咲くや この花 桜散る

咲くや この花 誰ぞ想う




桜 雨




満開を過ぎた桜が、微かな風の流れに花びらを散らす。
はらはらと舞い散る薄桃色の花片の雨に打たれながら悟空は、その桜を見上げていた。

寺院に三蔵と住むようになって、しばらくして見つけた桜の老木だった。
毎年、今年が最後だと言いながらその桜の木は、殆ど白くなった花を毎年、見事に咲かせていた。
だがそれも、本当に今年の春が最後のようだった。
か細く、弱くなった桜の生命の流れが、悟空の心に訴える。
悟空はそっと、その節くれて乾いた幹に身体を寄せると、桜の声に耳を傾けた。






それは、遠い昔の物語。
まだ若く、その化身が現世に姿を結ぶそんな頃──────。



桜は一人の若い僧侶に恋をした。

その僧侶は、金髪に紫暗の瞳を持っていた。
剃髪するはずのその僧侶の髪は、いつまでも豪奢な黄金に輝いていた。
僧侶は法力僧の見習いであったが、その美しい容姿故に、位の高い僧侶達の欲望の捌け口の役目も担わされていた。

彼は、桜の花が好きだと、奥庭に咲く桜の元へ何かあると訊ねて来ていた。

やがて、桜はおのが化身に姿を変え、僧侶の前に立った。
柔らかな桜色の衣を纏った人間として。

初めて彼の前に立った桜の化身を見て、その綺麗な紫暗を見開いていた。
けれど、桜の儚げで美しい姿に魅せられた僧侶は、その緊張を解いた。
そして、声を掛ける。

「あなたは、どなたですか?」

と。
桜は答える。

「華桜」

と。
僧侶も答えた。

「緑皇と、申します」

そう言って伏せた瞼が青く透き通り、睫毛が濃い影を落とす。
桜はその姿にしばし、見惚れた。
僧侶もまた、自分を見下ろす榛色の瞳と流れ落ちる黒髪の輝きに虜になった。

二人は密かに思いを育て、愛しさを分かち合った。

蜜月は長くは続かなかった。
緑皇に懸想した僧侶の間で争いが起き、死者が出た。
戒律の厳しい寺院にあるまじき行為だと、寺院の全てが恐れおののいた。
誰もが責任を逃れるように押し付け合い、最後に緑皇にカタチのわからなくなった責任が負わされた。

破門を言い渡されたその日、緑皇は寺院を去った。

それ以来、奥庭を訪れる者は無くなり、桜は涙した。
噂好きな風が、緑皇が来なくなった理由を桜にもたらした。
その時以来、桜の願いはただ一つになった。

愛しい彼の人にもう一度、逢いたい。
最後の力を持ってその身を化身と成して、華桜として逢いたい。

最後の時を迎え、桜は大地母神が愛し子、大地の御子に願う。



もう一度、逢いたい…






悟空は幹から身体を離すと、悲しげな笑顔を浮かべた。

はらはらと音もなく降り続く花片の雨に打たれながら、悟空は桜に小さく頷くのだった。
















朧気だという言葉が似合う、そんな笑顔を浮かべてその夜、悟空は三蔵の前に立った。

その姿に三蔵は眉を顰めた。
その纏う空気の色に。
窓から差し込む満月の光に染まるその姿に。

「…悟空?」

名前を呼べば、悟空は三蔵の腕を取り、何処かへ誘い出すように引っ張る。
三蔵は眉を顰めたまま、悟空の行動に従った。




春宵、満月の光に浮かび上がった寺院の姿は、酷く現実からかけ離れた印象を三蔵に与えた。
悟空は緩やかに三蔵の腕を握って、先を歩く。
その後ろ姿は、宵闇の中に溶けてしまいそうで、三蔵の胸に不安の芽を植え付けた。




悟空の意識は、日暮れと共に幾重にも紗の衣がかけられた様になった。
だが、それは、優しく暖かい腕に抱かれているようなそんな心地よさだった。
ただ、自分がしようとしている行為の認識は無かった。




人気の無い回廊を渡り、奥庭へと足を運ぶ。
ひたひたと響くのは、悟空と三蔵の足音。
春の盛りの宵闇に、その桜は輝いていた。



奥庭の一番奥に咲く桜の老いた古木。



三蔵は目の前に広がる花の海に、その紫暗を見開いた。
そして、正面、狂い咲きのように咲いた桜の下に、薄紅の衣を纏った人間が立っていた。
その姿を認めた三蔵の瞳が、訝しげな光を宿す。
そんな三蔵に気付くことなく、悟空は薄紅の衣を纏った人間の傍へ、三蔵を誘う。
近づくに連れ、その人間がこの世のモノではないことに三蔵は気が付いた。



やがて、雨のように花片が舞う桜の枝の下、三蔵は佇む人間と対峙した。



三蔵の目の前に立つモノは、長い黒髪を後ろで緩く束ね、榛色の瞳の美丈夫だった。
纏う薄紅の衣が桜に映えて、その美しさを際だたせていた。
一方、三蔵は白い僧衣を無造作に羽織っただけの姿だったが、その頂く金糸は満月の光に豪奢な輝きを放ち、宵闇色の紫暗の瞳は奥深く、底知れない光を宿していた。

綺麗な二人。

悟空は三蔵の手を離すと、三蔵にもたれかかるようにして、意識を手放したようだった。
もたれてくる小さな身体を受けとめて、三蔵は目の前のモノから視線が外せなかった。






大地の子が連れてきてくれたのは、緑皇か。

姿形は緑皇そのものであったが、その魂はもっと気高く、高位のもの。
だが、目の前で大地の子をそのかいなに抱く姿は、紛れもなく彼の人。

「…緑皇……」

紡がれた言葉に、三蔵は軽い目眩を覚えた。
心の奥に染み渡るその声。
声が染み渡ると共に湧き上がってくる自分のモノではない思い。



何だ…?



そう思う間もなく、三蔵は己の意識が全くの他人と入れ替わる衝撃を受けた。






「華桜…逢いたかった…」

三蔵の唇から零れ出た言葉に、桜はおのが耳を疑った。
だが、目の前に大地の子を抱えて佇むのは、あの日別れた緑皇に他ならなかった。

「私も逢いたかったよ、緑皇」

引かれるように三蔵の傍に寄れば、悟空が目を覚ました。
悟空は三蔵が、違う人間に変わったことに気が付いたのか、そっと、三蔵の腕から離れる。
それを待っていたかのように、桜の化身と三蔵の身体を借りた緑皇の姿が重なった。

その姿を霞の掛かった瞳で悟空は無表情に見つめていた。
が、つと、その頬を銀の雫が一筋落ちた。

「…緑皇、最後に逢えて嬉しい…緑皇、愛しい人」
「華桜、最後って?」

抱き合い、寄り添って桜の根元に座る二人。
桜は、己の寿命が今夜尽きることを告げる。
その言葉に、はらはらと三蔵は涙を零す。

「泣かないで…大地の御子がこうして。姿を結ぶ力を最後にくれた、そして、御子の最愛の人の身体まで…あなたと同じ姿形だと、それだけで…」

優しく、愛しく、三蔵の金糸を撫で、口付けを落とす。

「私を呼んでくれたのは、大地の御子様だったのですね。このお方のお心は、清らかで高貴な…華桜、私の宿るこのお方は……」
「緑皇…今一度、この手にお前を」
「…華桜」

思いの丈を全て注ぎ込むように、お互いの記憶に留めておこうとするように、強く、強く抱き合い、影は重なった。








…さんぞ……さんぞ…



泣くな、悟空…



やだよ…やだ。さんぞに触らないで…触らないで…



誰も触れてなんかねぇ。泣くな、悟空。



取らないで、三蔵を取らないで…俺から…やだ…



取られるか、俺はお前のものなんだよ。だから……








はらはらと悟空の円らから、銀の雫が零れ落ちる。
大地の愛し子の涙に誘われるように、月光は翳り、風が桜の花をその手で散らし始めた。

ざわざわと草や花、木々が呼応する。

一陣の突風が、桜の老木を巻き上げるように渦を巻き、吹きすぎて行った。
その風に煽られて、重なった影が離れる。

「…御子…」

身体を起こして悟空を見やれば、淡い燐光を放って、悟空は泣いていた。
声なき声が辺りに響き渡って、大地が三蔵を探している。

そう、大地は知っているのだ。
手元に還って来て欲しい愛し子は、三蔵の傍でなければ生きられないことを。
三蔵から無理矢理引き離せば、愛し子が壊れてしまうことを。
例え、悟空が許した逢瀬であっても、こうして本心では拒絶し、泣き濡れている姿を見てしまえば、その涙を沈めることが出来るのは、三蔵以外にはいないことを。

「一緒に…緑皇」
「一緒に、華桜…」

三蔵の姿にもう一つ、同じ姿で、でも、三蔵より儚げな印象の姿が重なったと、間もなく、桜の化身と共に宵闇に掻き消えた。








うるせぇ……泣くな、悟空……



ズキズキと痛む頭を振って、三蔵は身体を起こした。
そして、降りしきる花片の雨の中、悟空の傍に座り込むと、声もなく泣き濡れる悟空の身体をその腕に抱きしめた。

「…悟空」

耳元で悟空を呼ぶ三蔵の声は、悟空の意識に掛かった霞を取り払った。
朧な金眼に光が戻る。

「さ、んぞ…?」
「ああ…」

悟空の手が三蔵の背中に回った。

「…さんぞぉ…」

三蔵の腕の中、声を上げて泣きながら、悟空は後悔した。

桜の望みが、あまりにも切なくて、悲しくて、大好きな人と二度と会えないのは悲しいから、辛いから、逝ってしまうその前に叶えてあげられればと。
望んだ結果に、悟空は心が引き裂かれそうだった。

大切な三蔵が、自分とは違う人間を愛しげに見つめる。
愛しい三蔵が、自分とは違う人間に愛を囁く。
宝物の三蔵が、自分とは違う人間を抱きしめる。

狂いそうなほどの焼け付く思い。
引き裂かれるような哀しみ。

もう二度と、三蔵にこんな馬鹿げたことはさせない。
自分以外には触れさせない。

「さんぞ…三蔵……」

しゃくり上げながら、悟空は三蔵に口付けを強請った。
三蔵にしがみつきながら、その先の行為までも強請ってしまう。
それに答える三蔵の

「…お前は本当に、バカだな」

という、笑いを含んだ声を聞きながら、悟空はようやく笑った。







咲くや この花 桜散る

咲くや 薄紅 桜雨

愛しき人の腕の中




end

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