優しい雨




その日は朝から曇天だった。

五月に入りずっと五月晴れが続いていたのだが、空もとうとう堪えきれなくなったらしい。

雨が降り出す前にさっさと買い物を済ませ宿へ帰ろうという三蔵の思いとは裏腹に、久しぶりの市に遅々として歩みの進まない悟空。
あれが美味そうだの、あれは何だのと喧しいことこの上ない。

そうこうしているうちに、ぽつり、ぽつり、と小さな雨粒が落ちてくる。
次第にその数を増し、辺りがしっとりとした雨の気配に包まれていった。

「ありゃ…」

今更ながら、悟空が空を見上げ小さく呟く。キョロキョロと辺りを見回す姿は正に猿そのものだ。

三蔵は手ごろな店の軒先にいち早く避難すると、懐からマルボロを取り出し火を点ける。
小さな赤い火が尖端に灯り、灰色を濃くした風景の中にそこだけが鮮やかな光を放つ。

「さんぞっ!」

悟空がその姿を見つけ、駆け寄ってくる。柔らかな大地色の髪はまだ降り出したばかりの霧雨に濡れ、辺りに漂う雨の香りと同化していた。

「やっぱ、降って来ちゃったな」

少し申し訳無さそうに呟きながら、三蔵の横に並ぶと大きな金色の瞳で再び空を見上げる。

…三蔵から答えはない。

通りに店を出していた色とりどりの露店も次々に店を畳み、足早にどこかへと去ってゆく。
気が付けば辺りに人影は無く、しとしとと静かに降り注ぐ雨音が聞こえてきそうな程に静まり返っていた。

静寂に包まれ霧雨にけぶる風景の中、三蔵の形のよい唇から吐き出される紫煙だけがゆらゆらと蠢いている。




…雨が降ると、三蔵の纏う空気が変わる。




元々、他人との係わりを嫌う性質なのだが、雨の日はそれが更に酷くなり、周りとの係わりを一切遮断し、紫暗の瞳には何も映らなくなってしまう。
寺院にいた頃よりもその傾向は多少薄れてきてはいたものの、八戒も悟浄も雨の日の三蔵へはあえて近づいたりはしない。

悟空とてその事は良く分かっている。
そんな事は、良く、分かっている。

だからこそ、こんな低い雲の立ち込める日に、渋る三蔵を無理矢理連れ出したのだ。

自分の意識の中に閉じこもり、うつろな紫暗の瞳を見るのは、嫌だったから。
どうしても、その輝きを失いたく無かったから。
大好きな、紫の輝きを一瞬でも見失いたく無かったから。

きっと、三蔵も悟空の意図に気がついていた筈だ。あえて何も言わず、最高に不機嫌な顔で悟空に付き合った。




悟空は押し黙ったままの三蔵が気になり、ちらりと目線を上げた。

「あ…」

すると小さく声を上げ、そのまま固まってしまう。

見上げた先にあった三蔵の横顔が、あまりにも美しくて。

その美しさに、魂まで絡め取られてしまいそうになる。






水分を含みしっとりと濡れた金糸の髪は、それでも鮮やかな光彩を放っている。

庇から落ちる雨垂れをじっと見つめる紫暗の瞳。

一段と色を深めた濃い紫は、何の光源も無い霧雨の中でも自ら光を放ち、色褪せる事など無い宝石みたいだ。

磁器のように白い滑らかな肌は艶やかで、触れただけで壊れてしまいそうなどこか危うい雰囲気をも醸し出している。

灰色に沈んだ世界の中で、三蔵だけが美しい輝きを放っていた。




それは強烈な存在感。

圧倒的な神々しさ。

全てのものを凌駕する、至高の煌めき。




出会ったあの時と変わらない、たいようみたいな眩しい光が、そこに在った。






自分を見上げ動こうとしない悟空を不審に思い、三蔵は面倒臭そうに目線だけを悟空に向ける。

ぶつかった金色の瞳は、瞬きさえも忘れたようにじっとこちらを見つめていた。






真っ直ぐに。

驚く程、純粋に。

穢れ無き魂を写し取ったかのような、澄み切った金色の光。






霧雨に意識を奪われていた三蔵の瞳に強い光が宿る。
それは目の前の金色が映り込んだだけなのか、それとも別の光か。

いずれにせよ、その金色に捕らえられた紫暗の瞳がふっと緩む。
その瞬間を悟空は見逃さなかった。
微かに微笑んだように見える、三蔵の綺麗なアメジスト。

悟空の心に鋭い矢が一瞬にして深々と突き刺さる。
どきりと心臓が跳ね、頬に血が集まる。
小さな桜色の唇から、自然に言葉が溢れ出した。

「やっぱり、綺麗…」

ほぅ…という溜息と共に静かに繋がれた自分の言葉に、更に細い首筋まで真っ赤に染め、恥ずかしそうに笑ってみせた。






雨の呪縛に囚われていても、やっぱり三蔵は綺麗で。

その姿は霧雨に融けてしまいそうに儚くて。






美しく輝く紫の光の中に、揺ぎ無い強い輝きを見つけ、悟空はほっとする。
そんな思いが伝わったのか、三蔵の指先からまだ赤い炎を燻らせたマルボロが雨垂れで出来た小さな水溜まりに落とされた。
悟空は大きな金色の瞳でスローモーションのように落ちてゆく赤い光を追い掛ける。

途端、掠めるように柔らかな感触が唇に触れた。




それはほんの一瞬。




目の前は金色の波に覆われ、鼻腔に微かに残る嗅ぎ慣れたマルボロの香り。

そして、至近距離で華開いた、大好きなアメジスト。

透き通るように綺麗で、なにものも寄せ付けぬ高潔な魂の輝き。






驚きに身を強張らせた悟空の華奢な体をゆっくりと抱きしめ、耳元で途徹もなく低く艶やかな声で三蔵が囁いた。

「…てめェの我儘に付き合ってやったんだ。このツケはきっちり体で返して貰うからな。…覚悟しろ」

「なッ…!」

何事かを叫ぼうとした桜色の唇が、再び柔らかく塞がれる。

更に大きく開かれた金色の瞳が、重なった唇から伝わる優しさに包まれうっとりと閉じられる寸前に捉えた輝きは、深い深い紫色。

清廉な輝きの裏に激情を隠した、綺麗な綺麗な至高の宝石。





悟空の、一番大切で、一番綺麗な人。



心も、体も、魂さえも。



三蔵の全てが、悟空の全て。







霧雨のカーテンが二人の姿を綺麗に消し去ってくれた、優しい午後の時間。




END (2010.05.11. ranko araragi)




<蘭 蘭子様 作>

蘭子様のサイト「汝愛-KNIGHT-」で1500のキリバンを踏んだ折りに書いて頂きました。
「綺麗な人」というリクエストにこんなに素敵なお話で答えて下さいました。
旅の途中の雨の日の二人。
三蔵の雨の日の纏う空気の変化に敏感に気付く悟空。
少しでも気持ちが晴れればいいと、気遣う姿が可愛いです。
きっと、三蔵は悟空が傍にいれば雨の日も苦痛ではないのだと思うのですが…どうでしょう?
三蔵は前だけを向いて歩いてゆく人だから、過去に囚われている暇はないのだけれど、
それでも雨の日は気持ちが後ろ向きになる…そんな感じなんでしょうね。
雨の透明で朧な風景とそこだけ光りが溢れた三蔵の姿は何よりも綺麗で、悟空にとっての揺るぎない存在。
二人だからわかる空気…だからこそ、三蔵も悟空にだけは優しく、甘いんだと思いました。
ああ、キリバン踏んでよかったと幸せにひたっています。
蘭子様、滅多にない幸せをありがとうございました。

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