花が散る。 降り積もる淡雪にも似て、幼い心に陰を差す。
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櫻 樹 |
呼ばれ、誘われるままに悟空は日没後、ここへ、桜の大樹ばかりに埋め尽くされた谷へ来ていた。 淋しくて、寂しくて、悟空の養い親が帰って来るのを今か今かと身を寄せる寺院の総門脇に咲く枝垂れ桜の根元に座って待っていた。 「…日が…暮れてからで、いい?」 さわりと、枝垂れ桜が枝を揺らして頷いた。
夕陽がその裳裾を山際に隠してしまう頃、悟空は待っても、待っても帰って来ない養い親である三蔵の姿を探すように精一杯背伸びをして、薄暗くなった参道を見やった。 「……三日って言ったじゃんか」 出発する日の朝、三蔵は付いて行くと追いすがる悟空に、三日たったら戻ってくるからと、固い約束をして出掛けて行ったのだ。 あと二日、あと一日・・・・・。 そして、今日の三日目、朝からいつ帰ってくるかと落ち着かない悟空に三蔵の側仕えの僧侶が、 「今朝、向こうを出立されたはずですので、お帰りは夕方になりますよ。向こうまで往復二日の道のりなんですから」 そう言って、笑った。 だが、待っても待っても三蔵の姿は見えなかった。 夕陽が光の最後の一滴を空に落として山の向こうへ姿を隠しても、三蔵の姿は見えることはなかった。 「…嘘つき……」 ぽろりと、堪った雫が地面に落ちた。 「………うん…行く…」 纏い付くような桜の枝を掻き分け、悟空は誘う風と聲に導かれて歩き出した。
「……す、ごい…」 降るように桜の花びらが舞い落ちる。 悟空は誘われるまま、谷の奥へ歩みを進めた。 「…誰?誰が待ってるの?」 奥へ奥へと誘われながら、木々の告げる聲に悟空は不思議そうに首を傾げた。 「ぇ…行けば分かるの?…ふぅん…」 答えは、逢えば分かる、行けば分かるというだけで。
………まさか…ね…
見知った気配を感じたのだが、それはすぐに桜霞の中に掻き消えてしまった。
仕事先へ向かう道中も、仕事先の寺院でも、仕事をしていても、眠っていても、何をしていても、悟空の声なき聲が、三蔵を苛み続けた。 「…うるせぇ…」 読経に紛れて三蔵は苛む悟空の聲に悪態を吐く。 そして、引き留める僧侶達を有無を言わさぬ声音と態度で振り切り、三蔵は帰途を急いだ。 休む間も惜しんで悟空との約束の三日目の昼過ぎ、三蔵は寺院まであと三分の一の距離まで返ってきていた。 「何だ…?」 眉を顰めて辺りを見回しても、何の気配も感じず、物音すらしない。 「…どういう…」 呟いた声はざわりと動いた空気に呑み込まれた。
不意に開けた谷間の最奥に巨大なと表現した方が似つかわしい枝を広げ、そこにたわわに花を付けた桜の巨木があった。 「……ぅあ…」 無意識に悟空は声をあげ、その場に立ちつくした。 「…初めまして…」 ぺこりと、お辞儀をして、悟空は巨木の傍へ近づいた。 「呼んだのはアナタ?」 と、問えば、巨木はざわりと枝を揺らした。 「…あ、そっか…うん……ありがと…」 軽く目を瞑り、悟空は巨木の聲に仄かな笑顔を浮かべた。 そうだ。 四月五日。 それは三蔵がくれた、悟空がもう一度生まれた日。 でも、三蔵は忘れているのか、どうでも良いのか、仕事で傍には居てくれない。 気付けば、忘れていた淋しさを思い出し、忘れられていたことを思い、悟空は唇を噛んだ。 「……ぇ?」 幹に触れたまま顔を上げれば、見知った気配が悟空を取り巻いた。 「な、に…?」 ふわりと、巨木の梢が揺れ、その狭間に黄金が見えた。 「ぇ…え…?」 怯えるようにして悟空が後ろに下がれば、巨木の幹との出来た隙間に、白い影が舞い降りた。 「……なっ…」 白い影はそのまま巨木の幹にもたれるようにして座り込んだ。
どれほどそうして三蔵を見つめていたのだろう。 「…ぁ…さんぞ!」 巨木の聲に、悟空はようやく動かない三蔵の傍に座り込み、その名前を呼んだ。 「さんぞ、三蔵!…三蔵ってばぁ…」 だんだん泣きそうになる悟空の様子に、苦笑を隠すような巨木の聲が聴こえた。 「…ふぇ…ね、眠ってる…だけ?」 その言葉に、悟空は気が抜けたようにへたり込み、三蔵の膝に身体をもたせかけた。 「よかったぁ…」 悟空は安心した笑顔を浮かべたが、はっとした様に顔を上げた。 「し、仕事で出掛けているはずの三蔵がどうしてこ、ここにいるの?」 「な、何で?どうしてさ?」 困惑しきった顔で桜の巨木を見上げる。 悟空はただ、ただ、その金瞳を見開いて、ぎゅっと片手は三蔵の法衣を握りしめて、桜を見上げていた。 ひとしきり笑って気が済んだのか、巨木は柔らかな天鵞絨の声音で悟空の誕生を言祝いだ。 「…ぁ…三蔵が?ホントに?…」 信じられないと呟く悟空の身体を夜風が本当だと抱き締める。 「……うん、うん…ありがと…ホントに、ありがと」 悟空は何度も頷き、満開の桜の花よりもまだ輝く笑顔を浮かべたのだった。 と、眠っていた三蔵が微かに身じろぎ、やがてその紫暗が開かれた。 「な…んだ…?」 はにかんだ笑顔で見上げてくる悟空に三蔵の驚愕の表情は、すぐにいつもの不機嫌な顔に戻り、地を這う声が悟空を問いただした。 「サル、どういうことだ?」 悟空の答えは見事なハリセンの音に呑み込まれた。 悟空は周囲が見えないほど降り注ぐ花びらに顔を上げ、「大丈夫だから」と宥めるように笑い、そっと巨木の幹に触れた。 「大丈夫だよ。何でもないから、安心して…」 はんなりと笑ってもう一度頷けば、不承不承納得したと木々のざわめきは何とか収まった。
───徐は、御子の祝いの品じゃ。
やってくれる……
三蔵は大きな息を吐き、呆れた笑みを口の端に刻んだ。 大地母神が愛し子の生誕を喜ぶのか。 忘れていたわけではなかった。 それでも、大地は、自然はこの日を言祝ぐというのだ。 三蔵はもう一度、大きな息を吐き、悟空の腕を引いた。 「うわぁっ!」 不意に腕を引かれ、桜の巨木の幹に触れていた悟空は簡単に三蔵の腕の中へ倒れ込んだ。 「な、な、な…なに??」 自分の置かれた状況に気付いた途端、悟空の顔は熟れたトマトのように真っ赤に染まった。 「さ、さ、さ…さん、三蔵!?」 狼狽えて、瞳を潤ませ、見上げて来る悟空に苦笑を返し、三蔵は顎で悟空の背後を示した。 そこに広がるのは桜の海。 「……綺麗」 無意識に零れた言葉に、三蔵は仄かに笑い、悟空と同じようにその景色に見惚れた。 桜の梢の上の空では、朧に霞んだ月が中天を過ぎて、日付が変わろうとしていた。
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