桜 桃
赤く熟したサクランボをカゴ一杯に溢れるほど摘んで、子供が山を駆け下りてくる。
麓の家に大切な人が、大好きな人とちょっと不機嫌な顔で待っている。
上気した頬と上がった息を家の前で整えて、子供は元気よく、でもちょっと静かに家の玄関の扉を開けた。
「ただいまーっ!」
これ以上ないと言うほどの笑顔を湛えて、悟空は部屋に入った。
だが、迎えてくれるはずの人は居ず、窓から差し込む明るい初夏の日差しが、開け放たれた窓から入る風とカーテンと戯れているだけだった。
「さんぞ…?笙玄…?」
この時間なら必ず居る大きな窓のある広い居間。
それなのに誰もいなくて・・・。
悟空は床にカゴを置くと、三蔵と笙玄の姿を捜して家の中を見てまわった。
台所には、居なかった。
でも、お茶の時間の用意はしてあった。
洗面所とお風呂場。
きれいに磨き上げられて、いつでも使える状態。
東の部屋。
開け放たれた窓から入る風が、レースのカーテンを揺らしていた。
居間を挟んだ反対の西の部屋。
窓際の机でカサカサと読みかけの本のページが、風と戯れていた。
二階。
階段正面のこの家で一番大きな寝室。
三蔵と一緒に寝る部屋。
大きな寝台に新聞と三蔵の眼鏡が、置いてあった。
窓もカーテンも開け放たれ、風が悟空の髪を揺らした。
寝室の隣。
たくさんの本が在る部屋。
そこは薄暗く、天窓から入る光が、空気中の細かな埃をまるで小さな星のように煌めかせていた。
寝室の向かいにある扉。
開ければ洗い上げられた洗濯物が、風と共に踊っていた。
「居ないの…?」
心細い声が、悟空の口から漏れる。
込み上げてくる涙を、ぎゅっと目を瞑ることで横へ追いやると、庭に向かった。
三蔵が過労で倒れてから半月。
長い休暇をもらってこの村に来て十日が経とうとしていた。
最初の一週間は、体調が戻らない三蔵が心配で、片時も傍を離れたくなくて、ずっと傍に居た。
少しでも三蔵の姿が見えないと、何処かで倒れて居るんじゃないかと気が気でなく、朝、起きてこないと、知らない間に息が止まってしまったんじゃないかと不安でしかたなかった。
それも、少しずつ生気を取り戻し、いつもの様子に戻りつつある三蔵に悟空は、安堵を覚えた。
それでも、決して三蔵の姿の見えないところには行こうとはしなかった。
だが、今日は少し傍を離れたのだった。
庭で日光浴をする三蔵の傍で絵を描いていた悟空に、風がサクランボの実りを教えてくれたからだった。
悟空は、三蔵と笙玄に裏の山に遊びに行ってきてもいいかと承諾を得て、裏山へ三蔵のためにサクランボを摘みに出掛けたのだった。
「どこ…行ったの?」
広い庭を見渡して、二人の姿が無いことに悟空は肩を落とした。
帰った時の元気はどこへやら、すっかり意気消沈した悟空は、そのまま庭先に座り込んでしまった。
「さんぞぉ……」
心細げに名前を呼べば、風がその声を攫って行く。
届かない声に悟空は、耐えきれず泣き出してしまった。
「…ふぇ…さ…んぞ……ぇえっく…」
泣き虫。
自分で思う。
それでも、三蔵が居ないだけでこれほど不安になる。
寂しくなる。
強く、三蔵の傍らに居るために、強くなろうと思うのに。
心はこんなにも弱い。
身体も力も何より、三蔵にすがってしまうこの心を強くしたい。
でも・・・
一人は恐い。
一人は辛い。
一人は悲しい。
「…さん…ぞぉ…ひっく…」
まるで幼子のように泣きじゃくる。
と、軽く頭をはたかれた。
驚いて振り返れば、三蔵が眉間に皺を寄せて不機嫌で、どこか呆れた顔をして立っていた。
「さんぞ…」
「喧しいサルだな、お前は」
「へっ?」
「泣いてんじゃねぇ」
「…あっ…」
言われて、悟空は涙に濡れた頬を手で拭った。
「で?」
「あ…えっと…」
「何で泣いてた?」
要領の得ない悟空に呆れたため息を吐きながら、三蔵は戸惑ったように自分を見上げる悟空を見下ろした。
悟空が裏山へ遊びに行った後、気分が良かった三蔵はふらりと散歩に出た。
この村へ来て十日あまり、そのほとんどを療養に借りた家で過ごしてきた。
片時も傍を離れようとしない不安な面持ちの悟空を安心させる為でもあった。
それが、やっといつもの翳りのない笑顔を向けて、外へ遊びに出掛けた。
そのことが三蔵の気持ちを軽くした。
体調も良いことが、三蔵には珍しい散歩となったのだった。
借りた家は村はずれにあり、その周囲は三方を広い野原と畑が取りまいていた。
残りの一方は、悟空が遊びに出掛けた山がある。
三蔵は、足の向くまま、周囲をぶらぶらした。
夏を身近に感じる日差しと乾いた風は、病あけの身体に酷く心地良かった。
見渡す畑は、色づいた小麦の穂が波のように風にうねっている。
長閑で平和な風景を楽しんでいた三蔵に声が聴こえた。
すがるような声。
「…バカ猿」
小さく舌打ち、三蔵は家へと踵を返した。
聴こえる声は、三蔵を呼んで泣いていた。
煩いほどに。
切なさに胸が痛むほどに。
戻って庭先を見れば、悟空が膝を抱えて泣きじゃくっていた。
まだ、不安なのか。
三蔵は足音を忍ばせて泣きじゃくる悟空の後ろに立つと、その大地色の頭を手で軽くはたいたのだった。
「だ、だって、誰も居なかったんだもん……」
拗ねて伏せられた瞳は、赤く泣き腫らしていた。
「笙玄は?」
「居ない…三蔵も居なかった。俺、家中探したのに……」
思い出したのか、また泣きそうに顔が歪む。
「っつたく…そんなことぐらいで、いちいち泣くな」
「だ、だって…」
「だから、いつまで経ってもガキだって言われんだろうが」
そう言って三蔵は、悟空の頭をくしゃっと掻き混ぜた。
「ガキじゃねぇもん…」
泣きそうな顔のまま、頬を膨らます。
その仕草が、十分悟空を実年齢より幼く見せていることに、気付いてもいない。
三蔵は、もう一度悟空の頭を掻き混ぜ、
「あれは何だ?」
と、居間の床に置かれたサクランボを指さした。
悟空は、三蔵が指さしたサクランボを見やって小首を傾げた。
「あれ?あれって、サクランボ…」
「見りゃわかる。あんなにどうすんだ?」
「どうするって、食べるんだ」
「誰が?」
「三蔵に決まってんじゃん!三蔵にって採ってきたんだもん。すんげえ甘いんだぜ」
泣きそうだった顔が、あっと言う間に笑顔に彩れる。
その顔にそっと、安堵の息を吐いた。
「って、あんなに食えるか」
「でも…」
あっという間に笑顔がしぼむ。
その落胆ぶりに甘いと思いながら、つい宥める言葉が付いて出る。
「みんなで食えばいいだろうが」
「そうだな、うん、みんなで食おう」
三蔵の言葉にころころと表情を変えて、また、笑顔になった悟空に、三蔵はサクランボを洗うように命じた。
「わかった!」
悟空はいさんでカゴを取り上げると、台所へ持っていき、サクランボを洗い出した。
そこへ、笙玄が買い物袋を下げて戻ってきた。
「ただ今、戻りました」
居間へ入ってきた笙玄に悟空が、元気いっぱい台所から声を掛けた。
「おかえりーっ!」
「はい、ただいま、悟空…って、何してるんですか?」
居間と台所を隔てるカウンターの上に荷物を置いて、笙玄は悟空の手元を覗き込んだ。
「サクランボですか?」
「うん。笙玄も一緒に食べような」
「はい」
「じゃあさ、三蔵んとこで待ってて。すぐに持ってくから」
「はい、じゃあ、待っています」
にこっと笑うと、笙玄は、窓際に座る三蔵の傍へ腰を下ろした。
「お散歩は、終わりました?」
「ああ」
「お体は、大丈夫ですか?」
「いい…」
「悟空、泣いたのですか?」
「居ない間に戻ったらしい」
「それは、かわいそうなことをしました」
「気にするな」
「でも…」
「いいんだよ」
「はい」
台所の悟空に目をやったまま、三蔵と笙玄は言葉をかわした。
悟空は、水をはねとばしながらサクランボを丁寧に洗い、大きめの硝子のボールにサクランボを盛った。
そして、そろそろと二人の傍へ持ってくると、床にボールを置いて座った。
「食べて」
満面の笑みで二人を見やる。
三蔵と笙玄は、悟空の笑顔に促されて、それぞれサクランボを取ると、食べた。
「甘い…」
「美味しいです」
二人の感想に悟空は、笑みを深くすると、自分も食べ始めた。
休暇はまだ、終わらない。
end
|