Possess




初夏の日差しを浴びて、悟空は塔頭の屋根の上で鳩と遊んでいた。

「三蔵ってばさ、すんげー不機嫌な顔して行ったんだぜ」

出掛けの三蔵の悪足掻きを思い出して、悟空はくすくす笑う。
その様子を鳩は、不思議そうに小首を傾げて見ていた。



どうしても逃げられない出張の仕事。
それは、三蔵法師らしく着飾って、お供を沢山連れて赴く説法。
行き掛けに三蔵は、往生際悪く足掻いた。

ただでさえ溜まる仕事をわざと溜めてみたり。
ふいっと出掛けて姿を隠そうとしたり。

外せないが、したくない仕事を前にしてじたばたする行動パターンは、既に側係の長い笙玄に通るわけもなく、着々と準備は進められ、あっと言う間に出発の日となった。
その日は、朝から不機嫌の極みのブリザードが荒れ狂い、見送りに出た悟空を見るや、これでもかと当たり散らした。

理不尽極まりない三蔵の八つ当たりを一身に受けて泣き出した悟空に、笙玄はお土産に悟空の大好物の肉まんを買ってくると約束して、渋る三蔵を引きずるようにして出掛けて行った。

帰って来るのは、明後日の昼過ぎの予定だった。



「当たり散らしてさ、力一杯ハリセンで殴って行くんだ。外せねぇ仕事で、嫌だからってひでぇよな」

鳩が、悟空の言葉に喉を鳴らして啼く。

「当たられんのは、ヤダけど、三蔵のことは大好きなんだって」

周囲に集まった鳩に言い訳がましいことを言っていると、下から大きな音が聞こえた。
その音は堂内に反響してより大きな音になり、辺りに響き渡った。

「何だぁ?!」

その大きな音に鳩達が、一斉に飛び立った。
悟空は屋根の端ににじり寄ると、軒先から頭を突き出した。
見れば、そこには盛大に供物台をひっくり返して立ちすくむ見習い僧がいた。
悟空は、するりと鉄棒で前回りをする要領で屋根から降りると、見習い僧に声を掛けた。

「どーしたのさ?」

背後から掛けられた悟空の声に見習い僧は飛び上がって振り返った。
振り返った先の戸口に悟空の姿を見つけて、見習い僧の顔は益々青ざめていく。

「…!」

悟空はそんな見習い僧の様子を気にせず、側に近づきながら話しかけた。

「ひっくり返したんだ。でも、何で?」
「…た、袂が…ひ、引っかかって……」
「ふーん」

見習い僧の消え入りそうな返事に悟空は、その顔を見上げた。
自分より少し年上らしいが、見慣れない顔に悟空は、この見習い僧が寺院に来て間もないことを知った。

だから、自分の問いかけに答えてくれた。
古参の僧侶は、よっぽどでなければ悟空と話すことなどないから。
口を開けば、不浄だ、下賤だと罵ることしかしない。
そんな人間を相手にしている悟空にとって、目の前で青ざめているこの見習い僧もそんな僧侶達と同類の人間に他ならなかった。
だから、このまま放ってさっさとこの塔頭を出て、裏山へ遊びに行くことになんの支障もないし、この場にいることは悟空をよく思っていない僧侶達に格好のエサを与えることはわかっていた。
しかし、今目の前で哀れなほど青ざめて震えている見習い僧の姿に悟空は、何かしらの同情を覚えてしまった故に、出さなくても良い助け手を出したのだった。

見習い僧の返事に頷きながら悟空は供物台の側に行くと、散らばった供え物を拾い集め始めた。
供え物を拾い集める悟空を怯えて見つめている見習い僧に

「拾えば?」

そう声を掛けて、悟空は供え物を拾い集めてゆく。
そこへ、音を聞きつけた修行僧達が駆けつけてきた。

「どうしたのだ?」

開け放たれた扉から駆け込んできた修行僧の声に、散らばった供え物を拾いかけた見習い僧がまた、すくみ上がった。
悟空は両手一杯に供え物を抱えたまま、声の方を振り返った。
その悟空の姿を目にした途端、修行僧が怒鳴った。

「きさま、なんて事をしてくれたんだ!」
「へっ?!」

きょとんとする悟空に修行僧は、掴みかかった。

「何すんだ!」

反射的に両手に持っていた供え物を向かってくる修行僧に投げつけると、悟空は逃げ出した。

「待て!捕まえろ!!」

入り口を塞いで成り行きを見守っていた修行僧達が、慌てて悟空を捕まえようと手を伸ばした。
その手をかいくぐり、悟空は回廊に飛び出した。
騒ぎに気が付いた修行僧や僧侶達があちこちから顔を出す。
その僧達に向かって、

「捕まえてくれ!!」

と、悟空を追いかける修行僧が叫んだ。

「じょーだん」

その声に答えるようにあちこちから悟空を捕まえようと腕が伸ばされ、行く手を塞がれる。
悟空はその腕をかいくぐり、行く手を塞ぐ僧を飛び越えて、広い寺院の中を逃げ回った。
やがて、どこをどう走ったのか、見慣れない場所に出て来た。

「どこだろ?」

きょろきょろと辺りを見回していると、悟空を見失っていた修行僧が、悟空の姿を見つけて叫ぶ声を聞いた。

「やべっ!」

首を竦めると、また、走り出した。

「ったく、今日はしつけーな」

走りながらため息が漏れる。
声は、まっすぐ悟空に向かって迫ってきていた。
と、ふいに横合いから伸びてきた手に絡め取られるようにして、悟空は茂みの中に引っ張り込まれてしまった。

「っつ…!何す…」

上げ掛けた声を大きな手が塞ぎ、耳元で声がした。

「しっ!じっとしてろ」

口を塞がれ、後ろから抱き込まれてしまった悟空は暴れ掛けた動きを止めた。

「大人しくしてれば、あいつらには見つからねえ」

その声に振り返ろうとして、すぐ頭の上でする修行僧達の声に気が付いて、体を硬くした。

「どこ行った、あの妖怪は」
「まったく、逃げ足ばかり早くなりおって。忌々しい」
「三蔵様は何をお考えになっていらっしゃるのやら」
「あのような下賤の輩をいつまでこの寺院に置かれるおつもりなのか」
「いくらお慈悲の御心とはいえ、もう少しお考え頂かねば」
「本当だ」
「さ、さっさと探し出して、仕置きをせねば」
「ああ」

口々に言い合うと、僧侶達はそこから立ち去っていった。

「行ったぜ」

そう言われて、抱き込まれた腕から解放されても悟空はしばらく動けなかった。


また、三蔵に迷惑を掛けてしまうのだろうか。

怯えて立ちすくむ見習い僧があまりにも痛々しくて、手を貸したことが誤解を招き、果ては三蔵への非難の声を聞くことになってしまった。
悟空は、居たたまれない思いに唇を噛んだ。

「なあ、お前、何やったんだ?」

少し呆れたような声に悟空は、後ろを振り返った。
そこには、人の良さそうな青年が胡座を組んで座っていた。

「よっ。」

振り返った悟空ににっと、笑いかけた。
その笑顔に怪訝な顔をしていた悟空の顔もほころんだ。

「坊主共が、血相変えてお前を追いかけてたけどよぉ、何やったんだ?」

面白そうに笑いながら青年が、訊いてくる。
その質問に悟空は、顔を曇らせてうつむいてしまった。

「何、訊いちゃいけねえことか?」

違うと、悟空は首を振る。

「なら、何だよ」
「…また、迷惑が……掛かってしまうって…」
「誰に?」
「三蔵に…」
「三蔵…?」
「うん、三蔵」

今にも泣きそうな声音で答える悟空の様子に青年は、ぼりぼりと頭を掻いた。
この子供言う”三蔵”とは、あの三蔵法師のことだろうか。
青年は、小さくため息を吐くと立ち上がった。
身体をひっつけて座っていた青年が立ち上がった気配に悟空はうつむいていた顔を上げる。
その大きな微かに潤んだ金色の瞳に一瞬、魅入られてしまう。
それを取り繕うように笑顔を見せると、青年は悟空を誘った。

「あっちに俺の小屋があるんだけど、行かね?」

青年の言葉にきょとんとするが、悟空は頷いた。
誘われるままに青年の小屋に向かって茂みを出た悟空の目の前に広がったのは、広大な墓石の群れだった。

「…何、ここ…」
「墓地」
「ぼち?」
「そう、死んだ奴が眠ってる墓の村」
「お…墓…」

魅入られたように所狭しと立つ墓石の群れを見つめる悟空に青年は、話す。

「そ、俺はここの墓守、湶ってんだ」

青年の自己紹介に、悟空も慌てて名前を告げた。

「あ、俺は悟空、孫悟空」
「悟空か、よろしくな」
「うん」

差し出された湶の手と握手をすると、二人は湶の小屋に向かって歩き出した。




墓石の間を縫って歩く悟空は、きょろきょろと物珍しげに周囲を見渡して歩いていた。

初めて訪れた場所だった。
寺院の西の端に位置するそこは、寺院の関係者、僧侶、檀家の者や行き倒れた者など、様々な人間が葬られていた。
墓石に刻まれた名前は様々で、色も形も千差万別。
死んでも安らかなれと残された者の愛情を感じる。
悟空は、湶の後ろをあるきながら墓石から溢れる思いにほっと、息を吐くのだった。



「ここだよ」

連れられてきたそこは、丁度墓地の東の端に位置していた。

「入ってよ」

促されて入る小屋は、板を打ち付けて漆喰で固めた簡素なものだった。
だが、中は以外に広く、居心地は良さそうだった。

「今、お茶入れるから、そこらに座っててくれ」
「うん…」

物珍しげに小屋の中を見回しながら悟空は、板の間に上がって腰を下ろした。
程なくして、湶がお茶を入れた器と菓子器を持って戻ってきた。

「で、さっきの続きな。何で坊主共がお前を追いかけてたんだ?んで、三蔵って、ひょっとして三蔵様か?」

座るなりそう切り出した湶に悟空は、びくっと肩を揺らして湶を見やった。
少し怯えたような悟空の表情を見返す湶の表情は明るい。
焦げ茶色の瞳が、好奇心に輝いている。
悟空は、見つめていた瞳を伏せると、小さく頷いた。

「三蔵って…三蔵だよ。俺を見つけてくれた大事な人」
「じ、じゃあ三蔵法師様じゃねえか」
「そー言われてるけど、俺、迷惑ばかり掛けてる」
「迷惑?」
「うん、俺、ふじょーの者で、下賤の輩だからここに居ちゃいけないんだ。でも、三蔵が居ろって言ってくれるからだから、居られるんだ。それに俺も三蔵の側に居たい。だから何言われてもへーきだけど、俺のことで三蔵が他の奴らに酷いこと言われるんだ。俺、それ聞くと胸がぎゅってして、悲しいんだ。三蔵がゆわれないようにするには俺が、ここを出て行けば良いんだけど…それも出来なくて…今日みたいな事があると、また三蔵が酷いこと言われて、やな思いするって…」

言いながら泣き出した悟空の頭を湶は、軽く叩くと、

「三蔵様は良いって言って下さってるんなら、悟空が気にすること無いと思うぞ。迷惑を掛けないようにって思うなら、俺んとに遊びに来いよ。墓守っていっても毎日暇してっからよ、遊ぼうぜ」

そう言って笑った。
悟空は、湶のその言葉に小さく頷き、

「ありがとう…」

と、呟いた。




悟空は湶と友達になった。
広大な寺院の中で、悟空が妖怪だからと蔑むこともなく、一人の人間として扱ってくれた。
そして、知らない遊びやいたずらの先生となった。
そのお陰で、予定よりも延びた三蔵の居ない間を寂しく思うことなく過ごすことが出来たのだった。






予定よりも延びた出張から帰って来た三蔵と笙玄を嬉しそうに出迎えた悟空の様子に二人は違和感を覚えた。
どこがどうというわけではないが、どこかしら翳りを帯びているように思えたからだった。
旅装を解き、三蔵からの報告を待ちかねている僧正達の相手が一通り済んだ頃を見計らって、総支配の勒按が留守の間の悟空の所行について報告してきた。
その内容に軽い頭痛を覚えたが、黙って三蔵は勒按の報告に耳を傾けた。

「供物は皇帝陛下から頂いたもので、貴重な瑠璃や玻璃の品々もございました。全て砕けたり、欠けたりと無惨な状態になってしまいました。これは不敬な行為の何ものではなく、どうぞ厳罰に処して頂きますようお願い申し上げます」

そう締めくくった勒按の言葉に三蔵は、わかったとだけ答え、下がるように命じた。
勒庵は、頼みますと、再度念を押して執務室を辞した。
扉が閉じられるやいなや、三蔵は寝所に向かった。
力任せに寝所の扉を開けるなり、居間にいた悟空めがけてハリセンを投げつけていた。

「っつてぇな!何すんだよいきなりぃ!!」

あまりの痛さに涙を流しながら戸口に立つ三蔵を睨みつける。

「喧しい!あれほど居ない間に騒ぎを起こすなと言っといただろうが!」
「何だよぉ、俺何もしてねえって!」
「嘘つきやがれ!塔頭の供物を壊しただろうが」

三蔵の言葉に言い返そうとした悟空は、ぐっと詰まった。

「みろ、当たりじゃねえか」
「あ、あれは、新しい見習い僧が…」

そこまで言いかけて、悟空は口を噤んだ。
思い出したのだ、怯えきった見習い僧の顔を。
今にも倒れそうなくらい怯えて、青ざめていた見習い僧を。
自分が違うと、主張することは簡単だった。
正直に話せば、三蔵の怒りは治まるだろう。
だが、悟空にぬれぎぬを着せたと三蔵に見つかったあの見習い僧はどうなるんだろう。
きっと、この寺院を追い出される。
悟空を忌み嫌う人間達にやがては染まって行くであろう見習い僧であっても、今は言う気にはならなかった。
悟空は、唇を噛むと、三蔵に謝った。

「ごめん」

何か言いかけた口を急に噤んで、うつむいたかと思うと謝罪を口にする悟空に三蔵は、急激に怒気が冷めるのを感じた。

「悟空?」

訝しげな三蔵の声音に悟空は恐る恐る顔を上げると、呆れた顔をした三蔵が悟空を見下ろしていた。

「さんぞ?」

問いかければ、大きくため息を吐いた三蔵は、長椅子に腰を下ろし、悟空を手招いた。

「何?」

請われるままに近づけば、三蔵は悟空を足の間に挟むように抱き込んだ。

「人を庇うのも良いが、ほどほどにしとけ」
「えっ…な、なんで?」
「新しい見習い僧を庇ってんだろが」

怒鳴られた勢いで口にした言葉を三蔵は正確に聞き取っていた。
そのことが嬉しくて、悟空は笑顔を浮かべた。

「ごめん……でも、あいつを怒んないでよね」
「良いのか?お前は」
「うん。そのお陰で、友達ができたんだ」
「友達?」
「そう、湶っていう墓守の友達」

嬉しそうに話す悟空に三蔵は、先程とは別の理由で頭痛を覚えた。

「なんで、墓守なんだ?」
「なんでって、坊主達に追っかけられてたのを助けてもらって、そんで、三蔵が帰って来るまで一緒にいたんだ。すんげぇイイ奴でさ、いろんな遊びを教えてくれたんだ。だから三蔵が居ない間も寂しくなかった」

その言葉に三蔵は、悟空から漂う死臭の理由を知った。
だが、それだけで、この太陽みたいな子供の生気が翳るものだろうか。
帰ってすぐよりも違和感の増した悟空の華奢な身体を緩く抱き込んで、三蔵は原因を辿るように悟空を見上げた。






三蔵が帰ってきてからも悟空は、湶の所へ遊びに出掛けていた。
楽しそうにはしゃぐ悟空を見ると、湶の所へ行くなとは言えず、三蔵はイライラと日を送っていた。

その間に笙玄は、笙玄なりに悟空の様子に疑問を覚え、墓守の湶について調べ始めていた。
顔見知りの寺男や僧侶にそれとなく聞いてみるが、広大な寺院の何百人もいる中の誰も気にもとめない墓守のことなど知る者は、皆無に等しかった。
情報がいっこうに集まらないままに日は過ぎ、少しずつ目に見えないほどではあっても生気を失って、衰弱して来ている悟空の様子に何とかしたいと気ばかりが焦るのだった。
たまりかねて、三蔵に相談すれば、三蔵ははっきりするまで黙って見ていろと、心配する笙玄を押しとどめたのだった。

そんな二人の心配をよそに、悟空は湶の元へ日参しては、新しい遊びを教わって、楽しさに浮かれていた。




そんなある日、いつものように湶を訪ねてきた悟空は、小屋の前で倒れてしまった。

「悟空、大丈夫か?」

気が付けば、湶の小屋の中に寝かされていた。
心配そうに悟空の顔を覗き込む湶に悟空は、大丈夫だと笑った。

「なら、いいけどよ」
「うん…あり…」

言いながら、悟空は寝入ってしまった。
その様子に、今まで心配げだった湶の表情ががらりと変わった。
唇の端を吊り上げて笑うその顔は、邪気に染まっていた。

「そろそろ、いいか。大地の精霊の身体をもらって、俺はもう一度生きるんだ」

ふっと、湶の姿が揺らめくと、意識を失った様に眠る悟空の首にその手を掛けた。
片手を首にかけ、空いた手は悟空の身体に吸い込まれるように手首から先が消えた。
そして、何かを掴むようにその手を動かす。
その動きに連れて、眠った悟空の顔が苦痛に歪んだ。
後少し、そう思った瞬間、小屋の中に銃声が響いた。
はっと、入り口を見れば、愛用の銃を構えた三蔵が、笙玄を従えて立っていた。

「お前は!」

ぎっと、凄まじい形相を向けた湶の身体の下で、悟空が目を覚ました。

「…な…に?どうしたの?」

ぼやんとした声音で湶を見、その視線を辿って、戸口に立つ三蔵を見つけた。

「さんぞ、どうしたの?何してんの?」

身体を起こそうとして、起こせないことに悟空は気が付いた。

「あれ?」

きょとんとする悟空を尻目に、湶は三蔵に飛びかかった。

「三蔵様!」

とっさに笙玄が三蔵を庇おうとするのを突き飛ばして、三蔵は悟空の方へ身体を投げだして避けた。
そんな二人の様子を呆然と悟空は、見つめる。
三蔵は、足下の悟空を抱き上げると、魔天経呪を唱え始めた。

「…さん…ぞ?」

状況の掴めていない悟空は、不思議そうに三蔵を見やり、湶の方へ顔を向けた。
その黄金の瞳が、見開かれた。

そこにいたのは邪気を振りまき、鬼の形相をした湶だった。
悟空は、信じられないものを見た様で、その姿を認識できない。
思わず、三蔵にすがりつく。

「何で…?どうしてさ」

訊ねる言葉は震えて、悟空を抱きかかえる三蔵に掴みかかろうとした湶を打った。

「決まっている。その身体をもらって、俺がもう一度この世で生きるんだよ」
「そんな…」
「でなきゃ、お前なんぞに親切に誰がするもんか」

邪気に満ちた湶の言葉が、悟空を打ちのめす。

「オンマニハツメイウン」

全ての魔を打ち砕く三蔵の凛とした声が、小屋の中に響き渡った。
肩に掛けられていた経文は燐光を放ち、生き物のように湶の身体に纏い付き、締め上げた。

「魔戒天浄!」

続く言葉に経文は鋭い光を放った。
その眩しさに顔を背け、光が治まった後には、何も残ってはいなかった。

「……ふぇ…」

三蔵にしがみついて泣く悟空の泣き声が、いつまでも小屋の中に響いていた。






運び込まれた寝台で、泣きはらした金の瞳が、怯えたように枕元に立つ三蔵と笙玄を見上げていた。

「…怒って…る?」

おずおずと訊いてくる悟空に三蔵は怒鳴った。

「あったりめえだ!この俺に手間かけさすたぁいい度胸じゃねえか。それもあんなくそみたいな自縛霊に取り憑かれやがって。ちったぁ気付けってんだ」
「だ、だってぇ…」
「何が、だってだ!」

そうだと笙玄が大きく頷いた。

「そうです。もしあのままあいつに悟空の身体が乗っ取られて、悟空が居なくなったらどうなるんですか」

三蔵の言葉を引き取るように笙玄は、悟空を叱りだした。
いつも穏やかで、あまり激したりしない笙玄が、口調もきつく悟空に怒っている。

「あなたの体力が人並み以上だったから、こうして生きていられますが、普通の人間なら、三蔵様がお帰りになる前に身体を乗っ取られてしまっていたんですよ。わかっていますか」

笙玄の剣幕に悟空は黙って頷く。

「あなたが衰弱していく姿を黙って見ていなければならなかった三蔵様のお気持ちを考えなさい。どれ程心配なさっていらしたか。それすら気付かず、あなたは毎日あいつの所へ行っては、衰弱して帰って来る。そんな姿を見るのがどれ程お辛いか」

笙玄の言葉に三蔵が、瞳を見開く。
悟空も思わず三蔵の方を見てしまった。
その態度が反省していないと、笙玄の怒りに油を注いでしまった。

「わかりました。反省しないのなら私にも考えがあります。三蔵様?」
「ん、なんだ?」

三蔵を振り返った笙玄は、これ以上ないほどの穏やかな笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見た瞬間、三蔵の背中に悪寒が走る。

「悟空が元気になるまで、わ・た・しが世話をしたいのですが、よろしいでしょうか?」

訊ねる笑顔は極上で、三蔵はその言葉に引きつった顔で頷かざるを得なかった。
二人のやり取りを悟空は寝台の布団から目だけを出して、固唾を呑んで見守っていた。
三蔵の了承を取った笙玄は、悟空に向き直るとそれはそれは優しい口調で言った。

「回復するまで、私の部屋で過ごしましょうね。その間は三蔵様とお話できませんからね」

その言葉に悟空の顔は、青ざめる。

「ヤダ!三蔵の側がいい」

反射的に抗えば、真綿で絞めるような優しい言葉が降りてきた。

「では、三蔵様のお手をこれ以上煩わすことを悟空は望んでいるのですね」
「そ、それは…」

蛇が獲物を追いつめるような笙玄の言葉に三蔵は、我知らず止めに入っていた。

「もう、いい。サルも反省してる。だから、もう…」

三蔵の言葉は途中で途切れた。
振り返った笙玄の完璧な笑顔に立ちすくんでしまったのだ。
何ものも畏れないと自負していたにもかかわらず、目の前の笙玄の笑顔は恐かった。

「お許しになられると仰るんですか?」
「あ、ああ」

額に汗まで浮かべて三蔵は頷いた。

「そうですか。三蔵様がそう仰るのなら仕方ないですが、悟空?」
「は、はい」

飛び上がるようにして、悟空は返事をする。

「以後、見知らぬ人に懐いてはいけませんよ。今度こんな騒ぎになったら、私が許しませんからね」
「はい…ごめんなさい」

しおらしく謝る悟空に頷くと、笙玄は夕食の支度をすると寝室を後にした。
その姿が寝室から見えなくなると、三蔵と悟空は大きな大きなため息を吐いた。

「さんぞ、こ、恐かった。マジ、笙玄が恐かった」

涙目になって三蔵を見上げる。
三蔵も身体がこわばっていたことに気が付いて、向かいの寝台に崩れるように座り込んだ。

「さんぞ…?」

不安そうに三蔵を呼ぶ悟空に三蔵は、安心させるように頷いてやった。

「ああ、よくわかった。あいつを怒らすな、いいな」
「うん、よーく覚えとく」
「よし、なら寝ろ」
「さんぞは?」
「ここに居てやるよ」
「ありがと…」

そう言って、悟空は目を閉じた。
程なくして、安らかな寝息が聞こえてきて、三蔵はほっと安心したのだった。

悟空の寝顔を見つめながら三蔵は、怒りにまかせて怒鳴る人間の方がどれ程単純で、冷めやすいか、そして、本当に怒ってしまった人間は、激昂するよりも静かな水面のようになることを何より、笑顔を浮かべて怒っている人間がどれほど恐ろしいか、認識を新たにした。

それほどに笙玄は、恐かったのだ。

悟空を心配するあまりとはいえ、笙玄の忘れられない一面を見てしまった三蔵と悟空は、しばらくの間、笙玄には逆らわず、大人しくしていたし、笙玄に対する三蔵の態度がどことなくぎこちなかったとか、そうでなかったとか。




穏やかな日常のとある断片。




end




リクエスト:怒れる笙玄
10101 Hitありがとうございました。
謹んで、雪 夜様に捧げます。
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