咲くや この花 桜散る 咲くや この花 誰ぞ想う
桜 雨
満開を過ぎた桜が、微かな風の流れに花びらを散らす。 寺院に三蔵と住むようになって、しばらくして見つけた桜の老木だった。
それは、遠い昔の物語。
その僧侶は、金髪に紫暗の瞳を持っていた。 彼は、桜の花が好きだと、奥庭に咲く桜の元へ何かあると訊ねて来ていた。 やがて、桜はおのが化身に姿を変え、僧侶の前に立った。 初めて彼の前に立った桜の化身を見て、その綺麗な紫暗を見開いていた。 「あなたは、どなたですか?」 と。 「華桜」 と。 「緑皇と、申します」 そう言って伏せた瞼が青く透き通り、睫毛が濃い影を落とす。 二人は密かに思いを育て、愛しさを分かち合った。 蜜月は長くは続かなかった。 破門を言い渡されたその日、緑皇は寺院を去った。 それ以来、奥庭を訪れる者は無くなり、桜は涙した。 愛しい彼の人にもう一度、逢いたい。 最後の時を迎え、桜は大地母神が愛し子、大地の御子に願う。
もう一度、逢いたい…
悟空は幹から身体を離すと、悲しげな笑顔を浮かべた。 はらはらと音もなく降り続く花片の雨に打たれながら、悟空は桜に小さく頷くのだった。
朧気だという言葉が似合う、そんな笑顔を浮かべてその夜、悟空は三蔵の前に立った。 その姿に三蔵は眉を顰めた。 「…悟空?」 名前を呼べば、悟空は三蔵の腕を取り、何処かへ誘い出すように引っ張る。
春宵、満月の光に浮かび上がった寺院の姿は、酷く現実からかけ離れた印象を三蔵に与えた。
悟空の意識は、日暮れと共に幾重にも紗の衣がかけられた様になった。
人気の無い回廊を渡り、奥庭へと足を運ぶ。
奥庭の一番奥に咲く桜の老いた古木。
三蔵は目の前に広がる花の海に、その紫暗を見開いた。
やがて、雨のように花片が舞う桜の枝の下、三蔵は佇む人間と対峙した。
三蔵の目の前に立つモノは、長い黒髪を後ろで緩く束ね、榛色の瞳の美丈夫だった。 綺麗な二人。 悟空は三蔵の手を離すと、三蔵にもたれかかるようにして、意識を手放したようだった。
大地の子が連れてきてくれたのは、緑皇か。 姿形は緑皇そのものであったが、その魂はもっと気高く、高位のもの。 「…緑皇……」 紡がれた言葉に、三蔵は軽い目眩を覚えた。
何だ…?
そう思う間もなく、三蔵は己の意識が全くの他人と入れ替わる衝撃を受けた。
「華桜…逢いたかった…」 三蔵の唇から零れ出た言葉に、桜はおのが耳を疑った。 「私も逢いたかったよ、緑皇」 引かれるように三蔵の傍に寄れば、悟空が目を覚ました。 その姿を霞の掛かった瞳で悟空は無表情に見つめていた。 「…緑皇、最後に逢えて嬉しい…緑皇、愛しい人」 抱き合い、寄り添って桜の根元に座る二人。 「泣かないで…大地の御子がこうして。姿を結ぶ力を最後にくれた、そして、御子の最愛の人の身体まで…あなたと同じ姿形だと、それだけで…」 優しく、愛しく、三蔵の金糸を撫で、口付けを落とす。 「私を呼んでくれたのは、大地の御子様だったのですね。このお方のお心は、清らかで高貴な…華桜、私の宿るこのお方は……」 思いの丈を全て注ぎ込むように、お互いの記憶に留めておこうとするように、強く、強く抱き合い、影は重なった。
…さんぞ……さんぞ…
泣くな、悟空…
やだよ…やだ。さんぞに触らないで…触らないで…
誰も触れてなんかねぇ。泣くな、悟空。
取らないで、三蔵を取らないで…俺から…やだ…
取られるか、俺はお前のものなんだよ。だから……
はらはらと悟空の円らから、銀の雫が零れ落ちる。 ざわざわと草や花、木々が呼応する。 一陣の突風が、桜の老木を巻き上げるように渦を巻き、吹きすぎて行った。 「…御子…」 身体を起こして悟空を見やれば、淡い燐光を放って、悟空は泣いていた。 そう、大地は知っているのだ。 「一緒に…緑皇」 三蔵の姿にもう一つ、同じ姿で、でも、三蔵より儚げな印象の姿が重なったと、間もなく、桜の化身と共に宵闇に掻き消えた。
うるせぇ……泣くな、悟空……
ズキズキと痛む頭を振って、三蔵は身体を起こした。 「…悟空」 耳元で悟空を呼ぶ三蔵の声は、悟空の意識に掛かった霞を取り払った。 「さ、んぞ…?」 悟空の手が三蔵の背中に回った。 「…さんぞぉ…」 三蔵の腕の中、声を上げて泣きながら、悟空は後悔した。 桜の望みが、あまりにも切なくて、悲しくて、大好きな人と二度と会えないのは悲しいから、辛いから、逝ってしまうその前に叶えてあげられればと。 大切な三蔵が、自分とは違う人間を愛しげに見つめる。 狂いそうなほどの焼け付く思い。 もう二度と、三蔵にこんな馬鹿げたことはさせない。 「さんぞ…三蔵……」 しゃくり上げながら、悟空は三蔵に口付けを強請った。 「…お前は本当に、バカだな」 という、笑いを含んだ声を聞きながら、悟空はようやく笑った。
咲くや この花 桜散る 咲くや 薄紅 桜雨 愛しき人の腕の中
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