パタパタと小さな足音が聞こえる。
三蔵の家に、小さな同居人が増えて、もうまもなく一年が経とうとしている。
小さな孤児院の片隅で空を見上げていた幼な子は、今は傍らの太陽を見つめて微笑んでいた。
「さんぞー、さんぞーっ!お帰りー!」
仕事から帰れば真っ先に足元に飛びついてさみしかったとのたまって、ハウスキーパーの八戒を苦く笑わせてばかりいる。
しっかとしがみついて、悟空は頬を摺り寄せた。
この生き物はといえば、実に甘え上手の上いつも三蔵を困らせてばかりで、拳骨や罵声が飛ぶことも日に一度や二度ではない。
だが、悟空は変わらずに三蔵に甘えては叱られるのをよしとしているらしい。
少しでも構ってもらえるのが嬉しいのだそうだ。
それでいて傍目に仏頂面でばかり接している三蔵も、悟空のことを憎からず思っているのは、わざわざ騒々しさの塊である子供を引き取るなんてことをしでかして、とある赤い髪の男を笑わせたことからも明らかだ。
そんな中、子育てにおいては比較的放任主義めいた教育方針をとる三蔵だが、ただひとつ気になることがひとつある。
それが、悟空に(一応)良くしてくれているらしい隣家の親子のことだった。
これから語るお話は、そんな二家族の、とある秋の一シーン。
〜the
Destiny〜 もうひとつのお話。
「じゃあ俺、金蝉のトコ、遊び行ってくるな!」
ひとしきり熱烈な歓迎をすませた後はといえば、これである。
認めたくはないが三蔵によく似た男が隣家に越してきてから、昼だろうが夜だろうとお構いなしだ。
三蔵はといえば、どうも自分よりそれが優先されているような気がして、中々に腹立たしい。
「バカ言え、何時だと思ってる」
リビングの壁時計に目をやれば夜八時。
子供が遊びにいくような時間でもない。
「む…だって、金蝉ご飯食べた後なら良いって言ったもん」
「ダメだ」
すげなく打ち払うと、青菜に塩をかけたようにしょげ返るのが見えた。
これで大人しくなるだろうと、三蔵は誰にも悟られぬように息をつく。
三蔵とて疲れている。
これ以上、悟空に面倒ごとを起こされるのは腹立たしかったし――なにより、自分の養い子である悟空が、自分を差し置いてどこそこ出かけるのは……子煩悩といわれようがどうしようが憎たらしい。
結局、隣の子憎たらしい金髪はと言えば、考えるに『親である自分の代わり』なわけで、自分さえ帰れば基本は用無しのはずだ。
だから、ぎゅっと口元を引き結んだ悟空の瞳がたちどころに潤んでいく、だなんて、三蔵は考えもしなかったのだ。
「ヤダッ!俺行くんだ!!」
「ダメだと行ってるだろうが!聞き分けろッ!」
疲れに響く子供高い声に、思わず声を荒げたのがまずかったのか。
「さ、さんぞーの………はげぇっ!!!」
「はっ―――!?」
どういう意味だと問い詰める間もなく、短い足で懸命に駆けて、悟空は家を飛び出して行った。
後に残された三蔵はといえば、ふつふつと湧き上がる不機嫌をかみ殺すにも発散するにも、その大元の子供はといえば、すでになく。
眉間の皺を一本増やして、どっかりとソファに腰をおろした。
「おやおや、喧嘩しちゃって、いいんですか?」
行っちゃいましたよ。
からかいを含んだ声音が笑った。
次いで、それまで絶え間なく続いていた水音が止まる。
「さて、食器洗いも済みましたし、僕はコレで帰りますね」
日に何度かある他愛ない親子喧嘩は、三蔵が悟空を引き取り、週一の割合でこの家を訪ねるようになってから幾度も繰り返された光景だ。
今更驚くべき様相でもないのだろう。
「ああ」
「まったく、悟空がいないと僕はお疲れ様の一言も貰えませんね。だから悟浄が笑うんですよ、親バカだなんて」
苦笑交じりにエプロンを外しながら、八戒は帰り支度を整える。
もはや、返答を返すのすら苛立たしく、三蔵は懐のタバコを探りだした。
「でも、相変わらず仲良しなんですねー、お隣の金蝉さんも面倒見が良くて僕も助かってるんですよ」
あれで中学生だっていうんだから驚いちゃいます。
機嫌のいい八戒の様子を横目で伺いつつ、三蔵はネクタイを緩めて小さく呟く。
「……ロリコン野郎が」
「え?何か言いましたか?」
「言ってねえよ。仕事はもう終わりだろう、とっとと帰れ」
「はいはい、では失礼しますね」
この保護者が、すこしばかりやきもち焼きだというのは、彼らを取り巻く周囲では、案外知られている事実である。
++++
一方、悟空はと言えば養父に負けず劣らず不機嫌だ。
金蝉なら部屋だという菩薩に促されて、蹴破るように木のドアを開けて飛び込むと、それを予測していたかのような金蝉のため息が聞こえるのがココ最近の常だ。
「こんぜーん」
「お前……一日何回うちにくりゃ気が済むんだ」
ベッドの上によじよじと膝に乗り上げて、三蔵にするのと同じように金蝉の胸元に頬を摺り寄せると、呆れ混じりに頭を撫でてもらえるのが心地良くて、悟空は目を細めて本日3度目の再会の抱擁を堪能する。
「一日何回?んと、一日…いっぱいがいい!……けど、三蔵はちょっと怒ってた」
本当は『ちょっと』よりもだいぶ怒っているけれど。
出掛けの三蔵の声を思い出して悟空は少ししおれてしまう。
「声、外まで響いてたぞ」
咎めるように言えば、また輪をかけてしょぼんとしぼむ。
語尾を弱らせつつ、それでも精一杯の虚勢を張って少し口を尖らせているのは、日頃の様子とかね合わせて見ても子供じみて見える。
実際まだ手の中に収まっている悟空はといえば、歳を数えることまだ5つで大きい金色の瞳の似合う子供だ。
本来子供好きでもなんでもない金蝉だが、不思議にこの隣家の小猿だけはついつい構わずに居られない。
人懐こいが、てんで危なっかしいこの生き物を振り払うのは心なしか躊躇われるからだ。
冷たくすればしょげ返り、戯れに髪を撫でてやればただそれだけで微笑を返す彼は、金蝉の長くはない人生の中でも相当に面白い部類に入る。
だが。
「親を怒らせてもなんの特にもならん。とっとと帰れ」
「やだ!俺帰らない。菩薩のねーちゃんの子供になる!」
「……バカ言ってねえで、帰――」
「だって、三蔵がふ、うっ………わあああぁぁん―――」
狼狽したのは金蝉だった。
何故こんなにも脈絡無く泣き出すのか。
ココに越してくるまで年下に付き合う縁のなかった金蝉はこういうことにあまり免疫がない。
うるさいと殴ってもいいのだが、それでは事態をただ助長させるだけにも思えた。
「んだ?うるせぇぞ、なにやって………あーあ、俺はお前を恋人を泣かせるような男に育てた覚えはねぇんだがな」
ノックもなくひょいと顔を覗かせた菩薩が、どうやら慌てているらしい金蝉を見つけて笑う。
「何が恋人だ、冗談じゃ………」
「ん?どーしたチビ。ウチのが何かしたか?どこ触られた」
「触ってねぇっ!!」
「あー、もう………うるせぇな。」
いまいち柔軟な思考には縁の無い息子を見て、菩薩は至極面倒そうに長い黒髪をかき上げる。
泣き叫んではいるものの、目下隣家の子猿は必死に息子にしがみついている。
どうやら原因はもう一人の悟空を溺愛している男らしい。
「う、ヒグッ…ンくッ…俺、もうウチ帰らないっ!」
「ほーお」
菩薩の目が楽しそうに細められるのを見て、金蝉は嫌な予感を募らせた。
往々にして、『楽しいことを思いついた』と、彼女が目配せするときにろくなことは無い。
「このバカ、余計なこと」
「要するに駆け落ちか」
「違うっ!」
「かまわんさ。なーチビ、ウチの子になるんだろ?よろこべ、今からお前のとーさんに言ってきてやるからな」
ピク、と胸もとの塊が何か反応を返す。
少しおどおどと金瞳がもう一度金蝉を見上げるころには、もう菩薩は部屋の中にいなかった。
「知らねーぞ、んなこといっちまって………」
「ック………いーんだもん。俺、金蝉とカケオチで」
菩薩は有言実行を以ってなる一代の起業家だ。
本気で悟空を引き取ると言い出しかねない。
本当にわかっているのかこのファザコン子猿が。
ため息をつきそうになって、やめる。
「飯は食ったのか」
「食べた………けど、泣いたらハラヘッタ」
涙としわでぐちゃぐちゃになってくれた服を嫌そうに見ながらも、胸元にしがみついた子猿を抱き上げてダイニングに連れて行く。
「金蝉、今日からおにーちゃんだなv」
ちう、と可愛い音を立てて頬に唇が押し当てられるのを感じながら。
こういうのも悪くないのではないか。
不意に浮かんだ考えを、金蝉は必死に打ち払った。
暴れる小猿を風呂にいれ終えしばしくつろぎ、目をしぱしぱさせ始めたのを見かねて部屋に移る。
「先に寝てろ。俺はまだ明日の予習も復習も済んでねーんだよ」
一緒に寝て欲しいと服の裾を引く悟空を振り払い、ベッドの中に押し込む。
悟空は口を尖らせていたが、英語の単元テストは待ってはくれない。
すこし恨みがましそうに布団の端から悟空は見ていたが、眠れ、と髪を撫でて促せば小さく頷いて瞳を閉じた。
少しばかり寂しそうに見えたのは、なぜか。
やはり自分では――――不足なのだろう。
どことなく胸にしこりが残るのを感じたが、振り切って机に向かう。
明日まで大人しくしていればいいと思いながら、金蝉はペンを握った。
+++++
草木も眠る真夜中。
悟空は、ハッと目覚めた。
まだ到底目覚める時間ではない。
もう一度眠りにつこうと、隣に温かい感触を感じて擦り寄った。
だがそれは、なんだかいつもと違う。
いつもと同じに心地よく抱きしめられてはいるのだけれど……
「………さんぞー?」
小声で呼ぶが答えは無い。
そっと傍らの相手を覗きこんで、そういえば金蝉の家に来ていたことを思い出した。
金蝉の胸元を揺する。
部屋は暗く、何の音も無い。
酷く寂しい気持ちばかりがこみ上げてくるのに、金蝉は眼を開けようとはしてくれない。
幾度か軽く胸元を叩き、それでも反応が無いのが分かると、なんだか鼻がツンとした。
三蔵だったら、嫌そうな顔はするけれどすぐに起きてくれるのに。
今はココに居ない保護者のことが急に思い返されて切なくなる。
悟空の腰に回されている手の中からそっとすり抜けた。
身体が離れてしまえば余計にさみしい気持ちが募る。
うちに帰ろうか。
ふとよぎった考えに首を振る。
そんなことをして、もう二度と金蝉の家に行くなと言われたらどうしたらいいのか。
ただ遊びに行くだけなのにあんなに怒っていたのだ。
でも…。
すっと背中を冷たい風が通った。
もういちど金蝉の手の中にもぐろう。
泣きたくなる気持ちを飲み込んで布団に手をかけたのに。
その瞬間、金蝉は不意に背を向けた。
寝返りぐらい当然のことで、深く気にかけるものでもないのに、なんだか自分との間に隔てを置かれてしまった気がして、ついに眦に涙がたまる。
『ったくお前は…夜中に起こすな』
三蔵は、文句を言いながら悟空がもういちど眠るまで背中を叩いてくれた。
それを思い出して、もう我慢は利かなかった。
そっと抜け出す。少し後ろを振り返り、それでも起きた気配がないのを悟って悟空は部屋を後にする。
三蔵のところに帰りたい。
小さい背中が見えなくなってから、金蝉はため息をついて目を開けた。
どうしても勝てない隣家の年増金髪に、少しばかり悔しい気持ちをかみ殺して。
++++
あまり物音を立てないように、出来るだけ注意して菩薩宅のドアを閉じた。
悟空の家は隣だ。歩いて数十秒も掛からない。
三蔵は、鍵を開けてくれるだろうか。
もしかしたら、もう。
ものすごく怒ってしまって、顔もみたくないと思われて。
悟空を嫌いだといったお母さんと同じように……悟空を捨ててしまうかもしれない。
喉がぐうと鳴った。
本当は泣き出したい。
でも、そんなことをしたらダメだ。
鬱陶しいと思われて、嫌な子だと思われる。
悟空は祈るような気持ちで玄関のドアノブを捻った。
鍵は、開いていた。
ふっ、っと曇りが吹き払われるように気が晴れる。
もしかしたら、待っていてくれたのかも知れない。
悟空の胸ははやった。
急いで、寝室に向かう。
もう三蔵だって眠っている時間だ。
そっと布団の中にもぐりこめばいい。
いつもみたいに。
そう、いつもそうしているように。
背伸びをしてノブに手をかける。
捻る。
けれど、それは動かない。
寝室の鍵は、閉まっていた。
小さな胸はただそれだけで押しつぶされる。
いつも悟空と一緒に眠っている部屋なのに、どうして悟空が帰る前に閉じてしまったんだろう。
そんなこと、簡単だった。
三蔵の言うことを聞かなかったからだ。
行くなという、三蔵を振り切って、あまつさえ悪口さえ投げつけて。
三蔵が、怒っていないはずがないのだ。
耐えて飲み込んで、それでも溢れようとする涙がついに喉を振るわせた。
「ひぅ…ンっく…うっ…さ、ぁんぞ、三ぞぉっ!」
一度堰を切った涙は止まらなかった。
瞬く間に悟空の丸い頬は、とめどない涙に濡れ、震える身体を押し隠すことも出来ずに悟空は小さな身体を縮めて嗚咽を呑む。
顔をくしゃくしゃにして泣きながら、悟空は何度か三蔵と繰り返した。
それでも、扉は開かなかった。
三蔵は起きてこない。
悟空の背中を叩いて撫でてくれない。
もう、金蝉のところも出てきてしまった。
帰るところなど、ココしかないのに。
三蔵は悟空のことなど嫌いになったのだ。
怒っているのだ。
「も、…ヒィぅ…こんぜ、のトコ…ック…いかな、――だから、三蔵ぉ」
よたよたする足取りで、冷たいドアにもう一度擦り寄る。
小さい手で幾度か扉を叩く。
これで、三蔵が起きないはずはない。
開錠の音が聞こえた。
「……泊まってくるんじゃなかったのか…――っ?」
意地悪く言いかけた言葉は止まる。
扉を開けるなり足元に飛び込んできた悟空の肩は震えていた。
万が一と思い玄関を開けてはいたが。
「おい、サル。何で泣いてんだ」
嗚咽をかみ殺しながら泣いているのを見かねて三蔵はその場に膝を折った。
「ウッ…ン…ひっク…」
まさか何事かされたのか。
嫌な想像が湧いて、泣いて引っ付いている悟空の服をめくって確かめてみるが別にそういう痕跡はない。
ひとまず安堵して、震えるばかりで何も応えない小猿を引き剥がした。
「何で泣いてんだと聞いている」
「だって…だって、三蔵俺のこと嫌いになったから……」
言った自分の言葉に傷ついたように悟空はまた大きくしゃくりあげた。
一方の三蔵はと言えば訳が分からない。
「も、俺、三蔵の言うこと聞くから。金蝉のトコ行かないから」
ぐすぐすと鼻をすすりながら、悟空は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を丸めた拳で何度もぬぐった。
なるほど、それは三蔵にとってはいい提案だ。
すんすん、とまだ涙の止まらぬらしい悟空が、もう一度三蔵の首筋に飛びつく。
「ン、…ック俺、三蔵のこと、一番だから…」
―――嫌いになんないで。
かすれて聞き取りにくい言葉を最後に、悟空の声は途絶えた。
もともと悟空が起きているような時間でもない。
三蔵に触れたことで悟空の緊張の箍はすべて緩みきってしまったらしい。
首にしがみついたまま寝息を立て始めた子供を前に、三蔵はひとつため息をついた。
なるほど自分はまだ隣の金髪のガキに負けているわけではないらしい。
少しばかり満足した自尊心を胸に、まだまだ手のかかる小猿を抱えて三蔵は寝室のドアを閉じたのだった。
++++
翌朝の観世音菩薩宅では。
「なーんだ、もう実家に帰られちまったのか?」
早朝から不機嫌にブレザーに袖を通すわが子を見て、菩薩は楽しそうに目を細める。
「………」
「あんなに可愛がってんのになー?」
「………可愛かねえよ。あんなサル」
「ふぅん。じゃあ、もう連れ込まないのか」
「ほっといても勝手に来る」
自信たっぷりに応えて、金蝉は通学カバンを手に取った。
玄関先からいつものように悟空のおはようの挨拶が聞こえるまで、もうまもなく。
夢にまぎれて、三蔵に『もう金蝉のトコに行かない』と、伝えたことなどまるきり覚えていない悟空は、三蔵が眉をひそめるのも気にせず、これからもせっせと金蝉の家通いを続けるのである。
まだ三蔵にべったりな悟空の、初めてのお泊りはまだまだ先のお話。
END