カシャン………チャラ………
■Prisoner
in chains
「金蝉!金蝉!ただいまぁっ」
壊れそうな勢いで開かれたドアの後ろから、輝いた笑顔と一緒に帰ってきた養い子。
ドアの先に保護者を見つけるや否や、ピョンと腰に飛びつく。
と、
「いたい〜、なんでよけるんだよ」
飛びついた勢いのまま床と接吻を交わした悟空は恨めしそうに金蝉を見上げた。
「何度言えば分かる、自分の体重を考えて行動しやがれ。100キロの塊に飛びつかれて平気なほど丈夫じゃねえんだよ」
眉をしかめた金蝉の顔をじっと見つめていた子供は、一拍置いて申し訳なさそうに小さく謝った。
「あ、うん。そうだった………ごめん」
そして、ペタン、と床に座り込み、うつむいたまま悟空は悔しそうに手の枷を見つめていた。
「いいからとっとと風呂に入ってこい。それが済んだら飯だ、行け」
いつまでたっても動かぬ子供に、早々に金蝉の我慢は切れ、次の行動に移るように促す。
保護者の言葉のまま、すごすごと浴室に向かう子供の背は、まるで叱られた子犬のように寂しげに見えた。
カシャン………チャラ………
「ね、一緒に寝ていい?」
枕を抱えて寝台の下から子供の金の瞳が見上げる。
金蝉は無言で自分の夜着の裾をめくり上げた。
金蝉の足には見た目にも痛い青あざが幾つもできている。
「全部てめえのせいだろうが。そういうことは自分の寝相を考えてから言え」
昨日、いつものごとく断られて、それでも金蝉の隣で眠りたい子供は、金蝉が眠りについた頃こっそりと金蝉のそばに身を横たえた。
しかし、寝台に這い上がって眠ったまではよかったものの。
寝相の悪い子供は枷のはまった両腕両足で金蝉を思いのほか強く打ち付けてしまったのだ。
「痛い、よね?」
「たりめーだろうが。分かったらおとなしく下で寝てろ。俺が寝てる間に上ってくるんじゃねえぞ」
「……うん……ごめんなさい」
「わかりゃいい。もう寝ろ」
さびしそうな顔をした子供の、大地色の髪を慰めるように一度くしゃりとかき撫で、金蝉は寝台をきしませた。
静かな闇の底に金蝉の意識が沈んだ頃。
子供は薄闇の中でその美しい瞳を開いたまま、浮かんでは消える念に苛まれていた。
この枷が悪いんだ。
この枷さえなければ、もっと金蝉の近くに寄れるのに。
腰に飛びついても怒られないかもしれないのに。
一緒に寝てくれるかも知れないのに。
冴えて眠れぬ金の瞳。
仰向けのままじっと天井を見つめていた子供は、おもむろに手のひらを真上に掲げる。
チャラ、と鎖の音。
これさえなければ………きっと……
もっと、金蝉のそばに居られるよね。
高き空のさらに遥か先。
金色の陽光を惜しみなく注いでいた太陽。
しかし今日の役目もあとひと時となり、日はその身を橙に染めて休息の準備を整えようとしていた。
「天蓬、サルが………来てねえみてえだな」
夕暮れ時にもかかわらず、未だ戻らぬ養い子に痺れを切らし、金蝉は不本意ながら子供をあちらこちらと探し回っていた。
「え?………ああ、金蝉じゃないですか。悟空ですか?来ていないと……思うんですけど」
天蓬はなんとも曖昧な顔をしながら、読みかけの本をパタリと閉じた。
「だろうな、足の踏み場もねぇじゃねえか。一昨日片付けたばかりじゃなかったのか」
「ちょっと調べたいことがありましてね。悟空、捲簾のところにでも行っているのでは?」
「いや、ヤツとも廊下ですれ違ったが見てないそうだ」
「………そうですか。心配ですね、僕も探しましょう」
「すまん」
服の埃を払いながら立ち上がった天蓬に短く礼を告げ、金蝉はその部屋をあとにした。
こんなにも帰ってこないなんて何かがおかしい。
自分が帰るのを待ちわびて、執務室の前で待ち伏せていたこともあった。
寝室でベッドに寝転びながら、無心に扉ばかりを見つめていたこともあった。
気に入りだという花畑にぼんやりと佇んでいたこともあった。
しかし、今はそのどこにもいない。
自分の傍に、あの目映い金の光がない。
金蝉の焦慮は否応なく高められていく。
金蝉が悟空の気配を探り当てたのは、それから十五分ほど経ってからのことだった。
カシャン…ゴッ……カシャン…ゴッ……
断続的に、何か金属的な音が聞こえてくる。
それは、聞き慣れた子供の枷の鎖の音によく似ていた。
金蝉は張り詰めていた気を緩める。
やっとみつかった。
悪意あるものに連れ去られたのでは。
遠くに行き過ぎて、見知らぬ場所で泣いているのでは。
まったく、あの子供といるといらぬ心配ばかりしている。
この先を右に曲がれば、庭に面した石造りの廊下だ。
おそらくはまた花輪作りにでも興じていたのだろう。
そんな推測をめぐらし、自分にこれだけ探させたのだ。なんと言って罵ってやろうかと、金蝉は角を右に曲がった。
そして、
「な、おいっ!お前何をしているっ!」
「あ、金蝉!お仕事、終わったの?」
廊下の端にペタン、と座り込んだ子供。
敷き詰められた石の床は、所々が金槌で思い切り叩かれたのかのように。
ひびが入り、割れ、ひどいものは砕けてその破片が庭にまで飛び散っていた。
金蝉にあえたことを心から喜んでいるその視線。
しかし金蝉の見開かれた紫暗の瞳は、子供の澄んだ瞳でなく、毒々しい色をした子供の手首に注がれる。
そこに在るのは。
血塗れになった子供の両の手。
「ねぇ、見て。この手の黒いヤツね、やっと少し傷が入ったんだよ。もうちょっとがんばったら取れるかもしれない」
それは本当にとても小さな、爪で引っかいたような傷。
金蝉に見せるように、枷のはまった両手を持ち上げる。
途端、枷に幾つもの筋を描いた赤い雫。
ポタリポタリと血が滴り、床の上に幾つもの丸いしみを形作った。
「お前、……一日ここに居たのか?」
子供は問いかける金蝉を見上げてコクリ、と首を動かした。
だらりと垂れたままの悟空の手首。
ピク、と時折動くが子供の意志に従って動いている様子はない。
おそらくは骨が折れてしまっているだろう。
カシャン…ゴツッ…
一瞬の静寂を破り、子供は思い切り手を振り上げて、床石に打ち付け始める。
鈍い音とともに、床の石にひびが入り小さなかけらが砕け散る。
「おい、やめろっ!なに考えてやがる」
子供の手首を慮り、肘を持って引き止める。
「だって、これがあるから金蝉に抱きつけないんだ。金蝉に怪我させちゃうから一緒に寝られないし………俺、こんな枷いらない」
振り向いた子供のどこまでも澄んだ視線が金蝉に刃のように突き刺さる。
まるで、捕らえられてなお気高くある野生の獣。
一瞬その瞳に魅入られた金蝉の虚をつき、子供の手は床に向けて振り下ろされる。
「これがなかったら、もっと、金蝉のそばに居られるっ!」
カシャン…………パンッ
鎖の音のあとに聞こえたのは、枷が床に打ち付けられる音でなく。
「バカを言えっ!お前、その手折れちまってるじゃねぇか。手も頬も痛いだろうが、わかんねぇのか!」
金蝉の激昂した声。
思い切りはたかれた左の頬。
打たれた頬もそのままにぼんやりと金蝉を見上げていた子供は、思い出したように頬に手を当てようとして自分の手が自由に動かないことに気づいた。
打たれた頬が痛いことも。
自分の手が赤いことも。
金蝉の瞳が、怒りにも似た苦渋の色を宿していることも。
「金蝉………?」
金蝉は子供に立ち上がるように促し、自分のあとをついてくるように命ずる。
悲しそうに立ち上がって、とぼとぼと自分の背を追ってくる気配がある。
あの枷さえなかったなら、すぐにでも抱き上げて連れて行けるのに。
枷さえなかったなら、自分に抱きつくことも許したろう。
枷さえなかったなら、ともに眠ることも許したろう。
だが。
枷がなかったのなら、この子供は自分の傍にはいられないのだ。
子供のつま先に当たった血の色に染まった石の欠片が、カラン、と小さな音を立てる。
自分の後ろに続く小さな足音を聞きながら、金蝉はきつく唇を噛み締めた。
「ねえ、金蝉……この枷がなかったらもっと俺とも遊んでくれる?」
……ポタン
「……この枷がなかったら俺と一緒に寝てくれる?」
……ポタン
「……この枷がなかったらたまには抱っこしてくれる?」
……ポタン
「悟空、もう黙れ」
カシャン……
「ねぇ、金蝉。俺が悪い子だから、こんな枷をされているの?」
金蝉は観音の屋敷に出向いた。
ポタリポタリと、血を滴らせる子供を連れて。
ポツリポツリと道中漏らされる子供の言葉に胸を灼かれながら。
「なんだ金蝉、珍しいじゃねぇか。子連れで…………な、おいっチビその手」
「枷をはずそうとしたらしい。一日中廊下に枷を打ち付けてな」
観音は、やおら立ち上がると子供の手を取り、その白い指先で包み込んだ。
淡くやわらかい光が広がり、程なくして子供の手からは血糊も消えた。
「これに、傷を付けるとはな………」
傷の入っていた枷さえも、その手で新しく付け直された。
自分の手の枷が代わってしまったことを目にした子供は、ひどく寂しげな眼差しを観音にむける。
憐れみをこめた観音の視線が静かに子供を見つめた。
「また……おんなじ……」
消え入りそうな声で子供は言葉を紡ぐ。
すまない、と子供にしか聞こえぬ声で悟空の傍を離れる間際観音は呟いた。
「枷を、はずせ」
少し震えた低い声音が観音の耳に届いた。
彼女は次郎神を呼び寄せ、子供を部屋の外に出すように告げる。
子供は何度も金蝉を振り返ってみていたが、次郎神の手に促されドアの外に出ていった。
パタリ、とドアが閉じる音を確認してから観音はこぶしを握り締めた甥に向かい合った。
「それが、できない相談だと分かっていてか?」
金蝉の脇を静かに通り抜け、彼女は部屋の奥の椅子に腰を下ろした。
「あの枷に何の意味がある」
「分からんほどバカなのか?あの枷の重さを知っているだろう。あれだけのものを付けてすら常人よりも数段上の力を有する。それが天界にもたらす脅威が分からぬわけではないだろう」
「元の力は額の金鈷で十分抑えられているはずだ、力を制御する術を学べば……」
「確かにな、お前にとってはそれでいいかもしれん。だが、アイツがこの天界にとっての異端だということを忘れているのか?吉凶の源、金靖眼。天界はあの子供を恐れている。アイツがこの天界で、お前の傍に在りたいと願う以上、あの枷は最低の条件だ」
「しかし………」
「なんだ、枷がいやならあの子供の目を抉り取ってみるか?そうすりゃ誰も文句はいわねぇだろうよ」
「ふざけるなっ!」
あまりの言葉に金蝉は椅子にかけたままの観音の胸倉を掴み上げた。
「これ以上の口論は無用だ」
さして表情も変えぬまま、ピシャリ、と言って観音は自分の胸元の金蝉の手を払いのけた。
「………あいつが、何をしたってんだ。勝手にこんなとこに連れてきて、あんなガキに枷を付けて縛り付けてせせら笑うなんざ悪趣味以外の何モンでもねぇな」
金蝉は背を向けた。
ドアに手をかけたと時を同じくして、観音の冷たい声音が響く。
「なるほどな、よほど情が移ったと見える。俺の出した条件に納得ができないのならそう言え。お前以外の者に悟空を預けようと、俺は一向に構わねえんだからな」
「ならば、テメェはその耳でこれが聞けるというのかっ!『自分が悪い子だから、こんな枷をはめられているのか?』その問いに………テメェはそれになんと答えを返せるというんだ!」
戸を閉める間際の金蝉の言葉に、観音は一言も返さなかった。
激しい音を立ててしまったドア。
扉の横に控えていた次郎神に導かれるまま、金蝉は小さな部屋に通された。
部屋の長椅子にちょこん、と腰掛けて。
そこに在ったのは、不安げに見つめてくる子供の視線。
「金蝉」
「………悟空」
怪我の痕跡すらない手を伸ばして、子供は近寄ってきた金蝉の金髪に触れた。
金蝉は子供に促されるまま、ゆっくりと膝をかがめる。
「観音のねーちゃんと喧嘩したんでしょ?ごめん、俺がまた変なことしたからだよね」
「喧嘩なんざしてねぇよ」
「ウソだ、おっきな声で喧嘩してた………」
「お前が気にすることじゃねぇよ」
ぽん、と金蝉の手がうつむいた子供の頭に乗る。
小さく震えた肩。
ポタリと落ちた小さな雫。
床の上の丸いしみは、じわじわと広がりやがて乾いて見えなくなった。
その雫の主を悟った子供は、じっと垂れていた顔をあげ金蝉を見上げる。
「っ金蝉!………どっか痛いの?」
意図せぬ涙が零れた。
たった一滴。
頬を滑り落ちた想い。
何もできない。
子供を戒める鎖をはずすことすら、自分にはできない。
「ああ………いてぇよ。痛ぇ」
この天界でたった一人。
たった一人守りたい者を守れない。
自らの腕を砕くほど。
金蝉を無垢に慕い、そして追い詰められた子供の心。
赤く染まった手。
子供の小さな手。
この世でたった一つ、自分に伸ばされ、与えられる小さな手のひら。
「怪我したの?観音のねーちゃんがひどいことしたの?」
金蝉を傷つけぬようそっと伸ばされた子供の手がやさしげに涙の後を辿った。
「違う………そうじゃねぇ、そうじゃねぇよ」
金蝉は頬に伸ばされた子供の手をそっと握り締めた。
カシャン…………
子供は宝物に触れるように、そっと金蝉の胸に頬を寄せた。
「ごめん、俺もうこんなわがまましない」
金蝉は子供をきつく抱き、何度もやわらかな髪を撫でた。
何度も、何度も。
「もっといい子になるよ」
子供は静かにそう言った。
「そしたら、きっと。観音のねーちゃんも、これはずしてくれるよ」
金蝉を慰めるように紡がれた言葉。
しかし、その言葉に答える術は………誰一人、持ち得なかった。
END