夜中に目が覚めた。
どんな夢を見たかなんて覚えていない。
でも、赤くて、紅くて、恐くて、悲しくて、痛かった。




朔の日




ひゅっと、息を呑む音と共に黄金が開いた。
口が悲鳴の形を取るが、音は出なかった。
見開かれた瞳は、何も見ていない。
早鐘のようになる鼓動が、耳を圧して息さえままならない。



誰か!



こわばった身体。
全身を覆う闇が、質量を増した気がした。


蠢く闇。


耳鳴りのように響く己の鼓動。
月明かりのない闇夜に子供は、悲鳴を上げた。
声にならない悲鳴。



……!!



跳ね起きた。


音のしない空間に子供の荒い呼吸音だけが響く。
両腕で抱きしめるように自分の身体に腕を廻す。
ぞわりと、背中を悪寒が這い登って来た。


世界にたった一人。
何もない暗い闇の中に一人。
音のない闇の中に一人。


一人。



ひとり。




子供は小さく丸まるように膝を抱えて、寝台に踞った。
そんな子供を部屋の隅からじっと見つめる気配がする。
恐る恐る見やれば、意思と質量を持った闇が、子供を獲物と見定めた獣のように隙を窺っていた。
子供は反射的に顔を背けると、その身を闇から隠すように丸まる。


ざわりと、闇が動いた。


子供は寝台から飛び降りた。
もがくようにして部屋の入り口へ向かう。
何かが、足に絡まった。
もんどり打って床に叩き付けられる。

「っつ・・・」

痛みに苦鳴が漏れた。
振り返る。
そこに闇が、暗いあぎとを開けて待ちかまえていた。



おいで・・・



声が、聞こえた。

甘く、気怠げな女の声で。
子供を誘う。

子供は、恐怖に抱きすくめられ、身動きすらできない。
背筋を伝う悪寒に、身体は小刻みに震える。



・・・おいで、坊や



母親が、子供を呼ぶ声で。
子供を呼ぶ。

子供は、金の瞳を見開いて、後ずさる。
声は、止まない。

「・・・やっ・・や・・だ」

呟く声は、闇に飲まれ、子供の瞳から透明な滴が舞い落ちる。
はらはら、綺麗な滴が。

闇は、その腕を伸ばし、子供を捕まえた。
引きずられて、子供はあぎとに呑まれた。
全身に絡みつく闇の触手。
這い回るおぞましさに子供は、意識が霞む。



誰か・・!



のしかかる闇の重量に耐えきれず、子供は長い悲鳴の尾を引いて、闇と一つになった。





















ふと、三蔵は顔を上げた。

誰かが、呼んだ気がしたからだ
じっと、耳をすます。

「気のせい・・」

ハンマーで殴られたような頭痛が、その時三蔵を襲った。
その痛みに声もなく三蔵は、椅子から転げ落ちる。
遠のく意識を気力で引き留め、三蔵は身体を起こした。

「・・・あんの・・くっ!」

がんがんと、破鐘のように。
その痛みと同時に響く、大音声の悲鳴。
すがりつくような恐怖に彩られた声。
三蔵の魂を握りつぶすような激しさで届く。

「・・・るせぇ」

三蔵は、机にすがるようにして身体を起こし、立ち上がった。
悲鳴は、休むことなく三蔵を打ちのめす。
少しでも気を緩めれば、恐慌をきたした悲鳴に意識が飲み込まれてしまう。

「バカが・・・」

軽くずきずきと痛む頭を振って、悲鳴を発しているものの所へ向かった。




寝所へ続く扉を開ければ、何かが倒れる音がした。
三蔵は、小さく舌打ち足を速めた。
寝所の扉に手を掛けたと同時に、先程とは比べ物にならないほどの声が、三蔵を貫いた。
瞬時に三蔵の意識が、飛ぶ。
が、痛みの凄まじさに引き戻される。
寄りかかるように扉に身体を預け、三蔵は痛みで乱れた呼吸を整える。
深呼吸を繰り返しながら夜空を見上げれば、星明かりが微かに見える。
いつもなら、この時期は見上げる先に月が見えていた。
それが見えない。

「・・・・朔か」

最後に大きく息をすると、三蔵は寝所の扉を開けた。





















子供は、声も上げずに泣き叫んでいた。
闇のかいなに抱かれ、際限なく襲ってくる紅い幻影に。
赤い痛みに。



誰か、誰か・・・!!


闇に一筋の光りが、不意に射した。
同時に声が、聞こえた。

「てめぇ、俺を殺す気か」

と。




「・・わあぁぁ──っっ!!」

声を上げて、子供は光りに向かって走った。
体当たりするように光りにすがりついた。

「助けて、助けてよぉ!!」

泣きじゃくり、すがりつく子供の身体を受けとめながら、三蔵は深いため息を吐いた。
そして、静かに子供の名前を呼ぶ。

「悟空」

びくっと悟空の肩が震え、戸惑うように顔が上げられた。
見上げてくるその顔は、恐怖に強張り、泣きはらしていた。
もう一度、三蔵は名前を呼んだ。
静かに、悟空の心に染み込むように。

「・・・さ・・んぞ・・」

焦点が引き結ばれる。
自分がすがりついているその人間に。

目の前に居るのは金色の光りを持った人。
暗闇を照らす一条の光り。
闇の世界から救い出してくれた。



「てめぇ、こんな夜中に何、騒いでやがる」

不機嫌な声で問えば、悟空は嬉しそうに笑った。
その笑顔に三蔵は思わず、顔をしかめる。

「湧いてんのか?」

それには答えず、ぎゅっと、悟空はしがみつく。

「さんぞぉ・・・だ」

僧衣に顔を埋めて、確かめるように顔をこすりつける。

「悟空?」

名を呼べば、そっと顔を上げて見返す瞳に怯えを見つけた。

「・・・・恐かった・・・赤くて、紅くて・・・痛くて・・・・悲しくて・・・・」

続く言葉は、漏れだした嗚咽の中に消えてゆく。
三蔵は、肩を震わせて泣き出した悟空の華奢な身体をそっと抱きしめてやる。
悟空は自分を宥めるように廻された三蔵の腕のぬくもりが、何故か酷く切なくてまた、涙が溢れてきた。
何時までも泣きやまない悟空を三蔵は抱き上げると、上掛けのずり落ちた寝台へ向かう。
泣き続ける悟空を寝台に座らせ、三蔵は上掛けを拾って寝台の上に乗せた。
悟空は涙を流しながら、三蔵の行動を黙って見つめていた。

あの暗闇で自分にまとわりついていたのは、寝台から落ちた上掛けだった。
わかってみればどうって無いことで。
それでも、あの恐怖はまだ、悟空の中にあった。



暗闇の中に一人で居る。
大切な物が紅く染まって、悲しくて、痛くて・・・・失う恐怖。
残される恐怖。

消し去ることのできない喪失感に悟空は、怯えた。

それは、今、目の前にあるこの黄金の光りもまた失うかも知れない恐怖。




泣き濡れた金色の視線を感じて、三蔵は黙って悟空の前に腰掛けた。
寝台のきしむ音が酷く虚ろに響く。

「さんぞ・・・は、居なく・・・ならない?」

三蔵が口を開くより早く、悟空が消え入りそうな声で訊いてきた。
その問いかけに三蔵は、困惑した顔で悟空の顔を見返し、悟空の求める答えをその表情の中に探した。

答えは、一つ。

「・・・ああ」

頷けば、ぎゅっと、三蔵の僧衣を握りしめてくる。

「ホントに?どこにも行かない?」
「ああ」

涙で煌めく金の瞳に紫暗が映る。

「お・・置いて行ったりしない?」
「しない」
「ほんと?」
「しねぇよ」

振るえる腕が三蔵に向かって伸ばされ、その腕を三蔵は自身に引き寄せる。
抱き込まれる腕のぬくもりに、悟空はようやく安堵のため息をもらした。
三蔵もまた、ほっと息を吐く。

「・・・さんぞ・・俺・・・」

まだ何か言おうとする悟空の言葉を遮って、

「寝ろ。俺も眠てぇ」

そう告げる。

「・・・・・うん」

戸惑う悟空を抱えるようにして、寝台に横になると、三蔵は上掛けを被った。

「さ、さんぞ・・お、俺、まだ・・」
「寝ろ。今晩は俺もここで寝る」

告げる声はぶっきらぼうで。

「うん」

三蔵の腕の中で悟空は楽な姿勢に落ち着くと、ようやく安心した笑顔をこぼした。
そして、小さく「おやすみ」と告げると、寝息を立て始めた。




三蔵は、腕の中の悟空が寝息を立て始めてようやく、緊張を解いた。

爆発的に聞こえた声。

不安と哀しみと恐怖と・・・様々な暗い感情を纏った悲鳴。
明るい表情の奥底に息づく恐怖。
素直な感情の裏にある哀しみ。
太陽のように笑うその笑顔の先に見える喪失。

あの岩牢から連れ出して、日が経つほどに悟空の深淵を見る。

いつまで囚われ続けるのか。
無くした記憶が戻れば、悟空の中の深淵は埋まるのか。
そんなことは誰にもわかりはしない。
例え、悟空本人であっても。



それでも・・・・三蔵は思う。



少しでも己が側にいることで、この無垢な魂が救われるのなら、できる限り側に居てやりたいと。
望むのなら、この魂賭けて。




朔の日。

月の見えない新月の夜は、子供が泣く。
金色の子供が泣く。

朔の日。

陽が射す夜明けまで一緒に居よう。
金色の子供が笑うまで。




end

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