ポットの花

珍しいお茶が手に入ったと、買い出しから戻った八戒が嬉しそうに告げた。
四人部屋のそれぞれの寝台でくつろぐ三蔵と悟空が、何事かと顔を上げる。

「それをまあ、露店で見つけて大はしゃぎで荷物、ほっぽってっちまうから、俺様はたいへんだっつーの」

お茶の説明を八戒には珍しく興奮して話す様子に、三蔵は呆れた顔をし、悟空はぽかんとして、誰も山のような荷物を抱えて戻ってきた悟浄には目も向けない。

「いーけどねぇ」

荷物を床に置き、ぼりぼりと頭を掻きながら悟浄は、煙草に火を付けた。
八戒は、さっそく入れますねなどと言って、いそいそと簡易台所へ行ってしまう。
扉の閉まる音で、我に返った三蔵と悟空は、悟浄が戻って来ていることに気が付いた。

「あれ、戻ってたんだ」
「おかげさまで」

悟空のどうでも良いような口調に脱力しながら、片手を上げて答えた。

「どうしたんだ、八戒は?」

読みかけの新聞を横に置いて、三蔵が悟浄に訊く。
さっさと話せと、悟浄を見やる紫暗の瞳が言っていた。

「緑牡丹茶ってーの?高くて、珍しー茶っぱなんだと。それを露店の店先で見つけて買って帰ってきたってこと」
「緑…牡丹茶…?」

悟浄の言う茶葉の名前に、ある人の声が重なる。

───綺麗でしょう、まるで牡丹の花のようにポットの中で咲くからこんな良い名前が付いたのでしょうね。

柔らかく頬笑むその笑顔。
穏やかな仕草。

ぽろっと、悟空の瞳から涙が落ちた。

「………!!」

それを見た悟浄が、赤い瞳を見開く。
三蔵は何も言わない。

「どしたの?」

顔を覗き込む悟浄を押しのけながら、何でもないと、急いで涙を拭く。
そんな悟空の様子を無表情で見つめ、三蔵も思い出していた。

静かな優しい声を─────
















「これって、おもしれえなぁ」

そう言って悟空は丸く繋げられたお茶の葉を目の前にかざして見る。

「ダメですよ。そんなことしたらバラバラになってしまいます」

ひょいっと悟空の手からその茶葉を取り返すと、笙玄は大きめの硝子のポットに入れた。
そして、暖めた湯飲みとともにワゴンに乗せると、興味深げにポットの中を覗く悟空に声を掛けた。

「悟空、三蔵様と一緒にお茶にしましょうか。おやつもたくさんありますよ?」
「うん!するっ」

笙玄の言葉に元気いっぱい頷く悟空に穏やかな微笑みで答えると、笙玄はワゴンを押して居間に向かった。
その後を悟空も嬉しそうに付いて行く。

「三蔵様、お茶になさいませんか?」

居間で新聞を読んでいる三蔵に声を掛ける。
三蔵はちらと顔を上げただけで、新聞を読む手を止めない。
その仕草を了解ととった笙玄は、ポットに湯を注いだ。
すると、乾燥した丸い茶葉が湯を吸ってゆっくりと開いて行く。
それこそ花が開くように。
悟空は硝子越しに見えるその様子を身じろぎひとつせずに見つめていた。

「…なあ、これ…花が咲いてる…」

不思議だと言わんばかりの瞳で笙玄を見やった悟空の顔があまりに幼く見えて、笙玄の笑みは一層深くなる。

「これは、緑牡丹茶というお茶で、この時期にしか作られない珍しいものなんです」
「緑…牡丹…?」
「はい。ほら、ポットの中で牡丹の花ように咲くからこの名前が付いているんだそうですよ」
「へぇ…」

緩やかに広がって、大輪の花を咲かせる茶葉を見つめる。
ゆっくりと色づいて行くお湯の中でゆらゆらと広がる濃い緑の牡丹の花。
緑茶の甘い香りとともに悟空は、三蔵と笙玄と三人で過ごすこの何気ない時間を忘れないと思った。




西へ旅立つ前のささやかな時間。




風の便りで笙玄が寺を去ったことを伝え聞いたのはいつだったか。

この旅を終えて帰ってもあの優しい人はもう居ない。
そのことが悲しくて、寂しくて三蔵の傍らで泣きじゃくった。

寺を去ったその理由を三蔵は教えてはくれなかった。
けれど、幸せに暮らしていると聞かされた。
その言葉を信じるしか無いのだけれど。
会ってちゃんと別れを言いたかったのに。
ちゃんとありがとうが言いたかった。
大好きな人。
















「悟空、三蔵、ほら悟浄も見ててくださいね」

子供のようにはしゃぎながら八戒が硝子ポットに茶葉を入れて、適度にさました湯を注ぐ。
ゆっくりと湯を吸って茶葉の花がポットの中で開いた。

「へぇ、ホントに牡丹の花みてぇ」

悟浄が物珍しげにポットの花を見つめる。
悟空は、その花を嬉しそうに見つめる八戒の穏やかな笑顔に彼の人の面影を重ね、胸が痛んだ。

「香りも味もいいんですよ」

充分に緑に染まったポットのお湯を湯飲みに注いでゆく。
馥郁とした香りが部屋に広がり、幸せな時間が始まった。




茶器を片づける八戒の元へ悟空は訪れた。
物言いたげにその後ろ姿を見つめた後、意を決したように話しかけた。

「八戒、あの…」

戸惑うような悟空の声に八戒が振り向く。

「はい?」

少し驚いたような、少し怪訝な色を掃いた笑顔に悟空は、一瞬息を止める。
そして、

「お茶、うまかった。ありがと」

一息に告げると、後も見ずに走り去った。

「…悟空?!」

らしくない悟空の態度に八戒は戸惑うが、そんないつもと違う悟空の様子に愛しさを覚えてしまう。

「可愛いですねぇ」

悟空の保護者が聞いたら怒りそうな独り言を呟くと、片づけを再開した。






台所から戻ってみれば、悟浄の姿はなく、三蔵が一人寝台に腰掛けて、新聞を読んでいた。

「あれ、悟浄は?」
「知るか」

にべもない返事に悟空は薄く笑うと、三蔵の足下に膝を抱えて座り込んだ。
頭を三蔵の膝に持たせかけて目を閉じる。
新聞の隙間から覗く悟空の沈んだ様子に、笙玄のことがまだ尾を引いて居ることを三蔵は知る。




何もよりどころのない寺院での生活の中にあって、唯一のよりどころとなった人間。
ともすれば自分の足で立つ辛さに倒れそうになる、その気持ちを支えてくれた人間。
いつも穏やかに笑っているくせに、怒らせると恐く、以外に堅物で、底意地が悪くて、でも、憎めなかった人間。
悟空を受け入れた初めての僧侶。

悟空が三蔵以外に心を許した最初の人間。

三蔵にとってもいつの間にか大切だと思うほどに大きな存在だった。

だから、帰っても会えない───その寂しさはよくわかった。




「…旅が終わったら、会いに連れってやるよ」

ため息と共に告げられた言葉に悟空は、新聞の影から覗く三蔵を見上げた。
無防備に見上げる悟空の顔を視界の端に捉えて、三蔵は心の中で苦笑を零す。

「うん…」

ようやく聞こえた返事は、潤んでいた。
三蔵は新聞をたたむと、軽く悟空の頭を掻き混ぜた。

「泣くな、サル」
「泣いてねぇもん」
「そうか?」
「そーだよ」

足に触れる悟空の身体が小刻みに震えている。
そのことに気付かないふりのまま、三蔵はまた、新聞を広げた。



旅の途中の昼下がり。




end

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