けた谷間の最奥に巨大なと表現した方が似つかわしい枝を広げ、そこにたわわに花を付けた桜の巨木があった。

「……ぅあ…」

無意識に悟空は声をあげ、その場に立ちつくした。
目の前の巨木は大地の御子の気配を感じたのか、谷を覆うように広げた枝を震わせた。
その揺らぎに花びらが吹雪のように舞い落ちる。
悟空は巨木が放った聲に、見開いた瞳を綻ばせ、笑った。

「…初めまして…」

ぺこりと、お辞儀をして、悟空は巨木の傍へ近づいた。
夜風がふわりと悟空の身体を抱き込むようにして、巨木との間を吹き抜けて行く。

「呼んだのはアナタ?」

と、問えば、巨木はざわりと枝を揺らした。
悟空は頷くと、そっと年輪を重ねた幹に手を触れた。
途端、流れ込んでくる巨木の聲。

「…あ、そっか…うん……ありがと…」

軽く目を瞑り、悟空は巨木の聲に仄かな笑顔を浮かべた。

そうだ。
巨木が祝福の言葉を伝えるまで忘れていた。
今日は悟空の誕生日なのだ。

四月五日。

それは三蔵がくれた、悟空がもう一度生まれた日。
三蔵と出逢ったその日。

でも、三蔵は忘れているのか、どうでも良いのか、仕事で傍には居てくれない。
せっかく三蔵がくれた誕生日。
今年初めて迎えるというのに。

気付けば、忘れていた淋しさを思い出し、忘れられていたことを思い、悟空は唇を噛んだ。
と、巨木の聲が、悟空の顔を上げさせた。

「……ぇ?」

幹に触れたまま顔を上げれば、見知った気配が悟空を取り巻いた。
その気配に慌てて周囲を見渡しても、その姿は見えず、悟空は困ったような、泣きそうな顔で巨木を振り仰いだ。
すると、巨木が笑ったように思え、悟空は少しその金眼を見開いた。

「な、に…?」

ふわりと、巨木の梢が揺れ、その狭間に黄金が見えた。

「ぇ…え…?」

怯えるようにして悟空が後ろに下がれば、巨木の幹との出来た隙間に、白い影が舞い降りた。

「……なっ…」

白い影はそのまま巨木の幹にもたれるようにして座り込んだ。
淡い月光に照らされた金糸が柔らかに光り、閉じた瞳の睫毛は青い影を落とし、白磁の肌は透き通って青ざめてすら見える。
悟空は声もなく目の前に舞い降りた白い影、否、逢いたくて、逢いたくて堪らなかった三蔵を見つめ続けた。






どれほどそうして三蔵を見つめていたのだろう。
悟空は自分を呼ぶ巨木の聲に、我に返った。

「…ぁ…さんぞ!」

巨木の聲に、悟空はようやく動かない三蔵の傍に座り込み、その名前を呼んだ。
膝に手を置き、何度も名前を呼び、身体を揺らす。
だが、一向に三蔵は目覚める気配を見せなかった。

「さんぞ、三蔵!…三蔵ってばぁ…」

だんだん泣きそうになる悟空の様子に、苦笑を隠すような巨木の聲が聴こえた。

「…ふぇ…ね、眠ってる…だけ?」

その言葉に、悟空は気が抜けたようにへたり込み、三蔵の膝に身体をもたせかけた。

「よかったぁ…」

悟空は安心した笑顔を浮かべたが、はっとした様に顔を上げた。

「し、仕事で出掛けているはずの三蔵がどうしてこ、ここにいるの?」

「な、何で?どうしてさ?」

困惑しきった顔で桜の巨木を見上げる。
すると、巨木は楽しそうに笑った。
ゆさゆさと梢を揺らし、酷く楽しそうな様子で。
そのたびに花びらが紙吹雪の如く舞い散り、舞い降り、三蔵と悟空の身体に淡雪のように降り積もる。

悟空はただ、ただ、その金瞳を見開いて、ぎゅっと片手は三蔵の法衣を握りしめて、桜を見上げていた。

ひとしきり笑って気が済んだのか、巨木は柔らかな天鵞絨の声音で悟空の誕生を言祝いだ。
悟空の金瞳が更に見開かれ、すぐに嬉しそうに綻ぶ。
そして、

「…ぁ…三蔵が?ホントに?…」

信じられないと呟く悟空の身体を夜風が本当だと抱き締める。

「……うん、うん…ありがと…ホントに、ありがと」

悟空は何度も頷き、満開の桜の花よりもまだ輝く笑顔を浮かべたのだった。

と、眠っていた三蔵が微かに身じろぎ、やがてその紫暗が開かれた。
何度かまばたき、寝ぼけたようになった意識をはっきりさせようと緩く頭を振って、目の前の見知った顔にその紫暗は見てる間に、驚愕の表情を形作った。

「な…んだ…?」
「えっと…お帰り?」
「…ぁあ?!」

はにかんだ笑顔で見上げてくる悟空に三蔵の驚愕の表情は、すぐにいつもの不機嫌な顔に戻り、地を這う声が悟空を問いただした。

「サル、どういうことだ?」
「えっと…その…誕生日のお祝い?なんだって」
「何が?誰の誕生日の祝いだ?」
「…っと…俺の誕生日?で、さ、んぞうが……お祝いだ…ッ!」

悟空の答えは見事なハリセンの音に呑み込まれた。
あまりの痛さに、悟空が頭を抱えて蹲る。
その途端、周囲を埋め尽くす桜たちが、一斉にざわめきだした。
ぎしぎし、ざわざわと梢を揺らし、枝を鳴らして、三蔵の行為を責めるようにざわめく。

悟空は周囲が見えないほど降り注ぐ花びらに顔を上げ、「大丈夫だから」と宥めるように笑い、そっと巨木の幹に触れた。

「大丈夫だよ。何でもないから、安心して…」

はんなりと笑ってもう一度頷けば、不承不承納得したと木々のざわめきは何とか収まった。
その有様に、三蔵は身構えることも忘れて固まっていたが、意識を失う寸前に聴いた聲を思い出した。




───徐は、御子の祝いの品じゃ。
───大人しゅうな。大人しゅうじゃぞ。






やってくれる……



三蔵は大きな息を吐き、呆れた笑みを口の端に刻んだ。

大地母神が愛し子の生誕を喜ぶのか。
悟空に自分が与えた誕生日であるというのに。
それでも言祝ぐのか。
それほど大切か─────

忘れていたわけではなかった。
だが、気まぐれに、欲しがるままに与えた誕生日だから、仕事に忙殺されてしまえば二の次になることは当然で。
本人とて、ちゃんと覚えていたわけではないようで。

それでも、大地は、自然はこの日を言祝ぐというのだ。
こんなバカらしいまねまでして。

三蔵はもう一度、大きな息を吐き、悟空の腕を引いた。

「うわぁっ!」

不意に腕を引かれ、桜の巨木の幹に触れていた悟空は簡単に三蔵の腕の中へ倒れ込んだ。

「な、な、な…なに??」

自分の置かれた状況に気付いた途端、悟空の顔は熟れたトマトのように真っ赤に染まった。

「さ、さ、さ…さん、三蔵!?」
「ちょっと、黙れ、サル」
「…ッって」

狼狽えて、瞳を潤ませ、見上げて来る悟空に苦笑を返し、三蔵は顎で悟空の背後を示した。
悟空は三蔵に言われるまま、自分の背後を振り返る。

そこに広がるのは桜の海。
薄紅の霞と舞い散る花びらだけに彩られた世界。

「……綺麗」

無意識に零れた言葉に、三蔵は仄かに笑い、悟空と同じようにその景色に見惚れた。

桜の梢の上の空では、朧に霞んだ月が中天を過ぎて、日付が変わろうとしていた。
が、それに気付くこともなく、桜に埋もれた下界では、いつまでも大地の愛し子の誕生を祝う木霊が聴こえた。




end

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